第64異邦落着群 ~百人いた転生者は、夜明けには十八人になった~ 作:ハイヨゴミ
森の奥から、無数の魔物が押し寄せていた。
俺たちを狙っているわけではない。そのことが、かえって恐ろしかった。
角の生えた獣も、6本脚の小動物も、樹上を移動する黒い影も、互いを襲おうともせず同じ方向へ走っている。
昨夜まで俺たちを食おうとしていたものまで、何かから逃げていた。
「荷物を減らせ!」
野上さんが叫んだ。
「水と食料、武器、治療に使う物だけ残せ! ほかは置いていく!」
誰も反対しなかった。
空になった担架から、使い道の分からない金属片や余分な枝を落とす。藤崎さんは乾かしていた肉を布ごと抱えた。久保田さんは負傷者の処置に使う布と水を選び、残りをほかの人間へ分ける。
エマと林さんは紙を捨てなかった。
「それ、全部持っていくの?」
宮前さんが尋ねる。
エマは地図を胸へ押しつけたまま頷いた。林さんも、名前と記録を書いた紙束を服の内側へ入れる。
「なくしたら、どこへ進んだか分からなくなります」
「濡れたら?」
「濡らさないようにします」
地面が揺れた。
巡回路の中央を、太い根が下から押し上げる。敷かれていた平たい石が跳ね、泥の中へ転がった。
「離れろ!」
パクが根元を指し、俺たちを道の端へ追いやる。
次の瞬間、地面が裂けた。
土の中から、壁のような根が現れる。昨日までは深く埋まっていたはずのものが、生き物の背中のように持ち上がっていた。
パクとダニエルが地面を見比べる。言葉は通じない。それでも、2人とも同じ方向を指した。
標識に刻まれていた、第三監視門の方角だった。
「道を進む!」
野上さんが決めた。
「魔物も同じ方向へ走ってるぞ」
新堂が言う。
「逆へ行けば、もっと多いところへ突っ込む」
早川さんが折れた槍を握る。
「流れの端を使う。真ん中には入るな」
走るしかなかった。
◇
凛は担架へ乗せた。
本人は最後まで歩くと言い張ったが、最初の揺れで足をついた瞬間、右膝が崩れた。
「離して。少し休めば走れる」
「次に止まれず木へぶつかったら終わりです」
久保田さんが言った。
「でも、この速さじゃ追いつかれる」
「追いつかれないために、今は運ばれてください」
野上さんとパクが担架を持つ。
凛は不満そうに身体を起こし、進行方向を見た。
「前から来たら言う。見える範囲なら、私が一番早く気づける」
「それでいい」
野上さんは走りながら答えた。
相良と早川さんが前へ出る。俺は列の中央に入り、最後尾には三浦さんがついた。
「17!」
三浦さんの声が聞こえる。
少し進んだだけで、もう一度。
「17!」
数える声が、揺れと獣の鳴き声に紛れる。
巡回路の中央を走ることはできなかった。小さな獣の群れが、濁流のように駆け抜けていく。
俺たちは道の端へ寄り、木の根と群れの隙間を縫って進んだ。
危険察知は反応し続けていた。
胃の奥を掴まれ、身体の中で何かを捻られているような不快感。方向も距離も分からない。危険が一つではないせいか、強弱すら判断できなかった。
「右から大きいの!」
凛が叫ぶ。
直後、木々の間から毛むくじゃらの獣が飛び出した。
猪に似ているが、肩の高さだけで俺の胸を超えている。額から2本の牙が前へ伸び、片方は途中で折れていた。
相良が剣を構える。
「斬るな!」
野上さんが叫んだ。
「避けろ!」
獣はこちらを見ていなかった。そのまま横切る。
相良が一歩下がり、剣を振らずに通した。獣の身体が列の前をかすめ、泥と枯れ葉を跳ね上げる。
少し遅れて、別の小さな獣が俺の脚へ衝突した。身体が横へ流れる。
宮前さんに腕を掴まれ、根へ頭を打つ直前で止まった。
