魔王デーモンに反旗を翻し、そのデータを吸収して最凶の「究極体」へと進化したアルカディモン。
そして、狂気に呑み込まれた天才テイマー・彩羽ネオ。
これまでのエイリアスⅢの激闘すらも、すべてはアルカディモンを制御するための鍵である「デジメンタル」にエネルギーを充填するための“充電作業”に過ぎなかった。
新世界「ネオ・ワールド」の創世へと突き進むネオは、その圧倒的な力でタイチたちの前に立ちはだかる。
決死の覚悟で挑む秀人のオメガモンとマリのロゼモンだったが、究極体アルカディモンの暴力的なまでの強さの前に蹂躙されてしまう。
ロゼモンは自らの命を懸けた特攻でアルカディモンの左腕を引き千切るが、力尽き落下していく。
しかし、その絶望の淵に希望の光が舞い降りる。
かつて見捨てられたメタルグレイモンの遺志を継いだミコトとギガドラモンが間一髪でロゼモンを救出し、さらに、試練を乗り越え限界以上のパワーアップを遂げたタイチと相棒・ゼロ丸が、ついに決戦の地・デーモン城へと駆けつけた。
すべてを無に還そうとする最凶の悪魔と決して諦めない心を持つテイマーたち。
デジタルワールドの命運を懸けた、正真正銘の「最後の死闘」の幕が今、切って落とされる!
「貴様らはどこまでも忌々しい……何故、俺の計画をそんなに邪魔したいんだ!?」
グリフォモンの背上で、彩羽ネオは眼下のテイマーたちを、虫ケラを見るかのような冷徹な眼差で見下ろした。
その手の中で、デジメンタルが不気味な光を放っている。
「ああ、そうだ!俺たちはな‥‥」
タイチが拳を固め、ゼロ丸と共に一歩前に出る。
暴走するかつての友を、これ以上野放しにはできない。
「ちょっと待って、タイチ君。お願いだから最初に私に話をさせて?」
悲痛な面持ちで、レイがタイチの腕を掴んだ。
懇願するようなその上目遣いに、タイチは毒気を抜かれる。
「‥‥分かった」
レイは「有難う」と小さく呟くと、意を決して兄の方に向き直った。
ネオもまた、感情の失せた瞳で妹を見返す。
「お兄ちゃん、どうしてこんなことしているの!?秀人君はお兄ちゃんの友人だったはずよ!私たち、ずっと友達として過ごしてきたじゃない!?ねぇ、現実世界に帰ろう?また一緒にあの楽しい日々に戻りましょうよ!」
自分の事故以来、心を閉ざしてしまった兄をそう簡単に諦めることなどできなかった。
レイの叫びは、血を吐くような祈りだった。
しかし、その必死の声ですら、魔王と化したネオの心には届かない。
「現実世界?ふん、そんな不完全な場所に戻る必要はない。ここが俺の世界だ!いや、『もうじき俺のものになる』と言った方が正確だな」
「お兄ちゃんはデーモンに騙されて利用されているのよ!!」
妹の憐れむような言葉に、ネオは突如、狂気じみた高笑いを上げた。
「ハッハッハ…こいつは傑作だ。レイ、お前は何も分かっていない。たかがデジモンごときが、この天才テイマーたる俺を操り、利用しているとでも本気で思っているのか!?……それにその肝心のデーモンならば、既にこの世界には存在しない」
「「「「「「えっ?」」」」」」
その場に居た全員が、ネオの発言に耳を疑った。
デーモンは城の奥で、この戦況を高みの見物と洒落込んでいるのではなかったのか?
「デーモンはもう居ない?」
「ど、どういう事だ?ネオ」
秀人がオメガモンの肩越しに問いかける。
「言葉通りの意味さ。デーモンは既に、アルカディモンの餌となったからな!!」
「な、何だって!?」
「あのデーモンが‥‥」
「アルカディモンの餌に‥‥?」
タイチたちは愕然とした。
デジタルワールドを恐怖で支配していた筈のあの魔王デーモンでさえ、ネオとアルカディモンの前には、ただの「データ資源」に過ぎなかったのだ。
だが、同時に全ての辻褄が合った。
なぜこの短時間でアルカディモンが究極体へと進化できたのか。
何故オメガモンとロゼモンという二体の究極体を同時に相手にしても、微塵もダメージを負わなかったのか?
