応接室では、湊子と高菜直哉が将棋盤を挟んで向かい合っていた。
卯月を預かるという話がまとまり、重い内容の説明が一段落したからだろう。湊子は何事もなかったように駒を並べ直し、直哉もその誘いを断らなかった。
将棋盤の上では、二人の駒が静かに動く。
パチン。
パチン。
駒が盤へ触れるたび、部屋に小さな音が響いた。
電は、卯月の様子を見た。
湊子の隣に座っていた卯月は、話が始まってからずっと、肩をこわばらせていた。表情が乏しいというより、表情を動かす余裕がない。部屋の中央に置かれた将棋盤と、その向こうの高菜を交互に見ている。
高菜は卯月を急かさなかった。
湊子も、卯月へ何度も視線を向けることをしなかった。
だが、落ち着ける場所かと問われれば、ここはまだ十分ではない。
卯月の傷について、もう少し詳しく確認する必要がある。
電は、卯月の目の高さへ身を屈めた。
「卯月ちゃん。隣の部屋へ行くのです」
卯月は、すぐに返事をしなかった。
声を掛けられたことに驚いたのか、それとも移動を命令されたと思ったのか、指先が微かに動く。
「嫌なら、行かなくてもいいのです。ここにいてもいいのです」
「……隣の部屋で、何をするぴょん?」
「傷の具合を確認するのです。見られたくないところは見ないのです。触られたくないところには触らないのです」
電は、質問を一つずつ短くした。
「卯月ちゃんが、いいと言ったところだけ確認するのです」
卯月は、湊子の方を見た。
湊子は将棋盤から顔を上げ、静かに頷いた。
「電さんに任せて大丈夫です。嫌なことがあれば、すぐに断って構いません」
「……分かったぴょん」
卯月は立ち上がった。
電はすぐ隣へ寄り添うが、手を取ることはしなかった。手を握るかどうかも、卯月が決めることだからだ。
二人は応接室の隣にある小さな控室へ移動した。
控室には、簡素なソファと机、それに書類棚がある。扉を閉めれば、将棋盤の音はほとんど聞こえなくなった。
防音設備が整った部屋ではない。だが、隣の会話が聞き取りにくい程度には壁が厚い。
電は、部屋の中央ではなく、壁際のソファへ卯月を案内した。
「ここに座るのです」
「うん」
卯月が腰を下ろす。
電は向かいの椅子へ座った。最初から隣へ座ると、卯月に逃げ道がないと感じさせるかもしれない。
窓は少しだけ開いていた。
東京の風は宮戸島の潮風とは違い、車と建物の匂いが混ざっている。
「上着を、少しだけ見せてもらってもいいでしょうか?」
電が尋ねた。
「……見せたら、怒られないぴょん?」
「怒る人はいないのです。見せたくないなら、見せなくていいのです」
卯月は、制服の裾を握った。
しばらく迷った後、ゆっくりと上着を捲り上げた。
「これは、ひどいのです……」
卯月の腹部には、いくつもの痣が残っていた。
時間が経っているため、色は薄くなっている。それでも、自己修復力の高い艦娘へこれほどの痕を残すには、相当強い力が加えられたはずだった。
単なる訓練の失敗や、戦闘による負傷ではない。
殴られた痕だ。
電は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
同じ体格の少女に同じことをすれば、艦娘であっても命を落とす可能性がある。艦娘は人間より丈夫だと言われるが、壊れないわけではない。痛みを感じないわけでも、恐怖を覚えないわけでもない。
「……痛むところはありますか?」
「もう、痛くないぴょん」
「痛くないことと、怖くないことは別なのです」
卯月の目が揺れた。
電は、痣へ手を伸ばさなかった。
触れずに確認できる範囲で、色と位置を見た。必要なら医務官へ相談する。診察を受けるかどうかも、卯月へ説明してから決める。
「卯月ちゃん。話したくなかったら、話さなくていいのです」
「……うーちゃんは、悪くないぴょん」
卯月の声が震えた。