「大丈夫?」
「助かりました」
「運81の近くにいると得でしょ」
「宮前さんが押したんじゃないですよね」
「疑われると急に自信なくなるな」
笑う余裕はなかった。
宮前さんは俺を起こすと、すぐ後ろへ声をかけた。
「間を空けないで! 前が止まったら、横へ逃げられるくらいだけ残して!」
叫びながら、動ける人間の位置を変えていく。
藤崎さんをルシアの近くへ。新堂を早川さんの後ろへ。足を傷めたダニエルには、イサベルが肩を貸した。
宮前さん自身は前後を行き来し、空いた場所を埋めている。
本人は運だけで生きていると思っているのかもしれない。少なくとも今は、それだけではなかった。
◇
森の奥で青白い光が弾けた。
新堂ではない。別の場所で魔法を使った誰かがいる。
光の直後、鳥に似た黒い群れがその方向へ向きを変えた。
悲鳴は聞こえなかった。距離が遠いからなのか、もう声を上げる者がいなかったのかは分からない。
「見るな!」
早川さんが新堂へ言う。
「俺じゃない」
「分かってる。だから見るな」
新堂の左手が僅かに上がっていた。指先には光がない。それでも、何かが来れば撃つつもりだったのだろう。
前方の茂みが大きく揺れた。
鹿に似た獣が3頭、巡回路へ飛び出してくる。1頭は脇腹を大きく裂かれ、走るたびに血を撒いていた。
血の匂いへ反応し、葉に似た虫が樹上から降り始める。
「止まるな!」
野上さんが叫ぶ。
だが、負傷した獣が巡回路の中央で倒れた。後ろから来た2頭がその身体へ乗り上げ、転倒する。
道が塞がった。
「左へ回る!」
相良が斜面へ入る。
地面が急で、担架を水平に保てない。野上さんとパクの足が滑る。
「下ろせ!」
久保田さんが担架へ手をかける。
イサベルもダニエルから離れ、凛の身体を支えた。言葉は通じなくても、するべきことは分かっていた。
全員で担架を持ち上げる。
倒れた獣の向こうから、葉の虫が地面を覆い始めた。
新堂が左手を向ける。
「弱く撃つ」
「待て」
早川さんが周囲を見る。
樹上。担架。俺たちの位置。逃げる方向。
「地面だけ。人へ向けるな」
「分かってる」
新堂の指先から、細い光が走った。
最初の夜のような爆発ではない。青白い線が虫の群れの手前へ落ち、泥の表面を弾けさせる。
葉の虫が一斉に散った。
新堂は倒れなかった。ただ、左肩を押さえて顔をしかめる。
「走れます」
久保田さんに聞かれる前に答えた。
早川さんが一瞬だけ新堂を見る。
「次は勝手に撃つな」
「今のは聞いただろ」
「なら次も聞け」
斜面を上がる。
凛の担架を巡回路へ戻した時には、倒れた獣の身体が葉の虫に覆われていた。数分前まで生きていたものが、緑と赤黒い塊へ変わっている。
誰も立ち止まらなかった。
◇
根の動きは止まらない。
遠くで木が倒れるたび、地面から鈍い衝撃が伝わってくる。土の中で何か巨大なものが寝返りを打っているようだった。
エマが走りながら地図を見る。何度か周囲を確認し、右側を指した。
昨日見た巡回路は、斜面を下りながら同じ方向へ続いている。
「この先に水があります」
湊が言った。
まだ姿は見えない。だが、魔物の足音の下から、流れる水の音が聞こえるらしい。
道が急に下り始めた。空気に湿り気が増す。
木々の間から、濁った水面が見えた。
川だった。
幅は、昨日水を汲んだ場所とは比べものにならない。両岸の間は20メートル以上ある。
水は茶色く濁り、折れた木や岩を巻き込みながら流れていた。
「渡れない」
凛が担架の上から呟いた。
「橋を探す」
相良が川下を見る。
魔物の多くも川へ行く手を阻まれ、岸沿いに走っている。水へ飛び込んだ獣は、抵抗する間もなく流されていった。