その全ては、魔王デーモンの強大なデータをその身に宿していたからなのだ。
「フフフフフ…ハーッハッハッハ!!つまり、貴様らを除けばもう俺に敵対する者は居なくなると言う事だ!!そして……お前たちでは俺のアルカディモンには勝てない。この意味は分かるだろう?」
圧倒的な絶望を突きつけられ、テイマーたちは言葉を失う。
「お兄ちゃん、分かったわ。どうあっても止めるつもりはないのね‥‥」
レイは静かに、しかし力強く、兄への未練を断ち切るように告げた。
「当たり前だ!!此処まできて計画を中止する理由が一体何処にあると言うんだ?」
「‥‥タイチ君、ミコトちゃん、秀人君、マリさん、そしてシグマさん。お願いします……アルカディモンを斃してお兄ちゃんの暴走を止めて!!」
レイの凛とした言葉に、全員がハッとした。
「お兄ちゃんはもう、私の知っているお兄ちゃんじゃない……でも、アルカディモンさえ居なくなれば、もうお兄ちゃんはネオ・ワールドの計画は進められなくなる。それが、お兄ちゃんを救う唯一の道だから……!」
涙を堪え、きっぱりと言い切ったレイ。
かつての脚が動かずに俯くだけの車椅子の少女は、そこに居なかった。
誰よりも兄を愛し、だからこそその暴走を止めようとする、芯の強い少女がそこに立っていた。
「……ああ、任せとけ、レイ! お前の兄貴の目は、俺たちが絶対に醒まさせてやる!」
タイチが、力強い瞳でレイに頷き返した。
「ありがとう……タイチ君」
レイは微かに微笑むと、プチマモンたちと共に後方へ下がった。
タイチは前を向き、ネオをキッと睨みつける。
「ネオ、もう一度だけ聞く。本当にお前のちんけな計画を止めるつもりはないんだな?罪を改める気はないんだな?」
「ちんけ、だと?……タイチ、それはこの現状を理解したうえで言っているのか?よく見てみろよ、この戦況を‥‥」
「‥‥」
ネオがグリフォモンの上から見下ろす先‥状況は最悪のままである。
「勝率100%テイマーを名乗るなら、戦況分析ぐらいちゃんとやれよ」
「くっ‥‥」
マリの傍らに横たわるロゼモンは、全身のデータがひび割れ、今にも霧散して消滅しそうなほど、瀕死の状態だった。
「ロゼモン……ごめんね、私のせいで……」
マリが涙ながらにパートナーの身体を撫でる。
「な、泣かないで‥‥マリ‥‥私は‥‥貴女の‥パートナーに‥なれた事を‥‥誇りに思っている‥‥から‥‥」
絞り出すようなロゼモンの言葉は、別れの言葉のように聞こえた。
ロゼモンの消滅はもはや時間の問題だった。
その時、ミコトが静かにロゼモンの傍らに歩み寄り、その隣に両膝をついた。
「‥‥マリさん、少し退いてください」
「ミコト?あんた、一体何をする気……ま、まさかっ!?」
マリはミコトの特殊な力と、それに伴うリスクを事前にミコト本人から聞いていた。
そしてマリは、ミコトがこれから何をしようとしているのか瞬時に察した。
ミコトはデジヴァイスを構えるのではなく、直接両手をロゼモンの傷ついた胸元へと翳した。
彼女の手のひらから、温かく柔らかな、さくら色の光が溢れ出し始める。
「ミコト、あんた、まさか直接自分の力で……!?でも、そんな事をしたら、あんたの体が‥‥」
マリの驚愕の声に重なるように、冷酷な嘲笑が上空から降ってきた。
「フン、無駄なことを」
ネオは、グリフォモンの上でデジメンタルを弄びながら、冷ややかな視線を下ろした。
「エテモンキーからの報告やメタルファクトリーでのデータで、貴様のその『治癒能力』の欠陥は既に分かっている。他者を癒せば、その分、貴様自身の体力や精神力を著しく削るのだろう?瀕死の究極体クラスのモンスターを直接回復させようなどとすれば……貴様のそのひ弱な体では命の保証はないぞ」
ネオの氷のような指摘に、タイチや秀人の顔色が変わる。
「っ!?」
「ミコト!!やめろ!!お前が死んだら意味がねぇだろう!!」
