第64異邦落着群 ~百人いた転生者は、夜明けには十八人になった~ 作:ハイヨゴミ
冷たい泥が口の中へ入った。
「がっ……!」
顔を上げ、喉に詰まった泥を吐き出す。何度も咳き込むうちに肺へ冷たい空気が入り、胸の中心で心臓が激しく脈打ち始めた。
白い空間では感じなかった鼓動だった。
生きている。
そう理解した直後、腰と肩に鈍い痛みが広がった。
手を握る。足首を動かす。泥の中へ落ちた衝撃は残っているが、骨が折れた様子はない。
両手を地面につき、身体を起こした。
足元には黒い泥と、腐りかけた落ち葉が積もっている。霧に近い細かな雨が、途切れることなく降っていた。
周囲には、見たこともないほど太い木々が立ち並んでいる。幹だけで小さな家ほどの幅があり、何本もの根が地面を割って隆起していた。枝葉は遥か上空で絡み合い、空をほとんど覆い隠している。
わずかに差し込む光は、既に夕方の色をしていた。
「ここが……異世界か」
呟いても、答えは返ってこない。
立ち上がると、身体の感覚が以前と少し違った。目線が低い。身長を5センチ削ったせいだろう。重心も僅かに変わっているが、脚には以前より力が入りやすい。
服もバイト帰りのものではなかった。厚手のシャツと丈夫そうなズボン。腰には火打ち道具の入った袋があり、背中には薄い毛布が括りつけられている。
足元だけは、事故に遭った時に履いていた黒いスニーカーのままだった。既に泥水を吸い、靴下まで冷たくなっている。
近くの泥には、水袋と小型ナイフが落ちていた。拾い上げて腰へつける。
「ステータス」
何も起きない。
「メニュー。能力一覧」
白い画面は現れなかった。
未使用の1ポイントが残っているはずだが、確かめる方法すらない。
――使用可能な環境下において使用できます。
あの女の答えを思い出す。結局、何も教えられないまま放り出された。
「おい! 見えるぞ!」
男の声が頭上から響いた。
木々の隙間を見上げると、1人の男がゆっくりと空へ昇っていた。背中に翼はない。見えない糸で身体を吊り上げられているように、霧の中へ上昇していく。
「飛行能力だ! 上から出口を探せる!」
白い空間にいた人間だと思うが、顔までは覚えていない。
「ほかの奴も集まれ! 俺が――」
男の上を、巨大な影が横切った。
羽音はしなかった。
男の声が途切れる。
次の瞬間、腰から上が消えていた。
残された脚が数秒だけ空中へ浮かび、枝の間へ落ちていく。細かな雨に混じって、生温かいものが葉を叩いた。
俺は反射的に大木の幹へ背中を押しつけた。
白い空間では、飛行能力が羨ましかった。空を飛べば森から出られる。地形も仲間も見つけられる。
その上空に何がいるのかなど、一度も考えなかった。
胃の奥が、急に冷たくなった。
危険察知。
これが能力の反応なのか、ただ恐怖で気分が悪いだけなのか分からない。
「誰かいますか!」
少し離れた場所から、女性の声が聞こえた。
「怪我人がいます! 手を貸してください!」
聞き覚えのある声だった。白い空間で、運を下げない方がいいと教えてくれた看護師。
一瞬、返事をするのを迷った。声を出せば、森にいる何かへ自分の位置を知らせるかもしれない。
だが、1人で残る方が危険だった。
「今行きます!」
声の方向へ走る。
泥へ足を取られながらも、以前より踏ん張りが利いた。息もすぐには切れない。身体能力を上げても、別人のように強くなるわけではない。それでも、身体が少しだけ自分の意思についてくる。
根を何本も越えた先に、小さく開けた場所があった。
そこには5人いた。
紺色のスクラブを着た女性が、若い男の太腿を押さえている。男の脚には折れた枝が深く突き刺さり、流れた血が泥へ混じっていた。
その隣では、中年の男が縄と木の棒を地面へ並べている。少し離れた場所には、膝を押さえた若い女性と、青ざめた顔で立ち尽くす男がいた。
「止血できる人はいませんか!」
