第64異邦落着群 ~百人いた転生者は、夜明けには十八人になった~ 作:ハイヨゴミ
「怪我人がいます!」
久保田さんと同じ声が、岩場の右側から聞こえた。
「手を貸してください!」
今度は左側。声の高さも、息の切れ方も同じだった。
森の中を歩く足音が増えていく。前方だけではない。左右から、落ち葉を踏む乾いた音が近づいていた。
「奥にもいます」
湊が岩壁の亀裂を見た。
「何か、擦ってる」
岩場の一番奥には、大人の身体が通れないほど細い隙間がある。その暗闇から、硬いものが石を引っ掻く音がした。
「火を消せ!」
入口近くにいた男が叫んだ。
「見つかってるんだぞ!」
「消したら、こっちも何も見えなくなる」
新堂が左手で火を指す。
「暗闇で襲われる方がまずい」
「火に寄ってきてるかもしれないだろ!」
「全員、声を落とせ!」
野上さんが2人の間へ入った。
「火の前へ枝と荷物を置く。光だけ隠す。完全には消さない」
正しい判断なのかは分からない。それでも、何も決められないまま騒いでいるよりはよかった。
俺たちは火の前へ濡れた枝と荷物を積んだ。火は弱くなり、赤い光だけが岩肌を照らす。
外からの声が止まった。
代わりに、何かが幹を滑り降りる音がした。
「上」
湊が短く言った。
見上げる。
岩場の入口を覆う枝の上で、細長い影が動いた。
樹皮の塊に見えたものが、枝から剥がれる。夕方に男を飲み込んだものと似ていた。ただし、身体はさらに細い。
平たい胴体を樹皮状の板が覆い、異様に長い両腕で枝へぶら下がっている。胸から腹へ走る縦の裂け目が、呼吸するように僅かに開閉していた。
裂け目の内側で、薄い膜が震える。
「怪我人がいます!」
久保田さんの声が、そいつの胸から流れた。
誰かが悲鳴を上げた。
化け物が枝から落ちる。
「下がれ!」
早川さんが槍を突き出した。
穂先が化け物の胸へ当たる。硬い外殻に弾かれたが、落下する方向は逸れた。
地面へ転がった化け物が、長い腕で岩を掴む。
「新堂!」
「分かってる!」
新堂が左手を前へ出した。右手は黒く焼け、胸元へ抱えるようにしている。
指先に青白い光が集まった。
「待て、近すぎる!」
早川さんが叫ぶ。
光が弾けた。
耳の奥を叩く破裂音。青白い線が化け物へ突き刺さり、その身体を岩壁へ吹き飛ばした。
樹皮状の外殻が割れ、裂け目から黒い液体が飛び散る。
倒した。
そう思った直後、新堂が膝をついた。
「新堂さん!」
久保田さんが駆け寄る。
「触るな、平気だ」
「平気な人は倒れません」
「一発目より、うまくいった」
新堂は苦しそうに笑った。
「やっぱり使えば慣れる。倒せば経験値みたいなのも――」
「身体が慣れたんじゃない」
早川さんが槍を戻す。
「撃ち方を覚えただけだ。右手は悪化してる」
「結果は出しただろ」
「次に撃って死んだら、結果は一匹とお前の交換だ」
新堂が顔をしかめる。
言い返す前に、外で別の声がした。
「今だ!」
早川さんの声だった。
全員の視線が入口へ向く。
「左から来る!」
今度は俺の声。
「逃げろ!」
知らない男の声。
短い言葉が、霧の中のあちこちから続けて響く。意味を理解して話しているようには聞こえない。聞いた声を、聞いたまま吐き出している。
それでも、どれが本物か判断する時間がない。
「俺の声でも動くな!」
俺が叫んだ。
「姿を確認するまで、声だけで動かないで!」
「返事するなって言っただろ!」
入口近くの男が怒鳴る。
「もう位置は知られてる!」
新堂の雷で岩場全体が照らされた。隠れる意味は、ほとんどなくなっていた。
霧の中で、複数の影が動く。
「右に2つ」
湊が言った。
「左にも。後ろの隙間は、もっと小さい音がします」
「小さい?」
「いっぱいいます」
奥の亀裂から、枯れ葉が1枚滑り込んだ。
風はない。
葉は地面へ落ちず、細い脚を広げて走り出した。
「虫だ!」
誰かが踏みつける。
潰れた葉から赤黒い汁が飛んだ。
次の1枚。さらに数枚。
岩壁の亀裂から、枯れ葉にしか見えない虫が次々と這い出してくる。そいつらは迷わず、脚へ枝が刺さった男の方へ向かった。
血の匂いに反応している。
