はじまり
第1話 はじまり
2011年3月11日。
後に人々から『悪夢の日《ナイトメア・デイ》』と呼ばれることになるその日は、何の前触れもなくやって来た。
最初に異変を捉えたのは、世界各地の沿岸監視網だった。
晴れていた海に黒い霧が湧き、レーダーに正体不明の光点が次々と現れた。海中から浮上してきたものもあれば、水平線の向こうから押し寄せてきたものもある。人の形に似たもの、巨大な艦船を思わせるもの、どちらともつかない異形のもの。そのすべてが、海から人を追い払うという一つの意志で結ばれていた。
それらは『深海棲艦』と呼ばれた。
誰が最初にそう名付けたのか、今となっては定かではない。
ただ、その名が付いた時には、既に何隻もの船が海へ沈んでいた。
各国の海軍が迎撃に出た。日本でも海上自衛隊の護衛艦が出動し、沿岸へ近づく敵を食い止めようとした。だが、それまで人類が海戦の常識として積み重ねてきたものは、異形の敵を前にして次々と覆された。
通信は混乱し、報道は錯綜した。
どの映像が本物で、どれが誤報なのかさえ分からない。避難勧告と待機命令が同時に流れ、港へ向かう車と、港から逃れようとする車が狭い道路で鉢合わせた。
しかも深海棲艦は、なぜか日本の沿岸へ戦力を集中させていた。
日本はもう終わりなのではないか。
その考えは、悲観的な専門家だけのものではなかった。テレビの前で息を呑む人々も、避難所へ向かう人々も、現場で武器を取る自衛官たちも、口に出さないまま同じ不安を抱えていた。
その時である。
海の上に、少女たちが現れた。
小さな体に巨大な艤装を纏い、波の上に立ち、深海棲艦へ砲火を返す存在。ある者は旧海軍の艦艇と同じ名を名乗り、ある者は自分がなぜそこにいるのかも分からないまま、それでも人々を守ろうと戦った。
彼女たちは、いつしか『艦娘《かんむす》』と呼ばれるようになった。
艦娘と共に、妖精としか呼びようのない小さな者たちも現れた。
妖精たちは艤装を整備し、人間の技術者には理解できない装置を動かした。彼らの姿は誰にでも見えるわけではなかったが、見える人間は艦娘との意思疎通や、艤装の運用に高い適性を示した。
海上自衛隊は艦娘との協力を決め、陸海空三自衛隊から妖精を見ることのできる者を選抜した。そうした者たちは、艦娘を指揮する『提督』として全国の鎮守府へ送り込まれていった。
だが、それは後に制度が整えられてからの話である。
悪夢の日の現場に、便利な規則も、十分な戦力も、正確な情報もなかった。
宮城県の宮戸島もまた、その混乱のただ中にあった。
当時、現地に居合わせた高菜直哉二等陸尉は、鳴り続ける電話と怒号を聞きながら、島の地図を床へ広げていた。
「島内に残っている人数を、もう一度確認してください。観光客も工事関係者も含めてです。名簿がないなら、地区ごとに紙へ書けばいい」
『ですが、海へ出るのは危険です! 本土側の港も混乱しています!』
「ここに残れば、もっと危険になる可能性が高い。沖にいた敵が進路を変えました。島へ到達するまで、長く見積もっても数時間です」
『護衛はどうするんですか!』
「いま準備しています」
短く答えて電話を切ると、直哉は赤鉛筆で地図へ線を引いた。
護衛の当てなど、その時点ではなかった。
それでも、ないとは言えなかった。指揮を執る人間が不安を口にすれば、その不安は現場全体へ伝染する。だから彼は、確認できた事実と、これから行うべき作業だけを口にした。
使える漁船、連絡船、小型艇。乗せられる人数。燃料。操船できる人間。自力で歩けない住民。乳幼児を連れた家族。薬を必要とする者。道路が塞がれた場合の迂回路。
