デジタルワールドを脅かした超究極体・デーモンとの壮絶な戦いは終わった。
タイチたちとの再会を固く約束し、二つタグと自らの力で生み出した「生命の紋章」を授かったミコトは、現実世界へと帰還する。
病室のベッドで目を覚ました彼女は、デジヴァイスも紋章もなく、すべては自分が見ていた都合のいい夢だったのではないかと絶望しかける。
しかし、ベッドの下には幼年期へと退化した漆黒のパートナーデジモン‥チビモン(メタルメギドラモン)の姿があった。
チビモンの姿を見て、決して夢ではなかった過酷で愛おしい冒険の記憶を胸に、ミコトは現実世界でチビモンと共に静かに生きていくことを誓う。
自身の命の奥底に、デーモンが密かに遺した恐るべき「魔王の因子」が根付いていることなど知る由もなく……。
一方その頃、別のデジタルワールドを旅していたヤマトたち「選ばれし子供たち」もまた、現実世界へと帰還を果たしていた。
彼らの目的は、人間界へ侵攻したヴァンデモン軍団の野望を阻止し、標的となっている「八人目の選ばれし子供」を先に見つけ出すこと。
四年前の光が丘で起きたデジモン同士の戦いが鍵になると気づいたヤマトは、長年ベッドの上で闘病生活を送る妹・ミコトが過酷な運命に巻き込まれるはずがないと、皮肉にも彼女の病弱さに安堵していた。
己の妹が、すでに別次元の世界を救い、一足先に現実世界へ帰還していることなど露知らずに――。
互いの秘密を知らぬまま、兄と妹、そして二つの世界の運命が、現実世界を舞台に静かに交差しようとしていた。
光が丘から自宅のあるお台場へ移動する子供たちであったが、これまでの冒険の疲れが出てしまい、降りる駅を乗り過ごしてしまい、新宿に来た。
更に彼らにとっては何カ月ぶりの現実世界‥‥食べたい物、飲みたい物が沢山あり、それらの甘い誘惑に勝てるはずもなく残ったお金全てを使い果たしてしまう。
新宿からお台場までの道のりをどうやって帰ろうとする中、彼らはヒッチハイクで戻る事にした。
男子たちはことごとくヒッチハイクに失敗した。
空とミミのおかげでチャラそうな男の運転する車でお台場へと向かうも、その最中、八神太一のパートナーデジモンであるコロモンが我慢できずに車内で排泄をしてしまうトラブルが起きた。
さらに車が停車したのはとある橋の上で、川からゲソモンが出現し、城戸丈のパートナーデジモンであるゴマモンがイッカクモンに進化してゲソモンを撃破。
子供たちはそのままイッカクモンの背中に乗り、お台場へと戻った。
お台場へ戻った子供たちはそれぞれの家路につき、ある者は家族との再会を喜ぶ者、これからの事を思う者と様々であった。
そんな中、光子郎は近くのホームセンターで内鍵を買い、部屋の扉に取り付ける。
こうすれば、家族が部屋に入って来ても自身のパートナーデジモンであるテントモンが見つかるリスクを下げることが出来る。
光子郎は夕食後、部屋でノートパソコンを起動させる。
デジタルワールドから現実世界に戻る前日、子供たちは協力者であるゲンナイの家に泊めてもらい、そこで光子郎は自身が持っていたノートパソコンにゲンナイから様々機能を追加してもらっていた。
一体どんな機能が追加されたのか確認しようとして中、デスクトップにチャットのアイコンが視界に入る。
(そう言えば、HATUNEさんも小学生って聞いたな‥‥)
(念の為、確認してみるか‥‥)
光子郎はチャット仲間であるHATUNEに昔、光が丘に住んで居たか尋ねる事にした。
デジタルワールドから戻り、その疲れから再び眠っていたミコトは夕方ごろに目を覚ました。
そして、夕食時、出された病院食をチビモンに分ける。
「うーん……あんまりおいしくない……」
ミコトの掌から病院食のおかずを一口分けてもらったチビモンは、眉根を寄せて露骨に顔を顰めた。
「あれ? 駄目だった? チビモンはデジタルワールドで、あんなにお肉やお魚をたくさん食べていたのに‥‥」
「お肉やお魚は好きだよ。でも、これはお肉の味が薄いっていうか‥‥水っぽいっていうか‥‥ミコトはよくこんなモノ食べられるね」
「ふふっ、仕方ないよ。これは病気を治すための特別なご飯だから。味付けも薄くしてあるんだよ」
ミコトは苦笑しながら、自分用のスプーンで白身魚の煮付けを口に運んだ。
「私は、昔から食べてきたからもう慣れっこかな。ママの手料理よりも、病院での食事の方がずっと多い気がするし……」
そう言って咀嚼した瞬間、ミコトはピタリと動きを止めた。
(……あ、あれ?)