「足を上げて!」
久保田さんが叫ぶ。
野上さんとパクが、負傷者の身体を持ち上げる。
葉の虫が地面を埋めていく。
俺は火のついた枝を掴み、虫の前へ押しつけた。葉が縮れ、耳障りな音を立てる。
数匹は止まった。残りは火を迂回した。
「火の周りへ寄せろ!」
野上さんが荷物を動かす。
「怪我人を中央へ!」
言葉が通じないパクにも、指差しで意図は伝わった。
パクは入口に置かれていた縄を掴み、太い枝を2本まとめる。岩へ回して強く引き、簡単な柵を作った。
イサベルは短剣を持ち、ルシアを背中へ隠している。ルシアは泣かなかった。母親の服を握ったまま、口元を両手で押さえていた。
入口の霧から、長い腕が伸びる。
枝の柵を掴み、外側へ引いた。
パクが縄を握り直す。
「手伝います!」
俺も縄へ手をかけた。
力は強くない。2人で引いても、枝が少しずつ外へ動く。
野上さんが斧を振り下ろした。
刃が長い腕の関節へ食い込む。
化け物が、少女の泣き声を上げた。
ルシアが身体を震わせる。イサベルが娘の耳を塞いだ。
切断された腕が、柵の内側へ落ちる。黒い液体が俺の手へかかった。
熱い。
皮膚が焼けるように痛んだ。
「瀬川君、離れて!」
久保田さんの声が聞こえたが、縄から手を放せなかった。柵の外には、まだ別の腕がある。
短槍術。
俺には槍がない。
火の近くにあった真っ直ぐな枝を拾う。太さは手首ほど。先端は折れ、斜めに尖っていた。
武器と呼べるものではない。
それでも、両手で握った瞬間、どこを前に向け、どちらの足を引くべきかは分かった。
外から伸びた腕へ、枝を突き出す。
腕の表面を滑った。
もう一度。
今度は、樹皮状の板の隙間へ入った。
黒い液体が溢れる。化け物の力が緩み、パクが縄を引き戻した。
倒したわけではない。ただ、入口から離しただけだった。
短槍術Ⅰとは、その程度の能力だった。
それでも今は、その程度で十分だった。
◇
上空で羽音が重なった。
最初は、雨が葉を叩く音だと思った。
灰色の小さな蛾が、火の明かりへ集まってくる。1匹、2匹ではない。枝葉の隙間から、煙のような群れが降りてきた。
「火を消せ!」
さっきとは別の男が叫ぶ。
蛾が炎へ飛び込み、粉を撒き散らす。
目が焼ける。
咳が止まらない。
周囲の人間も一斉に顔を覆った。視界が滲み、岩場の入口が2つに見える。
「水!」
誰かが水袋を火へ投げた。
炎が大きく揺れ、半分ほど消える。白い煙が岩場へ広がった。
「全部消すな!」
「蛾が来てるんだぞ!」
「煙で何も見えない!」
言い争う声の中で、外から人影が走り込んできた。
「助けてくれ!」
若い男だった。顔も腕も血にまみれ、片方の靴がない。
「閉じろ!」
「人間だ!」
「後ろにいる!」
男の背後から、細長い影が追ってくる。
早川さんが男の横を抜け、槍を横へ払った。化け物の腕が逸れる。
「中へ入れ!」
男が岩場へ転がり込む。
続けて2人。さらに1人。
その後ろから来た女性が、突然地面へ倒れた。
身体が異様に軽かった。岩の上へ落ちただけで、腕が不自然な方向へ曲がる。
「待って!」
同行していた男が戻ろうとする。
「行くな!」
早川さんの声より先に、霧の中から腕が伸びた。
倒れた女性と、戻ろうとした男がまとめて引きずられる。2人の悲鳴が重なり、すぐに遠ざかった。
助けに行けなかった。
早川さんも動かなかった。槍を構えたまま、残った人間を岩場へ入れる。
1人を助けるために隊列を崩せば、入口にいる全員が襲われる。
理解はできた。
理解できることと、見ていられることは別だった。
霧の向こうから、今度は男の声が聞こえた。
「戻ってきてくれ!」
さっき引きずられた男と同じ声だった。
誰も返事をしなかった。
◇
時間の感覚がなくなった。
火を弱めれば蛾が減る。その代わりに暗くなり、樹皮の化け物が近づく。
火を強めれば蛾が集まり、目と喉を焼く。
血を流せば、葉の虫が亀裂から入ってくる。外へ捨てようとすれば、入口から長い腕が伸びる。
何を選んでも、別の危険が増えた。
岩場へ逃げ込んだ人間の中には、能力を使おうとする者もいた。
「俺ならまとめて焼ける!」
