思いついたので書きました
至らない部分はご容赦ください

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第1話

男の人生がどこで壊れたのか、その境目を正確に思い出すことはできない。

 

二十五の男は、街の角にある小さな新興商社で、書類の帳尻を合わせたり帳簿に数字を叩き込むだけの平穏な日々を送っていた。頭が良いわけでもなく、顔立ちが整っているわけでもない。街ですれ違っても誰も振り返らないような、どこにでもいるごく凡庸な男だった。だが、そんな男にもひとつだけささやかな愉しみがあった。園芸だ。アパートの脇にあるささやかな庭の小さな花壇で、季節の小さな花を丁寧に育てては、その芽吹きを静かに眺める時間が男のささやかな平穏だった。

 

ある朝、赤紙が一枚届いた。それだけで、男の日常は断ち切られた。

 

連れて行かれた兵舎で待っていたのは、人間を一度解体し、国という巨大な機械の部品に作り替えるための暴力だった。連日の罵声と殴打。思考を奪われ、代わりに叩き込まれたのは教義としての不自然な愛国心だった。叫ばされ、走らされ、殴られ、自分の血の味を覚えさせられた。凄惨な訓練が終わる頃には、かつて花を愛でていた男の目は冷たく穿たれ、光を失っていた。精神も眼光も抉り取られた兵士たちの群れは、そのまま前線の泥沼へと送られた。

 

泥と硝煙の匂い、隣の男の首が消え去る音、叫び声。男は何とか死なずに帰ってくることができた。英雄としてではなく、ただ死に損なったゴミとして、男は故郷の街へと帰ってきた。

 

身にまとった擦り切れた軍服を脱ぎ捨て、意気揚々と元の職場へ足を運んだ。しかし、そこに男の居場所はなかった。不在を埋めるように新しい社員が座り、上司は男の顔を見ることすら嫌がるように視線を逸らした。

 

「兵隊さん、うちにはもう君の席はないよ」

 

手渡されたのは、ほんのわずかな軍人恩賜金だけだった。

 

元の会社から完全に見捨てられ、世間の冷たさに晒されながらも、男は帰国後に荒れ果て、すっかり枯れ果ててしまっていた庭の花壇を手入れし続けた。まるで、失われた己の半身や平穏を取り戻そうとするかのように、黙々と土を耕し、新しい種を蒔き、枯れた花をもとに戻そうと園芸だけは諦めずに続けていた。

 

恩賜金を少しずつ切り崩しながら、男は安アパートの湿った部屋で丸くなっていた。やがて金が底をつきかけると、男は街の隅にある別の小さな新聞社を探し出し、そこで雀の涙ほどの低賃金で働き始めた。雑用と印刷の泥汚れを拭う仕事だった。

 

しかし、戦火は止まらなかった。戦況の悪化に伴い、新聞社は軍部の圧力を受け、毎日毎日「わが軍の輝かしい大戦果」という偽りの記事を刷り続けた。男は記事を書いていなかった。ただ紙を運び、インクを練るだけだった。

 

ある日、新聞社を激しい衝撃が襲った。

 

押し寄せてきたのは、虚偽の戦果に惑わされ、我が子を戦場へ送り出して死なせた遺族たちだった。目を血走らせ、怒りと悲しみに狂った群衆が社内を破壊した。男は記事を書いていなかったが、問答無用で襲われた。激昂した遺族たちから容赦ない暴行を受け、殴られ、蹴られ、顔の形が変わるまで痛めつけられた末、男は近くのドブ川へ放り投げられた。

 

ヘドロと悪臭にまみれながら、男は泥水を這った。

 

はいながら家に帰り着いたものの、体は激痛に苛まれ、金ももう無かった。苦しみながら風呂に水を張り、震える手で体をきれいに洗い流した。鏡に映る己の姿は、あまりにも惨めで救いようがなかった。

 

翌日から、男は道端に座って靴磨きを始めた。

 

ある日、一人の富裕層の男が足を差し出してきた。富裕層は男を侮辱しながら終わるのを待ち、去る頃には通常の五倍もの金額の紙幣を投げ捨てて去っていった。圧倒的な格差と侮辱の対価としての大金。男はその紙幣を拾い上げ、道具をまとめると家に帰った。

 

積み重なる理不尽と侮辱に、男の糸はついに切れた。家に帰り着くや否や、男はこれまで必死に世話してきた庭の花壇を激しい感情のままにひっくり返し、荒れ果てた土と散らばった根を見つめながら深い絶望に打ちひしがれた。

 

そして夜中、男は街にある橋の手すりに座り、辞世の句の代わりに幼い頃に聞いた歌を口ずさんだ。そして川へ落ちた。

 

重い水音が響いたが、死ぬことはできなかった。

 

川の流れに押し流され、河川敷で茫然としながら空を見つめていた。死ぬことすらできなかった男の近くに、一人の女性が通りかかり、静かに腰を下ろした。女性は何も言わなかった。男はポツポツと、なぜ自分が濡れているのかを話し始めた。

 

男の話が終わり、女性に話を聞くと、その女はつい先日夫を亡くしたとのことだった。女の夫は格式高い家の出身だった。両親は二人の結婚を反対しており、だからこそ夫が死んだ後は行き先もなく一人困っていたらしかった。女の体は貧相だったが、顔は悪くなかった。

 

行くあてもなく、夜風に身を削ぐように小さくなっている女を前に、全身ずぶ濡れの男は掠れた声で言った。

「風を凌ぐだけの狭く汚い部屋だが……濡れた服を乾かすくらいならできる。行くところがないなら、おいで」

大層なもてなしなどできるはずもない、底辺の男の不器用で必死な誘いだった。女は黙ってうなずき、男の少し後ろをついて歩いた。

 