「俺、簡易止血を取りました」
答えてから、どう使うのか知らないことに気づいた。
技能名を唱えるのか。傷口へ触れれば、魔法のように塞がるのか。
「お願いします。このままだと出血が続きます」
促され、負傷者の横へ膝をつく。
傷を見た瞬間、何をするべきかが頭の中へ浮かんだ。
枝は抜かない。傷口の周囲へ布を当て、動かないよう固定する。出血している箇所を圧迫する。締めすぎれば、脚そのものを傷める。
声が聞こえたわけではない。文章を思い出したわけでもない。
最初から知っていたように、手順だけが身体へつながった。
「布はありますか」
「これを使ってください」
看護師の女性が、細長く畳まれた布を渡してくる。
俺は枝の周囲へ布を重ね、両手で押さえた。負傷者が身体を跳ねさせる。
「痛い! もっと軽くしろよ!」
「軽くしたら血が止まりません。脚を動かさないでください」
女性が男の肩を押さえた。
「ゆっくり呼吸して。枝には触らないでください」
俺の手は震えていた。だが、何をすればいいかだけは分かる。
簡易止血は傷を治す能力ではない。血を止めるための知識と動作を、俺の身体へ押し込んだ技能だった。
しばらく圧迫を続けると、布へ広がる血が遅くなった。
「完全には止まってません」
「今はそれで十分です」
女性は男の顔色と呼吸を確認し、俺を見る。
「白い場所にいましたよね」
「
「
中年の男が木の棒を持って近づいた。
「
余計な挨拶をするより先に、手を動かす人だった。
久保田さんが枝の周囲を確認し、野上さんが2本の棒を脚へ添える。縄を直接巻けば血が止まりすぎると言われ、布を挟んでから固定していく。
膝を押さえていた女性が、片脚を引きずりながら寄ってきた。
「私、
年齢は俺より少し下に見える。転んだらしく、頬と両手が泥で汚れていた。右膝のズボンが破れ、擦り傷から血が滲んでいる。
「その脚、大丈夫?」
「走るのはできる。止まるのが無理」
「どういう意味?」
「敏捷性を95まで上げた」
聞き間違いかと思った。
「95?」
「誰より速ければ、逃げられると思ったんだけど」
凛が苦笑する。
「走り始めたら、自分の足が速すぎて曲がれなかった。木を避けようとして、根に膝から突っ込んだ」
敏捷性だけを上げても、筋肉や骨、反応のすべてが同じように強くなるわけではない。
白い空間で見た警告を思い出した。
「歩ける?」
「ゆっくりなら。でも、何か来たら私が先に見てくるよ」
「今はやめた方がいい」
「歩いてる間に暗くなった方が危ないでしょ」
「速く行って戻れなくなったら、見に行く意味がない」
凛は不満そうに俺を見た。
野上さんが縄を締めながら口を挟む。
「まず、怪我人を動かす方法を決める。それまでは誰も勝手に行くな」
「野上さんが決めるの?」
「別に従わなくてもいい」
野上さんは顔も上げなかった。
「ただ、日が沈んでから1人で走りたいなら、止めはしない」
凛は口を閉じた。
その時、胃の奥が急に重くなった。
危険察知。
さっきの飛行する男を見た時よりも、はっきりしている。
「何かいます」
俺は立ち上がった。
「どこに?」
久保田さんが尋ねる。
「分かりません」
「分からない?」
「方向も距離も出ないんです。ただ、危ないとしか」
全員が周囲を見回す。
霧と雨。太い幹。絡み合った根。
森はさっきまでと何も変わらない。
「本当に能力なのか?」
立ち尽くしていた男が言った。
「怖くなっただけじゃないのか」
「その可能性もあります」
「じゃあ役に立たないだろ」
男が苛立ったように吐き捨てる。
野上さんは近くに置いていた斧を拾った。
「役に立つかどうかは後で考える。今は、ここから離れる準備をする」
「怪我人をどうするんだよ」
「担ぐ」
野上さんが男の腕を自分の肩へ回す。
「瀬川、反対側を持てるか」
「はい」
負傷者の腕を肩へかける。久保田さんが傷ついた脚を支えた。