いつも通り、薄味でぼんやりとした味の煮付け‥‥
自分の母親が作る手料理よりも食べてきたはずの病院での食事‥‥
食べ慣れていたはずなのに、今日はなんだか妙にパサパサして、とても不味く感じられた。
ミコトの脳裏に、デジタルワールドでの光景が蘇る。
タイチが不器用に捌いてくれた魚。
ゼロ丸が豪快に焼いてくれた大きな肉。
デジタルワールドの生えているキノコや野菜を使って作ったスープ。
みんなで焚き火を囲み、煤で顔を汚しながら笑い合って食べたあのワイルドで熱々だったキャンプ飯。
あんなに粗食だったはずなのに、あの時のご飯はどれもこれも飛び切り美味しかった。
(私……味覚が変わっちゃったのかな?)
デジタルワールドでの過酷で、それでいて温かい日々が、自分の中にしっかりと根付いていることを実感し、ミコトは少しだけ嬉しくなった。
食事を終え、食器を下げてもらった直後だった。
サイドテーブルに開いたままにしてあったノートパソコンの画面隅に、「新着メッセージ」のポップアップが表示された。
「ん?チャット?あっ、COLEOさんからだ」
ミコトは急いでキーボードを引き寄せ、チャット画面を開いた。
実際の時間は半日くらいしか経っていないが、ミコトにしれみれば物凄く久しぶりであった。
新着メッセージを送って来たのは、ミコトのチャット仲間であるCOLEOからであった。
COLEOは今朝、サマーキャンプに行くと言っていたのだが、キャンプ場から送って来たのかと思い内容を見ると、
COLEO 『HATUNEさん、実はサマーキャンプなんですが、季節外れの雪で中止になってしまいまして……今日、家に帰ってきたところなんです』
HATUNE 『ええっ、雪!? 今、真夏なのに……?』
異常気象に驚きつつも、自分が居るこの初音島にも一年中枯れない桜があるので、そこまで驚愕する内容ではないかと思うミコト。
HATUNE 『それで、遭難とかしなかった?』
COLEO 『無事に帰宅できたので心配はいりません……ところで、急に変なことを聞きますが、HATUNEさんは昔、光が丘という街に住んでいたことはありませんか?』
「光が丘‥‥」
COLEOのメッセージ内にある光が丘と言う地名にミコトは首を傾げた。
確かに自分の家族――離婚前の両親と二人の兄たちは、ほんの短期間だけ光が丘の団地に住んでいた時期があったはずだ。
しかし、その頃のミコトはすでに体調を崩し、東京都内の病院に長期入院中だった。
つまり、ミコト自身は光が丘の地をほとんど踏んだことがない。
(家族は住んでいたけど、私自身は病院だったし……『住んでいた』って言うのは当てはまらないよね?)
