「むにゃむにゃ……なんだよ、その目ぇ……変なものでも見たみたいな、むにゃむにゃり……んぐぅ?」
夢の余韻を引きずりながら、少年は――というかエイジ・ブラックはベッドの上で目を覚ました。
半開きの目に騎士寮の天井がぼやけて映り、その中央、胡乱げな顔みたいに見える木のシミと目が合う。
毎朝にらめっこするのだが、いまだに一度も勝てたことがない。
ただ、今朝その
さっきまで顔を合わせていた――というか、夢なのだから一方的に見ていた少女の金色の瞳。
まったく似ても似つかないし、表情もまるで違うが、ただ顔という共通点だけが面影に重なる。
「…………はあぁー」
嫌なことを思い出したな、と嘆息して、エイジは小さくつぶやいた。
「なーにが"理想"だ、がきんちょめ。そんな目で見るなっつーの……」
「それってどんな目ッスか、先輩?」
「どわぁっ!?」
突然横合いからかけられた声に、エイジはベッドから跳ね起きた。
慌てて振り向くと、自室の椅子に勝手にちょこんと腰掛けて、小柄な少女がこちらに笑顔を向けている。
薄桃色の髪をリボンで二つ結びに、琥珀色の目はやや吊り気味で、いたずらげに八重歯をのぞかせて。
小悪魔的な印象の――というのも間違っていないが、むしろアホっぽいと言ったほうが正確だろう。
その笑みはいかにも軽く、人懐っこく、常にしょうもないことに楽しげだ。
よく見知った顔だというのもある。
嘆息して、エイジはその少女の名前をつぶやいた。
「プラム……お前、なんでここに?」
「セイラム様のお使いッス。朝礼をバックレた問題児を連れてこい、って」
「もうそんな時間か? いや、それはいいか。なんで俺の部屋に入ってきてるんだ」
「ふっふっふー、プラムちゃんの得意技をお忘れッスかー? こう、"白の剣"の応用技で、ドアの鍵穴をちょこちょこーっと」
「どうやって、じゃなくて、なんでってのを聞いてんだよ。このアホ」
寝覚めの悪さと、ズレた会話に苛立って、毒づくように言う。
えーひどーい、などというプラム――プラムチェスカ・コンポートの文句は無視して、エイジは床に降り立った。
ルームシューズに足を引っ掛けるのも面倒で、裸足でぺたぺた歩き出す。
渇いた喉を水差しから注いだ水で潤していると、プラムが話しかけてきた。
「セイラム副長、怒ってたッスよー。あいつは三日に一回サボるノルマでもあるのかー、って」
「週に二、三回しかフケてないってことな。なら十分だろ」
「普通の団員はちゃんと毎朝行ってるんスよ」
「はっ。どうせお決まりの騎士団心得で発声練習するだけだろうが。寝てるほうがよっぽど有意義に思えるけどな」
「七分の二くらい同感ですけど、今日は事情が違うんで。先輩、昨日も直接呼び出し食らってましたよね?」
「……あー」
そういえば、そんなこともあったなと思い出す。
あの
プラムも慣れたもので、大して深刻そうでもなく続ける。
「騎士団の正装で、直接執務室に来いって言ってましたよ。いよいよ先輩もクビかもしれないッスね」
「面倒だなぁ。いっそ寝巻きのまま行ってやるか」
「えっ? い、いやー、さすがにそれはちょっと、大問題かと……」
「冗談だよ。着替えるからさっさと出てけ。不法侵入の上にノゾキまでする気かよ、このアホ後輩」
ええーひどいッスー、というプラムのぼやきは無視して、エイジは眠気を手の甲で擦り落としながらクローゼットに向かった。
「お待ちッスー、先輩」
身なりを整えて部屋を出ると、ドアのすぐ脇でプラムが待っていた。
エイジは不思議に首を傾げる。
「……なんでいるんだ? 呼びに来ただけなら一緒に行くことないだろ」
「見張ってないと逃げるでしょ、先輩は。また面倒とかだるいとか言って」
「信用ねえなあ。わざわざ着替えたんだからちゃんと顔ぐらい出すよ」
そんなようなことを言いながら歩き出す。
エイジは何気なく、廊下の窓に映った自分の姿を見やった。
黒髪黒目、中肉中背、目つきが悪く人相も悪い。
それでもかろうじて街のチンピラには見えないのは、その装いのおかげだろう。
青と白の二色を基調に、赤いラインで引き締められた騎士団員の正装は、きっちりした見た目に反して軽く動きやすい。
腰の革ベルトと干渉しない作りのためだ。
それは言うまでもなく、抜刀を邪魔しないことが最優先だからである。
騎士の本分は戦うことだ。
己を生かし、仲間を助け、人々を守ることを信条とするなら、行住坐臥すべてに戦場を意識するのは当然である。
まして騎士が戦う相手は人間ではなく、魔の眷属――かつての魔王に仕えた七人の魔女と、それが生み出した魔物たちだ。
常に万全以上に備えなければ、何事を為すこともなくあたら命を散らすことになる。
「…………」
窓の向こうに見下ろす街並みは昇る朝日に照らされ、人と活気にあふれているが――
