女性だけが戦う世界で、脳内の特撮オタクが俺に「ヒーロー」を押し付けてくる 作:maki@
今後とも本作をよろしくお願いします!
「あの、お嬢」
「何かしら?」
「流石に、学園でこれは……視線も集めていますし」
「――その程度の些事、あなたの安全と比べるまでもないわ」
俺の視線の先には、指先まで隙間なくしっかりと握りしめられた自分の右手。それを上に辿れば、隣を歩くお嬢の腕に繋がっている。
(これ、いつまで続くんだ……?)
入院時から続く執着とすら言える振舞いは、退院した今も何一つ変わっていなかった。まるで、姉が幼い弟の手を引いて先導するように、俺の右手を片時も離さない。それは傍から見れば名門の令嬢が使用人の男と仲睦まじく手を繋いでいるという、あまりにも目立つ様子に映るわけで――
「――ねぇ、あれ。如月さん、ついに……」
「神代君、とうとう――」
「――こんなところで見せつけてくれるじゃ……」
学生の話し声で溢れるはずの廊下は、息をひそめるようなざわめきに満ちていた。すれ違う生徒たちが、好奇と羨望、そして少しの嫉妬を混ぜた視線を向けてくる。
ただでさえ退院一日目というだけで目立つのに、こんな真似をされればさらに悪目立ちするに決まっている。だというのに、当の本人は意に介さない。それどころか――
「もう二度と、あなたから片時も目を離さないわよ。あなたは私が守る。もう、あんな恐ろしい目には、絶対に遭わせない……!」
(……勘弁してくれ)
結局、普段なら普通科と特科で別れるはずの昇降口でも手を離してもらえず、普通科の教室の前まで強制連行される羽目になった。その後、教室で俺に向けられたクラスメイトからの視線の総量については、もはや語るまでもないだろう。ようやく解放された手には、お嬢の細い指の痕が白く残っていた。
放課後。お嬢の「外回りなんてさせるわけないでしょ!」という一声の元、今日の俺は屋内での作業に従事していた。
「次、こちらの資料を統制班の保管庫へ運んでいただけますか?」
「わかりました」
資料の運搬、そしてデータ処理。病み上がりとはいえ、ここまで配慮されているとどこか居心地が悪い気さえしてくる。
いくつかの段ボールを台車に乗せ、長い廊下を歩いていると、前方から見覚えのある少女の姿が。
「あ、神代先輩! もう大丈夫なんですか?」
「桐生か。あぁ、今日から復帰だよ。そっちは……訓練か?」
「はいっ!」
制服に身を包んだ後輩少女が、とてて、と駆け寄って来る。
「異常個体の話もありますから。少しでも力を付けておかないと!」
そういって力こぶを作るようなポーズをとる。前にあった時はどこか自信なさげな様子もあったが、随分と目の色が変わっている。
「神代先輩が襲われてから、如月先輩もすごい勢いで魔障を狩っているみたいですし……私も頑張りますよ!」
「あぁ、是非そうしてくれ」
お嬢……やはりそっち方面でも力を入れていたんだな。オーバーワークにならなければいいが……原因の俺が言えたことでもない。
「それに、最近はディード様の目撃情報もパッタリ途絶えてしまってますから」
「――っ!」
その言葉に、心臓が跳ねた。思わず懐のアンプルの感触を意識してしまう。
「前まではかなりの頻度でディード様の情報が現場から出てきたんですけど、今週はまるでないんですよね……」
「…………そうなのか」
ディードの力を手に入れてから、ほとんど毎日のように戦っていた。それが途絶えれば、違和感も出てくるか。
「――もう、出てこないかもしれないな」
「へっ?」
自然と、口から言葉が零れた。
「元々、いきなり出てきてたやつだろ? いきなり消えたって不思議じゃない」
止まらない。あいつが消えてから、胸の奥に渦巻いていた弱音が顔を出す。
「敵か味方かもわからないようなやつだ。このまま消えた方が――」
「何を言ってるんですか!」
「い、い……」
自力では止められないそれを断ち切ったのは、桐生の一声だった。
「さっきから黙って聞いていれば……! いいですか、まず前提として! ディード様は間違いなく私たちの味方です!」
力強く断言する。一切の疑いなどない、と言わんばかりに。
「私含め、たくさんの祓魔士が助けられました! 報告によっては、魔障から民間人を守るような動きを見せたこともあったって! 上層部はディード様を新種の魔障だの、警戒対象だのと好き勝手言っているようですが――そんなわけありません!」
「ちょっ! 声がでかい!」
こんな廊下のど真ん中で組織の体制に真っ向から逆らう意見を口にするんじゃない。
「きっと、今は休息期間なんです! それが補給なのか療養なのかはわかりませんけど……きっと、すぐに戻ってきます! だって――」
その瞳は、キラキラと輝いていた。心の底から、信じている目だった。
「だって、ディード様はヒーローですから!」
「ヒー、ロー……」
「はい! あんな風に誰かを守って戦う存在を、私たちはそう呼ぶんです!」
(誰かを、守る。そんな思いが、俺にあったのか……?)
