第64異邦落着群 ~百人いた転生者は、夜明けには十八人になった~   作:ハイヨゴミ

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第五話 食べられるもの

 18人で岩場を離れてから、まだそれほど進んでいなかった。

 

 先頭の相良が足を止める。

 

「後ろ、止まってる」

 

 振り返ると、アミナを乗せた担架が道の中央へ下ろされていた。野上さんとパクが左右に退き、久保田さんがアミナの顔を覗き込んでいる。

 

 昨夜から続いていた指先の震えが、腕全体へ広がっていた。呼吸は細かく、胸が浅く上下している。

 

「瀬川君、来てください」

 

 俺は列を抜け、担架の横へ膝をついた。

 

 アミナの額には汗が浮かんでいる。身体は震えているのに、皮膚へ触れると熱かった。

 

 久保田さんが首へ指を当てる。

 

「脈が速い。アミナ、聞こえますか」

 

 言葉は通じない。エマが名前を呼び、短い言葉を何度も繰り返した。

 

 アミナの瞼が僅かに動く。唇も開いたが、息が漏れただけだった。

 

「身体を横へ向けます。肩を持って」

 

「はい」

 

 俺が上半身を支え、久保田さんが腰を動かす。

 

 アミナの身体を横向きにした直後、激しく咳き込んだ。口から唾液と、赤い実の欠片らしいものが落ちる。

 

 最初の日に食べた実。鳥に似た生き物が食べていたから、安全だと思った。

 

 食べた直後には、大きな異常が出なかった。それだけで、止めるのが遅れた。

 

「息をして」

 

 久保田さんが自分の胸へ手を当て、大きく息を吸う仕草を見せる。

 

 アミナはそれを見ていた。一度だけ、大きく息を吸った。

 

 喉の奥で音が鳴る。

 

 そのあと、胸が動かなくなった。

 

「アミナ?」

 

 エマが顔を近づける。

 

 久保田さんがアミナを仰向けへ戻した。

 

「瀬川君、頭側へ。顎を上げてください」

 

 言われたとおりにする。

 

 久保田さんは胸の中央へ両手を重ねた。身体が沈むほど強く押す。

 

 一度。二度。

 

 一定の間隔で、胸を押し続ける。アミナの身体が担架の上で揺れた。

 

 イサベルがルシアの顔を自分の胸へ押しつける。凛は杖代わりの枝を握り、動かなかった。新堂も、吊った右手を胸元へ抱えたまま見ている。

 

「代わります」

 

 野上さんが言った。

 

「まだ大丈夫です」

 

 久保田さんは止めなかった。

 

 胸を押す。気道を確保する。呼吸を確認する。再び胸を押す。

 

 俺の簡易止血は、何も教えてくれなかった。

 

 血を止める手順は分かる。傷を固定する方法も分かる。だが、身体の中へ回った毒を抜く方法も、止まった心臓を動かす方法も、俺は持っていなかった。

 

 森の上から、鳥に似た鳴き声が聞こえる。

 

 アミナが見たものと同じ種類かもしれない。その鳥は、今日もどこかで赤い実を食べているのだろう。

 

 アミナの胸は、自分では一度も動かなかった。

 

 久保田さんが首へ指を当てる。また胸を押す。もう一度、脈を確かめる。

 

 やがて、両腕が止まった。

 

 手首へ指を置いたまま、長い時間俯いている。

 

「……亡くなりました」

 

 意味が分からない者にも、久保田さんの顔で伝わった。

 

 エマがアミナの目を閉じる。顔へ毛布をかけようとして、手を止めた。それが誰の毛布だったのか分からなくなったのかもしれない。

 

 久保田さんが受け取り、顔だけを覆った。

 

 18人で岩場を出た。

 

 その数は、次の休憩場所へ着く前に17人になった。

 

     ◇

 

 道の中央へ身体を置いたままにはできなかった。

 

 パクと野上さんが周囲を調べ、2つの大岩に挟まれた窪みを見つけた。ダニエルも斜面へ手をつき、地面の傾きと岩の亀裂を確認する。

 

 3人が何度か指を差し合い、最後には同じ場所を示した。

 

