荒野の向こうに、小さな光が見えた。
夕暮れの赤い空の下。雨上がりのすえた匂いに囲まれたそこは、かつては街と呼ばれていたであろう場所の残骸を利用して作られた、小さな集落だった。
高くそびえる建物はない。
三階建てくらいの古い建造物が肩を並べるかのように立ち並び、それらを囲むように古ぼけた鉄板を組み合わせた簡素な居住区が林立する。
小さく、だが確かに人の営みを感じさせる居住区から二十メートルほど離れた位置で、街全体をぐるりと取り囲むのは、防壁と呼ぶには頼りない高さの金属板の壁。
人口にして数百人程度の小さな楽園。
この世界では、それでも都市と呼ばれる。
アレシュがフットペダルをやや緩めると、グレンデルはその歩みをゆっくりとしたものに変えた。
砂を噛んでいた脚部ローラーが跳ね上げられ、グレンデルの細くも荘厳な足が荒野を踏み締める。
小さな都市を見据え、夕陽を背にゆったりと歩むマントの騎士。
その姿を最初に見つけたのは、都市外壁に等間隔で据え付けられている見張り台にいた男だった。
「……え、
見張り台の手すりを握る腕に力がこもり、声が震えた。
荒野を歩む機動甲冑は、この荒野にあって決して珍しい存在ではない。同時に、手放しで歓迎される存在でもなかった。
機動甲冑は、力そのものだ。
志ある者は、守るために使う。
あるいは、奪うために使われることもあった。
特にこのような小さな都市にとって、甲冑乗りの来訪はいつだって緊張を伴う。
「おい、見慣れない
見張り台の声を受け、防壁内部が慌ただしく動き始める。警鐘が甲高く響くと、女子供衆は居住区画へ急ぎ鍵を閉め、逆に戦える数人の男たちは武器を手にして壁の外へと走った。
その中には、一機の機動甲冑の姿もあった。
グレンデルと比較すると、やや小型の機体。流線型で芸術品のようなスタイルのグレンデルとは打って変わって、角ばった部分が多い無骨な工業製品といった趣のそれである。
装甲には何度も補修された跡があり、右腕には旧式の火器が装備されている。
この都市が所有する、唯一の戦力。
……いや。正確には、唯一残された戦力だった。
「あまり歓迎はされてなさそうですねえ」
モニター越しにでも感じ取れる都市の緊張。外の住人たちとは打って変わって呑気な面持ちのリェイルが呟くと、アレシュは黙って頷いた。
「まずは私が出ます」
アレシュがグレンデルを壁の前で静止させる。眼前には、都市の抱える甲冑。やや背丈の違う二機が向かいあう中を、するりと荒野の風が流れてゆく。
しばらくの沈黙ののち、グレンデルの胸部ハッチが開いた。
中から姿を現したのは、荒野には似つかわしくないほど整った顔立ちの青年だ。
黒髪。鋭い目。感情の読み取れない表情。
恐れと敵意の入り混じる複数人からの視線を一身に受け止めながら、アレシュは彼らを安心させるようにゆったりと言葉を紡いだ。
「こちらに敵意はありません」
短い言葉。
それだけだった。
壁の向こうにいる住民たちは顔を見合わせる。果たしてこの来訪者の言葉をはなから信用してよいものか、と。
都市の男たちが警戒心に揺れる中、パイロットハッチから新たな声が響く。
「アレシュ。わたしも出ます」
「危険です」
「敵意はないのでは?」
「我々には。相手側に敵意がないとは限りません」
「はぁ……そういうところですよ」
呆れたような声とともに、グレンデルのパイロットハッチからリェイルがひょこりと顔を出した。
金色の髪。やや童顔気味ながらも生まれもった気品を感じさせる顔立ち。
髪も服も、旅の砂埃で少しくすんではいるが、その笑顔の輝きには一点の曇りもない。
住民たちはさらに困惑した。
妙にアンバランスな組み合わせだった。芸術品のような外観を持つ隻腕の機動甲冑と、無愛想な青年、そして人懐っこそうな少女。
だが一見して、青年の背後から現れたこの少女は他者を害するような人間には見えなかった。
「みなさんこんにちはー」
リェイルは軽く手を振った。
「驚かせてしまってすみません。わたしたちに敵対・略奪の意思はありません」
リェイルの言葉を受け、住民たちの空気が少し緩む。
「わたしたちは旅の傭兵です」
だが、すぐにその空気は引き締まるものになった。
傭兵。
荒野では珍しくない存在である。