"翳り"はそのどこに潜んでいてもおかしくない。
騎士団の心得に云うならば、たとえば、己の内にでも。
「今日も盛況ッスねー、剣都の市は。騎士はみんな大飯食らいだからッスかね?」
「南通りの区画整理の影響だろ。労働が増えるから金が動く。金が動けば人も集まる」
「でも、私たちのお給料は増えないんですよねえ」
「つまらない仕事は増えてるのにな。酔っぱらいの喧嘩の仲裁とか。子どもの窃盗の取り調べとか」
ぼやくように言い合う。
この剣都ルミナロンドは、古くから騎士を養成する街として、そしてその名門たる"四光騎士団"を擁することで広く知られている。
一般に騎士団といえばこの四光騎士団を指すことから、騎士そのものの代名詞と言ってもいい。
エイジとプラムもその所属だが、立場としてはほとんど下っ端だ。
一応エイジが一年先輩であるものの、駆け出しが二、三歩歩いた程度なのは変わらない。
実力差も相応にはあるが、それも上級騎士と並べられれば、いいとこどんぐりの背比べでしかない。
つまり、ふたりの上役――騎士団副長の片翼、セイラム・セントナムなどに比べれば。
で。
「いったいどうした心づもりなのだ、貴様というやつはやつはやつはーっ!」
副長執務室に入るなり浴びせられたのは、そのセイラム女史による怒涛の叱声だった。
広くはない室内に、棚の上の埃まで震わせるような声が響いて反響する。
普段は落ち着いた調子で話す人物なのだが、エイジ相手にはこうして加減仮借がなくなるのは、結局これが素だからだろう。
本心を見せてくれるのが嬉しいかといえば、そんなことはまったくなかったが。
片耳を押さえて鼓膜の痛みをやり過ごしてから、エイジは口を開いた。
「……そんな怒鳴らずとも聞こえてますよ、副長殿。俺を難聴にする気ですか?」
「とっくになっていると思ったが!? 朝礼には来ない、呼び出しにも応えない、ただし寮長の点呼だけはなぜか都合よく返事する! 代返がバレていないとでも思っているのか、エイジ!」
「えっ、バレてたんですか? その割にはお咎めがなかったような……」
「それを今からみっちり咎めるのだ、このたわけ! 今日という今日こそ逃がさんからな!」
つい口を滑らせたのを、藪蛇だったか、と後悔する。
まあいつまでも誤魔化せるものでもないのだが。
セイラムは机の上に組んだ手に額を落として、重く嘆息した。
「お前、本当に……本当になあ、私の立場を考えてくれ。ちゃんと考えろ? 言うまでもないが、これが他の者の管轄ならとっくに懲戒ものだ。いつまでもは庇いきれんのだからな」
「分かってます。感謝してますよセイラム副長。もうちょっと庇っててくれるととっても助かります」
「少しは改めようとせんかーっ! どういう了見のなんなのだ、その物言い! パーか!? 頭がパーか貴様!?」
火傷しかねない怒気を上乗せして、騎士団でも指折りの女傑が叫ぶ。
左目の下の泣きぼくろが、なんだか本当に涙のようで哀れではあった。
その悼ましい涙に免じて、というかなんというか、ともかくそんな心地でエイジは付け足した。
「信じてくださいよ、副長。なにもあなたを泣かせたくてやってるんじゃないんです。ただそのー、俺昼過ぎまで寝ないと調子悪くなるんで、健康のために朝礼行かないだけなんです」
「うーわー! どこをどう信じさせるつもりで言ってるんだ、なにひとつ分からんわ! というか朝礼に限らず昼も夕も晩も礼に来ないだろ、お前!」
「いつも具合が悪くなるんです」
「病弱かっ、医者に行け!」
そりゃそうだとしか言えない。
ひとしきり言い合って――
埒のあかない無駄を悟ったのか、セイラムがまたひとつため息をついた。
それから言ってくる。
「言いたくはないがな、エイジ……お前がいつまでもそんな調子では困るのだ。若手の中ではお前の腕はひとつ抜けているし、他の者に示しがつかん。いいか、これをみなまで言わせるなよ? 私にはお前を正しく導く、その責任が――」
「責任感だけでやってるんなら、押しつけがましいのはやめてほしいんですがね。俺が頼んだわけじゃない」
「なんだと?」
エイジが口を挟むと、セイラムの細い柳眉がぴくりと跳ねたが。
構わずエイジは続けた。
「みなまで言わせるな、ってあんたが言ったんだろう。だから遮ってやったんだ」
「意味を分かって言っているのか? ケツの青い小僧っ子風情が。跳ねっ返るのもいい加減にしろ、その減らず口がどこまで続くか、私が手ずから試してやろうか」
ちゃき、と剣帯と鞘がこすれる音。
セイラムが座ったまま身構えた――のだが、それがわざと鳴らした音なのは明白だった。
彼女ほどの腕前の騎士なら、その体勢からでもこちらに悟らせるより速く抜刀して、斬りかかることもできたはずだ。
