新世界「ネオ・ワールド」の創世を目論み、狂気に呑み込まれた天才テイマー・彩羽ネオ。
彼が操る最凶のデジモン・アルカディモンは、デジタルワールドを恐怖で支配していたはずの魔王デーモンすらも吸収し、神にも等しい力を持った究極体へと進化を遂げていた。
ミコトが己の命を削る治癒能力で、間一髪で瀕死のロゼモンを救い出し、オメガモン、ロゼモン、ギガドラモン、そしてゼロ丸の四体のデジモンたちによる決死の総力戦を以てしても、アルカディモンの暴力的なまでの力の前には傷一つ負わせることすら叶わなかった。
しかも、ゼロ丸はアルカディモンの絶対的消去プログラム『ドットマトリックス』の凶刃を受け、右腕と翼のデータそのものを「虚無(ゼロ)」へと初期化されてしまう。
満身創痍となったテイマーたちは、無念の撤退を余儀なくされホーリーエンジェル城へと逃げ延びた。
通常の手段では決して再生できないゼロ丸の深刻なデータ欠損、そしてロゼモンを救うために力を使い果たし倒れたミコト。
ホーリーエンジェル城全体が、抗いようのない圧倒的な敗北感と絶望に包み込まれる。
――だが、どれほど深い暗闇に突き落とされようとも、テイマーとデジモンの「絆」の光は決して消えはしなかった。
激痛に耐えながら、不敵に笑ってみせた相棒・ゼロ丸の姿に、タイチは「勝率100%」の闘志を再び激しく燃え上がらせる。
そして、死の淵から目覚めたミコトもまた、傷ついた身を押して立ち上がり、反撃の意志を明確に示した。
すべてを無(ゼロ)に還そうとする冷酷な数式に、決して折れることのない熱き魂が立ち向かう。
デジタルワールドの命運を懸けた、正真正銘の「最後の死闘」の幕が今、切って落とされようとしていた――!
ホーリーエンジェル城の最深部にある中央管制室。
無数のモニターが怪しく明滅する中、シグマは狂ったような速度でキーボードを叩き続けていた。
その青白い顔には大粒の汗が浮かび、幾度もエラーを告げる警告音が室内に虚しく響く。
「クソッ……! どうやっても計算が合わない……! 既存のどの修復プロトコルを使っても、ゼロ丸の欠損データを読み込むことすらできないなんて……!」
シグマは頭を掻きむしり、モニターを睨みつけた。
画面に映し出されているのは、ゼロ丸のデータ構成図だ。
右腕と翼があったはずの領域は、単なる「バグ」や「破損」ではなく、まるで最初から存在していなかったかのように完全に塗り潰された、漆黒の「虚無(ゼロ)」を示していた。
「ドットマトリックス……プログラムの破壊じゃない。文字通り、データを『0』に初期化する究極の消去能力。こんな理不尽なプログラム、どうやって上書きしろって言うんだ……!」
その時、管制室の自動ドアが静かに開いた。
振り返ると、マリが車椅子を押して、まだ顔色の悪いミコトを連れて入ってきた。
その後ろにはロゼモン、そしてジジモンも続いている。
「シグマ……アンタ、まだ根詰めているの? 部屋の外まであんたのキーボードを叩く音が聞こえていたわよ」
「マリ‥それにミコト。君は気を失ったって聞いたけど、もう動いて大丈夫なのか?」
シグマが驚いて声を上げると、ミコトは微かに微笑み、小さく頷いた。
「はい、マリさんやロゼモンさんのおかげで……それよりシグマさん、ゼロ丸さんのデータは……」
「……最悪さ」
シグマは自嘲気味に肩を落とし、画面を指さした。
「アルカディモンの攻撃で消された部分は、データの『器』そのものが消滅している。デジタルワールドの通常のルールでは、無いものは直せない。これがボクの導き出した、勝率0%の現実だよ……」
管制室に重苦しい沈黙が流れかける。
しかし、ミコトは真っ直ぐにその黒い虚無の画面を見つめ、静かに呟いた。
「ルールで直せないなら……ルールそのものを書き換えるしか、ないんですよね? ネオさんが、この世界を『ネオ・ワールド』に書き換えようとしているみたいに‥‥」
「えっ……?」
ミコトのその言葉に、シグマの脳裏を電撃のような衝撃が駆け抜けた。