タイチが制止しようと手を伸ばすが、ミコトは決してロゼモンから手を離そうとはしなかった。さくら色の光は、さらに輝きを増していく。
「……例え私が倒れても、タイチさんのゼロ丸さん、秀人さんのオメガモン、マリさんのロゼモン、そして私のギガドラモンが居る。私が居なくても、ギガドラモンは立派に戦える!!」
ミコトの悲痛な、しかし確固たる決意の言葉。
それに呼応するように、背後のギガドラモンが主を護るように力強く、低い咆哮を上げた。
ギガドラモンは確かにミコトのパートナーデジモンであり、ヒーリング能力の使用に伴うリスクは承知している。
だが、ギガドラモンは彼女が倒れた後でも立派に戦えると信用されたからこそ、ロゼモンの回復を止めなかった。
「ミコト……」
秀人が息を呑む。
「お願い……ロゼモン、死なないで……!!」
ミコトが振り絞るように叫ぶと、彼女の両手から放たれたさくら色の光が爆発的に輝き、ロゼモンを包み込んだ。
「あ……ああ……」
さくら色の光の中で、ロゼモンの崩れかけていたデータが瞬く間に修復されていく。
体中に走るひび割れが塞がり、その瞳に力強い光が戻った。
「ロゼモン!!」
マリが歓喜の声を上げる。
「マリ!!」
ロゼモンはゆっくりと立ち上がり、マリに向けて力強く頷いた。
しかし、奇跡の代償はあまりにも重かった。
「はぁっ……はぁ……うっ‥‥‥」
光が収まると同時、ミコトの顔からは完全に血の気が引き、蒼白になっていた。
そして、鼻からツーッと一筋の赤い血が流れ落ちる。
ドサッ‥‥
「ミコトちゃん!!」
レイの悲鳴と共に、ミコトは糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、意識を失ってしまった。
「ミコト!!」
ギガドラモンが悲痛な声を上げ、すぐさま倒れた主の身体を巨大な腕で抱え込むようにして庇う。
「バカ……あんた‥‥どうしてここまで……!」
マリがミコトに駆け寄り、その小さな身体を抱きしめた。
「……ミコトが命懸けで繋いでくれた希望だ!! 絶対に無駄にはしねえ!!」
タイチの怒号がデーモン城の夜空に響き渡る。
「行くぞ、みんな!!今度こそアルカディモンをぶっ倒す!!」
「おう!!」
秀人がデジヴァイスを天に掲げる。
限界以上のパワーアップを果たした古代種、完全体・ゼロ丸。
鋼鉄の遺志を継ぎ闘志を燃やす完全体・ギガドラモン。
ミコトの命懸けの治癒で戦線復帰を果たした究極体・ロゼモン。
そして、最強の聖騎士たる究極体・オメガモン。
テイマーたちの強い想いを受け、四体のデジモンが一斉にアルカディモンへと襲い掛かる。
究極体二体、完全体二体による、かつてない波状攻撃。
四方八方から放たれる必殺技の乱れ打ちが、デーモン城の空間そのものを揺るがせた。
しかし――。
「フッ……無駄だと言っているだろう?雑魚が束になってかかったところで、全くの無意味だ。アルカディモン、そいつらまとめて始末しろ!!」
ネオが冷酷に指を鳴らした瞬間、アルカディモンがその異形の腕を振るった。
ズガァァァンッ!!!!
「がはっ……!?」
「ぐあああっ!!」
圧倒的、あまりにも絶対的な力の差。
放たれた必殺技の嵐はアルカディモンの禍々しいオーラに触れただけで霧散し、逆に放たれた不可視の衝撃波によって、オメガモンとロゼモン、そしてギガドラモンが紙屑のように弾き飛ばされた。
「クソッ、なんて硬さだ……なら、懐に飛び込むまで!!」
ゼロ丸が仲間たちの隙を突き、超高速でアルカディモンの死角へと潜り込む。
「貰った!!」
ゼロ丸の拳がアルカディモンの顔面を捉えようとした、その刹那。
「……遅い」
アルカディモンの仮面の下の瞳が不気味に光った。
その爪が、ゼロ丸の速度を上回る凶悪なスピードで振り抜かれる。
「ゼロ!!」
ドバァァッ!!