どこまでも真っすぐな桐生の言葉。それを正面から受け止められない。
彼女が語る
ディードは魔障と戦うための力だ。その過程で他人を守ることもあったが、それは本来の目的じゃない。テレビの中で見たような、正義のために戦うヒーローたちと、自分が同じものだなんて思えなかった。
あいつの気持ちを考えられなかった俺に、その資格があるとは思えなかった。
「だからこそ! あのヒーローの隣に立っても恥ずかしくない、強くてカッコいい祓魔士になるんです! では!」
そう言うと、桐生は俺の横を通り抜けて訓練に向かった。走り去る桐生の背中を、茫然と見送る。
(お前は十分、強くてカッコいいよ。俺なんかより、よっぽど……)
桐生の無垢で純粋な
それが、俺の胸の奥を激しく突き刺した。
あいつがいたら、桐生の言葉にどんな反応を示したんだろうか。喜び? 同意? 感謝?
どこにも不足はないはずなのに、胸の奥にぽっかりと穴が開いているような気がした。
「……朝、か」
日曜日の朝、カーテンの隙間から部屋に入り込む日の光が俺の目覚めを促す。
八時五十分。ベッドの上で上体を起こさず、しばらくの間、ただ天井の木目をじっと見つめていた。今日は、完全な休養日。このまま布団を被って二度寝を貪ったとしても、文句を言ってくるやつはいない――いなくなった。
「……」
だから、その動作は肉体に染み付いた習慣でしかなかった。日曜の朝の行動として、刷り込まれた行動。
ソファにドサリと腰を落として、テレビの電源を入れた。
八時五十八分。画面の中では、お馴染みの「この後すぐ!」のナレーションと派手な効果音が流れていた。
いつもなら、うるさいくらいに声がする。『いよいよだ! 今週こそあの伏線が回収されるはずなんだよ!』とか、『先週の引きからして絶対に和解回だと思うんだけど、どう思う?』とか。耳が痛くなるほどに饒舌なのが、日曜の朝の風景だった。
今は、テレビが吐き出す音しかない。
静寂の中、番組が始まった。
(前回は……確か、主人公と相棒の二人が、お互いの正義の違いから派手に喧嘩をしたんだったか)
それぞれに信じるものがあり、譲れない思いがあった。同じ方向を向いていたはずの二人は、いつの間にか互いに背中を向け合っていた。
(俺たちに似てる――というのはこの二人に失礼だろうか)
テレビの中の二人は不器用だった。素直に話すことができなくて、遠回りして、傷つけて、傷つけられて。それでも、心の底で互いの存在を必要としていることは、見ていれば分かった。
(俺はただ、復讐という自分の目的のために、あいつを都合よく利用し続けていただけだった。画面の向こうの彼らのように、相手の心に寄り添い、思いやる気持ちは――少なくとも、俺の中にはなかった)
画面の中では、一人で思い悩み意地を張る主人公を、ヒロインが優しく諭していた。人付き合いの苦手な彼に向けて、『仲直りの秘訣』を伝授する。
『ライバル、相棒、仲間。あんた達の関係って不思議だけど……』
『だけど、なんだよ?』
『『友達』と喧嘩して、仲直りしたいときはね、ちゃんと自分の素直な気持ちを相手に伝えた方がいいよ』
『素直な、気持ち……』
『そ。あと、できるならその気持ちを込めた贈り物なんかがあると、さらにいいね!』
