しばらく大学が休みなので
モリモリと書いていきます(ง ・֊・)ง´-
第2話 悪の根城とその要求
車の窓を流れていく景色は、進むにつれて少しずつ華やかさを失っていった。
初めのうちは、雨の夜にもかかわらず観光客で賑わう大通りが続いていた。
明るい照明を掲げたブティック。大きな硝子窓の向こうで談笑する客たち。色とりどりの傘が、濡れた歩道を行き交っている。
夜のミアレは、雨に霞んでなお眩しかった。
しかし、車が大通りを離れて何度か角を曲がると、通行人の姿は目に見えて減っていった。
店舗のショーウィンドウは途切れ、代わりに無機質な事務所が並び始める。どの建物にも明かりはついているが、窓には濃い色の硝子が使われ、中の様子を外から窺うことはできない。
看板に記されているのも、聞き覚えのない会社名ばかりだった。
「……どこまで行くの?」
タウニーが向かいの席へ尋ねた。
ハヤトは手元の端末から目を上げない。
「事務所」
「それはもう聞いた。どこの事務所かって聞いてるの」
「着けば分かる」
「会話する気ある?」
「質問には答えただろ」
「最低限しか答えてないし!」
タウニーが頬を膨らませる。
その隣で、セイカは二人のやり取りには加わらず、窓の外を静かに観察していた。
デウロも穏やかな表情を崩してはいない。だが、その片手はいつでも腰のダイブボールへ伸ばせる位置に置かれている。
車はさらに奥へと進んだ。
やがて道路脇の案内表示を目にしたタウニーが、声を潜める。
「……ここって、もしかして」
「裏オフィス街だねぇ」
デウロが窓の外を眺めたまま答えた。
ミアレでは、それなりに名の知られた区画だった。
表向きには、一般企業の事務所が集まるビジネス地区。
だが、実際にここへ拠点を構えているのは、表通りでは取り扱えない仕事を請け負う会社ばかりだと噂されている。
債権回収。非公式の警備。訳あり物件の仲介。
表沙汰にできない契約の調整。
どの企業も堂々と違法行為を掲げているわけではない。警察が踏み込めるほど明確な証拠もない。
それでも、街の噂に多少でも詳しい者なら、夜になってから一人で足を踏み入れようとは思わない場所だった。
「……ここ、来たことある?」
タウニーが小声でセイカへ尋ねる。
「あるように見える?」
「セイカなら何でも知ってそうだし」
「知らない。知りたくもなかった」
「だよね……」
デウロは黒っぽい建物の列を眺め、わずかに目を細めた。
「本当に、噂どおりの場所へ連れてくるんだねぇ」
「噂なんかアテになんねえけどな」
ハヤトが吐き捨てるように言うと端末を閉じる。
「もう着くぞ」
間もなく車は速度を落とし、一棟の建物の前で静かに停車した。
タウニーは窓越しにそれを見上げ――拍子抜けしたように何度か瞬きをした。
「……ここ?」
目の前にあったのは、薄汚れた雑居ビルでも、鉄格子の嵌められた怪しい事務所でもない。
磨き上げられた黒い石材の外壁。
大きなガラス張りの入口。
数階にわたって規則正しく並ぶ、均整の取れた窓。
入口脇には金属製のプレートが掲げられ、控えめな銀色の文字で社名が刻まれていた。
MIMIKYU FINANCE
その隣には、布を被ったミミッキュを意匠化したロゴ。
闇金融の事務所というより、ミアレを代表する大企業の本社だと言われた方が納得できるほど、立派で清潔なオフィスだった。
「もっとこう……窓が割れてて、入口に怖い人が立ってる感じだと思ってた」
タウニーが率直な感想を漏らす。
「偏見がすごいねぇ」
「だって、五百万を三千万にする会社だよ!?」
「それは否定できないけど」
先に降りたハヤトが、開かれた後部座席の扉から三人を見た。
「いつまで乗ってるつもりだ。失礼なことばかり言いやがって」
「少しくらい心の準備をさせてよ!」
「返済は一か月以上待ったろ。心の準備まで待つ義理はない」
「そういう言い方がいちいち怖いんだってば!」
タウニーは文句を言いながら車を降りる。
デウロとセイカも、それぞれ周囲へ注意を払いながら後へ続いた。
ハヤトが入口へ近づくと、自動扉が音もなく開いた。
白と黒を基調とした、広いエントランス。
床材は鏡のように磨かれ、壁際には手入れの行き届いた観葉植物が整然と並んでいる。