「がはぁっ……!!」
空中で激しい血(データ)飛沫が舞う。
アルカディモンの爪はゼロ丸の右腕を抉り、背中の翼を無惨に引き裂いた。
「ゼロ!!」
タイチの悲痛な叫び声が響く。
「……ッ!? なんだ、これは……!?」
墜落していくゼロ丸を見て、シグマが驚愕の声を上げた。
モニターに映し出されたゼロ丸のデータ構造が、異常な速さで書き換えられていく。
アルカディモンの爪が触れたゼロ丸の右腕の一部、そして引き裂かれた翼の箇所‥‥
そこは単なる傷ではなかった。
データそのものがデジタルなノイズへと還元され、まるで崩れ落ちるかのように消失していたのだ。
それは、アルカディモン固有の構成プログラム分解能力『ドットマトリックス』による強制的なデータの全消去であった。
「……クッ、タイチ、ごめん……腕と、羽が……ないんだ……」
激しく地面へと叩きつけられたゼロ丸は、痛みに喘ぎながら立ち上がろうとする。
しかし、深刻なデータの消失により右腕は力なく垂れ下がり、翼はその体を支えることも、飛翔することも叶わなかった。
「ば、馬鹿な……究極体二体に完全体二体がかりで、掠り傷一つ負わせられないなんて……!」
シグマが絶望に顔を歪める。
「フハハハハ!! 見たか!?これが神に等しいアルカディモンの力だ!! 貴様ら程度の力では、もはや俺の暇潰しにもならん!!」
ネオの狂気に満ちた笑い声が、デーモン城の荒野に響く。
「タイチ、秀人、マリ!! このままでは全滅だ、一度撤退するしかない!!」
シグマがモニターから目を離し、血を吐くような声で叫んだ。
「だ、だけど!!」
「このままむざむざと‥‥」
タイチと秀人は、悔しさに唇を噛み締めた。
ここで逃げるのは、ネオに‥そしてアルカディモンに敗北を認める事になる。
それだけは、どうしても認めたくはなかった。
「ミコトを死なせる気か!?此処には戦えないレイも居るんだぞ!!」
シグマの怒鳴り声に、タイチと秀人はハッとして、マリに抱かれているミコトと震えるレイを見た。
このまま意地を張れば、確実に全員がアルカディモンの餌食になる。
「……クソッ!!」
「くっ‥‥」
タイチと秀人は悔しさに唇を噛み締め、撤退を決意した。
「ガーボ、レイを連れてギガドラモンの背中に乗れ! マリ、ミコトをお願いする! ……ゼロ、動けるか!?」
「……ちょっと、厳しいかも」
ゼロ丸が痛みに耐えながら、残った片翼で無理やり宙に浮き上がろうとする。
しかし、ドットマトリックスによってデータの基幹を失った体は、上手くバランスが取れず、すぐに地面へ這いつくばってしまう。
「ならば、ゼロは俺が連れて行く」
オメガモンが、動けなくなったゼロ丸を抱きかかえた。
デーモン城から遠ざかっていくギガドラモン、オメガモン、ロゼモンのデジモンたち‥‥。
「フン、尻尾を巻いて逃げ帰るか?無様だな。まぁ、いい……貴様らごときに構っている時間すら惜しい。ネオ・ワールドの完成は間近だ。せいぜい恐怖に震えながら、世界の終焉を待つがいい!!」
ネオは追撃を指示することなく、ただ冷酷な瞳で撤退していく彼らを見下ろしていた。
それは、絶対的な勝者としての余裕であった。
圧倒的な絶望感を背に受けながら、タイチたちは傷ついたデジモンたちと共に、重い足取りでホーリーエンジェル城への撤退を余儀なくされるのだった。
遠ざかっていくテイマーたちの姿を眺めながら、ネオは薄ら笑いを浮かべた。
そこへ、一体のネオデビモンが近寄ってくる。
「ネオ様!!あいつらに逃げられてしまいました!追いましょうか!?」
「いや、追わなくていい……アルカディモン、戻って来い!!」
ネオが声をかけると、アルカディモンはタイチたちを追いかけることなくネオの元へと引き返した。
「今回はあくまでも究極体に進化したコイツのお披露目だからな。だが次は、総力を持って奴らを叩き潰す!!」
ネオはデジメンタルを見つめながら、次の‥そして最後の攻撃への準備を静かに始めた。
ホーリーエンジェル城への長く、そして重苦しい撤退の道中。
オメガモンの腕の中で痛みに耐えるゼロ丸を見つめながら、タイチは首から提げた三つのタグをグっと握りしめた。
「……折角集めたタグが、無駄になっちまったな」
自嘲気味に呟いたその声は、風に虚しく吸い込まれていく。
本来の計画ならば、各地に散らばる五つのVタグを全て集め、万全の態勢でデーモン城へと乗り込み、諸悪の根源たる魔王デーモンを斃すはずだった。
だが、残酷な現実はタイチたちの想定を遥かに超えていた。