足りないものを嘆く暇があるなら、今あるものを数えた方がいい。
港へ一度に人を集めれば混乱が起きる。そこで地区ごとに出発時刻をずらし、足の不自由な者と子供を先に運ぶことにした。島の古老たちにも協力を頼み、勝手に列を離れようとする者が出ないよう、顔見知り同士で組を作らせた。
無線機を持つ者は限られている。携帯電話も回線が混雑していた。
直哉は伝令を走らせ、港と避難集合地点の間に人を立たせた。情報が古くなる前に往復できる距離を考え、配置を決めた。
「高菜二尉、敵影が島の東へ向かっています!」
「予定を十六分繰り上げます。第二陣を出してください」
「まだ全員が揃っていません!」
「第一陣の船を空けたまま待たせる方が危険です。残った人は第三陣へ。名簿には必ず移動先を書いてください。誰かを帳簿の上で行方不明にしないように」
「了解!」
声を張り上げた直哉自身も、恐怖を感じていなかったわけではない。
むしろ、怖かった。
海の向こうで何が起きているのか分からない。自分の判断が正しいという保証もない。一つ順番を間違えれば、船に乗れなかった住民が取り残される。出航を急がせ過ぎれば、海上で敵と遭遇するかもしれない。
それでも、立ち止まることだけはしなかった。
直哉は沖合の情報を集め、敵の進路を何度も地図へ書き直した。漁師たちから潮と風を聞き、海上自衛隊から入る断片的な警報と照らし合わせた。安全が保証された航路などない。ならば、敵と遭遇する可能性が最も低い時間と場所を選ぶしかない。
やがて、沖合で砲声が響いた。
海上へ現れたばかりの艦娘たちが、宮戸島へ近づこうとしていた深海棲艦と交戦を始めたのだ。
直哉はその名も、能力も知らなかった。
ただ、彼女たちが稼いでくれた時間を一秒たりとも無駄にしないよう、最後の船が港を離れるまで避難を続けた。
宮戸島にいたおよそ千二百人は、一人の犠牲者も出さず島を脱出した。
後日、その避難は奇跡と呼ばれた。
高菜直哉は『宮戸島の英雄』と呼ばれ、二等陸尉から一等陸尉を飛び越し、三等陸佐へ特別昇任した。
本人は、その評価をひどく嫌がった。
「私一人で千二百人を背負って泳いだわけでもあるまいし。船を出した漁師も、住民を纏めた人たちも、海で敵を止めてくれた艦娘もいた。どうして私だけ英雄になるんです?」
取材に来た記者へそう答え、上官からは「せめて広報向けの顔をしろ」と叱られた。
もっとも、英雄扱いを嫌った理由は謙虚さだけではない。
顔と名前が知れ渡れば、式典へ呼ばれる。講演を頼まれる。報告書が増える。面倒な仕事が増える。
高菜直哉は、必要な時には誰よりも働くが、必要がなくなった瞬間に、驚くほど働かなくなる男だった。
防衛大学校を優秀な成績で卒業し、普通科へ配属。イラク派遣を経験し、レンジャー、冬季遊撃レンジャー、空挺と、制服の胸には本人の態度から想像しにくい徽章が並ぶ。
能力がないわけではない。
能力を常時見せびらかす気が、まるでないのである。
そんな彼のもとにも、妖精を見ることができるかを調べる適性試験の通達が届いた。
試験そのものは簡単だった。
机の上に妖精が一人座っていた。
直哉は部屋へ入るなり、その妖精と目が合った。
「おい、おっさん。みえるか?」
「残念ながらね」
「ざんねんなのかー」
「見えなかったことにしてくれないかい?」
「むりだぞー」
立会官は大喜びした。
上官も大喜びした。
直哉だけが、辞令を受け取って大きな溜め息をついた。
