ピピピッ……。
ピピピッ……。
枕元の目覚まし時計が、まだ薄暗い寝室へ規則正しい音を響かせていた。
窓の外は、夜と朝の境目にある色をしている。海の向こうに太陽が昇るには少し早く、しかし港の照明は一つ、また一つと消え始めていた。
電は布団の中で目を覚ました。
最初に確認するのは、隣で眠っている高菜直哉ではない。
枕元に置かれた仕事用携帯電話だ。
昨夜は、夕飯の帰りに緊急出撃があった。イ級一隻を撃破し、漁船三隻を港へ帰し、報告書を大本営へ送った。緊張が解けてから眠ったため、いつもより少し遅い就寝だった。
もし夜中に別の警報が鳴っていれば、電は起こされているはずである。
着信はない。
新着メールもない。
緊急通信を示すランプも消えたままだった。
「ああ、良かったのです」
電は、心の底からそう思った。
昨夜の出撃が無事に終わったことよりも、朝まで面倒事が増えなかったことへ安堵するあたり、宮戸島鎮守府の秘書艦として何かが鍛えられている。
いるかどうかは分からないが、電は艦娘の神様へ感謝を捧げた。
神様が本当にいるなら、今夜もこのまま静かに過ごさせてほしい。
そう願いながら、電は隣のベッドを見た。
高菜直哉は、まだ眠っている。
枕に片腕を載せ、掛け布団を肩まで引き上げている。昨夜の緊急出撃の疲れが残っているのだろう。眠っている間は、普段の気の抜けた表情よりさらに幼く見える。
とはいえ、起こさなければ仕事に遅れるという種類の人間ではない。
起きるべき時間になれば、電が起こす。起きるべき時間でなくても、書類が溜まっていれば妖精が起こす。緊急事態があれば、砲口を向ければ起きる。
それまでの数分間くらい、眠らせておいても問題はない。
電は枕元から離れ、官舎のバスルームへ向かった。
宮戸島鎮守府の官舎は、立派な司令官官舎とは呼びにくい建物だった。
庁舎と同じくコンテナを利用した平屋で、リビングダイニングキッチンに、寝室とユニットバスを繋いだだけの簡素な一LDK。電が着任した当時は、雪掻き用の道具を置く場所さえ決まっていなかった。
艦娘を増やすなら、まずこの官舎を拡張するか、艦娘寮を新設しなければならない。寝室を分け、衣服を置く場所を増やし、食事や入浴の設備を整え、艤装を保管する場所も必要になる。
しかし、予算も資材も潤沢ではない。
宮戸島鎮守府の任務は、宮戸島近海の迎撃と島民の安全確保。大規模作戦で華々しい戦果を挙げる部隊ではないため、優先順位はどうしても低くなる。
そして何より、司令官本人が艦娘の増員を望んでいなかった。
電にも、僚艦を迎えたいという気持ちはなかった。
二人で話し合った結論は、いつも同じだった。
「今の所、そんな資材も予算も無駄」
「なのです」
電は熱めのシャワーを浴びた。
海上で冷えた体を温めるには、少し熱いくらいがちょうどいい。昨夜の戦闘で受けたのは飛沫だけだったが、砲撃の音は体の奥に残っている。シャワーの音に混ざるように、遠くで波が防波堤へ当たる音が聞こえた。
電は手足を動かし、関節の具合を確かめた。
肩、肘、手首。艤装を展開する時に使う筋肉。足首と膝。海上を走る時、波を受け止める箇所。
どこにも違和感はない。
髪を洗い、体を拭き、脱衣所へ用意しておいた制服へ着替える。暁型の制服は、毎日整えていても海風と戦闘で少しずつ傷む。電は襟を正し、階級章と艦娘用の徽章を確かめた。
着任した頃、電の階級は二等海士だった。
しかし、艦娘の技術試験を異例の早さで通過し、一等海士、海士長、三等海曹へと特例の昇任を重ねた。いずれはさらに上の階級へ進むことになるのだろうが、電にとって階級は、偉くなるための飾りではない。
任された仕事を果たすために、必要な資格と権限を得るものだった。