HATUNE 『サマーキャンプ、残念でしたね。光が丘の件ですが、私は住んでいませんでした。ずっと病院生活だったので‥‥』
ミコトは素直に事実だけを簡潔に入力した。
お台場の泉家のあるマンション。
HATUNE 『サマーキャンプ、残念でしたね。光が丘の件ですが、私は住んでいませんでした。ずっと病院生活だったので‥‥』
自室でHATUNEからのその返信を受け取った光子郎は、小さく息を吐き出した。
「……そうですよね。HATUNEさんはずっと入院生活を送られているんですから、四年前の光が丘にいるはずがありませんよね」
光子郎は、ヤマトと同じように胸を撫で下ろしていた。
顔も本名も知らないチャット仲間ではあるが、彼女もまた自分と同じ小学生だと言う。
もし彼女が八人目の選ばれし子供であり、ヴァンデモンに狙われているとしたら、入院生活を送っている状態では逃げることなど不可能だ。
そう思うとHATUNEが八人目の選ばれし子供でなかった事実は光士郎にとってある意味では嬉しい事実であった。
「テントモン、やはりHATUNEさんは違いました」
「そうでっか。八人目の選ばれし子供ではないと言う事は残念やけど、まぁ、病気の子が巻き込まれんで良かったやないですか」
「ええ、そうですね」
ベッドの下から顔を出したテントモンの言葉に、光子郎も深く頷いた。
同じ頃。八神家でも、八人目の選ばれし子供に関する確認が行われていた。
太一は自分たち兄妹の部屋で妹のヒカリに、不自然にならないように気をつけながら声をかけた。
「な、なぁヒカリ。お前、何か変な機械……そうだな、四角くてちっちゃいポケベルみたいな機械、持ってないか?」
「ポケベルみたいな機械?」
「これだよ」
太一はヒカリに自身のデジヴァイスを見せる。
「ううん、持ってないよ。どうして?」
ヒカリは不思議そうに太一を見上げると、首を横に振った。
「あっ、いや、何でもないんだ。家の中に落ちてなかったかな~と思ってな! アハハハ!」
太一はわざとらしく笑って誤魔化しながら、内心でホッと息をついた。
(デジヴァイスを持っていないのなら、ヒカリは八人目じゃないな‥‥)
自分たちはサマーキャンプの際、祠の近くに居た時に空からデジヴァイスが降って来て選ばれた。
デジヴァイスを持っていなければ、ヒカリは選ばれし子供ではない。
そもそもパートナーデジモンだってヒカリの傍に見当たらない。
大切な妹をこんな危険な戦いに巻き込まずに済む。
(ヒカリじゃなくて良かったぜ……よし、明日から本格的に八人目探しだ)
ヤマトと同じ妹を持つ兄として、妹がヴァンデモンとの戦いに巻き込まれない事に胸をなでおろした。
一方、自室にいる光子郎は、HATUNEとのチャットを終えた後、デジタルワールドでゲンナイにインストールしてもらった新機能の確認作業に入っていた。
「さて、ゲンナイさんは一体どんなプログラムを組んでくれたんでしょうか……」
期待に胸を膨らませてファイルを開いた光子郎だったが、そこに現れたのは、奇妙な踊りをするデジモンたちの粗い動画や、脈絡のないおかしな映像ばかりだった。
「なにこれ‥‥これはゲンナイさんの趣味のフォルダなんじゃあ‥‥」
呆れて天を仰ぐ光子郎だったが、ファイル群の奥底に見慣れない実行プログラムがあるのを発見した。
それを起動すると、パソコンの画面上に東京周辺の地図とレーダーのような円形の波紋が表示された。
「これは……デジモンの反応をキャッチするナビゲーションシステム!? さすがゲンナイさん」
感心したのも束の間、レーダーの波紋が一つ、赤い光の点として点滅を始めた。
「テントモン! デジモンの反応です! 場所は……芝浦の埋め立て地だ!」
「なんやて!? ヴァンデモンの手下かもしれへんね!」
「急いでみんなに連絡を!!」
光子郎は慌てて太一やヤマトたちの自宅に電話をかけた。
しかし、ある家は親が出て「もう寝ている」と言われ、ある家は誰も出なかった。