 深い墓を掘れる道具はない。土も、太い根に覆われていた。

 

 俺たちは窪みへアミナを横たえた。

 

 エマが紙を広げる。久保田さんが、分かる範囲の経過を伝えた。

 

 赤い実。甘い匂い。鳥に似た生き物の食痕。舌の痺れ。吐き気。指先の震え。発汗。呼吸の異常。心停止。

 

 林さんが別の紙へ同じ内容を書き写した。

 

「死亡した時間は?」

 

 エマが紙を指す。

 

「分かりません」

 

 久保田さんが答える。

 

「時計がないので、太陽の位置と、岩場を出てからの距離だけ残してください」

 

 エマは地図へ新しい印をつけた。

 

「赤い実があった場所にも、印があります」

 

 大きく斜線を引いた場所を示す。

 

 俺は落ち葉の上に残っていた実の欠片を、枝で布へ移した。

 

「それも持っていくの?」

 

 凛が尋ねる。

 

「同じ実を見つけた時に、見比べられる」

 

「触って大丈夫?」

 

「素手では触らない」

 

 布を何重にも巻き、ほかの食料とは別の袋へ入れた。

 

 何が危険か分からない。だから、何を食べたのかだけでも残しておく。

 

 アミナの身体へ枝と葉を重ね、最後に持ち上げられる大きさの石を積んだ。獣が掘り返そうと思えば、簡単に崩せる。

 

 それでも何もしないよりはよかった。

 

 アミナが持っていた水袋と毛布は回収した。

 

 死者の物を取ることへの抵抗は、最初の夜より小さくなっていた。慣れたわけではない。必要だと分かってしまっただけだ。

 

 出発しようとした時、ルシアが母親の手を離れた。

 

 道の脇に咲いていた小さな白い花を一輪摘み、石の隙間へ置く。

 

 イサベルは急かさず、娘が戻ってくるまで待った。

 

 言葉は通じない。それでも、エマがアミナの名前をもう一度口にすると、イサベルも同じように繰り返した。

 

「アミナ・ハダド」

 

 少し違う発音だった。

 

 それでも、名前だと分かった。

 

     ◇

 

 空になった担架には、荷物を載せた。毛布の中央が、歩くたびに沈む。

 

 アミナがいなくなった分だけ移動は速くなるはずだった。

 

 誰もそのことを口にはしなかった。

 

 罠の持ち主が通ったと思われる痕跡を追い、森を進む。

 

 切られた枝。踏み固められた草。古い縄の切れ端。

 

 道と呼べるほど広くはないが、獣が偶然通っただけには見えない。

 

 相良が先頭を歩く。早川さんは列の横へ回り、前と中央を行き来していた。

 

 三浦さんは最後尾に近い位置で、何度も後ろを振り返る。

 

「17」

 

 時々、小さく人数を数えた。

 

 新しい数だった。

 

 凛は杖へ体重を預けながら歩いている。前へ進むこと自体はできるが、根を越えるたびに顔をしかめた。

 

「痛むなら言ってください」

 

 久保田さんが横から声をかける。

 

「さっきと同じ」

 

「さっきが、どの程度か分かりません」

 

「歩ける程度」

 

「歩けなくなる前に教えてください」

 

「分かってる」

 

 凛はそう答えた直後、少し速度を落とした。久保田さんの言葉を完全に無視するつもりではないらしい。

 

 しばらく進むと、パクが右手を上げた。

 

 道の横にある、少し高い場所を指している。平らな岩盤が斜面から突き出し、その下へ乾いた空間ができていた。

 

 ダニエルが岩の上を見上げ、地面へ転がっている石を拾う。石を岩壁へ当て、音を確かめた。次に斜面へ指を走らせ、水が流れた跡を示す。

 

「休める場所?」

 

 宮前さんが聞く。

 

 言葉の通じないパクとダニエルは、同じ場所を示して頷いた。

 

 野上さんも周囲を確認する。

 

「長く泊まるには入口が広すぎる。ただ、休憩と作業には使える」

 

 全員が高みへ移動した。

 

 入口から周囲を見渡せる。地面は乾いており、血や泥の匂いも薄い。

 