(ネオ・ワールド……世界の書き換え……? 待てよ、ネオの計画は、デジタルワールドの全データを一度リセットし、新世界を創世することだ。リセットということは、世界規模の『ドットマトリックス』を行うのと同じ……)
シグマの目が、かつてないほど鋭く見開かれる。
彼はかつてエイリアスⅢの一員として、ネオの傍らでその狂気的な計画の片鱗を見ていた。
そして、ネオが独自に構築していた新世界の基幹プログラム――『ネオ・ワールドの防壁メモリ』のバックアップデータを自身の端末に隠し持っていたことを思い出したのだ。
「そうだ!!それだ!!なぜ気づかなかったんだ!?」
シグマは弾かれたように再びキーボードに向かい、指を走らせた。
暗号化された過去のファイルを強引にこじ開け、ネオ・ワールドの防壁シミュレートを展開する。
画面に映し出されたのは、複雑に絡み合う幾何学的なコードの壁だった。
「見てくれ! ネオは世界を完全に初期化(消去)するつもりだ。だけど、その消去の嵐の中で、ネオ自身やアルカディモン、そしてデジメンタルだけは消えずに残るように設計されている。つまり、この防壁メモリにはどれほど強力な消去プログラムを受けても、それを無効化し、強制的にデータを維持・再構成する逆変換コードが組み込まれているんだ!」
マリが身を乗り出す。
「それって、つまり……ゼロ丸の消えた腕と翼が元通りになるってこと!?」
「……いや、そうじゃない」
シグマは首を横に振った。その瞳には、かつてないほど鋭いハッカーとしての光が宿っている。
「この『アンチ・ドットマトリックス』は、消去された元データを復元するプログラムじゃない。一度消え去ったものは、もう二度と戻らない。だけど……この虚無になった領域に、『新しいデータの器』を強制的に生成することはできる!」
「新しいデータの器……?」
「そう! ゼロ丸は単に元に戻るんじゃない。失ったものを乗り越えて、全く新しい次元へと生まれ変わるんだ。理論上の勝率は……100%に跳ね上がる!」
「すごいわ、シグマ!」
マリが歓声を上げ、ミコトも嬉しそうに胸を撫で下ろした。
しかし、シグマはすぐに表情を険しくし、腕を組んだ。
「……だけど、大きな問題が一つある。虚無の領域に新しいデータの器を創り出し、このプログラムを起動させるには、通常のデジモンのデータ量じゃ全く足りない。ホーリーエンジェル城の全エネルギーを回しても、一瞬で枯渇するほどの『超高密度な生命エネルギー』が必要不可欠なんだ。そんなもの、どこから調達すれば……」
シグマが言いかけたその時、管制室の扉が勢いよく開いた。
「――だったら、俺たちの出番だな!」
強い意志を宿した声とともに、タイチが部屋へと足を踏み入れてきた。
その瞳には、先ほどまでの絶望など微塵も残っていない。
「タイチさん!」
ミコトが声を上げる。
タイチは首から下げた三つの「Vタグ」をジャラリと鳴らし、不敵に笑ってみせた。
「シグマ、理屈はよく分からねぇが、要するに『規格外のエネルギー』があればゼロの腕と翼は新しく生まれ変わるんだな? だったら、これと……俺とゼロの絆を舐めてもらっちゃ困るぜ!」
テイマーたちの視線が、タイチの胸元で静かに光るタグ、そして何より、諦めることを知らないその熱い瞳へと集まる。
最悪の絶望の最中で、彩羽ネオを打倒するための、本当の反撃のピースが繋がり始めていた。
タイチが掲げた三つのVタグが、管制室のモニターの光を反射して鈍く輝く。
シグマはその輝きに目を見張り、すぐさまメインコンピューターへタグのデータスキャンを命令した。
「これは……!? Vタグに蓄積された古代種デジモンたちの進化データ……いや、これは……デジモンと人間が積み重ねてきた『感情』そのものが記録されているのか!?」
シグマは信じられないものを見るように画面を凝視した。
「ボクの『アンチ・ドットマトリックス』を起動させる起爆剤として、これ以上のものはない……!