宮戸島の英雄を、奪還された宮戸島へ提督として戻す。
広報向けに説明すれば、美しく収まりのよい人事である。
実際には、普段のやる気のなさと、必要に迫られた時の働きぶりの落差が激し過ぎて、上官が扱いに困っていた男の厄介払いでもあった。
彼には秘書艦として、駆逐艦・電が付けられた。
二人は冬の宮戸島へ着任し、雪に埋もれたコンテナ庁舎の周りを、自分たちで雪掻きするところから鎮守府を始めた。
それから、数年。
戦争が始まって七年が過ぎた、2018年。
宮戸島には人々の暮らしが戻っていた。
すべてが元どおりになったわけではない。戻らなかった島民もいる。閉じた店もあれば、本土側へ統合された施設もある。それでも港には漁船が並び、家々の煙突から煙が上がり、子供たちの声が聞こえるようになっていた。
その島の海沿いに、宮戸島鎮守府はある。
鎮守府といえば、堂々たる庁舎、広い埠頭、多数の艦娘と整備員を思い浮かべる者が多い。
宮戸島鎮守府の場合、庁舎は少し大きなコンテナハウスだった。
官舎もコンテナハウス。工廠もコンテナを利用した建物。常駐する人間は司令官一人、艦娘一人。あとは妖精たちである。
規模だけを見れば、弱小鎮守府という評価は間違っていない。
その日の午後。
司令官執務室では、通信妖精が受信機の前に座り、事務妖精が書類の束へ小さな判子を押していた。壁には宮戸島近海の海図が貼られ、色の違う磁石がいくつも置かれている。
執務机の前にあるエグゼクティブチェアでは、一人の男が腕を組んで眠っていた。
高菜直哉二等陸佐。この時、三十八歳。
制帽は机の隅へ置かれ、上着の襟元は少し緩められている。胸に並んだ徽章だけを見れば歴戦の自衛官だが、本人の姿から漂うのは威厳より昼休み中の会社員に近かった。
「よくねてるぞー」
通信妖精が言った。
「いつものことです」
事務妖精は慣れた様子で答え、直哉の署名が必要な書類だけを決裁箱へ入れた。
ただし、机の上に広げられた海図には、つい先ほど書き込まれたばかりの線が残っている。
北東の海域で、友軍艦隊が予定航路から外れたこと。
敵艦隊がそれを追うように西へ進路を変えたこと。
敵が宮戸島近海へ流れ込んだ場合、電がどの位置で接触し、どの線を越える前に撤退するか。
必要な計算と指示は、既に終わっていた。
直哉は眠る前、電へ通信を入れている。
『北の連中が深追いしている。十五分以内に引き返すと思うが、敵を連れて来るかもしれない。予定の哨戒線を二海里だけ南へ下げよう。相手を見つけても、島へ向かわないなら手を出さなくていい』
『了解なのです』
『中破する前に帰っておいで。戦果より夕飯の方が大事だ』
『提督は、電がいない間にお仕事を終わらせておくのです』
『善処しよう』
通信を終えた後、直哉は周辺海域の情報をもう一度確認し、必要な決裁へ署名し、事務妖精へ大本営宛ての定時報告を頼んだ。
そして寝た。
やるべきことを終えたのなら、起きている必要はない。
本人は本気でそう考えている。
外から、軽い足音が近づいてきた。
執務室の扉が開く。
「高菜二佐、今日も出撃して来たのです」
返事はない。
帰投した電は、椅子に凭れて眠る司令官を見て、頬を膨らませた。
海風を受けた髪は少し乱れ、制服の裾には波飛沫の跡が残っている。艤装に大きな損傷はない。表情にも疲労の色は薄く、無事に帰ってきたことは一目で分かった。
「高菜二佐」
もう一度呼ぶ。
直哉は起きない。
「起きるのです!」
電が、ちゃきっと主砲を向けた。
砲口が自分へ向いた瞬間、直哉は目を開けた。