凛は周囲を見回し、最後に残った男へ声をかける。
「あなたも行こう」
男は返事をしなかった。
1本の巨大な幹を見上げたまま、動こうとしない。
「どうしたの?」
「今、動いた」
男が指を差す。
幹の表面には、縦に長い瘤があった。何枚もの樹皮が重なり、剥がれかけた古い傷のように見える。
その瘤が、僅かに膨らんだ。
「離れろ!」
俺が叫んだ。
樹皮が左右へ開く。
幹そのものが割れたのではない。
木へ張りついていた平たい身体が、外殻を広げた。
胸から腹にかけて縦長の裂け目が走り、その内側には赤黒い肉と、細かく並んだ歯が見えた。
地面へ垂れていた枝のようなものが持ち上がる。長い前脚だった。
男は逃げようとした。
前脚が脇の下へ巻きつき、身体を持ち上げる。
「助けて!」
凛が手を伸ばす。
野上さんが止めた。
「行くな!」
男は一瞬で幹へ引き寄せられた。裂け目の中へ上半身が入る。
足が樹皮を蹴り、泥を撒き散らした。
「待って、助け――」
裂け目が閉じた。
声が途切れる。
外殻の内側から、硬いものを砕く音が続いた。
誰も動けなかった。
俺の胃が締めつけられる。
危険察知は正しかった。
正しかったのに、どこから来るのか分からず、1人を救えなかった。
「走れ!」
野上さんの声で身体が動いた。
負傷者を支え、森の中を進む。腕へ男の体重が食い込み、泥に沈んだ靴が何度も脱げそうになる。露出した根を越えるたび、傷ついた脚を支える久保田さんの呼吸が乱れた。
凛は俺たちより先へ出ては、何度も無理やり速度を落としている。数歩で遠くへ行ける。だが、止まるたびに木へ手をつき、膝を庇っていた。
「左!」
凛が叫んだ。
何がいるのかは見えない。それでも、全員が右へ進路を変える。
後方で樹皮が擦れる音がした。
追ってきている。
俺の危険察知は消えない。どこを向いても、胃の奥に冷たい塊が残っている。
この森全体に反応しているようだった。
◇
どれほど進んだのか分からない。
遠くで、乾いた破裂音が響いた。
青白い光が霧の向こうを照らす。遅れて、誰かの悲鳴が聞こえた。
「人がいる」
凛が走り出しかける。
俺は反射的に腕を掴んだ。
「1人で行かないで」
「でも」
「全員で行く」
凛は一瞬だけ俺の手を見た。振り払わず、歩調を落とす。
光が見えた方向へ進むと、焦げた臭いが濃くなった。
地面には、犬に似た小さな生き物が倒れている。身体は黒く焼け、6本の脚が縮こまっていた。
その先に4人いた。
若い男が右手を押さえて立っている。指先から手首にかけて皮膚が赤黒く変色し、細い煙が上がっていた。
その前には短い槍を構えた女性。少し離れた場所には、外国人の女性と、中学生くらいの少年がいる。
「近づくな!」
槍を持った女性がこちらへ向き直る。
「怪我人がいます!」
久保田さんが答えた。
女性は俺たちと負傷者を見比べ、槍先を下げた。
右手を押さえた男が鼻で息を吐く。
「こっちは一匹倒した。そこにいるのも、俺の雷で」
「右手を見せろ」
「先に名前くらい聞けよ」
「その手で次も撃てると思ってるなら、先に診てもらえ」
白い空間で聞いた2人の声だった。
雷魔法を選んでいた男と、短槍術の説明を読んでいた女性。
「
男がぶっきらぼうに名乗る。
「雷魔法Ⅱ。見てのとおり使える」
「
女性は短く答えた。
「こいつの言うことは半分だけ聞け。撃てるのは本当だが、使えているとは言い難い」
「倒せたなら使えてるだろ」
「自分の手まで焼いてる」
「初回だから出力調整に失敗しただけだ」
久保田さんが新堂の右手へ近づく。
「胸は痛くありませんか」
「何で胸?」
「脈が乱れています。息も浅い」
「魔法のこと、分かるのかよ」
「魔法は分かりません。あなたの身体を見ています」
新堂は言い返しかけたが、胸元へ左手を当てた。
「……少しだけ、変な感じはする」
「次に使う前に必ず言ってください」