タイチ、すぐに解析とエネルギーバイパスの構築に入るよ。これには少し時間がかかる、いいかい?」
「おう、全面的に任せるぜ、シグマ! 俺は治療室のゼロの様子を見てくる!」
タイチが力強く頷き、管制室を飛び出していく。
その背中を見送った後、マリは車椅子の上のミコトの肩をそっと叩いた。
「ミコト。あんた、目が覚めてからまだ『あいつ』にちゃんと挨拶してないでしょう? シグマが準備を整える間、顔を見に行ってあげなさいよ」
「マリさん……はい、ありがとうございます」
ミコトは小さく微笑んだ。
ロゼモンを救うために力を使い果たし、目覚めてからすぐに管制室へ向かったため、自身のパートナーであるギガドラモンの元へはまだ行けていなかったのだ。
マリは優しく車椅子を押し、城の裏手にある広大なデジモン用待機所へとミコトを連れて行った。
ひんやりとした夜気が満ちる待機所。
そこには、デーモン城での激戦で体中を傷だらけにしたギガドラモンが、巨体を丸めるようにして静かに横たわっていた。
サイボーグデジモン特有の金属部分には痛々しい引っかき傷や焦げ跡が無数に残り、その巨躯からは時折、データの負荷を示すかすかな駆動音が漏れている。
車椅子の車輪の音に気づいたのか、ギガドラモンが重い頭部をゆっくりと持ち上げた。
その眼が、車椅子に乗った小さな少女の姿を捉える。
「――ギガドラモン」
ミコトが愛おしそうにその名前を呼んだ。
その瞬間、それまで死んだように静まり返っていたギガドラモンの巨体が、歓喜に震えるように大きく揺れた。
「ミコト!良かった!!目が覚めたんだね!?」
低く、しかし地響きのような、どこか甘えるような鳴き声を上げながら、ギガドラモンは長い首を伸ばしてミコトの元へと這い寄ってくる。
そのあまりの巨体と迫力に、普通の人間なら恐怖で身をすくめるところだが、ミコトはただ愛おしそうに両腕を伸ばした。
ギガドラモンは、自身の凶悪な鉄の顎(あぎと)を、車椅子の上のミコトの膝元へと、壊れ物を扱うかのようにそっと、信じられないほど優しく預けた。
「ごめんね、心配させちゃって……私のために、最後まで立派に戦ってくれて、本当にありがとう」
「僕はミコトのパートナーだからね。ミコトが僕を信頼してくれるなら、僕はその信頼にこたえなければならない義務がある」
ミコトは、まだ少し震える白く華奢な手で、ギガドラモンの冷たい漆黒の装甲を優しく撫でた。
ギガドラモンはウィルス種のデジモンであり、本来は破壊と闘争を好む不吉な暗黒飛竜だ。
しかし、ミコトの手のひらから伝わる温もりを感じると、まるで主を慕う従順な獣のように、嬉しそうに目を細めて喉を鳴らした。
かつて傷ついたメタルグレイモンのデータと遺志を受け継ぎ、ミコトの新たなパートナーとして生まれ変わったギガドラモン。
ミコトが倒れたあの瞬間、ギガドラモンは恐怖に駆られることなく、主から託された「お前は立派に戦える」という信頼の言葉(プログラム)だけを胸に、究極体アルカディモンの猛威の前に立ちはだかり続けた。
ミコトを護るという鉄の意志。
それは、彼らの魂の奥底で固く結ばれた、決して引きちぎることのできない「絆の糸」そのものだった。
「私は、もう大丈夫。だから……もう一度だけ、あなたの力を私に貸してくれる?」
「ああ、勿論だとも」
ミコトの問いかけに、ギガドラモンは力強く首を持ち上げ、夜空を焦がさんばかりの鋭い咆哮を小さく轟かせた。
その瞳には、主と共に再び戦場へ赴く覚悟の炎が燃え盛っている。