「上流は根が動いてる」
野上さんが言う。
「下るぞ」
巡回路は川沿いへ折れていた。
現地の巡回員も、この川をどこかで渡っている。その可能性だけを頼りに進む。
途中、川岸が一部崩れていた。
パクが先頭を止める。土へ枝を刺すと、表面だけを残して深く沈んだ。
全員を山側へ寄せ、一人ずつ通す。
最後の三浦さんが通過した直後、川岸の土が水へ落ちた。
「17」
三浦さんが全員を見回す。
「いる」
もう、誰も数える声を鬱陶しいとは言わなかった。
◇
橋を見つけたのは、川沿いをしばらく下った後だった。
木と太い縄で作られた吊り橋。両岸の大木へ縄を回し、橋板を支えている。
古い。それでも、使われなくなったものには見えなかった。
縄の一部には新しく巻き直された箇所があり、対岸には巡回路が続いている。
「第三監視門は向こうだ」
エマが地図を指す。
俺も川の先にある標識を見つけた。矢印は、橋の向こうへ向いている。
森の奥から、さらに大きな鳴き声が響いた。
魔物の流れが近づいている。
「渡るしかない」
相良が言った。
パクが橋へ近づく。
すぐには乗らなかった。縄の固定部分を引き、橋板を一枚ずつ踏む。
次に大木の根元へ回り、土が崩れていないかを確かめた。ダニエルも反対側から橋の下を覗き込む。
2人は何度か指を差し合った。
パクが人差し指を立てる。
「一人ずつ?」
野上さんが尋ねる。
パクは頷いた。
次に、荷物を示してから地面を指す。
「重い物は分けろってことか」
野上さんが担架を見る。
凛を乗せたまま渡ることはできない。
「私、歩く」
凛が身体を起こす。
「橋の上だけなら、走らなくていい」
久保田さんが膝を確認する。
「一人では駄目です」
「誰かに掴まる」
橋の向こうから、何かが来る可能性もある。先に戦える人間を渡す必要があった。
「俺が行く」
相良が剣を握る。
パクが橋の縄を押さえ、相良を通した。
橋板が大きく揺れる。それでも、縄と固定部は動かなかった。
相良が対岸へ着き、周囲を確認する。
「来い!」
次はエマ。
地図を服の内側へ入れ、両手で縄を掴んで渡る。
林さん。藤崎さん。順番に向こう岸へ着いた。
イサベルがルシアの肩を抱く。
娘を指し、次に橋の向こうの藤崎さんを示した。自分は凛の担架を支えるため、こちらへ残るつもりらしい。
ルシアは母親の服を離さない。
イサベルが娘の両手を握り、何度も何かを言った。意味は分からない。
行け。向こうで待っていろ。すぐに行く。
声と表情だけで、それくらいは伝わった。
ルシアが泣きながら橋へ足を乗せる。
藤崎さんが対岸から両手を広げる。
一歩ずつ進む。橋の中央で振り返りかけたが、イサベルが前を指した。
ルシアは顔を歪めながら進み、最後は相良に抱き上げられた。
イサベルが大きく息を吐く。すぐに凛の方へ戻った。
次に三浦さん。宮前さん。
2人とも無事に渡った。
「瀬川、先に行け」
野上さんが言う。
「でも、凛が」
「向こうで道を読めるのはお前だけだ」
「俺が残っても担架は持てません」
久保田さんも言った。
「先へ行ってください。凛さんは私たちで渡します」
俺は凛を見る。
「すぐ向こうで待ってる」
「分かってる」
担架から下りた凛が、野上さんとイサベルに支えられて立っている。
「先に行って。今度はちゃんと止まるから」
橋へ足を乗せた。
◇
中央まで進んだところで、地面が鳴った。
橋全体が左右へ振られる。
両手で縄へしがみつく。
「止まるな!」
相良が対岸から叫ぶ。
足元の板が一枚外れ、濁流へ落ちた。
危険察知が限界まで強くなる。
橋。川。森。
何に反応しているのか分からない。
もう一歩進む。