ドライヤーで髪を乾かして寝室へ戻ると、直哉がちょうど上体を起こしていた。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
直哉は大きく欠伸をした。
寝間着代わりのジャージの襟を整える様子もなく、バスルームへ向かう。本人は、ジャージで寝ることを気にしていない。むしろ制服へ着替えるまでの手間が少ないという理由で、何年も同じような格好をしている。
電は、直哉が浴室へ入ったことを確認してから、着替えとバスタオルを脱衣所へ置いた。
自分で用意すればよい、と言われるかもしれない。
だが、直哉は朝の寝起きに物を探すのが苦手で、何かを見つけられないと、必要以上に時間を使ってしまう。電が先回りしておけば、朝の時間が少しだけ平和になる。
それは秘書艦としての職務なのか、同居人としての世話なのか。
電自身も、あまり深く考えないことにしていた。
リビングダイニングキッチンへ向かうと、朝の準備を始める。
最初にコーヒーメーカーへ豆を入れた。ミルが豆を挽く音が、まだ静かな官舎に広がる。ウォーターサーバーから水を汲み、機械へ入れる。次にトースターへパンを二枚セットした。
冷蔵庫を開ける。
ビールの缶が、整然と並んでいる。
野菜や果物が少ないのは、直哉が買い物を後回しにするからだ。調味料や保存食も、妖精たちが在庫を確認しなければ、いつの間にか切れている。電は冷蔵庫の隅から卵とベーコンを取り出した。
「今日も、ビールばかりなのです」
誰に言うでもなく呟く。
電はフライパンを火にかけ、ベーコンを敷いた。脂が溶け、香ばしい匂いが立ち上る。卵を二つ割り落とし、白身が広がるのを確認して蓋をする。
その間に、インスタントの卵スープへ湯を注ぐ。
簡単な朝食だが、食べないよりはずっといい。直哉は忙しくなると食事を抜こうとするため、電は毎朝、最低限の形を整えることにしていた。
トースターが焼き上がりを知らせる。
目玉焼きを皿へ移し、ベーコンを添える。トーストを一枚ずつ並べ、コーヒーメーカーから落ちたコーヒーを二つのマグカップへ注いだ。
直哉が制服姿でリビングへ来た時、朝食はすべて食卓へ揃っていた。
「いつもありがとう。では、いただこうか」
「いただきますなのです」
二人は向かい合って朝食を始めた。
直哉はテレビのリモコンを取り、スポーツニュースのチャンネルへ合わせる。夜の間に行われた試合の結果が、画面の中で流れていた。
「昨日も楽楽コンドルズは負けたか……」
直哉が、深刻そうに言った。
「相手がタイタンズなら致し方ないが……最下位にめり込んどるなぁ」
「まだ五月末だと言うのに、自力優勝が危ういのです」
電は卵を切り分けながら、画面を見た。
楽楽コンドルズは、二〇〇四年のプロ野球再編問題をきっかけに新規参入した球団である。直哉は創設時から応援していた。何年か前には上位争いへ加わったこともあるが、最近は思うように勝てていない。
直哉は野球が嫌いなわけではない。
むしろ、試合を最初から最後まで見たいと思っている。しかし、リアルタイムでテレビをつけていれば緊急出撃の連絡が入る。電の帰投時刻が遅れれば、試合の途中で埠頭へ向かわなければならない。
そのため、彼にとって朝のスポーツニュースは、数少ない安定した情報源だった。
「今年は投手陣がねぇ。打線も繋がらない」
「提督は、作戦の話をしている時より真剣なのです」
「野球の順位は、今日すぐに人が死ぬわけではないからね」
「それは、深海棲艦の戦況より気楽という意味なのです?」
「いやあ、気楽というのは大事だよ」
直哉はベーコンを口へ運び、コーヒーを飲んだ。
スポーツニュースが終わると、電がテレビのリモコンを受け取る。公共放送へ切り替えた。政府提供の番組では、全国の沿岸部における深海棲艦の出現情報と、避難指示・避難勧告が表示されている。