「はっはっは。おかえり、電」
先ほどまで熟睡していたとは思えない朗らかな笑顔だった。
「笑って誤魔化しても駄目なのです。電が出撃している間に、またお昼寝していたのです」
「また、とは人聞きが悪いね。予定されていた休息だよ」
「予定表には書いてなかったのです」
「私の頭の中に書いてあった」
「それを世間では、ただのお昼寝と言うのです」
電は主砲を収めると、大きな溜め息を吐いた。
直哉は椅子から立ち上がり、電の姿を上から下まで確認した。装備だけでなく、歩き方や呼吸、顔色も見る。本人が平気だと言っても、緊張が解けた後に疲労が表へ出ることはあるからだ。
「被弾は?」
「ないのです」
「艤装の不調は?」
「帰りに右舷の魚雷発射管が少し引っ掛かったのです。工廠妖精さんに見てもらいます」
「ほかには?」
「お腹が空いたのです」
「それは重大な損傷だ。直ちに補給しないといけない」
直哉が真面目な顔で頷くと、電は堪え切れずに笑った。
「うん。今日も無傷で元気で、何よりだねぇ」
「なのです!」
褒められると、電の表情は素直に明るくなる。
彼女は、建造された時から極めて高い練度と、規格外と言ってよい性能の艤装を持っていた。
敵の砲撃を避け、こちらの砲撃を当てる。魚雷も当てる。敵艦載機の攻撃さえ見切ってしまう。駆逐艦でありながら、戦艦ル級と渡り合い、条件が整えば単艦で撃沈することすらできる。
他の鎮守府から見れば、バグか、チートか、何かの間違いとしか思えない艦娘である。
しかし直哉は、電の能力が高いからといって、無制限に戦わせることはなかった。
壁の海図の横には、彼が書いた短い原則が貼ってある。
一、宮戸島と島民の安全を最優先とする。
二、追撃は指定海域まで。
三、損傷または通信異常があれば、任務途中でも撤退する。
四、命令に疑問があれば、実行前に確認する。
五、無事に帰投して初めて勝利とする。
どれも、勇ましい標語ではない。
戦果を増やしたい提督が見れば、臆病だと笑うだろう。
直哉にとっては、それでよかった。
「北東海域の艦隊は、やっぱり敵を連れて撤退したのです」
電は海図の前へ行き、敵味方の動きを示す磁石を動かした。
「この辺りで、重巡リ級一隻と駆逐艦三隻が分かれて、宮戸島の方角へ向かおうとしたのです」
「予想より一隻多いね。それで?」
「高菜二佐の指示どおり、島から離れる方向へ誘導したのです。駆逐艦二隻を先に撃沈して、リ級の舵を壊してから、残りの駆逐艦を撃沈したのです。リ級は別の友軍艦隊が来たので、引き渡して帰って来たのです」
「賢明だ。こっちの主任務は島の防衛で、動けなくなった敵の取り分を争うことじゃない」
「引き渡した艦隊の提督さんは、戦果を恵んでもらう必要はない、と怒っていたのです」
「それは申し訳ないことをした。次からは、島まで敵を連れて来ないように努力してもらおう」
「伝えておくのです」
二人は顔を見合わせ、同時に肩を竦めた。
宮戸島鎮守府が周囲から好かれているかと問われれば、答えは微妙である。
艦娘一人の小さな鎮守府。大規模作戦へ積極的に参加することもなく、華々しい戦果を競うこともない。それでいて、周辺の艦隊が敵を取り逃がせば、その敵を確実に仕留める。
戦果の横取りだと陰口を叩かれることもあった。
直哉は気にしなかった。
「要求された以上の成果を出して、電が無事に帰ってくる。十分じゃないか」
それが彼の考えだった。
大艦隊を持ち、大戦果を挙げる提督が悪いわけではない。必要な場所には大きな戦力が要る。勇敢に戦う者たちへの敬意も、直哉は持っている。