標的であったデーモンは、あろうことかアルカディモンに吸収され、既にこのデジタルワールドから存在を消し去られていたのだ。
そして今、あの忌まわしい城には、魔王すらも凌駕する最凶の化け物が居座っている。
(五つのタグを集める意味すら、あいつは壊しちまった……)
ギリッと奥歯を噛み締めるタイチの横顔には、かつてないほどの疲労と焦燥が滲んでいた。
何とかネオの追撃を振り切り、タイチたちは無事にホーリーエンジェル城へと逃げ延びた。
「おお……なんという事じゃ……!」
出迎えたジジモンは、ボロボロになった一行の姿を見て絶句した。
どのパートナーデジモンたちも、これまでの戦いとは比べ物にならないほどの凄まじい重傷を負っていたからだ。
ホーリーエンジェル城はすぐさま、野戦病院のような慌ただしさに包まれた。
中でも、アルカディモンの固有能力『ドットマトリックス』を間近で受けたゼロ丸の容態は深刻を極めていた。
抉られた右腕と引き裂かれた翼のデータは欠損が激しく、自身の自己修復機能すら追いつかない。
下手をすればゼロ丸自身のデータ崩壊に繋がりかねない危険な状態で、到着直後に緊急で治療室へと運び込まれた。
ガラス越しに、無数のチューブと治療用ケーブルに繋がれたパートナーを見つめるタイチの顔面は、完全に蒼白になっていた。
普段の底抜けの明るさは見る影もなく、ただ祈るようにその痛々しい姿を見守るしかない。
一方、別の病室ではミコトが静かに眠っていた。
ロゼモンに直接ヒーリング能力を使用した代償は大きく、極度の体力と精神力の消耗により、彼女もまた絶対安静で治療中であった。
「ミコト……本当に、ごめんなさい……そして、ありがとう……」
ベッドの傍らには、すっかり元の姿を取り戻したロゼモンと、そのパートナーであるマリが心配そうに寄り添っていた。
マリはミコトの冷たい手を握りしめながら、ポロポロと涙をこぼしている。
ロゼモンもまた、自らを命懸けで救ってくれた恩人の寝顔を、痛ましげに見つめていた。
そんな悲痛な空気が漂う城内で、唯一、早々に戦線復帰を果たしたのが究極体・オメガモンであった。
アルカディモンの衝撃波で深刻なダメージを負っていたものの、オメガモンは二体のデジモンが合体して誕生する『ジョグレス進化』の産物である。
一度ジョグレスを解除し、それぞれのベースとなるデジモンに分裂したのち、再び融合(ジョグレス)を果たすことで、破損したデータは綺麗に初期化・再構成され、瞬く間に傷一つない元の状態へと戻ることができたのだ。
「ジョグレスとは、何とも便利な機能だな……」
その様子を見ていたシグマが、モニターを叩きながらぽつりと漏らす。
だが、その声色に喜びはない。どれほど回復手段があろうと、あの強大なアルカディモンに対抗する術が今の彼らには全く見出せないからだ。
重く沈み返るホーリーエンジェル城。
治療室の冷たい光に照らされながら、タイチはガラスに額を押し当て、力なく垂れ下がったままのゼロ丸の右腕をじっと見つめていた。
「ゼロ……」
誰に届くわけでもないその震える呟きだけが、静かな部屋に溶けていった。
「タイチはパートナーの傍から離れようとしない。まあ無理もないな‥‥今のゼロ丸の症状を鑑みればな‥‥それにしても一体、アルカディモンはゼロ丸に何をしたと言うのだ?タイチやゼロ丸さえも分からないとなると、我々ではもはや対応のしようがない‥‥」
レオが心配になってそう呟くと横からゲコビッチが余計な口を挟んできた。
「ですから私は人間の力を借りるのは反対したゲコ。なーにが『勝率100%の大勝利』だゲコ!!」
「ゲコビッチ様、それは違います!!人間とデジモンの絆は、決してそんなちっぽけなものじゃありません!!」
すると、ガーボがゲコビッチを否定するかのように口を挟む。
彼の小さな身体が、怒りと悲しみで小刻みに震えていた。
「あそこでタイチたちが身を挺してくれなかったら、オメガモンもロゼモンも、そしてミコトちゃんたちも、全滅していたはずです! 彼らは命懸けで、僕たちを、このデジタルワールドを守ろうとしてくれているんです!」
「ゲ、ゲコ……しかし、現にあのザマではないかゲコ……勝率100%なんて、結局はホラ吹きだったという事ゲコ!」
なおもぶつぶつと文句を言うゲコビッチの前に、今度はレオが立ちはだかり、その鋭い眼光で見下ろした。
「ええい、口を慎まぬかゲコビッチ殿! ガーボの言う通りだ。今、我々が身内で争って何になる? 彼らは他所から来た人間でありながら、我々の世界のために血を流し、絶望的な戦力差を前にしても決して逃げ出さなかったのだ。その崇高な覚悟と勇気を侮辱することは、この私が許さん」