司令官執務室へ行けば、司令官コンピュータからより詳しい情報を確認できる。それでも朝食中にテレビを見るのは、二人の習慣だった。
食卓で得られる情報と、軍用端末へ入る情報を別々に確認する。
どちらか一方だけを信じていると、異常に気づくのが遅れることがある。
「東北は、割と平和なのです」
電が画面の海岸線を見ながら言った。
「今のところはね。ここから先、海水浴ができるかどうかは、艦娘部隊の頑張り次第ということだ」
「海水浴へ行く人が、艦娘の戦果を気にしなくてよい日が来るといいのです」
「そのためにも、まずは今日の海を守らないといけない」
ニュースの画面には、遠い地方の避難所と、海岸から離れる人々の映像が流れた。
直哉は目玉焼きを食べながら、映像を見つめている。
宮戸島の朝が静かなのは、海が安全だからではない。危険が近づいた時に、誰かが先に見つけて対処しているからだ。多くの人は、その誰かの名前を知らない。知る必要もない。
守られていると気づかずに暮らせるなら、それが一番いい。
朝食を終えると、電が食器を片付けた。
「私も手伝おう」
「提督は食器を落とすので、コーヒーを飲んでいてください」
「一度落としただけだろう?」
「三度なのです」
「三度なら、統計的にはたまたまだ」
「統計を持ち出す家事ではないのです」
直哉は反論を諦め、マグカップを持った。
二人は官舎を出ると、並んで庁舎へ向かった。
朝の宮戸島は、夕方とは別の顔を見せる。
港では漁船の出航準備が始まり、作業員が燃料と網を確認している。防衛隊員が夜間の見張りを交代し、鎮守府の工廠妖精たちは、昨夜の出撃で使った道具を点検していた。
「直さん、おはよう」
「おはようございます」
通りすがりの島民から声を掛けられ、直哉は帽子のつばへ手を添えて返した。
「電ちゃん、今日も頼むよ」
「了解なのです」
声を掛けられるたび、電は背筋を伸ばして答える。
直哉は、島民から親しみを向けられることに慣れていなかった。英雄と呼ばれた時も、彼らが見ているのは自分ではなく、避難を成功させた時の記憶だと思っていた。
しかし、電と二人で鎮守府を守り、漁師からの通報を受け、毎朝海図を確認する日々が積み重なると、事情は少し変わっていった。
人々は、過去の英雄ではなく、今日も海へ出る提督として直哉を見るようになった。
庁舎の執務室へ入ると、直哉は司令官コンピュータを起動した。
電は隣に立ち、通信妖精から受け取った夜間の報告書へ目を通す。昨夜の漁船救出に関する記録は、既に整理されていた。出撃時刻、敵影の発見時刻、漁船の位置、砲撃の回数、撃破確認、帰投時刻。
記録に抜けはない。
直哉はそれを確認し、昨日の戦闘を正式な報告へ回した。
「では、朝礼を開始しようか」
「はい!」
宮戸島鎮守府の朝礼は、二人だけで行われる。
それでも直哉は、朝礼を省略しなかった。
戦況を声に出して共有すること、互いに聞き間違いがないか確認すること、出撃前の判断基準を揃えること。人数が少ないからこそ、手順を崩すべきではない。
プロジェクターを起動すると、宮戸島周辺の海図が壁へ映し出された。赤い点は深海棲艦の推定位置、青い点は味方の艦隊、黄色い線は漁船が利用する航路を示している。
「北東の桐山艦隊は連合を組んでいる。今日も進軍する可能性が高い」
「また敵をこちらへ連れて来ないといいのです」
「それは、先輩の判断次第だね。私たちは近くの漁場を荒らしているイ級から対処しながら、桐山艦隊の動きを見る」
直哉は海図を拡大した。
「敵を見つけても、まずは漁船の位置を確認。島の方向へ進んでいるなら、電が優先して止める。漁船がいない場所なら、こちらから深追いしない」