主人公は悩み抜き、その末に見つけた、二人の絆を示すプレゼントをその手に握りしめて、今まさに敵の罠によって窮地に陥っている相棒の元へと、死に物狂いで駆け付けた。
戦場の大爆発の中で、互いの本音を激しくぶつけあう二人。しかし、それは決して決裂するためではなく、お互いの本当の気持ちを、魂の奥底で理解し合うためのもの。
『俺とお前の正義の形は、違うのかもしれない! でも、この手で守りたいと思うものは、きっと同じだ!!』
『――そう、だな。そうだ! だから俺は、お前と――!』
真に心を通わせた二人に、新たな力が目覚めた。
装いを新たにし、輝く光と共に敵怪人を圧倒するコンビネーションを見せる二人。
戦いに勝利し、夕焼けの中、肩を並べて帰路につく二人は、もう一度同じ方向を向いていた。
番組が終わった。テレビの電源を切る。
「……あいつは、これになりたかったんだな」
静まり返った部屋で、ぽつりと呟く。
泥塗れになりながらも立ち上がり、誰かのために戦う無敵の姿。あいつにとって、画面の向こう側のヒーローは、唯一の救いであり、輝かしい理想だったのだ。
それなのに、俺は。
『俺は、お前の戦う道具じゃない!』
あいつの悲痛な叫びが、頭の中でリフレインする。
それを呼び水にして、これまでのあいつとのやり取りが、記憶が。脳裏に浮かんでは消えていく。
初めてあいつと出会った夜の事。変身し、魔障憑きと戦った時の事。脳内で騒ぐあいつに押し切られ、日曜の朝に並んで特撮を見るようになったのは、いつからだったか。無邪気に笑い、騒ぐあいつと、それに辟易しながらもどこかで受け入れていた俺。
そんな騒がしい毎日が、当たり前になっていた。だからこそ、今の静かな生活に、どこか落ち着かない気分を抱えている。
(……俺は、あいつに力を求めてばかりだったな)
俺はあいつを、ただのシステムとして扱っていた。仇を討つための力、魔障を殺すためのツールとして。あいつの過去の話を聞いた時も、どこか自分には関係のない話だと思っていた。
『でも――お前が死ぬのは嫌だ。それだけは言っておく』
唐突に、その言葉を思い出した。俺が過去を語り、あいつが俺にかけた言葉。
(あいつは、俺という人間のことを、ちゃんと見ていたんだ。俺の言葉を聞いて、考えて、自分の思いを伝えようとしていた。あいつにとっての俺は、自分の欲望を満たすための道具のはずなのに)
『ヒーローに救われた』と、あいつは熱を込めて言っていた。自身の欲望すら持たない、落ちこぼれでまがい物の自分であっても、あの姿を模倣すれば本物になれると信じた、と。自分の暗い過去のトラウマを曝け出しながら、憧れた大切なものを教えてくれた。
あの時、俺はそれを聞いて、何と返したんだったか。
(――何も答えなかった。あいつに求めていたのは
あいつが「ヒーローになりたい」と願った純粋な夢を踏みにじり、あいつが「俺に死んでほしくない」と言った思いを、感情を排した論理の刃で切り捨てたのは――俺だ。
「俺が……あいつを追い詰めたんだ」
握りしめた拳が、微かに震える。
俺があいつの『力』を求めているのは事実だ。それは今も変わらない。でも、それだけじゃない……気もする。
もし、もう一度会えたなら。あいつと向きうことができるなら。
俺はあいつに、何を伝えればいい。この胸で渦巻く、言葉にならない気持ちは、一体何なんだ。