火魔法を取ったという男が、入口へ両手を向ける。
「待て、ここで使うな!」
誰かが止める。
男の両手から炎が噴き出した。
入口の化け物だけでなく、積んでいた枝と荷物へ燃え移る。男自身も悲鳴を上げた。
腕の皮膚が赤く膨れ、炎を止められない。
「消せ! 止めろ!」
「止め方が分からない!」
火は男の胸元へ広がった。
周囲の人間が水と毛布をかける。
新堂が男を見て、僅かに顔を引きつらせた。
火力を取れば助かる。
そう考えていた人間の末路が、目の前で燃えていた。
「魔法を使うなら、止め方まで分かる奴だけにしろ!」
早川さんが叫ぶ。
「新堂、お前もだ!」
「俺は止められる」
「今、右手を動かせるか?」
新堂は答えなかった。
火傷した男の炎は、身体が動かなくなってから消えた。焼けた臭いが岩場に残る。
その火へ蛾の群れが降り注いだ。
視界が白く濁る。
咳き込んだ拍子に、横から小さな身体が飛び出した。
ルシアだった。
蛾の粉を吸い、方向を見失ったらしい。母親とは反対側、岩場の入口へ走っている。
「ルシア!」
イサベルが叫ぶ。
凛が動いた。
一瞬で姿が消えた。
次に見えた時には、入口の直前でルシアを抱えていた。
だが、止まれない。
凛は少女を抱いたまま横へ身体を捻り、岩壁へ肩から激突した。
鈍い音。
2人が地面へ転がる。
「凛!」
俺が駆け寄る。
ルシアは泣いているが、目立った怪我はない。凛は右膝を押さえ、歯を食いしばっていた。
「大丈夫」
「立てる?」
「今は、無理かも」
右膝が、最初より明らかに腫れている。それでも凛はルシアを放さなかった。
イサベルが娘を受け取り、凛へ何度も頭を下げる。
言葉は通じない。
凛も答え方が分からず、片手を振った。
「次は止まれるようにするから」
笑おうとして、痛みで顔を歪める。
久保田さんが膝を確認する。
「今夜はもう走らないで」
「また誰かが外へ出たら?」
「その時は、ほかの人が動きます」
「間に合わなかったら」
「あなたが動けなくなったら、次からは絶対に間に合いません」
凛は何も言わなかった。
◇
脚へ枝が刺さっていた男の呼吸が浅くなった。
最初に俺が止血した人だった。
布は何度替えても赤く染まる。葉の虫が傷口へ群がった時、何匹かが皮膚の内側まで潜り込んでいた。
久保田さんが、ナイフの先と火で炙った針を使って取り除こうとする。
男はもう叫ばなかった。
「寒い」
小さく繰り返している。
毛布を重ねても、震えは止まらない。
「俺、助かるよな」
久保田さんは答えなかった。
「病院みたいなところ、あるんだろ。この世界にも」
「あるかもしれません」
「朝になれば、探せるよな」
「はい」
嘘ではない。
見つかる保証も、朝まで生きる保証もないだけだった。
男が俺を見る。
「血、止めてくれた人だよな」
「はい」
「名前、何だっけ」
「瀬川です。瀬川直人」
「俺は……」
男は自分の名前を言おうとした。
最初の音だけが出て、続かなかった。
目を閉じる。
久保田さんが首へ指を当てた。しばらくして、手を離す。
男がもう呼吸していないことは、聞かなくても分かった。
俺は名前を知らなかった。
白い空間で見たかもしれない。ここまで一緒に歩いた。血を押さえた。
それでも、名前を聞くのが間に合わなかった。
久保田さんが男の服と持ち物を確認する。身分証のようなものはなかった。
白い空間で選んだらしい水袋と、短い鉄棒だけ。
「記録するものがありますか」
久保田さんが尋ねる。
エマが自分の荷物から、折り畳まれた紙と短い鉛筆を取り出した。何かを尋ねるような表情をする。
久保田さんが死んだ男を指し、書く仕草をした。
エマは頷いた。
紙の端へ、男の特徴を書き始める。
名前は空欄だった。
◇
夜が深くなるにつれ、外の声は減っていった。
助けを求める声。家族を呼ぶ声。怒鳴り声。魔法の破裂音。
どれが人間で、どれが化け物なのか分からない。
やがて、遠くの光が1つずつ消えていく。
最後まで赤く燃えていた場所へ、黒い影が空から集まった。それも、しばらくすると見えなくなった。
新しく岩場へ逃げ込んでくる人間もいなくなった。