「了解なのです」
「今日は海が穏やかだ。レーダーの反応も見やすい。ただし、海が穏やかな日は、敵も接近しやすい。油断は禁物だ」
「高菜二佐が、それを言うのですか?」
「私は油断していないよ。油断しているように見えるだけだ」
「見えるだけではなく、実際に昼寝しているのです」
「それは作戦の一部だ」
「作戦名は?」
「体力温存」
電は少しだけ考えてから、真面目に敬礼した。
「了解なのです。作戦名『体力温存』を許可するのです」
「司令官の作戦を、秘書艦が許可するのかい?」
「現場の判断なのです」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
軽口の後、直哉の表情が引き締まった。
「ただし、本当に予期せぬことがあったら、きちんと連絡すること。昨日のように、漁船の近くで敵が見つかった場合は、勝手に無理をしない。通信が切れたら、予定の撤退線まで戻る」
「了解なのです」
電はプロジェクターへ映された情報を頭へ叩き込んだ。
赤い点の位置、味方艦隊の航路、潮の流れ、漁船が出る時間帯。高菜が組み立てた作戦を、電は海上で自分の判断へ変換する。
「それでは、行ってくるのです」
「いってらっしゃい。今日は昼寝をする前に、アイスを買っておくよ」
「その前に、ちゃんとお仕事をするのです」
「善処しよう」
電は埠頭へ向かい、艤装を展開した。
直哉は彼女が海へ出るのを見送ると、司令官コンピュータへもう一度目を向けた。
電が出撃している間、高菜直哉に仕事がないわけではない。
海域の情報を更新し、周辺艦隊の進路を確認し、漁師から入る報告を記録する。大本営へ提出する書類を決裁し、工廠妖精から資材の残量を聞き、必要な補給品を申請する。
ただし、それらをすべて自分の手で行う必要はない。
事務妖精は書類を読み、数字を整理し、決裁が必要な箇所だけを示してくれる。通信妖精は各地の情報を集め、工廠妖精は艤装と設備を整備している。
直哉は、自分でしか決められないことを決める。
その役割分担を、彼は怠けているとは思っていなかった。
しかし、外から見れば、高菜二佐は電を出撃させた後、すぐに庁舎を出た。
「では、買い出しに行ってくるよ」
司令官が向かった先は、戦場ではなく、島の商店だった。
電と妖精たちへのアイスを買うためである。
コンビニの冷凍ケースの前で、直哉はしばらく悩んだ。
抹茶、バニラ、チョコレート、苺、ソーダ。妖精たちの好みはそれぞれ違う。電は抹茶を好むが、毎回同じだと飽きるかもしれない。
直哉は小さなカップを一つずつ手に取り、数を確認した。
「直さん、今日はアイスを大量に買うねぇ」
レジの店員が声を掛ける。
「鎮守府の備品だよ」
「備品にアイスを入れる自衛隊は、直さんのところくらいだよ」
「士気の維持に必要な物資だ」
「はいはい。溶ける前に持って帰るんだよ」
直哉は保冷袋を受け取り、庁舎へ戻った。
冷凍庫へアイスをしまうと、今度は埠頭倉庫へ向かう。
倉庫の一角には、直哉の私物である筋トレ器具が置かれていた。ベンチ、ダンベル、懸垂用の簡易器具。高菜二佐が持つ徽章や、普段のやる気のなさからは想像しにくいが、体を鍛えることは習慣になっている。
必要に迫られた時に動けなければ、避難計画も戦術も意味を失う。
直哉は、鍛錬に関してだけは言い訳をしなかった。
ダンベルを持ち上げ、呼吸を整える。肩と背中を動かし、脚を鍛え、最後に懸垂を行う。筋トレ器具の脇では、工廠妖精たちがボルトの緩みを確認していた。
『これ、まだつかえるぞー』
「助かるよ。壊れたら、私の数少ない楽しみが減ってしまうからね」
『ていとくのたのしみ、ひるねとあいすだろー?』
「それに筋トレが加わる」
『しごとはー?』