「うーちゃんは、悪くないぴょん……」
「そうなのです」
電は、階級章へ手を添えた。
「三等海尉の電が言うのです。卯月ちゃんは、悪くないのです」
卯月は、涙の浮かんだ目で階級章を見た。
「三尉……すごいぴょん」
「すごいかどうかは、後で決めればいいのです。今は、卯月ちゃんの言葉を聞くのです」
電はソファの端へ腰を下ろした。
「隣に座ってもいいですか?」
卯月が小さく頷く。
電はゆっくり隣へ移動した。距離を詰め過ぎないよう、肩が触れない程度に座る。
卯月は、しばらく自分の手を見つめていた。
やがて、ぽつりぽつりと話し始める。
「うーちゃんは、止めただけだぴょん」
「何を止めたのです?」
「重巡のお姉さんたちが……無理やり、ひどいことをされていたぴょん」
電は、相槌を打つだけに留めた。
卯月が口にできる言葉は、卯月が選ぶ。電が先回りして、具体的な内容を尋ねる必要はない。
「うーちゃんは、ずっと遠征にばかり行かされていたから、知らなかったぴょん。優しくしてくれたお姉さんたちが、泣いていたぴょん」
卯月の声が詰まる。
「だから、止めに入ったぴょん」
「うん」
「でも、指揮命令システムで動けなくされたぴょん」
卯月の指が、膝の上で固く握られた。
「提督の命令に逆らうなって。助けに行けないようにされて、地下の営倉へ入れられたぴょん」
電の表情が曇る。
指揮命令システムは、艦娘の統率を効率化するために作られた。命令の遅延を減らし、混乱した戦場で部隊を動かすための仕組みである。
正しく使えば、艦隊全体の命を救うことがある。
濫用すれば、抵抗することも、逃げることもできない拘束具になる。
「それから、ずっと殴られたぴょん」
卯月は、膝を見たまま言った。
「許してって言っても、許してくれなかったぴょん。気を失うまで、何度も……硬い物で殴られたぴょん」
電の呼吸が一瞬止まった。
「……硬い物?」
「ハンマーだったぴょん」
電は、思わず立ち上がった。
「ハンマー……? いくら何でも、艦娘でも死ぬのです!」
声が大きくなった。
卯月の体がびくりと震える。
「ご、ごめんなさい。電がいけなかったのです」
電はすぐに腰を下ろした。
自分の怒りを卯月へ向けたわけではない。それでも、卯月には怒鳴られたように聞こえたかもしれない。
「大丈夫なのです。卯月ちゃんへ怒っているのではないのです」
電は、卯月が手を伸ばせる位置へ自分の手を置いた。
「抱き締めてもいいですか?」
卯月は答えなかった。
しかし、ほんの少しだけ体を電の方へ寄せた。
それを了承と受け取り、電はゆっくりと腕を回した。強く抱き締めない。逃げたくなった時に、すぐ離れられる力加減にする。
「泣きたいなら、泣いていいのです。いくらでも付き合ってあげるのです」
隣の応接室から、将棋の駒音が聞こえた。
パチン。
パチン。
高菜と湊子は、まだ将棋を続けている。
「あっちの二人は、数時間は将棋に熱中しているのです。ここで何を話しても、聞こえないのです」
電は、卯月の背中をゆっくり撫でた。
「だから、今は泣いていいのです」
卯月の顔が、電の胸元へ触れた。
声を押し殺そうとしていたが、やがて息が乱れ、肩が震えた。
「っ……う……ぁ……」
耐えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
助けられなかった重巡の艦娘たちへの申し訳なさ。指揮命令システムに縛られた恐怖。地下へ閉じ込められた暗さ。殴られるたびに、自分が壊れていくような感覚。
そして、もう一度目を覚ました時に、まだ生きていたことへの驚き。
卯月は、長い間泣き続けた。
電は、何も急かさなかった。
「もう大丈夫」
その言葉を、簡単には使わないようにした。
大丈夫ではないから泣いている。大丈夫だと決めてしまえば、卯月が感じた恐怖を小さくしてしまう。
