夢を見る。
夢を見る。
それは消せない過去と、罪の記憶だった。
ハルトは当時、魔女の調査の任務で家を空けていた。
そしてエイジは、それを追いかけて家を飛び出していたのだ。
こそこそと隠れながら兄を尾行していた――それがなにか、格好いいことだとでも信じていたように。
未熟な馬鹿者が、幼い好奇心と背伸びした思い違いで、兄を手助けするつもりでいた。
それで済めばまだよかったものを、よりにもよって、最悪のタイミングで馬鹿をやらかした。
後になって知ったところによれば、兄はその時既に魔女の居所を突き止め、攻勢をかける準備を進めていたという。
だが、魔女もまたそれを察知していた。
だから自分の拠点に攻め入られる前に、逆に兄の借りていた宿に襲撃をかけた。
魔女を迎え撃ったハルトは、魔女と一対一で対決した。
戦いは熾烈を極め、夜の街を何度も震わせた。
その光景を幼いエイジは、遠巻きに隠れて見ていた――一度は住民と一緒に避難させられたものを、その流れに逆らって引き返した。
兄の戦いを間近で見たかった。
その勝利を信じていたし、それが当然の権利だとすら思っていた。
まるでなにかを盲信するように、その瞬間を見届けるのは自分の役目だとまで思い込んでいたのだ。
だから、魔女と斬り結びながらも苦戦する兄の後ろ姿を見て、驚愕した。
あの無敵の兄をして、ここまで追い詰められる戦いがあることを、この世に生まれて初めて知った。
凄まじい激闘だった。
夜の中に火花が幾度も散り、冷えた夜気が熱を帯びるほどの緊張感で張り詰めていた。
幼い日のエイジの目には、その戦いはまるきり神話か、英雄譚の一節にしか見えなかった。
現実離れした高揚があったことは否定できない。
怖気づく心と同時に、相反して昂る感情があったのだ。
あの戦いを――目の前の神話を――断じて敗北の歴史にしてはいけない。
猛る心の声が叫んでいた。
すくむな、この足、この身体。
怯えるな、この心、この闘志。
飛び出せ、今こそ、強くあれ――!
そうして蛮勇を奮って、エイジは、意を決して――それが当然の権利と信じて――眼前の戦いに割って入った。
そして叫んだ。
「た、たたたた、助けに来たぜ、兄貴! お前に名乗る名前はないっ! 騎士エイジ、参上――」
「お前――!?」
驚愕とともに振り返った兄の声を、エイジは生涯忘れないだろう。
切迫した空気を場違いに壊した弟に対して、兄がなにを思ったかは定かでないが。
……そして、それが終わりだった。
「が、はぁっ……!」
振り返って駆け出そうとした兄の背を、魔女が、その凶刃で貫いた。
塊のような血を吐いて兄は倒れ込んだ。
張り詰めていた夜の中に、錆びた鉄のような臭いが飛び散った。
「え――」
間抜けにも足を止めたエイジに、魔女がずちゃりと近づいた。
兄を貫き、その血を滴らせた凶刃が目前に迫っても、動けなかった。
呆けてしまった弟を、それでも兄は守ろうとした、のだろう。
死に体だった身体を跳ね起こさせ、手にした一刀にまばゆいばかりの光を纏わせ、魔女に斬りつけた。
切断された魔女の腕が宙に舞い、おぞましい絶叫が夜気を切り裂いた。
……エイジがようやく正気に返った時、魔女は既にその場から逃げ去り、姿を消していた。
後には震える足で立つ幼い自分と、剣を支えに夜の街にたたずむ、兄だけが残されていた。
なにも見えないくらいの暗がりだったはずなのに、エイジの目にはその瞬間は燃えるように鮮烈に焼きついている。
血を吐きこぼしながら、エイジのほうへ歩み寄る兄の姿。
ハルトの最期。
剣を手放し、膝から崩れ落ちて、弟の目をのぞき込んだ兄。
ひゅー、ひゅーと空気が抜けるような音が聞こえたのは、もはやハルトが呼吸もできないほどの重傷だったからだろう。
なにを言えるはずもなく、ただエイジは喪失の恐怖に震えていた。
すべて自分のせいだと分かっていた。
分かっていても、受け止められなかった。
目を逸らして逃げ出したかったが、兄の眼差しはそれより強く、エイジを捉えて放さなかった。
震える唇。
末期の息で、紡がれた言葉は。
『お前のせいだ』
「…………っ!」
衝撃で目が覚めた。
エイジは酸素を求めてあえいだ。
痙攣する肺腑が、激しい痛みを発している……背中から地面に叩きつけられたように、膨れ上がる横隔膜が呼吸を阻害する。
血も吐けない痛みに悶える。
「がっ、あ……! く……ふ、ぅ……」
身悶えから抜け出せない、永遠と錯覚する数秒。
どうにか耐え抜いて息をつくと、エイジはゆっくりと身を起こした。
あたりを見回す――夢の前の記憶と、今いる場所がようやく繋がる。
そこは騎士団本部の治療所だった。
あの廃屋での戦いで負傷した騎士たちで、ベッドはいっぱいになっている。
エイジもそのひとりだった。
一通りの処置を受けた後、麻酔の作用で眠っていたのだろう。
「……シャルルに続いて、今度は兄貴の夢かよ。くそっ……」
自我の奥底、エイジの原風景に近く刻まれた忌まわしい記憶。
これまで何度となく同じ夢を見てきたが、細部は違っても、最後の兄の言葉だけは変わらない。
呪わしい過去だが、それでも、忘れるわけにはいかなった。
あるいは、シャルルが魔女の……プラムの手に落ちたことで、トラウマが想起されたのか。
状況は確かにあの時とよく似ていた。
エイジが先走ったせいで、別の誰かが犠牲になる。
魔女という騎士の大敵、それも、かつてと同じ相手に対して。