受付に座る職員も、フロアを行き交う社員も、派手な服装や威圧的な態度を見せてはいない。皆、一般企業の会社員と変わらない格好で、黙々と仕事へ取り組んでいた。
しかし、ハヤトが中へ足を踏み入れた途端、その場の空気が明確に変わった。
社員たちが一斉に手を止める。
深く頭を下げる者。椅子から立ち上がる者。
静かに進路を空ける者。
誰一人として、気安く声をかけようとはしなかった。
タウニーは周囲の社員と、先を歩くハヤトの小さな背中を交互に見る。
ホテルで名刺を見せられ、社長であることはすでに聞いている。
それでも、この規模の会社全体が目の前の少年の一挙手一投足へ反応している光景は、簡単には現実として呑み込めなかった。
「……本当に社長なんだ」
「今さら?」
ハヤトは振り返りもせず答えた。
「名刺だけ自分で作った可能性もあったじゃん」
「社員全員に芝居させる方が手間だろ」
「もしかして、すっごく手の込んだ嫌がらせかも」
「どれだけ自意識過剰なんだ、お前」
受付脇の案内板には、営業部、融資管理部、債権管理部、法務部といった部署名が階ごとに並んでいる。
最上階にあるのは、一つだけ。
代表室。
三人はハヤトに続いてエレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉まり、箱が静かに上昇を始める。
誰も口を開かなかった。
タウニーは落ち着かない様子で何度も階数表示を見上げ、セイカはハヤトと扉の間に立っている。
デウロの表情には笑みが残っていたが、その目からは、ホテルにいた時の軽さが完全に消えていた。
最上階に到着する。
扉の向こうには静かな廊下が続き、その突き当たりに大きな両開きの扉があった。
ハヤトが認証装置へ手を触れる。
短い電子音とともに、代表室の扉が開いた。
室内は建物の外観と同じく、白と黒で統一されていた。
大きな窓。黒い執務机。壁一面に並ぶ資料棚。
応接用のソファと、低いテーブル。
高価そうな調度品はいくつもあるが、権威や富を見せつけるような装飾はほとんどない。
唯一、執務机の脇に飾られている一枚の写真だけが、ひどく私的なものに見えた。
写真に写っているのは、一匹のミミッキュと本来より色の深いフカマル。
布の頭を少し傾け、小さな手で、画面の外にいる誰かの指を握っている。
タウニーが写真へ目を留める。
「このミミッキュ……」
「関係ない話は後だ」
ハヤトは執務机の向こうへ回り、革張りの椅子へ腰を下ろした。
三人には、向かい側のソファを指し示す。
「座れ」
「偉そう」
「俺の会社だ。当たり前だろ債務者」
「分かってるけど、もう少し言い方あるでしょ」
タウニーは不満げにソファへ座る。
デウロもその隣へ腰掛けたが、セイカだけは座らなかった。
机と出入口の中間。
何かあれば、タウニーを連れてすぐに部屋から出られる位置を選んでいる。
ハヤトはそれを一瞥したものの、何も言わなかった。
「…それで」
タウニーが机へ身を乗り出す。
「本当に……ホテルは取り上げるつもりなの?」
ハヤトがため息をこぼす。
「はあ……。あんな古びたホテル、要らねえよ」
「古びたは余計!」
「担保価値も大してない。売るにも直すにも金がかかるし、回収したところで面倒なだけだ」
「もっと余計!」
ハヤトは抗議を無視し、三人を順番に見た。
「それで?」
わずかに椅子の背へ寄りかかる。
「お前たち、担保抜きで返す金はあるわけ?」
タウニーの口が閉じた。
答えは、聞くまでもなかった。
三千万円。
ホテルの売上で簡単に用意できる金額ではない。
三人の貯蓄をすべて合わせても、到底届かないだろう。
「……ない」
タウニーが絞り出すように答えた。
「今すぐは、ないよ」
「じゃあ、返せないんだったらさ」
ハヤトの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「分かるだろ?」
その言葉が落ちた瞬間、タウニーの肩がびくりと強張った。
返せないなら分かるだろう。
具体的に何を指しているのかは、何一つ語られていない。
だからこそ、三千万円という数字よりも嫌な想像が膨らんでいく。