だから電は、背中を撫でながら、同じ言葉を繰り返した。
「ここにいるのです」
「電は、ここにいるのです」
しばらくして、卯月の泣き声が小さくなった。
電の制服は、卯月の涙で濡れていた。それでも、腕を離さなかった。
卯月が顔を上げた。
「……ごめんなさいぴょん」
「謝らなくていいのです」
「服を濡らしたぴょん」
「洗えば済むのです。卯月ちゃんの気持ちより、大事な服ではないのです」
「でも……」
「ここでは、謝るより先に、苦しいと言っていいのです」
卯月は、しばらく黙っていた。
それから、また少しずつ話を始めた。
「目を覚ましたら、重巡のお姉さんが鍵を開けてくれたぴょん」
卯月の声には、かすかな安堵が混ざっていた。
「逃がしてくれたぴょん。でも、提督に見つかったぴょん。顔を殴られて、うーちゃんは必死で逃げたぴょん」
卯月は、左手で自分の頬へ触れた。
傷は修復されている。だが、そこへ手を伸ばす仕草は、出来事がまだ体の記憶として残っていることを示していた。
「逃げても、部下に捕まったぴょん。地下室へ戻されて、もう逃げられないと思ったぴょん」
電は頷いた。
「そこから先は、話さなくていいのです」
卯月が頷く。
「うーちゃんは、もうすぐ死ぬんだと思ったぴょん」
電は卯月の肩へ手を置いた。
「その時、大本営の足立一佐が来たぴょん」
「足立一佐が?」
「定期査察だったぴょん。でも、事前に連絡が来るはずなのに、連絡がなかったぴょん」
卯月の声が、少しだけ明るくなる。
「足立一佐たちは、連絡不行き届きで査察の連絡を忘れたと言っていたぴょん」
電は、すぐには言葉を返さなかった。
定期査察が事前に知らされれば、悪質な鎮守府は証拠を隠す。艦娘へ口止めをし、書類を整え、倉庫や地下の扉を閉ざす。
連絡がなかったからこそ、足立一佐たちは、偽装されていない現場へ入ることができた。
「丁度、うーちゃんが……ひどい目に遭っていた時だったぴょん」
卯月は、それ以上の説明をしなかった。
電も、求めなかった。
「激怒した足立一佐は、提督の部下を捕まえたぴょん。艦娘のみんなにも話を聞いたぴょん。それで、原隊へ送り返すって、みんなを連れて行ったぴょん」
その後、関係者はそれぞれ逮捕された。
重巡の艦娘たちは新しい提督のもとへ戻り、戦力として復帰した。だが卯月は、新しい提督が優しい人であっても、命令口調を聞くだけで体が固まった。
「海へ出られなくなったぴょん」
「それは、当然なのです」
「そんなうーちゃんを、視察に来た湊子様が見つけたぴょん」
卯月は、少しだけ笑った。
「『こんなに可愛い娘なら、差し当たり私の傍に置きます』って言い出したぴょん」
電は、隣の部屋へ視線を向けた。
将棋盤を挟んで笑っている湊子の姿が思い浮かぶ。
「……ああ、類は友を呼ぶのです」
「どういう意味だぴょん?」
「湊子様も、かなり型破りな方なのです」
「でも、湊子様は優しかったぴょん」
「それは、よく分かるのです」
湊子は、立場を使って卯月を守った。
法や制度の隙間に落ちた艦娘を、個人的な保護という形で手元へ置いた。いつまでもそれを続けられないと分かっていても、戻す場所が見つかるまで手を離さなかった。
それは、湊子なりの責任の取り方だった。
卯月は電へ尋ねた。
「あの、高菜二佐って人は、どんな人ぴょん?」
「怖い人ですか、という意味でしょうか?」
「うん。高い階級の人は、みんな怖いぴょん」
電は、しばらく考えた。
「それでは、全部お伝えするのです」
隣の部屋からは、まだ将棋の駒音が聞こえている。
パチン。
「まず、怠惰の人なのです」
「怠惰?」
「書類は妖精さんに丸投げするのです。午前中はアイスを買いに行き、筋トレをして、必要な仕事を終えると、午後は電が帰って来るまで昼寝をするのです」
「ダメ人間だぴょん……」