後ろで見守っていたマリは、その光景に目元を熱くしながら、フッと微笑んだ。
「まったく……完全体と人間の女の子のくせに、とんでもない絆を見せつけてくれるじゃない。これじゃあ、あたしたち究極体コンビも格好悪いところは見せられないわね、ロゼモン」
ロゼモンもまた、マリの隣で深く頷く。
「ええ、勿論ですとも‥ネオがどれだけ冷酷な数式で世界を塗り替えようとも、この子たちが繋いだ魂の輝きまでは、絶対に消去させはしないわ」
傷だらけのサイボーグデジモンと、車椅子の少女。
互いの存在が、互いの命の灯火であると確かめ合うように、二人は静かに寄り添い続けた。
それは、これから始まる本当の最終決戦に向け、絶望を希望へと反転させるための、静かで力強い誓いの儀式であった。
ミコトが自身のパートナーと再会した頃、ホーリーエンジェル城の中央管制室の床が静かに割れ、重厚なガラスシリンダー状の「データ転送カプセル」がせり上がってきた。
カプセルの中央には、右腕と翼を失い、痛々しい姿のまま横たわるゼロ丸が固定されている。
その周囲を、シグマが即席で構築した高密度エネルギーのパイプラインと、無数のデータスキャナーが取り囲んでいた。
「ゼロ、聞こえるか? これからお前の虚無の領域に、タイチの精神エネルギーとVタグのログを直接流し込み、新しい器を創り出す……ものすごい衝撃が来るが耐えてくれよ」
シグマがマイク越しに呼びかけると、カプセルの中のゼロ丸は、残された左目を僅かに開き、不敵にニヤリと笑ってみせた。
その表情だけで、シグマには十分だった。
「よし……タイチ、リンクシートへ!」
タイチはカプセルの正面に設置されたコントロールシートへと深く腰掛けた。
シグマの手によって、両側頭部に精神波同調用のヘッドギアが装着される。
シートの中央コンソールには、タイチのデジヴァイスと激しく明滅を繰り返す三つのVタグがガッチリとロックされた。
「タイチ、もう一度言うよ。これはお前たちの『絆』そのものを数値化して叩き込む作業だ。迷いや恐怖は、そのままゼロ丸を消滅させる毒になる」
「しつこいぞ、シグマ。俺とゼロを誰だと思っているんだ?」
タイチは不敵に笑い、コンソールのレバーを強く握りしめた。
「さあ、いつでもいけるぜ――勝率100%の本当の力を見せてやる!」
「システム起動(ブートアップ)! 『アンチ・ドットマトリックス』、作動!!」
シグマが渾身の力でエンターキーを叩いた。
瞬間、管制室全体の照明が落ち、代わりにVタグから放たれた凄まじい黄金の光が、部屋中を真っ白に染め上げた。
交錯する魂とデータの奔流‥コンソールから伸びた光のラインがタイチのヘッドギアへと繋がり、同時にカプセル内のゼロ丸へと直結する。
『同調率(シンクロレート)……10%……25%……40%! 精神リンク、安定!』
機械的なアナウンスが響くと同時に、タイチの脳内に凄まじい衝撃が走った。
「――ぐっ……あ、あああああッ!!」
タイチは思わず絶叫し、全身の筋肉を激しく硬直させた。
脳裏に直接流れ込んでくるのは、アルカディモンにデータを消去されたゼロ丸の「底知れぬ痛みの記憶」だ。
右腕と翼を引きちぎられ、存在そのものを消されかけるという、デジモンにとっての死以上の恐怖。
それがテイマーであるタイチの精神へと容赦なくフィードバックされる。
(これが……ゼロの味わった苦しみか……! だけど、これしきのことで……へこたれる俺たちじゃねぇだろう!?)