ただ、功を焦って引き際を見失う者を、彼は信用しなかった。
提督の判断一つで、艦娘は沈む。
轟沈を出した鎮守府は、残された艦娘たちから信頼を失う。艦娘は兵器ではない。笑い、怒り、恐れ、仲間の死を悲しむ心を持っている。
それでも彼女たちを道具のように扱う者は存在した。
命令への服従を強いる『指揮命令システム』を濫用し、無謀な戦闘を押し付ける者。暴力や侮辱で支配し、艦娘の意思を踏みにじる者。戦果だけを見て、そこにいる一人一人を見ようとしない者。
そうした提督や鎮守府は、いつしか『ブラック』と呼ばれるようになった。
定期査察で摘発される者もいるが、すべてを見つけられるわけではない。
外向けの書類だけを整え、艦娘に口を閉ざさせれば、問題のない鎮守府を装うこともできる。
直哉は、それを嫌悪していた。
指揮命令システムを使えば、電に細かな命令を強制できる。だが彼は、戦闘目的、予想される敵、撤退条件を伝えた後の判断を、できる限り電に任せた。
海の上にいるのは電である。
砲弾が飛んでくる場所で、最後に自分の命を守れるのも電である。
「今日は、指示された線より少し早く接触したのです。だから、島へ近づかないように一度北へ回り込んだのです」
「うん。通信記録を見たよ。いい判断だ」
「勝手に航路を変えたのに、怒らないのですか?」
「君の判断に理由があるなら怒らないよ。私の予想が全部当たるなら、そもそも現場の指揮官なんて必要ない」
「高菜二佐は、そういうところだけは立派なのです」
「だけ、は余計だねぇ」
直哉は苦笑しながら、机の下に置いてあった小さな保冷箱を取り出した。
「さて。無事に帰ってきたご褒美に、アイスを用意してあるよ。今日は抹茶味だ」
「わぁ、ありがとうなのです!」
電の声に反応して、仕事をしていた妖精たちが一斉に振り返った。
「あいす!」
「われわれのぶんはー?」
「もちろんあるとも。いつも済まないねぇ」
保冷箱には、小さなカップのアイスが人数分入っていた。
妖精たちは歓声を上げ、それぞれ好みの味を選び始めた。事務妖精は書類を汚さないよう机を片付け、通信妖精は受信機のつまみを確認してからスプーンを受け取る。
直哉が妖精たちへ仕事を任せられるのは、彼らの能力が高いからだけではない。
戦略を立て、戦術へ落とし込み、攻撃目標と撤退条件を定める。自分で確認すべき書類には目を通し、責任を持つべき決裁には署名する。その上で、苦手な書類整理や通信の定型業務を頼んでいる。
妖精たちは、直哉が自分の責任まで丸投げしているのではないと知っていた。
何より、彼は礼を言う。
「いつも済まないね」
そう言って、時々アイスも出す。
信頼と買収は、両立するのである。
「高菜二佐も食べるのです?」
「私はコーヒーでいいよ。電、淹れてもらえるかい?」
「はいなのです」
電は抹茶アイスを机に置き、手を洗ってから湯を沸かした。
執務室にコーヒーの香りが広がる。窓の向こうでは、夕暮れの光が海面を橙色に染め始めていた。
直哉は受け取ったカップへ口をつけ、海図を眺めた。
「それで、戦況はどうだい?」
「毎度毎度、敵を引き連れて撤退して来る間抜けな艦隊の、尻拭いなのです」
電はアイスを一口食べ、満足そうに目を細めてから溜め息を吐いた。
「まったく。どいつもこいつも、面倒事を押し付けないでもらいたいな」
直哉も大袈裟に溜め息を吐く。
「提督だって寝ていたのです」
「いやあ、やることはやっているさ。給料分のことはね。私は給料分以上のことをするのが大嫌いでねぇ」