「それは楽しみではない」
妖精たちは笑い、器具の整備へ戻った。
筋トレを終えた直哉が汗を拭いている頃、通信妖精が倉庫まで走って来た。
『でんからほうこくだー。きりやまかんたい、てきつれてきたぞー』
「予想どおりだね」
『せんかん、いるぞー』
「どの海域?」
『みなみのぎょじょう。でんがむかってるぞー』
直哉はタオルを首へ掛けたまま、庁舎へ戻った。
プロジェクターへ表示された海図では、赤い点が一つ、宮戸島へ近づいていた。戦艦ル級。周辺艦隊が撤退する際、敵の一部を振り切れず、宮戸島側へ流したらしい。
「電へ連絡。予定の迎撃線を南へ。漁船がいないことを確認してから、敵の速度を落とす」
『りょうかいだー』
「桐山艦隊へは?」
『もういったぞー。へんしんは、まだないぞー』
「まあ、そうだろうねぇ」
直哉は海図に新しい線を引いた。
電は、ル級を正面から受け止めなかった。
敵が大きく、砲撃が強いからだ。真正面から撃ち合えば勝てる可能性はある。しかし、勝てることと、撃ち合うべきことは違う。
電は敵の側面へ回り、砲撃の射線をずらし、ル級を漁場から離す。敵の砲撃が海面を叩き、電は波の陰へ身を沈めた。次の射撃が来る前に、少しだけ距離を詰める。
『敵の進路、変更したのです。まだ島へ向かうのです』
「焦らなくていい。三分待って、もう一度だけ側面へ回る」
『了解なのです』
電は、直哉の指示に従って速度を落とした。
ル級は、逃げた電を追おうとする。しかし、敵は大きい。進路を変えるたびに、わずかな遅れが生まれる。その遅れを積み重ねれば、敵を海岸から遠ざけることができる。
直哉は時計を見た。
漁船の出る時間帯にはまだ早い。これなら周囲に民間船が入る可能性は低い。
「電、今だ。主砲二門、敵の前方へ。沈める必要はない」
『分かったのです!』
電の砲撃が、ル級の前方へ命中した。
砲撃の衝撃で敵の進路が崩れ、ル級が大きく傾く。電はその隙に反対側へ回り、次の砲撃を避けた。
直哉の指示は、敵の撃破そのものではなく、敵の選択肢を減らすことにあった。
進める方向を減らし、撃てる角度を限定し、電が安全に攻撃できる場所へ誘導する。
『敵、停止したのです』
「なら、魚雷を一組。確実に当てて、帰投しよう」
『了解なのです!』
魚雷が海面へ入り、ル級の側面へ到達した。
水柱が上がり、敵艦の動きが鈍る。
「撃破できそうかい?」
『まだ動けるのです』
「こちらの損傷は?」
『ないのです』
「周囲の漁船は?」
『いないのです』
直哉は数秒、海図を見た。
「なら、もう一度だけ。無理なら帰る」
『はい!』
電の砲撃が、ル級の艤装へ集中する。
敵の砲台が沈黙し、海面へ黒い煙が伸びた。電は距離を取り、撃破確認を待つ。ル級が大きく傾き、その巨体が波の中へ沈んでいく。
『撃破確認なのです』
「よくやった。帰っておいで」
『了解なのです。帰投するのです』
直哉は、電の光点が宮戸島へ向かうのを確認した。
その頃には、朝の勤務を始めてから数時間が過ぎていた。
高菜二佐は、コンビニへ昼食を買いに行った。
周囲の人々は、敵を倒して戻った司令官が、戦勝会でも開くのかと期待するかもしれない。実際には、直哉が買ったのはおにぎり、カップ麺、野菜ジュース、そして午後のためのコーヒーだった。
「電の分は?」
レジの店員が尋ねる。
「帰投したら、本人が何か食べるだろう。私は、電が作ってくれた朝食で十分だよ」
「直さん、昼寝する気だろう?」
「仮眠だよ。昼寝ではない」
「名前が違うだけじゃないかい」
直哉は笑い、買った品を袋へ入れてもらった。
庁舎へ戻って昼食を済ませると、事務妖精が決裁箱を運んで来た。
『てーとく、しょるいおわりました!』
「確認するよ」
直哉は一枚ずつ書類を見た。