タイチは歯を食いしばり、血が滲むほど拳を握った。
恐怖に呑まれるどころか、タイチの心からは、ゼロ丸への激しい怒りと「絶対に救う」という狂おしいほどの情熱が、さらなる濁流となってシステムへと逆流していく。
カプセルの中のゼロ丸が、カッと目を見開いた。
『ガアアアアアアッ!!!』
ゼロ丸の咆哮が響き渡る。
タイチから流れ込んできた不屈の精神エネルギーが、ゼロ丸の魂に火をつけたのだ。
二人の魂が完全に一つに重なり合ったその瞬間、コンソールにセットされたVタグが、これまでにない異常な輝きを放ち始めた。
「Vタグが……古代種の記憶データが『発光』を始めた……! 計算を遥かに超えるエネルギーだ!」
シグマの悲鳴に近い叫び。
モニターには、Vタグから溢れ出た超質量データが、ゼロ丸の右腕と翼の「虚無(ゼロ)」の領域へと怒涛勢いで流れ込み、漆黒のバグを黄金のコードで強引に塗り替えていく様が映し出されていた。
『同調率、70%……85%……90%……! 限界値を突破します!』
「いっけええええええ!! ゼロ――ッ!!!」
タイチの魂の叫びに呼応するように、カプセルから爆発的な光の嵐が吹き荒れた。
ゼロ丸の失われたはずの右腕と翼の領域に、まばゆい黄金の光の粒子が集い、全く新しいデータの器が形作られていく。
それは元の姿への再生ではない。ゼロにされたからこそ到達し得る、未知なる変革の胎動だった。
まばゆい黄金の光が転送室を満たし、システム音声が同調率の限界突破を高らかに告げる。
だが、奇跡の代償とも呼べる凄まじい精神負荷は、確実にタイチの肉体と精神を限界まで追い詰めていた。
「ぐっ……ああああああっ!!」
ヘッドギアを被ったタイチの身体が、激しい痙攣を起こす。
アルカディモンによって穿たれた『無(ゼロ)』の領域に、膨大な古代種のデータで新しい器を無理やりこじ開け、新たな形へと変革させる。
それは、生身の神経に直接焼けた鉄の杭を打ち込まれ続けるような、筆舌に尽くしがたい絶望的な痛みだった。
「タイチさん!」
見学室のガラス越しにその惨状を見ていたミコトは、顔面を蒼白にさせた。
タイチの強靭な意志がゼロ丸を繋ぎ止めているとはいえ、このままではデータの変革が完了する前に、タイチの精神そのものが負荷に耐えきれず完全に焼き切れてしまう。
(このままじゃ……二人がダメになってしまう……!)
ミコトは弾かれたように震える手を伸ばし、自ら車椅子の車輪を回して冷たい防音ガラスへと近づいた。
そして、カプセルの中で苦悶するタイチたちへ向けて、両手を強く押し当てた。
「ミコト!? あんた、何をする気……!」
マリがハッとしてミコトの肩を掴む。
ミコトの青白い額には冷や汗が浮かび、目は今にも気を失いそうに虚ろだ。
しかし、彼女はガラスから手を離そうとはしなかった。
「……データの修復は、シグマさんとタイチさんにしかできません。でも……あの『痛み』からタイチさんの心を護ることなら……私にも、できます……!」
ミコトが静かに目を閉じると、彼女の小さな両手から、ふわりと淡いさくら色の光が立ち上った。
ロゼモンの命を救った時のような強烈な輝きはない。
ミコトの身体の奥底に残されていた最後の生命力を絞り出した、ひどく儚く、けれど限りなく優しい『さくら色の光』。
「ミコト、やめなさい! これ以上力を使ったら、今度こそあんたの命が……!」
「お願い……届いて……!!」
マリの悲痛な叫びを背に受けながら、ミコトは祈りを込めて光を放った。
さくら色の光は強化ガラスを静かに透過し、荒れ狂う黄金のデータストームの中へと溶け込み、苦悶するタイチの身体をそっと包み込んだ。
「あれは……ミコトの光か!?」
モニターを見ていたシグマが驚きの声を上げる。
「違う、ミコトの能力はデータを修復しているんじゃない! タイチとゼロ丸の精神リンクにかかっている異常な負荷を緩和しているんだ!」
絶え間なく続く業火のような痛みと、虚無に引きずり込まれそうになる恐怖。
その漆黒の暗闇の中に、突如として春の陽だまりのような温もりが舞い降りた。
(……なんだ……? 痛みが、和らいでいく……)
『タイチさん……ゼロ丸さん……負けないで……!』
直接脳内に響いたその声に、タイチはハッと目を見開いた。
さくら色の柔らかな光が、タイチとゼロ丸の魂を繋ぐ精神のパイプを優しくコーティングし、アルカディモンのもたらす「消去の激痛」を緩和する強力な緩衝材(バッファー)となって二人を支えていたのだ。
(ミコト……お前、自分の体もボロボロのくせに……無茶しやがって……!)