残ったのは、化け物が覚えた声だけだった。
「こっちだ!」
「助けて!」
「火を使える人はいないか!」
「お母さん!」
同じ声が、場所を変えて繰り返される。
湊は眠らなかった。岩壁へ片耳をつけ、音の位置を伝え続ける。
「右、遠ざかりました」
「上に一匹います」
「奥の虫、また増えてます」
俺の危険察知より、ずっと役に立っていた。
俺の能力は一晩中、反応し続けた。胃の奥が冷えたまま、強くなったり弱くなったりする。
どこが危険なのかは分からない。この森で、危険ではない場所があるのかも分からなかった。
何度目かの襲撃で、早川さんの槍の柄が折れた。
新堂はもう雷を撃てなかった。凛は立てない。アミナは身体を震わせ、エマへ寄りかかっている。
イサベルはルシアを抱え、片手に短剣を握ったまま目を閉じない。パクと野上さんは、壊されるたびに入口の枝を組み直した。
俺は折れた枝を握り続けた。
掌の火傷へ、黒い液体と人間の血が乾いている。
誰かが交代しろと言っても、眠れる気はしなかった。
◇
空の色が変わり始めた頃、外から足音が聞こえた。
人間の歩幅だった。急いでいるが、こちらへ真っ直ぐ近づいてはこない。
全員が息を止める。
「6人」
湊が言った。
「1人、足を引きずってます」
霧の向こうから、男の声がした。
「岩陰に誰かいるか」
返事はしない。
声だけでは判断できない。
「近づくな!」
早川さんが叫ぶ。
足音が止まった。
「人間だ」
別の若い男の声。
「そう言う化け物がいるんだよ」
「なら、姿を見せる。斬るなよ」
霧の中から、1人ずつ人影が現れた。
先頭の青年は、血のついた剣を持っている。その後ろに、左目を押さえた中年の男。大きな袋を抱えた女性。比較的軽い足取りの若い男。眼鏡をかけた若い女性。最後に、肩を貸されながら歩く外国人の男。
「武器を下げて」
久保田さんが言う。
「先に、こちらへ来た経路を話してください」
剣を持った青年が、森を振り返った。
「声には反応してない。火も使ってない。途中で樹皮みたいな化け物に3回襲われた」
左目を押さえた男が、後ろの人数を確認する。
「6人いる。途中から増えても減ってもいない」
「名前を」
久保田さんが尋ねた。
剣の青年が答える。
「
片目を負傷した男。
「
大きな袋を持った女性。
「
若い男。
「
眼鏡の女性。
「
最後の外国人男性は、自分の胸へ手を当てた。
「ダニエル・オコナー」
名前だけを、ゆっくり発音した。
6人が岩場へ入る。
相良の剣は刃こぼれし、黒い液体がこびりついていた。三浦さんの左目は、布を押し当てても血が滲んでいる。
藤崎さんの袋には、水袋、毛布、ナイフなど、途中で拾ったらしい道具が詰め込まれていた。宮前さんだけは、服が破れている割に大きな怪我がない。
林さんは紙束を胸へ抱えている。ダニエルは左脚を引きずっていた。
久保田さんがエマの紙を受け取る。
「今いる人を、全員確認します」
岩場の中を見回した。
1人ずつ名前を聞く。日本語が通じない者は、自分の胸を指して名乗った。返事のできないアミナの代わりに、エマが名前を示す。
同じ人物を2度数えないよう、久保田さんと三浦さんが互いに確かめる。
瀬川直人。
久保田真里。
野上宗一。
佐伯凛。
新堂圭介。
エマ・クラーク。
吉岡湊。
イサベル・ロメロ。
ルシア・ロメロ。
パク・ジュノ。
藤崎千秋。
相良蓮。
宮前航平。
林美玲。
三浦誠。
早川沙耶。
ダニエル・オコナー。
アミナ・ハダド。
18人。
白い空間には、100人近くいた。
ほかの場所にも、生き残っている者がいるかもしれない。ただ、その朝、互いの顔と名前を確認できたのは18人だけだった。
誰も喜ばなかった。
凛は立てない。新堂の右手は黒く変色し、指先がほとんど動かない。三浦さんは左目を失いかけている。
アミナは毒に侵され、呼びかけへの反応が弱い。岩場の内外には、朝を迎えられなかった人間が残っている。
俺は自分の手を見る。
火傷。黒い液体。乾き始めた人間の血。
白い空間で選んだ身体は、最初の夜だけで傷だらけになっていた。
それでも、まだ生きていた。