対岸まで、あと数メートル。
後ろでパクが声を上げた。
振り返る。
橋を固定していた大木の根元。さっき確認した時には硬かった地面が、内側から膨らんでいる。
土の下を、太い根が新しく通ろうとしていた。
固定縄を巻いた大木が傾く。
パクが残っていた者たちへ向き直った。
「戻れ!」
この2日で覚えた、数少ない日本語だった。
橋へ近づいていた野上さんたちが、一斉に下がる。
固定部の土が裂けた。
大木の根が持ち上がり、橋を支えていた縄が外れる。
俺の足元が消えた。
「直人!」
相良が手を伸ばす。
身体が川側へ傾く。俺も腕を伸ばした。
指先が触れ、手首を掴まれる。
相良が地面へ倒れ込みながら、俺を引いた。胸から対岸の土へ落ちる。
直後、橋の半分が川へ叩きつけられた。
木の板が砕け、縄が濁流の中で暴れる。
近くにいたパクが、傾いた大木と一緒に川岸へ引きずられた。
「パク!」
野上さんが腕を伸ばす。
パクも地面を掴もうとした。指が泥を削る。
一瞬だけ身体が止まった。
次の地鳴りで岸が崩れた。
パクの姿が土と一緒に消える。
濁流の中で、腕が一度だけ見えた。
すぐに折れた木の陰へ隠れ、そのまま浮かんでこなかった。
「ロープ!」
相良が切れた縄を掴む。
「投げろ!」
投げられる長さが残っていない。川の流れは速く、岸へ近づくこともできなかった。
俺は泥の中へ這い寄る。
「パク!」
呼んでも返事はない。
濁流が、橋板と大木を下流へ運んでいく。
◇
「離れろ!」
三浦さんが叫んだ。
「こっちの岸も崩れる!」
足元に亀裂が走っている。
相良が俺の肩を掴み、川から引き離した。
対岸では、野上さんたちも橋の跡から離れていた。
森の奥から、魔物の群れが迫ってくる。早川さんが槍を構え、新堂が左手を上げる。
「川沿いに行け!」
相良が対岸へ叫んだ。
「下流で渡れる場所を探す!」
野上さんが何か返す。
地鳴りと川の音で聞こえない。
凛が、支えられながら前へ出た。
「直人!」
川を挟んで、俺の名前を呼ぶ。
「絶対、先に行って!」
「待ってろ! 橋を探す!」
「こっちも探す! 戻るな!」
ルシアが藤崎さんの腕を振りほどいた。
川岸へ走り、母親を呼ぶ。
言葉は違っても、その声が誰を求めているのかは分かった。
対岸でイサベルが振り返る。ルシアへ向かって両腕を伸ばす。
だが、間には濁流がある。
イサベルはすぐに娘へ背を向けた。
見捨てたのではない。
近づいてくる魔物から、こちらにいる娘を少しでも遠ざけるためだった。
凛を支えた野上さんと久保田さんが、川沿いへ動き始める。ダニエルは脚を引きずり、湊がその腕を肩へ回す。
早川さんが最後尾へつく。新堂も、撃たずに後退した。
イサベルが何度もこちらを振り返る。
それでも、8人は森の中へ入っていった。
地面がさらに揺れる。
川岸の木が何本も倒れ、対岸を隠した。
「移動するぞ」
相良が言った。
「ここにいれば、俺たちも落ちる」
動けなかった。
三浦さんの声が聞こえる。
「8人」
一人ずつ指している。
相良。宮前さん。エマ。林さん。藤崎さん。三浦さん。ルシア。俺。
8人。
川の向こうにも8人いた。
凛。野上さん。新堂。早川さん。ダニエル。イサベル。湊。久保田さん。
そして、パク・ジュノは川へ落ちた。
昨日まで17人だった。
森が動き出した朝、俺たちは8人ずつに分けられた。
ルシアが、母親の消えた対岸を見て泣いている。藤崎さんがその肩を抱いた。
俺は何も言えなかった。
川の向こうへ行くと約束することも、すぐに会えると言うこともできなかった。
分かったのは一つだけだった。
17人で目指していた第三監視門へ、もう全員では行けない。