「ここで、あれを見ます」

 

 藤崎さんが、布に包まれた小動物を指した。

 

 罠にかかっていた、兎に似た生き物。耳は短く、後ろ脚だけが太い。

 

「時間が経つほど、食べられるかどうか判断しにくくなります」

 

「解体できますか」

 

 久保田さんが尋ねる。

 

「生前は料理人でした。店もやっていました」

 

 藤崎さんは小型ナイフを取り出した。

 

「この動物を扱ったことはありません。でも、調理と解体の技能を取りました」

 

「技能で分かる?」

 

「試します」

 

 パクが使えそうな枝を2本拾う。野上さんと一緒に組み、縄を結んで簡単な台を作った。

 

 言葉を交わしてはいない。藤崎さんが高さを手で示すと、パクが結び目を一段下へ移す。

 

 小動物の後ろ脚を吊り、地面から浮かせた。

 

 藤崎さんはナイフを握ったまま、しばらく動かなかった。

 

「どうしました?」

 

「知ってるんです」

 

 自分の手を見下ろす。

 

「どこへ刃を入れて、どちらへ向ければ内臓を傷つけないか。頭の中じゃなくて、手が知ってる」

 

「俺の止血も同じでした」

 

「自分で覚えたことじゃないのに、前からやってたみたいで」

 

「気持ち悪いですよね」

 

「かなり」

 

 藤崎さんは息を吐き、最初の切れ目を入れた。

 

 皮だけを浅く切る。指を差し込み、刃先が内側を傷つけないよう外へ向ける。

 

 そこからの動きは速かった。

 

 皮を剥がし、腹を開く。生温かい匂いが広がった。

 

 空腹だったはずなのに、まだ食べ物には見えない。

 

 久保田さんが横から内臓を確認する。

 

「形は違いますが、心臓と肺に近いものは分かります」

 

「食べていた物も見ます」

 

 藤崎さんが胃らしい袋を切り離した。

 

 中には、細かく砕かれた草と木の実が詰まっている。

 

「草を食べる動物か」

 

 相良が言った。

 

「だから安全とは限りません」

 

 久保田さんがすぐに返す。

 

 アミナが死んだばかりだった。

 

 動物が食べられる物と、人間が食べられる物は同じではない。

 

「これ、見てください」

 

 藤崎さんの手が止まる。

 

 肝臓に似た黒い臓器の表面が、僅かに動いた。

 

 白い糸のような虫が一本、切れ目から顔を出している。さらに奥にも、何本か絡まっていた。

 

 宮前さんが顔を逸らす。

 

「急に食欲なくなったんだけど」

 

「内臓は使いません」

 

 藤崎さんが即答した。

 

「肉も、生では絶対に食べない。火を通しても安全とは言い切れません」

 

 久保田さんが筋肉の切断面を調べる。

 

「見える範囲では、肉に虫はいません。ただ、見えないからいないとは限らない」

 

「瀬川」

 

 相良が俺を見る。

 

「危険察知は?」

 

 黒い臓器へ近づく。

 

 胃の奥に、強い不快感が広がった。森の中で常に残っている重さとは違う。舌の奥へ苦いものが触れたような感覚。

 

 臓器から離れると、少し弱くなる。

 

 次に、切り分けられた後ろ脚の肉へ近づいた。

 

 反応はある。だが、内臓ほど強くない。

 

「内臓の方が明らかに強いです。肉は弱い」

 

「じゃあ、肉は食べられる?」

 

 凛が尋ねる。

 

「そこまでは分からない」

 

「何に反応してるかも?」

 

「寄生虫なのか、毒なのか、腐り始めてるのかも分からない」

 

 凛は肉と俺を交互に見る。

 

「便利そうで、本当に微妙だね」

 

「知ってる」

 

 生存術も危険察知も、安全を保証する能力ではない。判断材料が一つ増えるだけだ。

 

 それでも、何もないよりはましだった。

 

「内臓は捨てる」

 

 野上さんが言う。

 

「肉はどうする」

 

「少量だけ試すのがいいと思います」

 

 俺は答えた。

 

「薄く切って、中心まで火を通す。最初に食べる人数を絞って、時間を置く」

 