「読みたい本がある時は、タブレットで電子書籍を読んでいるのです。電子書籍派の旗印を自称しているのです」
「それは、仕事をしているぴょん?」
「本人は仕事の一部だと言い張るのです」
卯月の表情が、わずかに緩んだ。
電は続けた。
「次に、英雄に見えない英雄なのです」
「英雄?」
「高菜二佐は、宮戸島の人たちを助けた英雄なのです。でも、島の人たちは高菜二佐を英雄だとは思っていないのです」
「どうしてだぴょん?」
「親しみやすい街の人気者。ただの人気者のおじさんだと思っているのです」
卯月は、返事をしなかった。
高菜が、正装姿で将棋を指しているところを思い出す。
確かに、英雄らしい威厳より、気の抜けた雰囲気の方が強かった。
「最後に、真摯で誠実な紳士なのです」
「最初と最後で、ずいぶん違うぴょん」
「高菜二佐は、高圧的な力を最も嫌っているのです」
電は、卯月の手を握った。
「指揮命令システムを、必要以上に使わないのです。最初から自分の司令官端末から削除してしまったくらいなのです」
「削除できるものなのかぴょん?」
「普通はできないのです。高菜二佐は、できるようにしてしまったのです」
卯月は目を丸くした。
「それは、かなり変わった人だぴょん」
「そうなのです」
「でも、どうしてそんなことをしたぴょん?」
「艦娘へ命令するなら、理由を説明して、納得してもらえばいいと言っていたのです。命令で動かせても、心までは従わせられないから、と」
卯月の指が、電の手の中で少し緩んだ。
「電は、その人を信じているぴょん?」
「もちろん、信じているのです」
電は即答した。
「一度だけ、電が大きな危機に陥ったことがあるのです」
「高菜二佐が助けたぴょん?」
「そうなのです」
電は、少し遠くを見るような目をした。
「桐山艦隊が連れて来た、姫と呼ばれる深海棲艦の対処へ向かった時のことなのです。高菜二佐からは、周囲の艦隊と連携するように言われていたのです」
「でも、しなかったぴょん?」
「電は、自分なら大丈夫だと思ってしまったのです。いつも勝てていたから、少しくらい無理をしても平気だと」
電は、卯月へ視線を戻した。
「それは、電の慢心だったのです」
電の戦闘能力は高い。
敵の砲撃を避け、こちらの攻撃を当てる。多くの戦場で勝ち続けてきた。その実績が、電の判断を鈍らせた。
「姫の攻撃を受けて、電は動けなくなりかけたのです。通信を開いて、助けを呼んだのです」
「高菜二佐が、すぐ来たぴょん?」
「来たのです」
電の声に、かすかな誇らしさが混ざる。
「人間が深海棲艦へ攻撃しても、普通は効かないのです。それでも高菜二佐は、八十四ミリ無反動砲と機関銃を積んだモーターボートで来たのです」
「モーターボートで?」
「そうなのです。ロケットランチャーと機関砲で敵の注意を逸らし、電が立て直す時間を作ってくれたのです」
直哉は、自分が危険に飛び込んだことを大したことのように話さなかった。
電が無事に帰るためなら、必要な手段を取っただけだと言うだろう。
「高菜二佐が時間を稼いでくれたから、電は周囲の艦隊と連携できたのです。最後は、みんなで姫を沈めることができたのです」
「すごいぴょん」
「あの時、高菜二佐は電を叱らなかったのです」
「怒らなかったぴょん?」
「まず、怪我がないか確認したのです。それから、電が無事に戻れたことを喜んでくれたのです。最後に、もう一人で無理をしないように言われたのです」
電は、卯月の頭へ手を置いた。
「だから、電は高菜二佐を信じているのです。命令されるからではないのです。電が失敗しても、電を見捨てないと知っているからなのです」
卯月は、電の話を静かに聞いていた。
「電三尉は、提督のことが……」
卯月が言いかけて、口を閉じる。
「何でしょう?」
「ううん、何でもないぴょん」
だが、卯月の顔には、少しだけいたずらっぽい色が浮かんでいた。