「……分かんない」
タウニーは答えた。
先ほどまでの騒がしさは消え、声が低くなっている。
「全然、分かんないよ。だから、ちゃんと言って」
膝の上で握られた拳が、小さく震えていた。
それでも視線だけは逸らさない。
「今すぐ三千万なんて、あるわけない。ホテルの収入も、ほとんど修繕費と生活費で消えるし、売れるようなものだって……」
そこまで言い、唇を噛む。
一瞬だけ、自分たちの腰にあるモンスターボールへ視線が向いた。
すぐに強く首を振る。
「でも、ポケモンは渡さないから」
デウロが静かに立ち上がり、タウニーの前へ出た。
いつもの飄々とした空気はない。
口元に浮かぶ笑みも薄く、目だけがハヤトの反応を注意深く見ている。
「社長さん。こちらに返済能力がないことは認めます」
声は穏やかだった。
だが、その一語ごとに慎重な圧が込められている。
「だからこそ、曖昧な言い方はやめてもらえませんかねぇ。何を要求するつもりなのか、具体的に提示してください」
「契約書に書いていない要求なら、断る」
セイカが間を置かずに続ける。
彼女の指は腰のモンスターボールへ触れていた。
「それに、保証団体としての有効性もまだ認めてない。私たち二人まで債務者と同じように扱うなら、まず法的な根拠を出して」
「セイカ……」
「怖がる必要はない」
そう言いながらも、セイカ自身が警戒を解いている様子はなかった。
「社長だろうと、相手の言うことを全部聞く義務はないから」
タウニーは小さく頷いた。
それから意を決したように立ち上がり、机越しにハヤトを睨む。
「お金がないのは本当。今すぐ返せないのも、本当にごめん」
一度だけ頭を下げる。
しかし、顔を上げた時には、怯えの中へ意地が戻っていた。
「だからって、何でも言うことを聞くと思わないでよ。危ない仕事とか、誰かを騙すこととか、ポケモンを傷つけることは絶対にしない」
デウロが横目でタウニーを見る。
少し呆れたような、それでもどこか安心したような表情だった。
「まあ、条件次第では働いて返すこと自体は考えますけどねぇ」
「デウロ!?」
「三千万円を現金だけで返すよりは現実的だからね。ただし仕事内容、報酬、期間、安全の保証は全部書面にしてもらいます」
「……妙に交渉慣れしてるね」
セイカが呟く。
「タウニーに任せたら、また裏面を読まずに署名しそうだから」
「今回は読むよ!」
「今回は、じゃ困るんだよねぇ」
二人に挟まれ、タウニーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
しかし、すぐにハヤトへ向き直る。
「それで?」
机へ身を乗り出し、真正面から問い返す。
「返せないあたしたちに、何をさせるつもりなの。ミミッキュファイナンスの社長さん?」
ハヤトは、三人の顔をゆっくりと見渡した。
「ポケモンなんか要らん」
平然と答える。ヘーゼルの瞳が歪に歪む。
「分かるだろ?」
わざとらしく間を置く。ひとつひとつ言い聞かせるように。
「若い女。見た目がいい。強いトレーナー。需要はある」
空気が凍りついた。
タウニーの顔から血の気が引く。
デウロは彼女を庇うように、もう半歩前へ出た。
セイカに至っては、モンスターボールを腰から外し、いつでも投げられるように握りしめている。
「……覚悟はできてる」
タウニーが、震える声で言った。
怖がっていた。
今すぐ逃げ出したいはずだった。
それでも、デウロとセイカの前へ立とうとしている。
「でも、二人には何もしないで。借りたのは、あたしだから」
「タウニー」
「デウロもセイカも関係ない。あたしが――」
「ぷっ」
その時、ハヤトの口元から、小さな音が漏れた。
「……え?」
「く、くくくく……」
肩が震える。
次の瞬間、ハヤトは机へ突っ伏し、堪え切れないように笑い始めた。
「あはははははっ! 本気で……本気で信じてる……!」
「…………」
「お前らに借金があるのは本当だよ。でも、そんな典型的な悪徳業者みたいなことしねえよ、俺……!ぷ、くくく、あはははは!!」
執務室を、ひどく冷たい沈黙が満たした。
タウニーの頬が、青から赤へ、みるみる変わっていく。
「……最低」
「あ?」
「最低最低最低っ!」