「アミナさんみたいな遅い毒なら、すぐには分かりません」

 

 久保田さんが言った。

 

「はい。だから全員では食べない。試した人に症状が出ても、残りが動けるようにする」

 

「最初に食べる人は?」

 

「調理した私が食べます」

 

 藤崎さんが答えた。

 

「味や舌の痺れ、匂いの異常は、私が一番分かりやすいと思います」

 

「次は俺が」

 

 相良が言う。

 

「持って帰った側だから」

 

「責任を取る順番で毒見を決めるのは違う」

 

 俺が言う。

 

「なら誰が食べる?」

 

「俺が食べます」

 

 久保田さんが眉を寄せる。

 

「瀬川君まで食べる理由は?」

 

「食べる前と後で、危険察知の反応が変わるか確かめられます」

 

「それで毒を防げるとは限りません」

 

「分かってます。でも藤崎さん一人より、分かることは増えます」

 

 宮前さんが片手を上げた。

 

「俺でもいいよ。運は81あるし」

 

「宮前さんが無事でも、肉が安全なのか運で外れたのか分からなくなる」

 

「自分の能力なのに、こういう時は邪魔だな」

 

「邪魔ではないだろ」

 

 相良が言う。

 

「生きてる時点で役に立ってるかもしれない」

 

「それ、本人にも分からないやつだから、褒められても反応に困るんだよね」

 

 宮前さんは手を下ろした。

 

     ◇

 

 肉は薄く切り、火の上で長く焼いた。

 

 表面が黒くなり、脂がほとんど落ちるまで待つ。生肉を扱った石と、焼けた肉を置く石は離した。

 

 凛が平たい石を2枚運び、一方へ枝で大きな印をつける。

 

「こっちが焼いた方」

 

 言葉の分からないルシアにも見えるよう、何度も指を差して示した。ルシアは真剣な顔で頷く。

 

 新堂は左手で細い枝を持ち、火の端に座っていた。

 

「右手、動かそうとするなよ」

 

 早川さんが言う。

 

「動かしてない」

 

「今、肉を取ろうとした」

 

「左手で取るつもりだった」

 

「目は右を見てた」

 

「細かいな」

 

「見張ってるからな」

 

 新堂は不満そうに左手だけで肉を返した。

 

 藤崎さんが最初の一切れを取る。

 

 すぐには口へ入れず、匂いを確かめた。次に唇へ触れ、舌先へ少しだけ当てる。

 

 時間を置いてから、小さく噛んだ。

 

「どうですか」

 

 久保田さんが尋ねる。

 

「硬いです」

 

「それ以外は?」

 

「今のところ、強い苦味も痺れもありません」

 

 時間をかけて飲み込む。

 

 久保田さんが脈と瞳を確認する。すぐに異常は出なかった。

 

 次は俺だった。

 

 焦げた肉を口へ入れる。

 

 塩気はない。獣臭く、何度噛んでも筋が残る。

 

 危険察知は消えない。ただ、急に強くなることもなかった。

 

「どう?」

 

 相良が聞く。

 

「変化はない」

 

「味は?」

 

「食べ物の味はする」

 

「褒めてないだろ、それ」

 

「昨日からまともに食べてないから、十分褒めてる」

 

 藤崎さんが少しだけ笑った。

 

 俺たちはしばらく動かず、身体の変化を待った。

 

 吐き気。痺れ。震え。呼吸。

 

 何も起きない。

 

 もちろん、安全だと決まったわけではない。それでも小さな一切れを、次は野上さんと久保田さんが食べた。

 

 残りはすぐ全員へ配らず、薄く切って火の近くへ並べる。

 

「乾かして持っていけるか試します」

 

 藤崎さんが言った。

 

「今日中に症状が出なければ、少しずつ食べる人数を増やします」

 

「名前はどうする?」

 

 凛が小動物を見る。

 

「名前?」

 

「毎回、兎みたいなやつって言うの長くない?」

 

「現地の人間に聞くまで、それでいいでしょう」

 

 林さんが答える。

 

「同じように見えて、別の種類かもしれません」

 

「じゃあ、兎みたいなやつ1号」

 