「高菜二佐のことが、大好きだぴょん?」
電は、目を丸くした。
隣の部屋から、将棋の駒音が聞こえる。
パチン。
幸い、こちらの声は届いていないようだった。
「うふふ、ひ・み・つなのです」
電は、唇へ人差し指を当てた。
「ただ、高菜二佐は、電へ絶対的な信頼をくれた人なのです」
「やっぱり、大好きだぴょん」
「高菜二佐には、秘密なのです」
「どうしてだぴょん?」
「本人が気づくまで、秘密にしておくのです」
卯月は、少し考えた後、力強く敬礼した。
「了解だぴょん!」
その敬礼は、まだ少しぎこちなかった。
それでも、さっきまでの震えは薄れている。
電は、卯月へ笑顔を向けた。
「では、そろそろ戻るのです。高菜二佐と湊子様が、将棋を終えているかもしれないのです」
「まだ終わっていないと思うぴょん」
「どうして分かるのです?」
「二人とも、将棋が好きそうだからだぴょん」
電は、控室の扉へ手を掛けた。
卯月が、呼び止める。
「電三尉」
「はいなのです」
「さっきの話、うーちゃんは忘れないぴょん」
「何の話でしょう?」
「高菜二佐へ、秘密の話だぴょん」
「それは、忘れてほしいのです」
「無理だぴょん」
卯月が、初めて少し笑った。
電も笑った。
二人が応接室へ戻ると、湊子と直哉はちょうど盤上の駒を見つめていた。
電は、卯月が自分の隣へ座れるよう椅子を引いた。
卯月は、今度は自分から電の手を取った。
まだ傷は消えていない。
出来事を思い出せば、体が強張る。大きな声や、突然の命令には、これからも怯えるかもしれない。
それでも、誰かの手を自分から握ることはできた。
それだけで、今日という日の意味は十分にあった。
将棋盤の上で、湊子の駒が直哉の王へ近づいている。
パチン。
直哉が駒を置いた。
電は、何も言わずに卯月の手を握っていた。
この後、卯月は宮戸島へ行く。
そこで、眠る場所と食べる場所を作る。
戦うかどうかは、その後に決めればいい。
電は、卯月の制服を整えるため、湊子へ医務室の場所を尋ねた。
「診察を受けるのですか?」
卯月の肩が、また少し上がる。
「今すぐでなくてもいいのです。傷の状態を確認して、痛みや眠れない時の対処を教えてもらうだけなのです。医務官へ見せる前に、何をするか説明してもらうのです」
「見られるのは、怖いぴょん」
「そうでしょうね。だから、卯月ちゃんが一緒に行く人を選べばいいのです。電でも、湊子様でも、高菜二佐でも、誰も選ばなくてもいいのです」
卯月は、自分で選べるという言葉を聞いて、少し考えた。
「電三尉が、いてほしいぴょん」
「了解なのです」
電は即答した。
応接室へ戻る前に、控室の机へ置かれていた救急箱を開いた。艦娘に人間用の包帯が必要になることは少ないが、冷却材や消毒液、簡単な鎮痛剤は常備されている。
「使っていいか、湊子様へ確認するのです」
電が扉へ向かうと、卯月が袖をつまんだ。
「行かないでほしいぴょん」
「ここにいるのです」
電は扉を開けず、その場で答えた。
「必要な物は、妖精さんへ頼めば持って来てもらえるのです」
電は通信端末を使い、控室へ冷却材と温かい飲み物を運んでもらうよう連絡した。すぐに小さな妖精が現れ、両手で抱えたトレーを机へ置く。
『でん、これでいいかー?』
「ありがとうなのです」
『うーちゃんのぶんもあるぞー』
妖精は、卯月へ小さなカップを差し出した。
卯月は、すぐには受け取らなかった。
電は、妖精へ目配せした。
「そこへ置いてくれると助かるのです。卯月ちゃんが自分で取れる場所へ」
『わかったぞー』
妖精はカップをテーブルの端へ置き、卯月の顔を覗き込まずに部屋を出て行った。
誰も命令しない。
飲めとも、飲まないと困るとも言わない。
卯月は、しばらくカップを見つめた後、自分から手を伸ばした。
「温かいぴょん」