都市国家同士の争い。荒野を行く商人の護衛任務。エーテル鉱床区域の探索。
この世界にはあらゆる人手と武力が必要で。それらをインスタントに提供できる存在。金さえ払えば、命を張る者たち。
それが傭兵だ。
だが。
住民たちはこの目の前の二人――無表情な青年と人好きのする少女――が、ただの傭兵でないことを感じ取っていた。
それはひとえに、彼らが駆る機動甲冑の異形さがそう思わせている。
銀と黒の装甲。失われた左腕。風に揺れる黒いマントと金糸の紋章。
明らかに、数打ちの機動甲冑たちとは違った妙な威圧感があった。
「……お嬢さん」
戸惑う都市住民の中から、一人の老人がゆっくりと前へ出てきた。
「その機体」
老人はグレンデルを見上げる。
「今どき見ない甲冑じゃな」
「ええ、そうかもしれません」
リェイルは微笑みながら答えた。
しかし、言葉には少しの鋭さがあった。その表情の裏に、何があるのかは読めない。
「祖国の誇りです」
老人は目を細めた。
祖国の誇り。リェイルの漏らした、たったひとつの言葉。
だが、その機体に刻まれた傷と失われた左腕が、言葉にせずとも雄弁に物語っていた。
「……よいじゃろう。あなた方は旅の傭兵。この都市には何の用があっておいでじゃ?」
「補給と休息です」
「それだけかの?」
「誓って」
胸に手を当て言い切ったリェイルから視線を外し、老人は踵を返した。その背中を見つめるリェイルとアレシュに向かって、老人のしわがれた声が届く。
「……中へ入ってくれ。
「もちろんです。わたしたちは、戦いに来たわけではありませんから」
リェイルは笑う。リェイルにそのつもりはないだろう。
だが、アレシュはぴくりとも笑わず、いまだ堅い雰囲気でこちらを見やる住人たちに素早く視線を巡らせていた。
甲冑の武装。修復が終わっていない装甲箇所。壁上の射線。都市の司令部。
すべて一瞬で、頭に叩き込んでいた。アレシュはそういう男だった。
「なんか、みんな顔が暗く見えますねえ」
グレンデルを都市の甲冑置場へ安置した二人は、都市の行政部に来てほしいという老人の言伝を受けて都市の中心部を目指していた。
アレシュの半歩先を歩くリェイルは、ゆっくりと映り替わる街並みを興味深そうに見回している。
錆びた鉄管。多くの補強板で修理を施された建物。品物があまり並んでいない簡素な市場。
グレンデルの来訪によって屋内に避難していた女子供たちも再び外に出てきているが、その顔色には一様に不安そうな影が落ちていた。
アレシュとリェイルを見つめ、何事かをひそひそと囁いている。
「あまり不用意に身体を晒さないでください、リェイル」
「狙撃されるから?」
「わかっているなら」
「さすがに撃たれる前に気付きますよ。それに、あなたなら撃たせないでしょう?」
リェイルの問いに、アレシュは沈黙で返した。何よりそれが答えだった。
「ありもしない襲撃を恐れるより、この都市の風景を楽しんだ方がいいと思いますよ」
言われて、アレシュもあたりに視線を巡らせる。
武器を持って外壁の向こうを見つめる緊張した面持ちの男たち。夕飯の買い物に出てきた母親たち。地面の落書きの上で遊ぶ子供たち。軒下で横になり腹を出して寝ている野良犬たち。
決して豊かではない。笑い声があっても、その奥には疲れや怯えも見えた。
それでも、確かにこの小さな都市で暮らす人々の息遣いがそこにはあった。
すでに二人が失って久しい暖かさがあった。
「元気はない気もしますけど、悪くないですよね」
「何がですか?」
「都市ですよ」
リェイルは笑った。
「小さいですけど、ちゃんと都市です。人が生きてる」
どうやら、リェイルもアレシュと同じ結論に辿り着いたらしかった。
荒野には、何もない場所が多い。そして、何もなくなる場所も増えてゆく。
崩れた文明の跡だけが残り、人が消えた場所。そんなものがざらにある世界で。
ここには人の声がある。食事を作る匂いがある。子供の笑い声がある。
それだけで、この場所には意味があった。
「あっ、かわいい」
リェイルが声を上げる。
いつの間にかアレシュの足元には、やや小柄な野良犬がやって来ていた。瘦身だが、極端な飢餓状態にあるようには見えない。都市に住まう一匹の犬として住民に可愛がられている証拠だった。