しかし、その小さな少女が命を削って繋いでくれた温もりのおかげで、タイチの精神を曇らせていた痛みのノイズは完全に消え去った。
視界がクリアになり、タイチは再び前を向く。
己の魂の奥底で、ゼロ丸の力強い鼓動がはっきりと感じ取れた。
(ゼロ! ミコトが護ってくれている! このまま一気に……『壁』をぶち破るぞ!!)
『……ああ! 任せとけぇっ!!』
タイチの闘志に呼応するように、ゼロ丸の意識が爆発的に膨れ上がった。
「シグマァッ!! 最大出力だ!!」
「了解した! アンチ・ドットマトリックス、上書き実行(オーバーライト)!!」
見学室のガラス越しに、タイチが力強く吼える。
さくら色の光に護られたタイチとゼロ丸の100%の絆が、Vタグの古代種データと完全に融合し、一つの巨大な奔流となった。
カプセルの中で、ゼロ丸の右腕と翼の『無』の領域に、黄金のデータが凄まじい密度で肉付けされていく。
いや、それだけではない。
ゼロ丸の全身の装甲が、データ構造そのものが、かつてない高次元のプロトコルへと再構成され始めていた。
カッ……!!
次の瞬間、転送室全体を包み込んでいたすべての光が、ゼロ丸の身体へと一気に収束した。
「……はぁっ……はぁっ……」
ヘッドギアを外し、肩で息をするタイチの顔には、疲労よりも深い達成感と歓喜の笑みが浮かんでいた。
一方、見学室のガラスに手をついていたミコトは、光が収まると同時に完全に糸が切れたように脱力し、車椅子の上でぐらりと身を揺らした。
「ミコト!」
マリが慌ててその身体を抱き止める。
「……マリさん……タイチさんたちは……?」
「ええ、ええ! あんたの祈りは、ちゃんと届いたわよ! もう無理しないで、休んでなさい……!」
マリの腕の中で、ミコトは安堵の笑みを浮かべ、そのまま静かに深い眠りへと落ちていった。
「……サンキューな、ミコト」
タイチはガラス越しのミコトに向けて小さく感謝を呟くと、冷却ガスが晴れゆく転送室の中央へと力強い眼差しを向けた。
ゼロにされた右腕と翼は、新しく力強いフォルムとなって生まれ変わっていた。
あとはゼロ丸の意識が戻るだけだった。
一方、その頃、新たな主を迎える事になったデーモン城では‥‥
その最上階に位置する玉座の間で、彩羽ネオは宙に浮かぶ無数のホログラムモニターを冷徹な瞳で見つめていた。
画面には、彼が理想とする新世界『ネオ・ワールド』を創生するための、世界の全データ初期化プロセスが規則的な数式となって流れ続けている。
「……順調だ。残る不確定要素を完全にデリートすれば、俺の完璧な世界が完成する」
ネオが独り言ちた、その時だった。
――ズズズズズッ……!!