「冷たい飲み物が嫌なら、いつでも言うのです」
「……言っても、いいぴょん?」
「もちろんです。嫌な時は『嫌』と言っていいのです。怖い時は『怖い』と言っていいのです」
「それを言ったら、殴られたぴょん」
「宮戸島では、殴る人はいないのです」
「本当に?」
「本当なのです。もし誰かが卯月ちゃんを殴ろうとしたら、電が止めるのです」
電の声は穏やかだった。
しかし、言葉には迷いがなかった。
卯月は、少しだけ安心したようにカップを両手で包んだ。
その時、隣の部屋から直哉の声が聞こえた。
「湊子さん、これは反則じゃないかい?」
「将棋に反則はありません。知らない手を指されたからといって、反則にしてはいけませんよ」
「私が知らない手を指すのは、反則よりたちが悪いと思うのだが」
卯月の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「高菜二佐は、将棋が弱いぴょん?」
「弱くはないのです。湊子様が強いのです」
「高菜二佐は、いつも負けているぴょん?」
「いつもではないのです。勝つ時もあるのです」
「勝った時は、どんな顔をするぴょん?」
「昼寝の時間が増えた時と、同じ顔をするのです」
卯月は、息を漏らすように笑った。
笑った直後、自分でも驚いたのか、目を見開く。
「笑っても、いいぴょん?」
「いいのです。笑ってはいけない理由は、ここにはないのです」
電は、卯月の頭を軽く撫でた。
卯月が笑える時は笑う。
泣きたい時は泣く。
眠る時は眠る。
それらを自分で選べるようになるまで、焦らないことが必要だった。
電は、以前の救援を思い出していた。
あの時も、最初は自分が一人で対処できると思っていた。
敵は強かった。周囲の艦隊は、別の海域で進路を変えたばかりだった。直哉からは連携を取るように言われていたが、電は、敵の進行を止められると判断した。
自分なら大丈夫。
その思い込みが、通信を遅らせた。
電の砲撃は敵へ命中した。しかし、深海棲艦は止まらなかった。反撃の砲撃が海面を覆い、電は回避を続けるうちに、味方との距離を失った。
通信機から直哉の声が入った。
『電、状況を報告してくれ』
「敵艦の進路を変更させているのです。まだ問題はないのです」
『周囲の艦隊へ支援を頼んだかい?』
「……まだなのです」
『なら、今すぐ頼みなさい』
電が通信を開こうとした瞬間、敵の砲撃が直近へ落ちた。
衝撃で艤装が揺れ、視界が白くなる。電はかろうじて体勢を立て直したが、敵は間合いを詰めて来ていた。
「高菜二佐、電は……」
その先の言葉を、電は言えなかった。
怖い。
そう認めるのが、遅すぎた。
通信機から、直哉の声が返って来る。
『電、聞こえるかい? 今から助けに行く』
「人間の攻撃は、深海棲艦へ効かないのです」
『分かっている。だから、君が立て直す時間を作る』
「危険なのです!」
『君を一人で戦わせたまま、私だけ安全な場所にいる方が危険だ』
通信が切れた。
遠くから、エンジン音が近づいて来る。
高菜は、八十四ミリ無反動砲を積み、機関銃を備えたモーターボートで海へ出ていた。深海棲艦へ直接攻撃を加えるためではない。敵の視線を一瞬だけ自分へ向け、電が退く時間を作るためだった。
無反動砲の砲弾は、深海棲艦の装甲を貫かなかった。
だが、海面近くへ着弾した衝撃と、機関銃の連射による音は、敵の進路を一瞬だけ乱した。高菜は、ボートを大きく回しながら通信を開いた。
『電、今だ。右へ抜けて、味方へ連絡する』
「でも、高菜二佐が危険なのです!」
『私のことは気にしない。君の仕事は、帰ることだ』
電は、敵から距離を取った。
その間に、周囲の艦隊へ支援を要請した。集まった艦娘たちは、電の指示と直哉の通信を受け、敵を取り囲む。高菜は最後まで敵の注意を引き、戦域の外へ退いた。