皆、デジタルワールドでの過酷な冒険と、新宿からお台場までの長い帰路の疲れで、泥のように眠りこけてしまっているのだ。
「……駄目です、誰も起きてくれません。仕方ありません、僕たちだけで行きましょう!」
「はいな!!」
光子郎はテントモンを連れ、こっそりと家を抜け出して芝浦へと向かった。
夜の帳が下りた芝浦の工業地帯は、街灯も少なく不気味な静けさに包まれていた。
光子郎がパソコンのナビを頼りに進んでいくと、突然、ポケットの中のデジヴァイスが「ピピピピ……!」と高い電子音を鳴らして発光した。
「デジヴァイスが反応した!? テントモン、近くに八人目の子供がいるのかもしれません!」
光子郎が辺りを見回したその時、ドロドロとしたヘドロのような異臭と共に、巨大な影が姿を現した。
全身が腐敗したような不気味な姿の成熟期デジモン、レアモンだ。
そしてその頭上には、ヴァンデモンの腹心であるピコデビモンが羽ばたいていた。
「ケケケッ! 選ばれし子供のお出ましだ! レアモン、やっちまえ!」
「グオォォォッ!!」
「テントモン、進化だ!」
「はいな!!」
光子郎のデジヴァイスが強い光を放つ。
『テントモン進化ァ! カブテリモン!!』
巨大な昆虫型デジモンへと進化したカブテリモンは、レアモンの吐き出すヘドロの攻撃を躱し、空中に舞い上がった。
「メガブラスター!!」
カブテリモンの放った強力な電撃弾が、レアモンの巨体を直撃する。
レアモンは断末魔の叫びを上げて消滅した。
「チィッ! 覚えていろよ!」
形勢不利と見たピコデビモンは、夜の闇に紛れてあっという間に逃げ去ってしまった。
レアモンを斃したカブテリモンが、光子郎の元へと降り立つ。
「ピコデビモンには逃げられてしまいましたが、とりあえずは退けましたね」
「そのようでんな」
「……しかし、気になることがあります」
「なんでっか?」
光子郎は手に持ったデジヴァイスをじっと見つめた。
「さっき、僕のデジヴァイスがはっきりと反応しました。あれは、レアモンやピコデビモンではなく、八人目の子供のデジヴァイスに共鳴した証拠です」
光子郎はそれから、デジヴァイスの反応があった地点を中心に、周辺を一時間近く徹底的に捜索した。
しかし、それらしい子供の姿も、落ちているはずのデジヴァイスも、ついに発見することはできなかった。
「どこへ行ってしまったんでしょう‥‥?でも、この芝浦周辺に、八人目の選ばれし子供が住んでいる……そう考えるのが自然ですね」
確かな手応えと謎を残し、光子郎はガブテリモンの背中に乗り、自宅近くまで戻った。
今回、光士郎のデジヴァイスが反応したのは近くに八個目のデジヴァイスがあった為、反応したのだ。
何故、芝浦に八個目のデジヴァイスがあったのか?
それは奇跡的な偶然が重なった結果であった。
しかし、その事実に気づいていない光子郎は、芝浦という手掛かりを得たことに確かな手応えを感じていた。
それぞれの思惑と誤解が交差する中、東京を舞台にした新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。
芝浦でレアモンとガブテリモンが戦っている中、初音島では‥‥
COLEOとのチャットを終え、消灯時間を迎えたミコトはベッドに入り、ポーチからチビモンを取り出して、布団の中で抱きかかえた。
「おやすみ、チビモン」
「うん、おやすみ、ミコト……」
チビモンの小さな寝息が、ミコトの胸元に心地よく響く。
その温かさに包まれながら、ミコトはゆっくりと目を閉じた。
(フフフフ‥‥)
夢と現の狭間で、微かに、本当に微かに、あの悍ましい嗤い声が聞こえた気がした。
「……っ!?」
ミコトはハッとして目を覚ました。
病室は静まり返り、チビモンは隣で安らかに眠っている。
(気のせい……よね。デーモンは、完全に消滅させたはず……)
ミコトは自分の胸元をそっと押さえた。