「増やす前提にしないでください」

 

 藤崎さんに言われ、凛は黙った。

 

 少しして、ルシアが乾かしている肉を指差す。イサベルが娘の手を下げた。

 

 まだ食べさせないという意味は伝わったらしい。ルシアは残念そうに火を見つめた。

 

     ◇

 

 休憩を終え、人が通った痕跡を追う。

 

 道は少しずつはっきりしていった。地面から盛り上がった太い根が切られている。泥の深い場所には平たい石が置かれ、斜面には簡単な段差が作られていた。

 

 獣道ではない。

 

 誰かが何度も通るために、手を入れている。

 

 パクが石の沈み方を確かめ、危ない場所では手を上げて全員を止める。ダニエルは岩の割れ目や水の流れを見て、迂回する方向を示した。

 

 エマは歩いた距離と曲がった方向を紙へ残す。林さんは、切られた枝の高さや刃物の形を記録している。

 

「17」

 

 最後尾から三浦さんの声が聞こえる。

 

 宮前さんが振り返った。

 

「ちゃんといますよ」

 

「今いることと、次に数えなくていいことは別だ」

 

「毎回数えるんですか」

 

「減ってから気づくよりはいい」

 

 宮前さんは何も言い返さず、前へ向き直った。

 

 しばらくすると、凛の歩幅が小さくなった。

 

 久保田さんがすぐ気づく。

 

「痛み、強くなりましたね」

 

「少しだけ」

 

「さっきと同じでは?」

 

「さっきより少し強い」

 

「止まりましょう」

 

「まだ歩ける」

 

「歩けなくなるまで歩く話はしていません」

 

 野上さんが荷物を載せていた担架を下ろした。

 

「凛、乗れ」

 

「嫌だ」

 

「荷物を分ける。今乗らないと、夜に全員でお前を担ぐことになる」

 

「自分で歩ける」

 

「今はな」

 

 凛は野上さんを睨んだ。野上さんは視線を逸らさなかった。

 

「自分が歩けることと、全員が先へ進めることは別だ」

 

 しばらくして、凛が杖を地面へ置いた。

 

「少しだけだから」

 

「分かった」

 

「脚が戻ったら降りる」

 

「久保田さんが決める」

 

「私の脚なんだけど」

 

「だから壊す前に他人の意見を聞け」

 

 凛は不満そうなまま、担架へ座った。

 

 歩ける者が荷物を分けて持つ。藤崎さんは乾かしている肉を、火の熱が残った石ごと布へ包んだ。

 

 再び歩き出す。

 

 森の光が、少しずつ弱くなってきた。

 

 その時、先頭の相良が右手を上げた。

 

 1本の木に、長方形の板が打ちつけられている。腐食した金具。平らに削られた木の表面。

 

 そこへ、見たことのない文字が何行も刻まれていた。

 

「文字だ」

 

 宮前さんが言った。

 

「読める人いる?」

 

 返事はなかった。

 

 林さんが板へ近づき、文字の形を紙へ写し始める。エマも地図へ位置を記録した。

 

 俺は少し離れた場所から、板を見ていた。

 

 曲線と直線が組み合わさった、知らない記号。

 

 それなのに、目で追っているうちに、形が意味へ変わっていく。

 

 文字を覚えた感覚はない。読める理由も分からない。

 

 ただ、内容だけが頭へ入ってきた。

 

「……北部禁足林(ほくぶきんそくりん)

 

 自分の声に、全員が振り返る。

 

「読めるのか?」

 

 相良が尋ねた。

 

 もう一度、板を見る。

 

外縁巡回路(がいえんじゅんかいろ)

 

 矢印の横に続く文字を読む。

 

北部第三監視門(ほくぶだいさんかんしもん)

 

 その言葉を口にした瞬間、集団の空気が変わった。

 

「監視門って何?」

 

 凛が担架から身を起こす。

 

「門なら、壁か施設があるんじゃないか」

 

 野上さんが言う。

 

「人がいる可能性は高い」

 

「どうして読めるんだよ」

 

 新堂が俺を見る。

 

「白い場所で、言語技能を取りました」

 

「先に言えよ」

 