アレシュは犬を軽く撫ぜ、腰のポーチから小さな骨を取り出して放り投げた。
喜ぶ犬の背を追うアレシュの表情に変わりはなかったが、近くの住民が軽く頭を下げている姿が目に映った。
「相変わらず犬が好きですね」
「はい」
「ところでアレシュ」
リェイルが振り向く。
「重要な確認があります」
「なんですか?」
彼女の紫の瞳が真剣な色を帯びていた。
「お風呂屋さんはありましたか?」
アレシュは沈黙した。
「…………」
「おや、アレシュ。あれだけ街を見渡していたのに見つけられていない、と?」
「まだ確認していません」
「確認してください」
「重要ですか?」
「重要です。重要に決まってるでしょう?」
即答だった。
「三日ですよ?」
「存じています」
「三日です」
「二度聞きました」
「大切なので二度言いました」
アレシュは返事をしなかったが、脳内で真っ先に優先順位を変えた。
最大優先目標:風呂屋。
だが、都市行政部に辿り着くまでにアレシュが風呂屋を見つけることは叶わなかった。
都市の中心にある行政部は、文明崩壊前においても行政施設として使われていたものだったらしい。
壁面の塗装は剥がれ、古い文字の看板も半分以上が消えているかひび割れていた。
だが、そんな外部とは対照的に、床には砂ひとつ落ちていなかった。都市の心臓であるここだけは、都市の住民たちが日々磨き続けているのだろう。
都市行政部、市長室のプレートがかかった簡素な部屋に通された二人を迎えたのは、外壁部で彼らを招き入れた老人だった。
質素だがゆったりとしたソファに腰かけながら、リェイルは出されたお茶を啜る。アレシュが咎めるような視線を寄越してきたが、封殺した。
「ようこそ、お二方よ。わしはこの都市の代表を務めておるゲニフじゃ」
「リェイルです。こちらはアレシュ」
リェイルが代表して名乗り、アレシュは軽く頭を下げた。
ゲニフはしばらく二人を見ていたが、やや重苦しい雰囲気で口を開いた。
「……君たちは、傭兵なんじゃな?」
「はい」
再び答えたのはリェイルだった。こういう場面は、リェイルの得意分野だ。
「――何かご依頼でも?」
その声音は、都市内を歩いていたついさっきまでとは少し異なっていた。
リェイルの声や雰囲気から明るさが消えたわけではない。
しかし、人当たりの良い、柔らかな旅人の少女ではなくなっていた。
柔らかくも冷静に。明るくも冷徹に。
――傭兵。
ゲニフは、目の前の年若き少女が歴戦の傭兵に変貌したことを肌で感じ取った。
「適正価格で、お受けしますよ」
リェイルが言う。
こちらを軽んじるならば、相応の覚悟をしろと言わんばかりの凄味がある。
ゲニフは指を組み、一度視線を落とした。果たして彼らに自分たちの命運を預けてよいものかと、そんな葛藤があった。
だが、もはやなりふり構っていられないのも事実。
ゲニフは、意を決したように息を吸って話し始める。
「……この都市は、たちの悪い輩に狙われておる」
リェイルとアレシュは無言でゲニフを見つめた。
「君たちにはこちらの方がわかりやすいかの……《錆鼠》じゃよ」
ああ、とリェイルが納得したように声を出して、アレシュの眉が僅かに動いた。
「戦場から逃げ出した傭兵崩れ。壊れた機体を拾い、廃墟を漁り、弱者から奪うものたち。唾棄すべき存在です」
アレシュが続けた。
「そうじゃ」
ゲニフは苦い顔をした。
「最初はただの傭兵と思っておった。じゃが、最近になって付近の廃墟群に拠点を作り始めた。食料、燃料、金銭……要求は日々増えておる。断った若衆は負傷させられたよ……」
「機動甲冑の数は?」
すぐにアレシュが問うた。
「……四機」
リェイルは微笑みを崩さない。尋ねたアレシュの佇まいも変わらない。だが、問いに答えたゲニフの表情は沈んでいた。
《錆鼠》の機動甲冑四機に対して、都市の防衛戦力は先ほどグレンデルと相対していた一機のみ。明らかに戦力不足だ。
「それでゲニフさん、あなたは我々に何を求めるのですか?」
「助力……願わくば《錆鼠》の駆逐を、お願いできんかの」
「なるほど。我々の答えは先と変わりません。適正価格ならば、お受けしますよ」
リェイルは柔らかく笑う。
底の見えない年若き傭兵二人を前にして、ゲニフの背には冷たい汗が滲んだ。