『喧嘩して、仲直りしたいときはね、ちゃんと自分の素直な気持ちを相手に伝えた方がいいよ』
『気持ちを込めた贈り物なんかがあると更にいいね!』
さっき見た話が頭の中で何度も再生される。俺とあいつは喧嘩――をしたのだと思う。そんなに上等な物なのかもわからないが。そして、あいつに戻ってきてほしい気持ちは、俺の中に間違いなくある。
あいつが求めるもの――自分の欲すらないと語ったあいつが、本当に求めていたものって、なんだ。あいつは、俺に何を求めていたんだ。
これまでの二人で過ごしたすべての日々を、一つ一つ思い出す。
そして――ただ一つだけ、思い当たった。これまでのあいつに、欠落していたものがあった。
(模倣の落ちこぼれ。自分の欲を持たない偽物――だったら、お前自身の内側にあるその真っ直ぐな魂に、本物の定義を与えればいい。これだ。これに、俺のすべての思いを込めよう。そして、次にあいつに会えたら、真っ直ぐに伝えるんだ)
俺はソファから力強く立ち上がり、私用のPCを起動した。まずは調べものからだ。熟考を重ね、最高の『贈り物』をつかみ取るために。
懐のアンプルを握りしめ、視線をモニターに走らせる。
頭の中は相変わらず静かだった。だがその静寂の奥で、初めての感情が静かに燃え上がり始めていた。
「はぁ……はぁ……」
息を切らし、気配を殺して夜の路地を進む。
(くそっ! 俺の身体、こんなに弱かったのか……?)
少し前までは当たり前だった、自らの脆弱な肉体を恨む。蓮の中にいる時は感じなかった重力が、あまりにも重くのしかかって来る。
『俺』という存在を世界に固定するには、それだけでも膨大なエネルギーを必要とする。だからこそ『DEMON』は宿主に寄生することでこの世界に留まっている。
蓮という宿主から抜け出した俺の輪郭はすでに曖昧で、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
「これで……よかったんだ。俺がいなくなれば、蓮はもう……危ない目にあわなくて済む……」
そう、自分に言い聞かせるように呟く。だが、その胸を満たしていたのは、耐えがたいほどの孤独と寂しさだった。
その時――
「ギシャアァァァッ!!」
「――っ!?」
背後の闇から、不気味な咆哮と共に異形の影が飛び出してきた。俺と同じ、
鋭い爪が、俺に向かって振り下ろされる。
迫る死が、走馬灯を見せる。
(あ、これ……)
映し出されたのは、蓮と出会った日の事。あの時も、今と同じように『DEMON』に襲われて――
「嫌だ……来るな……! 誰か……っ!」
抵抗する力もない。蓮とのつながりは自分で切った。どれほど怯えても、願っても。救いの手が差し伸べられることは無い。もしあるとすればそれは――
「まったく……言語も解せぬ野良犬ごときが、私の貴重な実験素材に気やすく触れるな」
――更なる苦難へ導く、邪悪な誘いでしかない。
「…………っあ、あぁぁ……」
「ギ、ギギィ……」
空気が、一瞬で凍りついた。
空間そのものを重圧に押し潰すような、圧倒的な魔力の奔流。俺に振り下ろされた爪は静止し、ガタガタと震えている。そして俺の身体も――あるいはそれ以上に震えていた。
暗闇の中から、ゆったりとした足取りで男が歩み出てくる。
白衣を纏った男――
――バツンッ!!