「ヒッ……わ、分かったゲコ。少し言い過ぎたゲコ……」
レオの圧倒的な気迫に押され、ゲコビッチはそそくさとその場から逃げ出していった。
「ところで、ガーボ」
「何でしょう?」
「タイチとミコト以外にも人間が居たが、彼らは一体何者だ?」
「彼らはネオのエイリアスⅢだった人たちです。ですが、今ではネオの元を去って…我々に味方してくれています。それとネオの実の妹です」
「ネオの同志に妹か‥‥タイチたちも随分と変わった客を連れて来たものだ」
紹介が終わると、シグマが重い足取りで彼らの元へ歩み寄ってきた。
その手には、分析結果を示す一枚のデータパッドが握られている。
「ゼロの負傷解析が終わった」
「ふむ、それで結果は?」
「最悪だ。アルカディモンの『ドットマトリックス』は、単なる物理的な破壊攻撃じゃない。ゼロの右腕と翼を構成していた基礎プログラムそのものを、完全に『無(ゼロ)』へと初期化してしまったんだ」
「「無へと初期化……? では、いくら治療カプセルでエネルギーを充填しても……」
「ああ。器となるデータ自体が消滅している以上、デジモン自身の自然治癒や通常の修復プログラムでは治せない。傷が塞がらないんじゃない……最初からそこには『何も無かった』ことにされているんだ。正直、生きているのが不思議なレベルのデータ欠損だ」
シグマの残酷な宣告に、レオもガーボも絶句し、ただ息を呑むことしかできなかった。
一方、治療室。
防音ガラス越しに彼らのやり取りが聞こえていたのかは分からない。
だが、タイチはただじっと、治療カプセルの中でチューブに繋がれたまま眠る相棒を見つめ続けていた。
(俺のせいだ……俺がもっと早く、ネオの奴を止めていれば……俺の指示が、あと一瞬でも遅れていなければ……)
勝率100%の誇り。それは、ゼロ丸が絶対に負けないと信じていたからこそ掲げられたものだった。
しかし今、その絶対の信頼と自信が、アルカディモンという理不尽な暴力の前に無惨にも打ち砕かれてしまった。
タイチが強く握りしめた拳から、ポタポタと血が滲み落ちる。
その時だった。
「……タイチ」
カプセルの中から、微かな、しかし確かな声がタイチの脳内に直接響いた。
ハッとして顔を上げると、ゼロ丸が片目だけを薄く開け、ガラス越しにタイチを見つめ返していた。
「ゼロ……!?お前、気がついたのか!?」
「……そんな、シケたツラ、すんなよ……タイチが下向いていたら……ボクまで、元気が出ないだろう……?」
激痛に耐えながら、それでもゼロ丸は、いつものようにニッと笑ってみせようと口角をわずかに上げた。
その痛々しいまでの強がりに、タイチの瞳から堪えきれずに大粒の涙が溢れ落ちる。
「バカ野郎……っ! お前こそ、そんな体で無理して笑うなよ……!」
「へへ……ボクは、タイチのパートナーだぜ……? この程度の傷、気合いで……なんとか、してやるよ……だから、泣くな……タイチ……」
ゼロ丸の言葉はそこで途切れ、限界を迎えた意識は再び深い眠りへと落ちていった。
しかし、その顔は先ほどまでの苦痛に満ちたものではなく、タイチの顔を見ることが出来た安心からか、どこか安らかなものに変わっていた。
ガラスに押し当てていたタイチの手。その向こう側で、ゼロ丸の残された左手が、微かにガラスに触れている。
それは間違いなく、二人の心が深く繋がっている証だった。
「……ああ、そうだな。お前の言う通りだ、ゼロ。俺たちは、まだ負けちゃいない」
タイチは溢れる涙を乱暴に袖で拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先程までの絶望や焦燥は完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは、かつての『勝率100%のテイマー』としての、強く、決して折れることのない闘志の炎。
「待っていろよ。ネオ、アルカディモン……! ゼロの腕と羽の分、絶対に百倍にして返してやるからな……!!」
静まり返った治療室に、タイチの静かな、しかし確固たる誓いの言葉が力強く響き渡った。
絶望の淵に立たされてなお、テイマーとデジモンの絆の光は、決して消えてはいなかった。
一方、ミコトが静かに横たわる治療室は、電子生命体の修復プログラムが放つ淡いグリーンの光に包まれていた。
かすかな機械音だけが響く部屋の中には、重苦しい沈黙が満ちている。