タウニーが机を勢いよく叩いた。
置かれていたペン立てが跳ね、数本のペンが床へ転がる。
「何がおかしいのよ! こっちは本気で怖かったんだからね!」
「悪い悪い。あまりにも想像どおりの反応だったから。
……それにそんな事したら俺捕まるだろ。」
「まだ子供のくせに、どこでそんな悪趣味な脅し方を覚えたのよ!」
「金融業界?」
「疑問形で答えるな!」
セイカは無言でモンスターボールを腰へ戻した。
ただし、その目から殺気めいた鋭さまでは消えていない。
「あと三秒続けてたら、あなたの会社の窓ガラスが一枚減ってた」
「……俺ごと?」
「当然」
「こっわ……血気盛んすぎだろ。」
「怖がらせた側が言わないで」
デウロも深く息を吐き、額へ手を当てた。
「社長さん。冗談にも、言っていい冗談と悪い冗談があると思いますよ」
「悪徳金融屋だからな、俺は」
「便利な肩書きみたいに使わないでもらえます?」
三人から向けられる非難を、ハヤトは笑いの余韻を残したまま受け流した。
やがて表情を戻すと、机の引き出しから二冊の資料を取り出す。
一冊の表紙には、青く枝分かれした角を模した印。
もう一冊には、赤黒い翼を思わせる印が押されていた。
ハヤトは二冊を、三人の前へ放る。
「お前たちに手伝ってほしいのは、伝説の生命と破壊を司るポケモン。ゼルネアスとイベルタルの捜索」
声から、先ほどまでのふざけた調子が消える。
「あと、債権逃れを続けてる連中からの取り立てだ」
「…………は?」
タウニーの怒りが、一瞬で困惑へ置き換わった。
「今、ゼルネアスって言った?」
「ああ」
「イベルタルも?」
「二度も言わせるな」
セイカはすぐに机へ近づき、二冊の資料を開いた。
一冊目には、ミアレシティとその周辺で記録された異常なエネルギー反応がまとめられている。
枯れかけていた街路樹が、一夜にして青々と蘇った地点。
反対に、草木や野生ポケモンから突然生気が失われた地点。
それぞれが、地図上へ青と赤の印で記されていた。
二冊目には、複数の債務者の顔写真。
滞納額。最後に確認された場所。接触した人物や企業。
ただの借金逃れを追うには、あまりにも詳細な調査資料だった。
「……伝説のポケモンと、借金の取り立て」
セイカが顔を上げる。
「この二つ、どう繋がってるの?」
「それに、ゼルネアスとイベルタルなんて、本当にミアレにいるの?」
タウニーも資料を覗き込み、地図上の青い印へ指を置いた。
「そんな大事になってるなら、あたしたちじゃなくて警察とか、もっと大きな組織に頼めばいいじゃん」
「頼めない事情があるんでしょうねぇ」
デウロは債務者一覧を一枚ずつ確認しながら、静かに言った。
「この人たち、ただ返済から逃げているだけじゃない。共通して、同じ企業や団体に接触している」
写真の横に記された複数の取引履歴。
どれにも、同じ不自然な記号が添えられていた。
「それに、何人かは行方不明扱いになっていますねぇ」
「行方不明……?」
タウニーの顔から怒りが引き、今度は真剣な緊張が宿った。
セイカは、資料の最後に挟まれていた一枚の写真を抜き取る。
暗い路地で撮影された、巨大な翼のような影。
写真は不鮮明だった。
それでも、翼を広げたそのシルエットは、生命を奪う伝説のポケモンを連想させるには十分だった。
「金融会社が、どうしてこんな情報を持ってるの?」
その問いに、デウロも視線を上げる。
「それから、ボクたちを選んだ理由も聞かせてもらいましょうか」
「さっき言った若い女とか美少女とかは、理由から除外するし!」
「見た目がいいって言っただけだろ。美少女とか言ってねえ。」
タウニーが、まだ根に持った様子で割り込む。
セイカはハヤトの表情を探るように見つめた。
「本当に強いトレーナーが必要なだけなら、ミアレには他にもいる。でも、正体を隠してきた社長が自分でホテルZまで出向いて、三千万円の債務を材料に私たちを動かそうとしている」
わずかに目を細める。
「あなた、最初からタウニーたちを狙って融資したんじゃない?」
「えっ」
タウニーが勢いよくハヤトを見る。
「まさか、借金まで全部このために……?」
疑いと怒りを浮かべるタウニーに対し、デウロは静かに首を振った。