そう思考しつつ、エイジも外套の下で剣の柄に手を添えていた。
狭い室内だが、騎士の基本の心得は『行住坐臥すべて戦い』だ。
是非も問答もなくなれば、もはや後は抜くしかない。
一触即発――火花が散るか咲くか、その
「あのー、セイラム様。ところで部屋の外にいる方はいいんスか? 結構長いこと待たせちゃってますけどー」
しかし、あっさりと空気に水を差したのは、壁際に立っていたプラムだった。
忘れていたわけではないが、ずっと黙っていたので静観するものかと思っていた。
「…………」
一寸、間延びする時間。
実際、エイジとセイラムのこうした"小競り合い"は、なにも初めてのことではなかったのもある。
少しの沈黙の後、先に剣を手放したのはセイラムだった。
「そうだな。この話は一旦置く。どうせ今日の本題でもない」
「……了解です。失礼しました、副長殿」
そう答えてから、エイジも汗のにじんだ手を柄から放した。
張り詰めていた緊張感が何事もなかったように四散する。
ちらとプラムのほうを見やると、ニマっと笑って手を振ってきた。
無言だが、その表情が言わんとすることは長い付き合いで分かる――
『貸しイチでいいッスよ』。
(放っとけっつの。このアホ後輩)
そう心の中だけで毒づいておく。
そうしておもむろに、セイラムが部屋の外へ呼ばわった。
「待たせたな。入ってくれ。シャルル君」
「――はい」
ややあってから、返答とともにドアが開く。
入室してきた人影に視線が集まる。
「……えっ?」
思わず意外な声を上げたのは、エイジ自身だった。
名前に反して、部屋に入ってきたのが少女だったから――それもあるが。
見たところ、歳は自分と同じくらいか。
ただ、鮮やかに目を引くのは、その黄金色の髪だった。
前に垂らした三つ編みという大人しい髪型だが、それでもなお眩く輝く日差しのような、包み込むような温かみのある色合い。
そして、それと同色の瞳。
――エイジが思い出していたのは、毎朝にらめっこする自室の天井の
似ても似つかないはずの面影が、なぜか今ここでダブって映る。
ぺこりと一礼した後、頭を上げた少女の顔に。
そんなまさか、あり得ないだろと思いながら、なのにデジャブが止まらない。
それはそう、幼いあの日の憧憬に満ちた、揺れる麦穂のような無垢な感情を想起させて。
エイジの動揺を目敏く見つけたのは、プラムだった。
「先輩? 知り合いッスか?」
「あ、いや……そんなことは」
咄嗟に、慌てて、へどもどに誤魔化そうとするのだが。
それよりも遥かに早く、迷いの欠片もなく、シャルルという少女がエイジに向き直ってきた。
「久しぶりだね、エイジ君! ずっとずっと会いたかった! すごくすごーく探したんだからねっ、十年もずっと!」
「……めちゃくちゃお知り合いッスよね?」
「知らん。人違いだ。朱色と混ぜたみたいな赤の他人」
どう隠しようもないのは明らかだったがそれでも嘘を強行する。
今度はエイジに視線が集まる番だった。
で、セイラムが言ってくる。
「本日付けで四光騎士団に配属となった、シャルルだ。本人のたっての希望でな。エイジという名前の騎士を探して騎士になったらしい」
「はい! エイジ君は私の憧れで、理想の騎士で、目標なんです! エイジ君みたいになりたくて、私は騎士になったんだから――」
「人違いだって言ってんだろ! 落ち着きやがれこの馬鹿、シャルロッテこの大馬鹿野郎!」
焦りからつい叫んでしまって、とんでもないしくじりをやらかした。
部屋の空気が生ぬるくなる……無論錯覚だが、女子三人の視線の温度がそれぞれ変わったのは、間違いのない事実で。
「……シャルロッテ? ええと、シャルル……ロッテって?」
混乱したようにつぶやいたのはプラムだが。
それは無視することにしたらしく、セイラムが静かに促した。
「仲が良くて結構だが、我々とも仲良くなってもらおうか。自己紹介を頼む。朝礼の時と違って略式でいいぞ」
「はい、いえ、いいえ! 私は名乗るほどの者ではありません!」
「…………は?」
「はっ!? ご、ごめんなさい、つい無意識に、癖で……」
今度は、胸を張って言い放ったシャルルに視線が集まり、全員の目が点になる番だった。
いや、エイジの目だけは虚ろな真っ白だ。
どうしようもないアホな既視感に、いっそ泣きたくなる痛みと痛々しさで、記憶をめった刺しにされる放心状態。
しっちゃかめっちゃかな状況で、ともかく、ようやく、ともかく。
「シャルルロッテ・クレルル・シャルルエルです! 仲良くしてくれると嬉しいな! エイジ君だけじゃなくて、そっちの子も、セイラム様も!」
むやみに晴れ渡るようなシャルルの――
というか、家名もなにもないはずの"シャルロッテ"というただの少女の明るい声が、この物語の始まりだった。