本来、ミコトの命は、生命の紋章の光と共に尽きるはずだった。
しかし、あのデジタルワールドから現実世界へ帰還する際、不思議なことに『デジヴァイス01』と『生命の紋章』、そして『パートナーデジモン』は光に溶けることなく、彼女の手に残され、彼女自身も今、こうして生きている。
だが、ミコトが存命したのは自分でも気づかないうちに、デーモンの遺した「黒い粒子」をその身に宿しているからだ。
欠落しかけていた彼女の生命データは、デーモンの置き土産ともいえる魔王の因子が楔となることで崩壊を免れ、現世に縫い留められたのだ。
それは、ミコトの命を繋ぎ止める「呪い」であり、同時に新たなる災厄の「種子」でもあった。
トクン、と。
ミコトの心臓が、一瞬だけ不自然に、そして力強く脈打った。
だが、ミコトはそれを、ただの戦いの疲れと、チビモンとの再会の興奮によるものだと思い、再び瞳を閉じた。
誰も気づかない、命の奥底に深く植え付けられた魔王の種子。
デジタルワールドに訪れた本当の平和の裏で、新たなる災厄の鼓動が、静かに、しかし確実に始まりを告げていた――。
1999年8月2日
この日、太一は朝から自分の学習机や棚、クローゼットの中からあるモノを捜していた。
「何しているの?」
そんな兄にヒカリは声をかける。
「名簿を探しているんだよ」
「名簿?」
「そう、小学一年の時の‥‥」
しかし、部屋の中を引っ掻きまわしたが、名簿は見つからなかった。
やがて光士郎が迎えに来ると太一とアグモンは光士郎、テントモンと共に近くの公園に集まった。
そこで、光士郎は昨夜芝浦で八人目の選ばれし子供の反応があった事を告げる。
そこで、今日は芝浦周辺を手分けして捜す事となったのだが、丈は明日から夏期講習があるため、他の子供たちから名簿を渡され電話で確認を取る係となった。
「そういうことなら、僕たち六人で手分けして芝浦周辺を捜すことにしましょう」
「そうだな」
光子郎の提案により、子供たちはペアを組んで行動することになった。
太一と光子郎、空とミミ、そしてヤマトとタケルの三組だ。
「頼んだぜ、丈。片っ端から電話かけて、八人目の選ばれし子供がいないかちゃんと確認してくれよな」
「ちょっと待ってよ! 僕だって受験生なんだぞ! 明日からの夏期講習の予習もしなきゃならないのに……ああっ、もう! 分かったよ、やればいいんだろ、やれば!」
名簿を押し付けられ、ブツブツと文句を言いながらも引き受ける丈を残し、六人は芝浦へと向かった。
夏の強い日差しが照りつける中、ヤマトとタケルは海沿いの道を歩いていた。
「お兄ちゃん、暑いね……八人目の子、見つかるかな」
「ああ、絶対に見つけ出さなきゃならない。ヴァンデモンに見つかる前にな‥‥」
ヤマトはタケルを気遣いながら答えたが、ふと海の方へ視線を向けると、ヤマトの足がピタリと止まった。
東京湾には波を切り裂きながら、一隻の大型フェリーがゆっくりと進んでいくのが見えたのだ。
「……」
ヤマトの脳裏に、数年前の記憶が鮮明に蘇る。
あれは両親が離婚し、妹のミコトが本土の病院から、遠く離れた『初音島』の病院へ転院するために向かった日の事だ‥‥
フェリーターミナルには、父親の裕明に手を引かれて歩く、ひどく痩せ細ったミコトの姿があった。
ヤマトは見送りに行ったはずなのに、彼は父親と共に遠ざかっていく妹に声をかける事が出来ず、ただ黙ってその小さな背中を見つめることしかできなかった。
「ミコト‥‥」
あの時、自分は妹の名前を呼んで抱きしめてやればよかったのだ。
『頑張れよ』 と励ましてやればよかったのだ。
しかし、ヤマトの足は鉛のように重く、口は張り裂けそうなほどに乾ききっていた。
幼い頃から入退院を繰り返し、いつ命の灯火が消えてもおかしくないと言われ続けていた妹。
もしここで声をかけ、深く心を通わせてしまったら――万が一、永遠の別れが訪れた時、自分は正常な精神を保てるだろうか?