はじめのうち、女は日の陰る頃にポツポツと男の家に身を寄せる程度だったが、互いの傷を寄せるうちに、いつからか自然と男のアパートで一緒に暮らし始めていた。

 

男は富裕層から投げつけられた「五倍の金」を貯め、毎日必死に稼ぎ、女の飯や服を用意してやった。男は以前、街で女が旦那と歩いているところを何度か見かけたことがあった。あの男の妻が、今自分のもとにいる。

 

何日も、何週間も一緒に過ごすうちに、ふと気づくと女は、男が荒らしてしまったあの庭の花壇を少しずつもとに戻し、再び静かに花を育て始めていた。土に塗れながら小さな芽を愛でる彼女の姿に、男は人生で初めて、生きることに本物の喜びを感じ始めていた。暗闇の底に降りてきた一輪の華。男は女のことを天国から降りてきた婦人――「天国婦人」と思い始めていた。

 

女を家に招き入れてから、何ヶ月かが過ぎた頃のことだった。

 

ふたりで暮らす日々のなかで、少しずつ、だが確実に女の目つきが変わっていった。夫を失った直後の、光を失い虚空をさまよっていた「未亡人」の暗く冷たい眼差しは消え去り、男を温かく穏やかに見つめる「男の妻」の目になりつつあった。

接し方も変わった。最初はどこか遠慮がちに部屋の隅で膝を抱えていた女が、男が仕事から帰ると玄関で静かに迎え、ぬるま湯で湿らせた手拭いで男の泥だらけの手を丁寧に拭うようになった。男の傷んだ服の綻びを縫い直し、食卓の向かいでささやかな笑みを浮かべる。男の胸は、生まれて初めて味わう満たされた温もりで溢れていた。

 

その日は、男にとって特別に誇らしい日だった。靴磨きで貯めた金で、男は女のために新しい質の良い着物を一着買い求め、それを大事に風呂敷に包んで抱え、意気揚々と彼女の待つ家へと帰る途中であった。

 

――だが、その死は、何の前触れもなく、ただの雑作業のようにやってきた。

 

月明かりのない路地を歩いてアパートへ向かう途中、闇の奥から声がした。

 

「おい」

 

低く、擦れ切った声だった。男が足を止め、振り向こうとした瞬間。

 

「おい、それ――寄こせ」

 

言葉の終わりを待たずに、影が肉薄した。狂気にとらわれた目。

男を襲ったのは、かつて前線でともに泥にまみれ、復員しても居場所を失った同じ帰還兵だった。飢えと狂気に追われていた男は、主人公が大事そうに抱えていた風呂敷包み――その隙間から覗く質の良い着物の生地を目ざとく見つけ、売って金や飯に換えるために奪い取ろうとしたのだ。

 

ぬめりとした刃物が、抵抗もなく男の腹の肉を裂き、奥深くへと突き立てられた。

 

「あ、」

 

声にならなかった。手からこぼれ落ちる、女のために買った質の良い着物の包み。刺した帰還兵は、倒れ込む男の手から荒々しくその包みを奪い取ると、血走った目で懐に抱え込んだ。

 

衝撃のあとに、灼熱の鉄を叩き込まれたような、圧倒的な猛痛が腹の底から突き上げてきた。男は両膝から崩れ落ち、湿ったアスファルトに倒れ伏した。腹を抱える手から、生温かい血がドロリと溢れ出す。

 

着物を奪った帰還兵は、ナイフを捨て、傷ついた片足を強く引き摺りながら、カタカタと不気味な足音を闇に響かせて去っていった。ただ生き延びるためだけに、自分と同じ境遇の人間から奪い、殺す。それがかつての自分たちの姿そのものだった。

 

一人残された男は、血の海の中で空を見上げた。

 

視界がぐにゃりと歪み、腹の痛みが肉体を焼き尽くそうとしている。だが、その激痛の渦中で、男の心は不思議なほど急速に冷えていった。

 

脳裏に浮かんだのは、戦場で目の前にいた戦友の姿だった。

 

名前も思い出せないその男は、突如飛来した砲撃によって、ほんの一瞬で上半身を吹き飛ばされた。叫ぶ間も、絶望する間もなく、ただの肉片となって飛び散った。あの時の、肉が焦げる臭いと、あまりにもあっけなく「人間」が終わる瞬間。

 

(ああ……なんだ。俺もあいつみたく、死んじまうのか...)

 

富裕層の嘲笑も、新聞社の暴力も、復員の虚しさも、そしてあのアパートで待っているはずだった女の温もりすらも。死という絶対的な現象の前では、何の意味も持たない。人間が泣き叫び、奪い合い、愛し合い、憎み合うことのすべてが、空虚で、バカバカしく、果てしなくくだらない戯言に見えた。

 

たった一着の質の良い着物のために、あるいはただそこに居合わせた偶然のために。死が欲しがったのは、俺だったのか、それとも偶然だったのか。

 

腹の激痛すらも、遠くの他人事のように薄れていく。血とともに体温が奪われ、意識が急速に乾いていく。

 

天国から降りてきたあの婦人は、今頃、自分が買い求めた着物のことも知らず、静かに花壇の世話をしながら部屋で自分の帰りを待っているだろう。だが、それすらももうどうでもよかった。諦めとも悟りともつかない冷徹な虚無が、男の全身を完璧に満たしていった。

 

男は最後にひとつ、乾いた吐息を漏らし、二度と動かなくなった。


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