ベッドの傍らでミコトの冷たい手を両手で握りしめているのは、マリだった。
「ねぇ、ミコト……起きてよ、ミコト……」
マリの瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、ミコトの白い布団を濡らしていく。
そのすぐ後ろでは、完全に傷の癒えたロゼモンが、悲痛な面持ちでパートナーの肩にそっと手を置いていた。
「マリ、自分を責めないで‥あの子は……ミコトは、自分の意志で私とあなたを救ってくれたのよ」
「分かっている……分かっているけど……!私たちが不甲斐ないせいで、完全体のギガドラモンのテイマーであるあの子に、こんな命懸けの真似させちゃったんだよ……? もしあの子がこのまま目を覚まさなかったら、私は……!!」
悔しさと罪悪感で声を震わせるマリ。
その時、治療室の重厚な扉が静かに開き、ホーリーエンジェモンとジジモンが入ってきた。
「どうじゃ?ミコトの様子は……?」
ジジモンが皺深い顔をさらに歪め、心配そうにベッドを覗き込む。
「バイタルデータは安定へと向かっています。しかし……」
ロゼモンが静かに答えた。
「彼女が放ったあの『さくら色の光』は、デジモンのデータ構造を強制的に最適化・再構成するほどの超高密度な生命エネルギーでした。人間としての精神力と体力の限界を遥かに超えた出力をしたため、脳と神経系にかかった負荷は未だに抜け切っていません」
ジジモンは深くため息をつき、首を振った。
「まさか、人間にこれほどの能力を秘めた者がおるとは……しかし、ネオの奴め、その欠陥を知りながら精神的に追い詰め、能力を暴走させようとした行為は断じて許せるものではない……いや、許せんわい!」
激しい怒りを露わにするジジモンを宥めるように、ホーリーエンジェモンが一歩前へ出た。
その背にある聖なる翼は、デーモン城での戦況、そしてネオが語った驚愕の事実への危機感で硬く引き締まっている。
「それにしてもまさか、あの魔王デーモンがアルカディモンに吸収され、既に消滅していたとはな……」
ホーリーエンジェモンの厳かな声に、マリが涙を拭いながら顔を上げた。
「ホーリーエンジェモン……」
「我々はデーモンを斃すために戦力を整えていた。だが、敵の首魁はすでに彩羽ネオとデーモンの力を取り込んだアルカディモンへとすり替わっていたのだ。究極体のオメガモンとロゼモンの二体を容易く蹂躙するあの暴力……デジタルワールドの法と秩序が、根底から覆されようとしている」
ホーリーエンジェモンは、ベッドで眠るミコトを見つめた。
その眼差しには、深い憂慮とともに、人間という存在への強い敬意が宿っていた。
「だが、絶望ばかりではない。このミコトという少女が示した『自己犠牲の絆』、そしてタイチたちの決して折れぬ闘志……それらはデジタルワールドのプログラムの枠を超えた、奇跡を呼び起こす力だ。ネオがどれほど冷酷にデータを切り捨てようとも、この絆の輝きまでは消去できまい」
「ホーリーエンジェモン……」
ロゼモンがその言葉に深く頷く。
「ジジモン、城の総力を挙げてミコト、そしてゼロ丸の治療を最優先に‥シグマにはアルカディモンの『ドットマトリックス』に対抗する防壁プログラムの構築を急がせろ。ネオ・ワールドの創世など、この私が絶対に阻止してみせる」
「応ともさ! すぐに手配するわい!」
ジジモンが力強く頷き、部屋の通信機へ向かう。
ホーリーエンジェモンは最後にマリの隠しきれない不安な表情をそっと見つめ、静かに告げた。
「マリ、今はただ、彼女を信じて寄り添ってあげてくれ。君たちの絆が、彼女をこちらの世界へと引き戻す一番の錨となるはずだ」
「……はい」
マリは涙を拭い、もう一度ミコトの手をきゅっと握りしめた。
ホーリーエンジェモンが部屋を去り、再び静けさが戻った治療室。
グリーンの光に照らされる中、マリの温かい涙がミコトの手の甲に落ちた。
その瞬間――
「う……ん……」
ミコトの青白い唇から、微かな、本当に微かな喘ぎ声が漏れた。
ミコトの長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと、しかし重そうにその瞳が開かれる。
まぶしそうに何度か瞬きをした後、彼女の視界に飛び込んできたのは、涙で顔をグシャグシャにしたマリの顔だった。
「ミコト……!? あんた、目が覚めたのね!?」
マリの叫び声に、部屋の隅で通信機を操作していたジジモンが飛び上がらんばかりに振り返る。
「おおお! ミコト殿が意識を取り戻されたか!」