そんな臆病な恐怖が、兄としての愛情を押し殺してしまった。
結局、ヤマトは最後まで声をかけることができず、ただ遠ざかるフェリーを黙って見送ることしかできなかったのだ。
(あの時……俺は自分のことしか考えていなかった。やっぱり俺は兄貴失格だ……)
「お兄ちゃん? どうしたの?」
タケルの不思議そうな声に、ヤマトはハッと我に返った。
「いや……何でもない。ほら、あっちのマンションの方を探してみようぜ」
「うん!」
ヤマトは自嘲気味に息を吐き出すと、タケルの背中を追って歩き出した。
(ミコトは今頃、どうしているんだろうな……)
その妹が、今まさに同じ現実世界の空の下で、数奇な運命に巻き込まれていることなど知る由もなかった。
一方、その初音島にある病院の個室では。
「えっ?これって‥‥」
朝食を終え、何気なくつけていたテレビのニュース番組を見て、ミコトは思わず固まっていた。
『昨夜から今朝にかけて、都内各地で謎の巨大生物の目撃情報が相次いでいます。光が丘では巨大なマンモスのような生物が、お台場の川では巨大なイカのような生物が、そして芝浦ではヘドロ状の怪物が……なお、出現した怪物は、何者かによってすでに撃退された模様です――』
画面には、遠巻きに撮影された荒い映像が映し出されていた。
一般の人には単なる「怪物」に見えるだろう。
しかし、デジタルワールドで数多のデジモンと遭遇し、魔王とまで戦い抜いたミコトの目には、それが何であるか痛いほどに分かった。
「像みたいなモンスターは分からないけど、あれはゲソモンにレアモン‥‥」
マンモンを除く二体のデジモンとは交戦経験があるので、見間違いようがない。
本来ならば、どれもデジタルワールドに生息しているデジモンたちだ。
「どうして……この現実世界にデジモンたちが現れているの!?それに撃退された……? いったい、誰が戦って倒したんだろう。私とタイチさん以外にも、デジモンと一緒に戦っているテイマーが、この世界にいるの?
ミコトの胸に、冷たい不安が広がっていく。
デジタルワールドのゲートは閉じたはずだ。
人間界とデジタルワールドは別の世界であり、デジモンがこちらの世界に大挙して押し寄せるなど、異常事態以外の何物でもない。
「ふわぁ~……ミコト、どうしたの? テレビ見て怖い顔しているよ」
布団の中から、寝ぼけ眼のチビモンがぴょこんと顔を出した。
「チビモン……東京に、デジモンが現れたみたい」
「ええっ!? 本当!? じゃあ、僕も戦わなきゃ!」
チビモンは短い手足をバタバタさせて意気込んだが、ミコトは複雑な表情でその小さな黒い体を抱き上げた。
「気持ちは嬉しいけど……今のチビモンは幼年期だから、満足に戦えないよ」
「うっ……そ、それはそうだけど……」
「それに、ここは初音島。デジモンが現れた東京へ行くにはフェリーや新幹線を乗り継がないと行けないくらい遠いの‥すぐには駆けつけられないし、出現したデジモンたちは誰かが撃退したみたい‥‥」
ミコトはテレビの画面を見つめながら思考を巡らせた。
(もし、あのデジモンたちが東京で暴れているとしたら……お兄ちゃんたちや、パパやママが危ない)
何とかしなければならない。
しかし、今の自分たちにできることは限られている。
(……でも、デジタルワールドでチビモンは究極体であるメタルメギドラモンにまで進化できた。それなら、この世界でも進化のきっかけさえあれば、元の姿に戻れるかもしれない)
ミコトはベッドサイドの引き出しを開け、セーフティボックスから自身のデジヴァイス01と『生命の紋章』を取り出した。
どちらも今は反応を示していないが、これがあればきっと……
(あっ、でも‥‥でも究極体に進化したら大騒ぎになっちゃうかな‥‥)
あのデジタルワールドでは一度進化したデジモンは退化する事は出来ない。