「次に使わなきゃ、こいつらに食われるかもしれないだろ」
「使うなとは言っていません。身体の状態を隠さないでください」
新堂は納得していない顔をしていた。
外国人の女性が、俺たちへ慎重に近づいてくる。自分の胸へ手を当て、ゆっくりと名前を口にした。
「エマ・クラーク」
名前だけは聞き取れた。
エマは続けて、隣にいた少年を指す。何かを伝えようとしたが、俺には名前以外の意味が分からない。
「
少年自身が日本語で名乗った。
「日本人だったのか」
「はい。エマさんと一緒に逃げてました。話してることはほとんど分からないですけど、名前と身振りくらいなら」
湊はそう答えながらも、周囲の木々へ視線を動かしている。俺たちが話している間も、耳を澄ませ続けていた。
「さっきの化け物、まだ来てます」
「見えるの?」
「見えません。でも、右後ろから樹皮を擦る音がします」
全員が右後方を見る。
俺の危険察知は、方向を教えてくれない。
「どれくらい離れてる?」
「分かりません。少なくとも一匹じゃないです」
野上さんが迷わず言った。
「移動する。立ち話は終わりだ」
新堂が反発する。
「逃げ続けても同じだろ。来たところを俺が撃てばいい」
「次に気を失ったら、誰が担ぐ」
早川さんが新堂の肩を押す。
「歩け。撃つのは、逃げ道がなくなってからだ」
新堂は舌打ちしたが、従った。
◇
日が落ちる速度が早かった。木々の上に残っていた光が、歩くたびに弱くなる。
森の中では、あちこちから人の声が聞こえていた。
「こっちに10人いる!」
「火を使える人はいないか!」
「娘を見ませんでしたか!」
どの声へ向かえばいいのか判断できない。返事をしても、声の主が生きている人間だという保証はなかった。
途中で数人と合流し、別の数人を見失った。
高価な剣を持った男が、1人で先へ進むと言って離れた。極端に身体を軽くしたらしい女性は、木の根を越えるだけで足首を痛めた。
魔法の光を空へ打ち上げた集団がいたが、その直後、樹上から黒い影が降り始めた。
誰も助けに行けなかった。
「止まって」
湊が小さく言った。
全員が足を止める。
「前に人がいます。子どもの声も」
木々の間へ進むと、4人が巨大な岩の陰へ身を寄せていた。
短い刃物を構えた女性が、小さな女の子を背中へ隠している。その横には若い東アジア系の男と、頭に布を巻いた女性がいた。
「大丈夫です!」
エマが英語で呼びかける。
短剣を持った女性が、すぐには武器を下ろさない。エマが何度か言葉を交わし、自分たちも白い空間から来たと伝える。
「イサベル・ロメロ」
女性が自分を指す。
次に、背中へ隠れていた少女の肩を抱いた。
「ルシア」
少女は8歳くらいに見えた。母親の服を強く握り、誰とも目を合わせようとしない。
東アジア系の男は、
「パク・ジュノ」
と名乗った。
日本語ではなかったが、名前だけは分かった。
最後の女性は、比較的流暢な英語でエマと話した。
「アミナ・ハダド」
久保田さんが、アミナの指先を見た。
「何か食べましたか」
言葉は通じなかったが、身振りで口元を示す。
アミナは腰の袋から、赤い木の実を1つ取り出した。甘い匂いがする。表面には、鳥につつかれたような小さな痕があった。
エマが通訳する。
「鳥みたいな動物が食べていたから、安全だと思ったそうです」
「残りは食べないでください」
久保田さんが実を布で包む。
アミナは戸惑った顔をしたが、抵抗はしなかった。
「症状は?」
「少し舌が痺れる、と」
久保田さんの表情が硬くなる。
「いつ食べたのか聞いてください」
エマが質問する。返事を聞き、指を使って時間を示した。
「それほど前ではない。落ちてから、すぐだそうです」
「吐かせた方がいい?」
俺が聞く。
「今ここで無理に吐かせる方が危険です。まず、安全な場所を探します」
アミナの足取りは普通に見えた。
それが、かえって不安だった。