戦闘が終わった後、直哉は電へ怒鳴らなかった。
まず、怪我の有無を確認した。
次に、艤装を点検した。
その後で、ようやく言った。
『一人で無理をしないように、と言ったはずだよ』
「申し訳ありません」
『謝るのは後でいい。君が帰って来たことを、今は喜ばせてくれ』
その言葉が、電の心へ深く残った。
指揮命令システムは、命令を強制するためのものだ。
高菜はそれを使わず、電が自分で考え、失敗したことも含めて次の判断へ繋げることを選んだ。
だから電は、高菜の命令を怖いと思わない。
高菜の命令が、自分を戦場へ縛るためではなく、帰るためにあると知っているからだ。
控室へ戻った電は、卯月へそのことを話した。
卯月は、温かい飲み物を少しずつ飲んでいる。
「高菜二佐は、怒らなかったぴょん?」
「怒る必要がある時は怒るのです。でも、電が怖がっている時に怒鳴る人ではないのです」
「それでも、怖い人かもしれないぴょん」
「そう思ってもいいのです」
電は、卯月の判断を否定しなかった。
「会って、怖ければ離れていいのです。高菜二佐が優しい人だと、今すぐ信じる必要はないのです」
「信じなくても、宮戸島へ行っていいぴょん?」
「いいのです。信じることと、同じ場所で暮らすことは別なのです」
「少しずつでいいぴょん?」
「少しずつでいいのです」
電は、卯月の手を握った。
今度は、卯月も握り返した。
「電三尉は、高菜二佐のことが好きだぴょん」
「また、その話をするのですか?」
「秘密だぴょん」
「卯月ちゃんが、秘密を守れるか心配なのです」
「守れるぴょん。高菜二佐には言わないぴょん」
「本人が気づくまで、なのです」
「了解だぴょん!」
卯月が、今度は小さな声で敬礼した。
電は、笑いながらその手を下ろした。
「宮戸島へ着いたら、まずは食堂へ行くのです」
「食堂?」
「島の人たちが、いつも夕飯を食べている場所なのです。温かい料理が出て、誰かが高菜二佐を直さんと呼んで、電を電ちゃんと呼ぶのです」
「卯月のことは、何と呼ぶぴょん?」
「卯月ちゃん、だと思うのです」
「怖い人は、いないぴょん?」
「怖い人がいたら、電が先に確認するのです」
電は、卯月の不安を一つずつ受け止めた。
食事のこと、部屋のこと、眠る時のこと。宮戸島へ着いてから困りそうなことを、卯月と一緒に考える。全てを事前に解決することはできないが、分からないままにしないことはできる。
「卯月ちゃんが嫌なことは、嫌だと言っていいのです」
「命令に逆らっても?」
「宮戸島では、説明なしに無理な命令をしないのです」
「もし、戦えと言われたら?」
「その時は、電と高菜二佐へ伝えるのです。卯月ちゃんの意思を確認せずに、誰かが勝手に出撃を決めることはないのです」
「本当に?」
「本当なのです」
電は、何度でも答えた。
卯月がそれを信じるまで、何度でも。
応接室の将棋盤から、大きな駒音が響いた。
パチン。
「詰みです」
湊子の声がする。
「また負けたのですか?」
電が扉の向こうへ声を掛ける。
「またとは何だい? 今日は一局しか指していないよ」
直哉の返事があった。
「一局しか指していないのに、もう負けたのです」
「将棋は勝敗だけで決まらない。相手の手を読み、人生について考える時間が大切なんだ」
「高菜二佐は、負け惜しみを言っているのです」
卯月が、電の袖を軽く引いた。
「面白い人だぴょん」
「そうなのです。最初はダメ人間に見えるのですが、よく見ていると、必要なことは全部準備しているのです」
「それなら、卯月も少しずつ見ていくぴょん」
「それでいいのです」
二人は、控室の扉を開けた。
電が先に応接室へ入り、卯月がその隣へ続く。
卯月の足取りは、来た時よりもわずかに安定していた。
傷跡は、すぐには消えない。
だからこそ、急いで消そうとせず、傷があるままでも生きていける場所を作るのだ。