「相変わらず、やる気のなさそうなお答えなのです」
電がじとりと見る。
「これでも周囲の艦隊の動きを確認して、作戦計画を立てていたんだよ。その証拠に、君が遭遇した位置も、敵が分かれる可能性も、だいたい当たっていただろう?」
「だいたい、なのです。敵は予想より一隻多かったのです」
「世の中、百点満点を狙うと疲れるんだ。八十点で無事に帰れる計画なら、そっちの方がいい」
「その残りの二十点を、電が埋めているのです」
「だから、こうして感謝のアイスを用意している」
「抹茶味一個で誤魔化された気がするのです」
「もう一個食べるかい?」
「食べるのです」
即答だった。
二個目のアイスを受け取りながら、電はくすりと笑った。
「でも、楽に勝てれば、それが一番なのです」
「そういうことさ」
直哉は窓の外へ目を向けた。
港には、帰港した漁船の影が見える。
漁ができる。島民が家へ帰り、夕飯を食べ、明日の仕事を考えられる。その当たり前の暮らしを守ることが、宮戸島鎮守府の主任務だった。
大本営の作戦図に記される戦果は、小さいかもしれない。
勲章が増えるような働きでもない。
それでいい、と直哉は思っている。
英雄と呼ばれた日に彼が守ろうとしたものも、結局は同じだった。
名前も顔もある人々が、今日を生き延びて、明日を迎える。それ以上に分かりやすい勝利を、彼は知らなかった。
通信妖精が受信機の前で片手を上げた。
「ほくとうのかんたい、きかんしたぞー」
「損害は?」
先ほどまでの眠そうな声ではなく、直哉がすぐに訊く。
「ちゅうは、ふたり。ごうちん、なし」
「そうか。なら、よかった」
直哉は短く息を吐いた。
仲のよくない鎮守府であっても、艦娘が沈まなかったことには安堵する。その様子を、電は静かに見ていた。
「高菜二佐」
「なんだい?」
「やっぱり、給料分より少しだけ心配しているのです」
「気のせいじゃないかな」
「そういうことにしておくのです」
壁の時計を見ると、針は一七五〇《ヒトナナゴーマル》を指していた。
電は二個目のアイスを食べ終え、空のカップを片付ける。直哉も残っていたコーヒーを飲み干し、制帽を手に取った。
「さて、お夕飯にしようか。いつもの大衆食堂《めしや》でいいかい?」
「はいっ」
「今日は何を食べようかな。日替わり定食が魚だったら、それにしよう」
「提督は、飲み過ぎてはいけないのです」
「まだ一杯も飲んでいないのに、もう釘を刺すのかい?」
「先に言っておかないと、二杯目を頼んでから『もう注文してしまったから仕方がない』と言うのです」
「よく私のことを理解しているねぇ」
「何年一緒にいると思っているのです」
二人は並んで執務室を出た。
通信妖精が留守番を引き受け、事務妖精たちは残ったアイスを冷凍庫へ運ぶ。何かあれば、仕事用の携帯電話へ連絡が入る。夕飯の途中で呼び戻されることも、珍しくはない。
庁舎の外へ出ると、潮の匂いを含んだ風が吹いていた。
海は穏やかに見える。
その向こうでは、今日も戦いが続いている。
それでも宮戸島には、夕餉の支度をする匂いが漂い、家々に明かりが灯り始めていた。
「今日も平和なのです」
電が言った。
「ああ。今のところはね」
高菜直哉二等陸佐と、駆逐艦・電。
やる気がないように見える提督と、規格外に優秀な一人の秘書艦。
たった二人と妖精たちの、小さな鎮守府。
後に多くの仲間が集まり、数え切れない騒動の中心となる宮戸島鎮守府も、この時はまだ、ひどく静かな場所だった。
二人はいつもの食堂へ向かって、夕暮れの道を歩いていった。