「ガ、ア……っ!?」
絶叫すら許されなかった。『DEMON』の身体に一瞬で大穴が開き、黒い霧となって跡形もなく消滅した。
一撃。いや、攻撃というのもおこがましい。圧倒的な格の違い。
「ひ……あ、あぁ……っ」
全身から血の気が引く。存在の根底を恐怖で塗り潰される。忌々しい記憶が頭を支配していく。
「探したぞ……実験体め。まぁ、貴様が自分から彼のもとを去ったおかげで手間が省けた。こうして無傷で回収できる」
「ゾ……ディ……ア……」
「怖がることはない。『丁重』に扱うとも。貴様の存在が、私の実験を完成させる最高の触媒なのだから……さあ、こい」
「嫌だ……嫌だぁぁぁっ!!」
暗闇の中へ連れ去られていく俺の悲鳴を聞き届ける
俺が決心してから、静かな日常が、淡々と流れるように続いた。
対魔局の雑用。データの入力。書類の整理。魔障憑きの目撃情報が現場から上がってきても、未だに外回りを禁止されている俺にできるのは、他の人間に現場の処理を割り振り、上がってきた報告をまとめるくらいだ。
お嬢も当主も、最近は輪をかけて忙しいようで、過保護な監視も徐々に緩みつつある。どうやら実験体の被害が広がり続けているらしい。
昼間は学校に行き、放課後に対魔局の仕事をして、屋敷に帰る。
『ディード』になる前の、本来の俺の日常。
それを、静かにこなした。
特に、感慨はなかった。頭の中が静かなことには慣れなかったが、その分自分の心と向き合う時間は、十分に取ることができた。
そんなある日の夜のことだった。
対魔局の仕事を終え、夕暮れとともに帰宅した。机の上に鞄を置いて、着替えようとした瞬間に、ポケットの中でスマホが振動した。
画面に表示されたのは着信を知らせるポップアップ。発信者は――無記名。
「――?」
俺は、一瞬止まった。
それから、静かに画面をタップした。
自動的にビデオ通話が開始する。咄嗟にこちら側のカメラを切った。
映し出されたのは、薄暗い不気味な空間だった。床には無数の資料が撒き散らされ、奇妙なポッドのようなものが設置されている。カメラのピントが、その中へと絞られた。
「――っ!」
思わず息を呑む。
そこに入れられているモノに、見覚えがあった。輪郭の定まらない、ぼやけた影のような――あいつだ。
よくわからない機材やコードに繋がれ、縛められている。
光が消えかけているような、今にも霧散してしまいそうな、衰弱した気配が画面越しに伝わってくる。
俺が食い入るように画面を見ていると、カメラがゆっくりと動いた。
画面の右端に、一人の男の姿が映り込む。
白衣を身に纏い、整った冷徹な顔立ち。口元に穏やかな、しかし底冷えする笑みを浮かべて、カメラに向かって直立している男――
『やあ、神代蓮』
画面から流れてくる声は、病室で聞いたものと同じ、だが、その声色は平坦だった。人間らしさを排したような、無機質な声。それがあまりに不気味だった。
『君の「紛失物」を、偶然にも拾ったのでね。まぁ、元々は私の『実験台』なんだが』
真木の視線が、囚われた影へ向く。それから、また俺の方へ戻った。
『返してほしければ、一人で私のところへ来い。以上だ』
通話が切れ、続けて受信したメッセージ。それに添付されていたのは地図だった。その中心に刺された真っ赤なピンが指し示すのは、おそらくあいつが捕らわれている場所。
「――ふぅ」
息を吐き、しばらく静止した。
頭の中で、情報を整理した。真木の正体がゾディアであること。あいつが捕獲されたこと。あいつは過去にゾディアに虐げられていたこと――そして、これが罠であること。
(今の俺には、魔障と戦う力なんて何一つない。
懐からアンプルを取り出し、握りしめる。何の反応も示さないそれは、今の俺に唯一残された、あいつとの繋がりだ。
行くべきじゃない。合理的に考えれば、今すぐこの情報を当主やお嬢に開示して、対魔局の戦闘部隊を動かすのが正解だ。だが、真木が悪魔だなどと、そんな話を証明する手段がない。
何とか信じてもらえたとして――ゾディアもろとも、あいつも祓魔士に討伐されるだろう。そんなのは、絶対に御免だ。それに、そんなことをして真木があいつに手を出さないなんて保証もない。
結局、俺が取れる手段は、最初から一つしかなかった。
幸か不幸か、今夜もお嬢と当主は、例の実験体の緊急対応で駆り出されている。本邸には誰もいない。俺を無謀な行動を止める人間は、この世界のどこにもいなかった。
罠だなんて、言われなくても百も承知だ。でも、俺はあいつに会いたい。もう一度会って、この思いを伝えたい。そして、『これ』を贈りたい。
俺は離れの扉を強く押し開け、日の沈みきった深い夜の街へと、全速力で駆け出した。
頭の中は、今も静かだった。だが、静寂をかき消すほどの熱い感情が俺の背中を全力で押していた。
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