気落ちを自覚して嘆息する。
声をかけられたのはそんな時だった。
「――目が覚めたのか。エイジ」
「え?」
ベッドの上で向き直ると、セイラムがこちらに向かって歩いてきていた。
ベッドの傍らで足を止めた上級騎士に、エイジは口を開く。
「セイラムねえさ……副長。そっちこそ目が覚めたんですね。よかった」
「舐めるなよ若造。お前に心配されるほどヤワじゃないさ……なんて、まんまと攫われておいて言うのも間が抜けているが」
肩をすくめるセイラム。
息をついて続ける。
「大変なことになったな。まさか、あのプラムが魔女だったとは」
「……すみません。俺がまんまと罠にかかったばかりに、騎士団に被害が」
「それを言うなら、長年部下の裏切りに気づけなかった私の失態だ。でも、処罰を受けるのは事が済んだ後。今は反攻作戦に専念しろと指示を受けている」
「手立てがあるんですか?」
あの廃屋での戦いを思い出す。
手練の騎士たちが揃って返り討ちに遭い、倒れ込んでいくさまを。
セイラムは首を横に振った。
「明確な決め手があるわけではない。だが、騎士団の最大の敵である魔女を相手にして、逃げを決め込むわけにもいかない。ましてや、魔王復活などという企てを聞いた状況では」
「…………」
「ただし、まったく為す術がないかといえば、それも違う。先の救出作戦と違い、今度の決戦では騎士団きっての光の剣の使い手たちも参加する。勝機は必ずある」
それを聞いて、思わずエイジは表情を曇らせた。
つぶやく。
「……でも。七年前の戦いで、兄貴は死んじまった。歴代の光の剣士の中でも、随一と言われていた兄貴が。あの魔女には敵わなかったんだ」
「そのために私たちがいる。ハルトが勝てなかったからといって、私も足踏みだけしてたわけじゃない」
「なにも聞かないんだな。あの時のこと」
沈んだ表情で、エイジは言う。
泥を飲むような心地で息を吸い、言葉を吐く。
「兄貴を殺したのは、俺だ。俺が余計なことをしたせいで、兄貴は負けちまったんだ。全部俺のせいなんだ」
「それだけのことでハルトが死ぬものか。思い詰めるな」
「でも、姉さん――」
「ハルトはお前が思うような男じゃない。もし万が一、本当にお前のせいであいつが負けたのだとしても、それを恨みがましく思うような器の小さい男のはずがあるまい」
まったく迷いなく言い切る。
どうしてそこまで、と思うほど。
「信じられないか? これでも私は、そんな歴代最優の騎士を尻に敷いていたと恐れられる女だぞ」
それに、とセイラムは付け足した。
「お前もお前だ。いつまでも腐っているほど小さな心意気ではハルトに笑われるぞ。当然、シャルル君を助けに行くんだろう?」
「それは、言うまでもないけど。けど」
「なんだ。まだなにか不安があるのか?」
「……分からないんだ。どうしてみんな、俺なんかのことを信じられる? こんな無力で、ちっぽけで、ひとりぼっちで……いまだに過去から抜け出せないような、こんな俺を」
変わらず、さらに苦い心地で吐き出す。
情けなさに胸を締めつけられる。
この期に及んで、あの魔女に……そして、過去のトラウマに怯えて、震えている自分に。
セイラムはしばらく答えなかった。
そしてそれどころか、答えを返したのはまた別の声だった。
「――それはお前が、とっくにひとりぼっちじゃないからだろ。そのくらい分かれ。まだひとりで突っ走ってるつもりか、この馬鹿エイジが」
驚いて視線を転じる。
ベックだった。
振り返ったセイラムの後ろから、足早にこちらに向かってくる。
さらには、その驚いたエイジの顔が不服だとでもいうように、言葉を継いできた。
「なんだよ、その目は。俺の見る目に文句でもあるのか?」
「そういうわけじゃ……ない、けど。いや。でもなんか、良いこと言おうとしてスベってないか、今のお前?」
「黙れ中二病」
にべもなく切り捨てられる。
そんなベックだが、騎士たちの中でも比較的軽傷だったため、エイジと違って最小限の治療で済んだのだろう。
額と、他に幾箇所かに包帯を巻いているくらいで、動きにも支障はないようだ。
そこまでのやりとりを無視して、セイラムが言った。
「ベック。観測班からの報告は?」
「変わらずですよ。プラムのやつは黒い竜巻の中心で力を蓄えてる。魔王復活の儀式とやらは順調に進行中ってことです」
「そうか」
短く言って、再度こちらに振り向くセイラム。
そしてエイジに訊ねてきた。
「エイジ。これから訊くことはお前にとって辛いことかもしれん。だが、大事なことだから、もし思い当たることがあるなら教えてほしい……七年前の戦い。もしかしてハルトは、あの魔女の――」
「それは……」
その問いと答えは、戦いの趨勢を決めるものだった。
これから向かうことになる、最後の戦いの。
「――そうか。そういうことだったか。ならばやはり勝機は、ある」
言って、セイラムはきびすを返した。
歩き出せば止まらず、そのまま治療所から早足で去っていく。
ベックとふたり残されて――
「立てるか? エイジ。なら行くぞ」
「……ああ」
言葉に応えて、エイジもベッドから降りて立ち上がった。
傍らの椅子に置かれていた自分の装備一式、ベルトと剣を身に着けて、視線を上げる。
「決戦だ」
窓の向こう、遠くの空で渦巻く暗雲と黒い風を見据えて、エイジは言った。
迷いも恐怖も振り切れないまま、それでも強く。