◇
パクと野上さんが、岩の周囲を調べた。
巨大な岩盤が斜面へ突き出し、その下に人間が入れる空間がある。入口は広いが、背後と左右を石に囲まれていた。
奥には細い亀裂がある。大人は通れそうにない幅だった。
パクが岩肌を叩き、地面の傾きを確認する。野上さんも頭上を見上げ、崩れそうな石がないかを調べた。
2人は言葉が通じていない。それでも、互いに見た場所を指し、最後には同じように頷いた。
「完璧じゃないが、森の中に立っているよりはいい」
野上さんが言った。
既に10数人が集まっている。別の方向から来た人間も、岩陰の火を見つけて近づいてきた。
全員の名前を確認している余裕はなかった。
空は、もうほとんど暗い。
火打ち道具を持っている者が何人かいた。乾いた布と、岩の下に残っていた枯れ枝を使い、小さな火を作る。煙は岩の縁を伝って外へ流れた。
水袋は空だった。
「水が必要だ」
俺が言うと、凛が森の一方向を指した。
「少し前に川の音がした。私ならすぐ見てこられる」
「1人では行かせない」
野上さんが答える。
「明るいうちに戻れる人数だけで行く」
俺と野上さん、久保田さん、早川さん、それから水袋を持った数人が川へ向かった。
湊も同行を申し出た。
「音の場所が分かります」
「近くにいろ」
野上さんが言う。
「勝手に先へ行くな」
湊は頷いた。
川は岩場からそれほど離れていなかった。
幅は3メートルほどで、水は透き通っている。底にある白い石まで見えた。
「飲めそうじゃん」
1人の男が岸へ駆け寄る。
同時に、俺の胃が強く縮んだ。
「待ってください」
男の腕を掴む。
「何だよ」
「危険察知が反応しています」
「水が危険なのか?」
「分かりません。水かもしれないし、岸や周りに何かいるのかもしれない」
「また分からないのかよ」
男が俺の手を振り払う。
「喉が渇いてるんだ。能力が曖昧だからって――」
「持ち帰って沸かす」
野上さんが遮った。
「火がある。今ここで飲む必要はない」
早川さんが槍先で川岸の泥を示した。
細長い痕が、いくつも残っている。水中から岸へ這い上がり、また川へ戻ったような跡だった。
人間の足跡ではない。
男はそれを見て、ようやく水から離れた。
水袋と、誰かが初期装備で選んだ金属容器へ水を入れる。
岩場へ戻る頃には、最後の光も消えかけていた。
火へかけた水が沸くまで、誰も飲まなかった。喉が焼けるように渇いていても、待った。
沸かした水を少しずつ回す。
ルシアが受け取った容器を、先に母親へ差し出した。イサベルは首を横に振り、娘へ飲ませる。
新堂は右手を冷やそうとして、久保田さんに止められた。
「川の水を直接傷へかけないでください」
「沸かしたら冷えるまで待たないと駄目だろ」
「待ってください」
「何でも待てって言うな」
「今使って感染したら、もっと長く待つことになります」
早川さんが隣で笑った。
「お前、看護師には勝てないな」
「別に勝負してない」
新堂は不満そうに答えたが、右手を引っ込めた。
ほんの一瞬だけ、岩場の空気が緩んだ。
その時だった。
「怪我人がいます!」
森の暗闇から、女性の声が聞こえた。
久保田さんの声だった。
「手を貸してください!」
岩場の中にいる全員が、久保田さんを見る。
本人は俺たちのすぐ隣に立っていた。
外から、同じ声がもう一度響く。
「怪我人がいます!」
今度は左側。
「手を貸してください!」
次は右側。
声の高さも、息の切れ方も、最初に久保田さんが助けを呼んだ時とまったく同じだった。
湊が顔を上げる。
「来てます」
「何が?」
俺の問いに、湊は暗闇を見たまま答えた。
「分かりません。でも、一つじゃない」
霧の向こうから、落ち葉を踏む音が聞こえ始めた。
一方向ではない。
前から。
左右から。
そして、俺たちが安全だと思っていた岩場の奥からも。
何かが、ゆっくりと近づいていた。