「使えるか分からなかった。地球の外国語は分からなかったし、こっちの文字を見るのも初めてだった」

 

「言葉も話せるのか?」

 

 相良が尋ねる。

 

「日常会話と簡単な読み書きだけ。そう書かれてました」

 

「どこまでが簡単なんですか」

 

 林さんが板の文字を指す。

 

「分かりません」

 

「文字ごとの音は?」

 

「今は、意味がそのまま入ってきます。どこまで正確なのかも分からない」

 

 林さんは板と俺を交互に見た。何か質問したそうだったが、先に野上さんが尋ねる。

 

「ほかには何て書いてある」

 

 板の下部へ視線を移す。

 

「日没前に巡回を終え、監視門へ帰還せよ」

 

 全員が空を見上げた。

 

 枝葉に覆われ、太陽は見えない。それでも、森の光が夕方へ近づいていることは分かる。

 

「距離は?」

 

 新堂が聞く。

 

「書いてない」

 

「走れば間に合うかもしれない」

 

「怪我人と子どもがいる」

 

 早川さんが答える。

 

「暗くなってから泊まる場所を探す方が危ない」

 

 三浦さんが道の先を見る。

 

「現地の巡回員も、日没前に帰れと書いてる。夜にこの道を進む前提じゃない」

 

「でも、人がいるんだろ」

 

 新堂は矢印を見た。

 

「多分」

 

 俺が答える。

 

「監視門が今も使われていれば」

 

「また多分か」

 

「古い板かもしれない。放棄されてるかもしれない。絶対に人がいるとは言えない」

 

「それでも、今までよりましだ」

 

 相良が言った。

 

 誰も否定しなかった。

 

 森へ来てから初めて、目的地の名前を手に入れた。

 

 人が作った道。日没を警戒する文章。帰る先として書かれた監視門。

 

 俺たちが助かる場所とは限らない。

 

 それでも、森の外へつながる可能性はあった。

 

     ◇

 

 監視門へ進む前に、今夜を越す場所を探した。

 

 巡回路から大きく外れず、木々の間を調べる。

 

 パクが斜面の上にある岩を指した。

 

 2枚の大岩が寄りかかり、下へ浅い空間を作っている。最初の岩場より狭く、入口も一つではない。横に細い隙間がある。

 

 ダニエルが岩壁を叩き、上部を見上げる。野上さんは倒れた木の位置と、枝を組めそうな場所を確認した。

 

「完璧ではない」

 

 野上さんが言う。

 

「だが、暗くなるまでに見つかる中ではましだ」

 

「17人入れる?」

 

 宮前さんが中を覗く。

 

「横になれるのは怪我人と子どもだけだな」

 

「一晩立ってても死にはしないよ」

 

「眠って倒れたら邪魔になる」

 

「言い方が本当に現場なんだよな」

 

 不満を言いながらも、宮前さんは入口へ運ぶ枝を拾った。

 

 全員で野営の準備を始める。

 

 入口を枝で狭める。隙間へ石を置く。火を外から見えにくい位置に作る。生肉を扱った布と、清潔な布を分ける。乾かした肉は火の近くへ吊るす。

 

 最初の夜に比べれば、何をすればいいかは少し分かっていた。

 

 だから安全だとは、誰も言わなかった。

 

 久保田さんが入口の横へ座り、紙を広げる。

 

 名前を一人ずつ読み上げた。

 

 17人。

 

 アミナの名前は呼ばれなかった。

 

 代わりに、紙の別の場所へ書かれている。

 

 死亡。

 

 赤い実。

 

 道の途中。

 

 石を積んだ場所。

 

 俺は標識があった方向を見る。木々に隠れ、もう板は見えない。

 

 それでも、刻まれていた矢印の向きは覚えている。

 

 北部第三監視門。

 

 明日、そこへ着けば、人に会えるかもしれない。人に会えば、助けてもらえるかもしれない。

 

 そう考えてから、白い空間の女を思い出した。

 

 人の姿をしているものが、こちらを助けるとは限らない。

 

 18人で最初の岩場を出た。

 

 二度目の夜を迎える場所へ着いたのは、17人だった。

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