その理屈がこの現実世界で通用したら、チビモンを究極体に進化させるとずっとあの巨大な姿になる。
成長期のブイモンクラスならば、ぬいぐるみとして誤魔化せるが、成熟期以降は隠すことが出来ない。
(どうしよう‥‥でも、まずは進化できるかためしてみないとね)
と、ミコトは一先ずチビモンを成長期のブイモンに進化することが出来るかの実証が必要であった。
ただ、ミコトはまだ知らなかった‥‥
この世界ではパートナーデジモンは進化する事も退化する事も可能な事に‥‥
そして東京に出現したデジモンたちも消えたのではなく、自分と異なる選ばれし子供たちのパートナーデジモンの手によって斃された事を‥‥
「ねぇ、チビモン」
「ん?」
「ずっと病室の中に隠れているのも退屈でしょう? 少し気分転換も兼ねて、院内を案内してあげる」
ミコトはチビモンをタオルでくるみ、外からは見えないように大きめのショルダーバッグの中にそっと入れた。
いきなり病院の庭や屋上で進化の実験をするのは目立ちすぎて危険だが、まずはチビモンにこの世界の環境に慣れてもらう必要がある。
そして何より、じっとニュースを見ているだけでは胸騒ぎが治まらなかったのだ。
「わぁい! お散歩だね!」
バッグの中で小さくはしゃぐチビモンに微笑みかけながら、ミコトは静かに病室のドアを開けた。
バッグの中に潜り込んだチビモンは、隙間から顔を半分だけ出し、周囲をキョロキョロと見回した。
しかし、その真っ赤な瞳には、無邪気な好奇心だけでなく、どこか鋭い緊張感が宿っている。
「ねぇ、ミコト……本当に大丈夫? この建物は安全なの?……デーモン軍みたいな悪いデジモンは、本当にここには隠れていない?」
ひそひそ声で、周囲の気配を警戒するように尋ねてくるチビモン。
東京にデジモンが出現した件とこれまで過酷な戦場を潜り抜けてきた彼にとって、人間が平穏に行き交うこの白い空間は、かえって不気味な静けさに感じられるようだった。
ミコトは愛おしさを覚えながら、バッグの上から優しく彼を撫でた。
「ふふっ、大丈夫だよ。ここは病院だからね。病気を治すお医者さんや、私みたいな患者さんしかいないの‥チビモンを攻撃するような敵は、ここには絶対にいないから安心しにね」
「……そっか。ミコトがそう言うなら、信じるよ!」
ミコトは怪しまれないように小声で返事をした。
凶悪なデジモンたちが跋扈する世界を旅してきたチビモンにとって、平和に廊下を行き交う人間の姿は、ある意味で奇妙な光景に映るのかもしれない。
そのままゆっくりと院内を進み、一階の隅にある売店スペースへやってくると、今度は人工的でカラフルなパッケージの群れに目を丸くした。
「わぁっ! なにここ! 色んなものが山積みになっている!」
「ここは売店だよ。食べ物や飲み物、日用品なんかを売っているところ」
チビモンの真っ赤な瞳が、バッグの中でキラキラと輝きを増した。
棚に並べられた色とりどりのお菓子、見たこともない形のパンや弁当、そして雑誌や日用品の数々‥‥
デジタルワールドの自然豊かな景色とは全く異なる、人工的でカラフルなパッケージの群れに、チビモンは興味津々だ。
「あの四角い箱は何? あの袋の中には何が入っているの?」
「あれはティッシュ箱。あっちはポテトチップスっていうお菓子だよ」
「おかし……? じゃあ、あの光っている大きな箱は!?」
チビモンの視線の先には、煌々と明かりを灯す自動販売機があった。
「あれは自動販売機。お金を入れると、冷たい飲み物や温かい飲み物が出てくる機械なの」
「機械……? サイボーグ型デジモンみたいなものか!?」
「違う、違う、生き物じゃないよ」
いちいち大げさな反応を示すチビモンが可愛らしくて、ミコトは自然と頬を緩ませた。