「少なくとも、伝説のポケモンを本気で追わせるつもりなら、三千万円程度の報酬では釣り合わない」
デウロは契約書と調査資料を並べた。
「逆に言えば――」
視線をハヤトへ向ける。
「この仕事を完遂すれば、借金を消すつもりなんじゃないですか?」
三人の視線が、若き社長へ一斉に集まった。
「それとも悪徳金融屋らしく、ゼルネアスとイベルタルを見つけても、利息だけは別に請求するつもりですかねぇ?」
ハヤトは少しだけ目を細めると、その小さな唇を歪めながら話す。
「元金も返さなくていい」
タウニーが目を見開いた。
「……本当に?」
「見つけられればな」
「本当の本当に……?」
「元金も利息も遅延損害金も、全部消す」
タウニーはデウロとセイカを交互に見た。
つい先ほどまで絶望的に思えた借金が、一つの仕事で消える。
だが、その仕事の対象は、伝説のポケモン二体。
喜んでいい条件なのか、すぐには判断できなかった。
「詳しい話を聞かせて」
セイカが言う。
「そのつもりだ」
「ここで?」
「いや」
ハヤトは椅子から立ち上がり、背もたれに掛けていた上着を手に取った。
「話の続きは、食事しながらでもいいだろう」
「……今からご飯?」
タウニーが呆気に取られる。
「腹が減った」
「さっきまであたしたちを売り飛ばすみたいな脅し方してた人が、急にご飯!?」
「その話、いつまで引っ張るんだ」
「一生だし!」
ハヤトは騒ぐタウニーを無視し、代表室の扉へ向かった。
「車に乗れ」
「また命令!」
「乗らないなら置いてくぞ」
「行かないとは言ってないし!」
タウニーが慌てて資料を抱える。その横で、デウロは苦笑しながら契約書をまとめ、セイカも机の上に残された写真を一枚ずつ資料へ戻した。
ハヤトは扉の前で足を止める。
「ミュール」
それまで人の気配すらなかった扉の向こうから、静かな返事が届いた。
「はい、ハヤト様」
扉が外側から開かれる。
そこに立っていたのは、銀色の髪を一つにまとめた女だった。
身体の線に沿った黒い服を隙なく着こなし、穏やかな微笑みを浮かべている。妖艶という言葉がよく似合う容姿でありながら、その立ち姿には秘書としての乱れが一つもない。
女は室内の三人へ目を向ける。
一瞬。
ただそれだけで、机の上の資料、床へ落ちたペン、タウニーの赤くなった顔まで把握したようだった。
「食事に行く。四人で話せる店と、車の手配を」
「かしこまりました」
ミュールは余計なことを尋ねなかった。
ハヤトが何を目的として三人を連れてきたのかも、これからどのような話をするのかも、すでに理解しているような返答だった。
すぐに廊下の端末へ指を滑らせる。
「車は五分ほどで正面へ回します。お食事は、どのようなものを?」
「俺のは、いつものように。こいつらの分は適当に」
「適当って何だし!」
タウニーが割り込む。
ミュールは初めて彼女を正面から見て、柔らかく目を細めた。
「ご安心ください。ハヤト様の『適当』は、皆様のお好みを確認せず私に選定を任せる、という意味でございます」
「通訳が必要な社長ってどうなの?」
「うるさい。早く行くぞ」
ハヤトが廊下へ踏み出す。
ミュールはその一歩後ろへ自然に付き従いながら、三人へ丁寧に一礼した。
「お楽しみくださいませ。タウニー様、デウロ様、セイカ様。それから今回はいらっしゃいませんが、ピュール様にもよろしくお伝えできればと。」
名前を教えていないはずなのに、迷いなく呼ばれる。
タウニーは目を瞬かせ、デウロはわずかに眉を上げた。セイカだけが、驚きを表へ出さずにミュールを見返している。
「……あの社長の秘書だけはあるね」
「お褒めにあずかり、光栄です」
「褒めてないと思うよ」
先を歩いていたハヤトが、振り返らずに声を飛ばした。
「置いてくぞ」
「すぐ行くし!急かさないで!」
タウニーが代表室を飛び出す。
デウロとセイカもその後へ続き、最後にミュールが静かに扉を閉じた。
ゼルネアスとイベルタル。
行方を消した債務者たち。
そして、見つけさえすれば元金すら返さなくてよいという、あまりにも不自然な取引。
話はまだ、始まったばかりだった。
champions初めて4桁乗りました\(^_^)/