堅牢なデーモン城全体が、微かな、しかし確かな振動に見舞われた。
同時に、ネオの周囲を取り囲んでいたホログラムモニターのいくつかが、突如として耳障りなエラー音を鳴らし、真っ赤な警告色(アラート)へと染まり上がった。
「なんだ? 局地的なデータ異常……?」
ネオは眉をひそめ、すかさずコンソールを操作して異常の震源地を特定する。
モニターが映し出したのは、遠く離れたホーリーエンジェル城の方角。
そこから、デジタルワールドの厚く淀んだ暗雲を完全に吹き飛ばし、天を貫くほどの巨大な光の柱が立ち昇っていた。
ただの光ではない。圧倒的な質量を持った黄金のデータストームの中に、ひどく非論理的で、しかし温かな「さくら色の光」が螺旋を描いて混じり合っている。
『ギ……ギィィィィ……ッ!!』
ネオの背後に付き従っていた異形の魔神――アルカディモンが、その光の波長に呼応するように、不快げな、そしてどこか警戒を孕んだ低い咆哮を漏らした。
「アルカディモンの『無(ゼロ)』の力を打ち破るほどのデータ出力だと……? あり得ない」
ネオの秀麗な顔に、明らかな苛立ちが浮かぶ。
手元のノートパソコンが凄まじい速度で光の成分を解析しようと演算を繰り返すが、モニターに弾き出される結果はすべて『解析不能(OVER FLOW)』の文字ばかりだった。
「ドットマトリックスで構成プログラムごと初期化したはずだ。デジタルワールドの既存のルールにおいて、ゼロをイチに戻すことは絶対に不可能だ……」
ネオは思考を高速で回転させる。
「防壁メモリ……? まさか、シグマがあれを使ったのか? それだけじゃない……この異常な出力は何だ? Vタグ……?」
モニターに映る無数のエラーコードを睨みつけながら、天才たるネオの頭脳が、ついに一つの不条理な解に辿り着く。
「……まさか、『感情』をエネルギー源にしたのか?」
ネオの目が驚愕に僅かに見開かれた。
防壁メモリの逆変換プロトコルに、Vタグの古代種データ、そして……テイマーたちの『感情』という非論理的なバグを掛け合わせて、ルールそのものを書き換えた。
自分が見下し、切り捨ててきた不確定要素が、今まさに奇跡を起こし、新たなる次元への扉をこじ開けたのだ。
「……八神タイチ。どこまで俺の計算を狂わせれば気が済むんだ、お前は‥‥」
ネオは忌々しげに吐き捨てた。
しかし、その顔に浮かんだ苛立ちはすぐに冷酷な笑みへと塗り替えられた。
「面白い。だが、どんなに強大なバグを生み出そうとも、所詮は旧世界の遺物に過ぎない。俺が創り出す絶対的な新世界のルール(数式)の前では、すべてが等しくデリートされる運命だ」
ネオは玉座からゆっくりと立ち上がり、天を焦がす遠くの光の柱を真っ向から見据えた。
その瞳には、かつてのタイチに対する容赦のない殺意と、神を自称する絶対的な傲慢さが宿っている。
「タイチ‥‥お前たちのその不確定な『勝率100%』の神話を……今度こそ俺とアルカディモンが完膚なきまでに『0』に引き裂いてやる」
玉座の間に、ネオの冷ややかな宣告が響き渡る。
ネオは玉座の間からアルカディモンが居る育成の間へと行き、カプセルで回復中のアルカディモンを見る。
「夜明けまでにはアルカディモンは全回復する。クククク…これで漸く本格的に侵攻できる。全ての準備は整った」
モニターにはアルカディモンの体力が回復していく様子が表示される。
そしてもう一つのモニターにはネオが手掛けた人造デジモンたちの姿が映し出されていた。
「明日で全てが決まる‥‥今度こそこの世界を手に入れてやる!!ハハハ‥‥」
遂にネオは最強の無敵兵器、アルカディモンを筆頭に前回、ホーリーエンジェル城へ侵攻した時よりも遥かに多い軍団を手に入れた。
狂気に満ちたネオの哄笑が、底知れぬ闇を抱えたデーモン城の奥深くへとこだましていく。
一方は、絶望の淵から「絆」という名の奇跡を掴み取り、新たなる変革の光を覚醒させた八神タイチとゼロ丸。
もう一方は、絶対的な「無」を司る最強の魔神アルカディモンと、無数の軍団を率いて新世界の創世を企む彩羽ネオ。
二人のテイマーの決して交わることのない強烈な信念。
デジタルワールドの存亡を懸けた長きにわたる戦いが、まもなく明けようとしていた。
非論理的なまでに熱き「勝率100%の神話」か?
それともすべてを呑み込む「完全なる初期化(ゼロ)」か?
少年たちとデジモンが紡いできた運命の物語は、いよいよ明日、雌雄を決する最終決戦(ラストバトル)へと突入する。