「マリ……さん……?」
ミコトはまだ完全に回りきらない頭で、掠れた声を絞り出した。
全身を襲う、鉛のように重い倦怠感。
他者を直接癒やす能力の代償は、彼女の小さな身体を激しく蝕んでいた。
しかし、ミコトは自分の容態よりも先に、ベッドの傍らに立つ美しいデジモンの姿に目を留めた。
装甲のひび割れは消え、失われていた左腕も元通りに再生している。
「ロゼモン……よかった、無事、なんですね……?」
「ええ、あなたの命懸けの力のおかげよ。ありがとう、小さなテイマー。この恩は一生忘れないわ」
ロゼモンが深く、敬意を込めて一礼する。その姿を確認すると、ミコトの青白い顔にようやく安堵の笑みが浮かんだ。
だが、すぐに何かに気づいたように、不安げに周囲を見回す。
「あの……ギガドラモンは……? 私が倒れた後、ちゃんと戦えたでしょうか?……それに無事なんでしょうか?」
「バカ……! あんたって子は、どこまでお人好しなのよ!」
マリはミコトの手をさらに強く握りしめ、堪えきれずにまた涙を溢れさせた。
「ギガドラモンなら、あんたに『立派に戦える』って信頼された通り、最後まで立派だったわよ! 今は治療室の外で、あんたが目を覚ますのを健気に待っている。傷は負っているけど、データの欠損はなくて無事だから安心しなさい!」
「そうですか……よかった……」
ミコトはほっと胸を撫で下ろした。
メタルグレイモンの遺志を継ぎ、共に戦うと誓った相棒が守り抜かれたことが、今の彼女にとって何よりの救いだった。
しかし、部屋に漂う重苦しい空気から、ミコトは戦況が芳しくないことを察知する。
「マリさん……タイチさんや秀人さんたちは……? アルカディモンは、どうなったんですか……?」
その問いに、マリは一瞬言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛んだ。代わりにジジモンが、沈痛な面持ちでベッドへ近づいてくる。
「……ミコト殿。悲しいが、デーモン城での戦いは我々の完敗じゃった。オメガモン、ロゼモン、そしてギガドラモンとゼロ丸の四体でおとりかかったのじゃが、アルカディモンの圧倒的な力の前に一蹴されてしもうた。今は皆、このホーリーエンジェル城へ撤退してきている」
「そんな……あの四体がかりでも……」
「それだけではないのじゃ。ゼロ丸が奴の放った『ドットマトリックス』という技をまともに喰らってしまいな……。右腕と翼のデータが『初期化』され、消滅してしもうた。通常の治療プログラムでは再生できんほどの重傷で、タイチは今も隣の治療室で付きっきりじゃ」
ジジモンの口から語られる絶望的な現実に、ミコトは息を呑んだ。あの絶対的な強さを誇るタイチとゼロ丸が、そこまでの傷を負わされるなんて想像もしていなかった。
「ネオの奴……実の妹のレイちゃんの言葉すらイレギュラーなバグと言い切って、世界を消去しようとしている。本当に、あいつは狂っちゃったんだわ……」
マリが拳を握りしめ、悔し涙を床に落とす。
部屋全体が再び深い絶望に包まれそうになった、その時。
「……でも、私たちはまだ、諦めていませんよね」
ミコトの、静かだが凛とした声が響いた。
顔色はまだ悪く、鼻に詰めた綿には微かに血が塗れている。それでも、彼女の瞳には確固たる『希望の光』が灯っていた。
「私がロゼモンさんを救えたように、人間とデジモンの絆には、デジタルワールドのルールを超える力があるはずです。タイチさんも、ゼロ丸さんも、きっとここで終わるような人たちじゃありません」
ミコトはベッドの上で、痛む体に鞭打ってゆっくりと上体を起こした。
「ネオさんがどれだけ冷酷になっても、私たちが繋いだこの絆の力まで消去することは絶対にできません……マリさん、私をタイチさんたちのところへ連れて行ってください。私も、まだ戦えます」
「ミコト……」
マリは驚きに目を見張った。自分たち究極体テイマーが絶望しかけていたというのに、完全体のテイマーであるこの少女は、傷だらけの体で前を見据えている。
「ふふ、本当に強い子ね。……分かったわ。でも、歩くのは無理禁止! あたしが車椅子を押してあげる」
マリは涙を拭い、いつもの不敵で勝気な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、マリさん」
ミコトの目覚め、そして彼女が示した不屈の意志は、敗北に沈んでいたホーリーエンジェル城に、小さくも決して消えない反撃の種火を灯そうとしていた。