資材の補給申請、漁場の警戒情報、夜間戦闘の報告、ル級撃破の記録。重要な数字と日付に目を通し、必要な箇所へ署名する。
書類のすべてを彼が作ったわけではない。
しかし、彼の名前で提出する以上、確認する責任はある。
「うん。問題ない。いつもありがとう」
直哉が言うと、事務妖精は胸を張った。
約束どおり、直哉は冷凍庫からアイスを取り出した。
『あいすだー!』
『きょうはなにあじだー?』
「今日はバニラとチョコと抹茶。取り合いは禁止。自分の分を持って行くこと」
妖精たちは小さなスプーンを手に、嬉しそうに集まった。電の分は、帰投後に渡せるよう別にしてある。
直哉は、その様子を眺めながらエグゼクティブチェアへ腰を下ろした。
「高菜二佐、寝るのですか?」
いつの間にか執務室へ戻っていた電が、呆れた顔で尋ねた。
「少しだけ休むよ」
「昼食後にすぐ寝るのは、体に良くないのです」
「食後に運動もしたし、仕事もした。問題ない」
「アイスも食べたのです」
「それは仕事ではない」
「では、何なのです?」
「必要経費だ」
電は、もう反論する気も失ったらしい。
「二十分だけなのです」
「善処しよう」
「三十分までなら許可するのです」
「それはありがたい」
電は、帰投した艤装の点検へ向かった。
直哉は椅子へ凭れ、窓の外へ目を向けた。
海は穏やかだ。
港の船は予定どおり動き、街の人々は昼の仕事へ戻っている。執務室では妖精たちがアイスを食べ、通信機は静かに沈黙している。
平和とは、何も起きないことではない。
起きたことを整理し、起きるかもしれないことへ備え、必要な時に動ける状態を維持することだ。
直哉は、そう考えながら目を閉じた。
まぶたの裏に、昨夜の海が浮かぶ。
電の航跡。砲弾の水柱。港へ戻る漁船の灯り。帰還を確認した時の安堵。
それらを一つずつ思い返し、問題がないことを確かめる。
確認が終わった。
ならば、眠ってもいい。
執務室の隅で、妖精たちが小さな声で話している。
「てーとく、ねたぞー」
「しずかにしろー」
「でも、あいす、もうひとつ……」
直哉は、薄い眠りへ落ちていった。
それから、どれくらい時間が経ったのか。
午後の光が窓から差し込み、海図の上へ細い線を作っていた。
電は艤装の点検を終え、司令官執務室へ戻って来た。工廠妖精から、右舷の魚雷発射管に異常はないと報告を受けている。朝のル級戦でも、被弾はなかった。
電は、直哉の机へ書類を置いた。
次に、椅子で眠る司令官を見た。
いつものことだ。
電は、一度だけ深く息を吸った。
仕事を終えた人には休む権利がある。直哉はそう言った。
しかし、朝礼で決めた次の確認時間は、とっくに過ぎている。
「高菜二佐」
直哉は起きない。
「高菜二佐、起きるのです」
直哉は、まだ起きない。
電は、机の上の書類と、時計と、直哉の寝顔を順番に見た。
事務妖精たちは、既に仕事を終えている。
通信妖精も、周囲に大きな異常はないと判断している。
工廠妖精たちも、電の艤装を整備し終えた。
つまり、残っている仕事は、直哉を起こすことだけだった。
電は、静かに艤装を展開した。
主砲が、椅子で眠る高菜二佐へ向く。
「高菜二佐! 起きるのです!」
直哉は、反射的に目を開けた。
「はっ!」
寝起きとは思えない勢いで背筋を伸ばし、周囲を見回す。
「敵襲かい?」
「いいえ。昼寝の時間が長いのです」
「そうか。なら、平和だねぇ」
「平和だから起きるのです」
電は砲口を下ろした。
高菜直哉二等陸佐の、いつもの朝。
電が目覚ましを止め、朝食を作り、海図を確認し、出撃する。
直哉がアイスを買い、筋トレをし、書類へ署名し、昼寝をする。
そして、電が砲口を向けるまで、鎮守府の午後は続いていく。
それが、宮戸島鎮守府の、いつもの一日だった。