今朝のニュースでデジモンが東京に現れたと知った時の強張りは、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
「せっかくだから、何か買っていこうか?」
ミコトはパジャマのポケットから小銭入れを取り出すと、売店で丸くて美味しそうなアンパンを一つ、そして自動販売機でよく冷えた炭酸飲料を一本購入した。
人目のつかない中庭のベンチへと移動し、ミコトはチビモンをバッグの中から出して膝の上に乗せた。
「はい、これ。朝ご飯の病院食、あんまり美味しくなかったでしょう? ナイショのおやつだよ」
ミコトはアンパンを少しちぎって、チビモンの口元へと運んだ。
「くんくん……いい匂いがする。いただきまーす!」
チビモンは大きく口を開けて、パクリとアンパンに食らいついた。
その瞬間――チビモンの動きがピタリと止まり、目が見開かれた。
「……ど、どうしたの? 口に合わなかった?」
ミコトが心配そうに覗き込むと、チビモンはブルブルと体を震わせ、感極まったような声を上げた。
「あまーーーーい!! なにこれ、すっごく美味しい!! ほっぺたが落ちちゃうよ!!」
「ふふっ、良かった。中に入っているのは『あんこ』って言って、小豆とお砂糖でできているんだよ」
「あんこ! あんぱん!! 僕、これ大好き!! もっと食べたい!!」
短い手足をバタバタさせて喜ぶチビモン。
デジタルワールドの木の実や焼いたお肉も美味しかったが、人間界の計算された甘味は、幼年期の小さな体には劇的な衝撃を与えたらしい。
これがきっかけとなり、アンパンは今後、チビモンにとって絶対的な「ソウルフード」として君臨することになるのだが、それはまた別の話である。
「はいはい、ゆっくり食べてね。飲み物も開けるから」
ミコトはペットボトルのキャップをひねり、シュワッ! という音と共に蓋を開けた。
「ん? なんだかシュワシュワ言っているね?」
「炭酸飲料っていうの。ちょっと飲んでみる?」
ミコトがペットボトルを傾け、チビモンが小さな口でコクッと一口飲んだ、その直後だった。
「っ!?!? あわわわわ!!?」
チビモンは突然パニックを起こし、ミコトの膝の上で跳び上がった。
「痛い! 口の中がパチパチする! 舌が噛まれている!? なにこれ!?敵の攻撃!? 見えないマイクロデジモンが僕の口の中で暴れているよぉ!!」
涙目になりながら自分の口元を押さえ、見えない敵と戦おうとするチビモン。
かつて超究極体のデーモン相手に一歩も引かずに死闘を繰り広げた「魔竜」が、たった一口の炭酸飲料に大敗北を喫しているのだ。
「あはっ……ふふっ、あははははっ!」
そのあまりのギャップとリアクションの良さに、ミコトはたまらず吹き出してしまった。
「ち、違うよ、チビモン。それは攻撃じゃないの‥それは『炭酸』って言って、水の中にガスが溶けているからそう感じるだけ。人間の子供も大好きな飲み物だよ」
「ええっ!? 人間の子供は、こんな口の中が爆発するような飲み物が好きなの!? 信じられない……人間って、やっぱり恐ろしい種族なんだね……!」
戦慄したようにペットボトルを見つめるチビモンを見て、ミコトはますます笑いが止まらなくなってしまった。
「あははっ……お腹痛い……っ。チビモン、面白すぎるよ……」
声を上げて笑うミコトにつられて、チビモンも不思議そうに目をパチパチさせた後、「ミコトが楽しそうだから、まあいっか!」と、えへへと照れ笑いを浮かべた。
初音島の澄んだ青空の下、中庭に響き渡る穏やかな笑い声。
東京でデジモンが暴れているという不安や、選ばれし子供たちの過酷な運命。
それらが現実世界で静かに動き出していることなど嘘のように、ミコトとチビモンは、二人だけの平和で温かい時間を満喫していたのだった。