お台場を覆い尽くした絶望の濃霧の中、人々の恐怖を吸い上げた最悪の究極体デジモン、ヴェノムヴァンデモンが降臨した。
ウォーグレイモンとメタルガルルモン――奇跡のワープ進化を遂げた二体の究極体をもってしても破れない、強固な闇の障壁。
太一やヤマトたちがかつてない死闘を繰り広げる中、巨獣が放つ狂気的な闇の波長は、地下鉄の暗闇に身を潜めていた一人の少女の身体を激しく蝕んでいた。
ヤマトの妹、ミコト‥‥
彼女の心臓に眠る『魔王の因子』が共鳴し、内側から焼き尽くされるような激痛に襲われる中、ミコトは愛する家族を守るため、自らの命を削る覚悟でパートナーのジークにすべての力を託す。
少女の痛切な祈りは奇跡を呼び起こし、青蓮の光と共に禍々しき究極体の鉄竜、メタルメギドラモンが顕現。
圧倒的な絶技で闇のバリアを粉砕し、選ばれし子供たちに完全なる勝利をもたらした鉄竜は、幻のように姿を消した。
戦いが終わり、お台場に平和な朝の光が降り注ぐ中、力を使い果たして幼年期のチコモンへと退化したパートナーと共にミコトは見知らぬ空き部屋で目を覚ます。
誰にもその正体を知られることなく、ただヤマトたちの無事だけを見届けた彼女は、己を蝕む最悪の爆弾『魔王の因子』を小さな胸に抱えたまま、密かに初音島の病院へと帰っていくのだった――。
ヴェノムヴァンデモンを打ち倒し、お台場を、そして現実世界を覆っていた深い絶望の霧がついに晴れた。
太一たちは完全なる勝利の喜びに沸き立つが、ふと見上げた上空の異変に言葉を失う。
澄み渡る青空の向こう側に、広大な別世界――デジタルワールドの大地が、まるで蜃気楼のように逆さまに映し出されていたのだ。
太一たちは光子郎の分析により、残酷な事実に直面する。
デジタルワールドの歪みを放置したまま、ヴァンデモンを追って現実世界へ帰還してしまった代償。
現実世界での数日という時間は、あちらの世界では何年、あるいは何十年という途方もない歳月を意味していたのだ。
歪みは限界を超えて拡大し、ついには二つの世界を衝突させようとしている。
「俺たちが行かなきゃ、両方の世界がダメになっちまう!」
太一の悲痛な決意に背中を押され、八人の選ばれし子供たちは愛する家族に別れを告げ、空に浮かぶデジタルワールドへと再び旅立った。
しかし、彼らを待ち受けていたのは、かつて共に旅した美しく広大な大地ではなかった。
すべての大陸が切り刻まれ、巨大な山『スパイラルマウンテン』として醜く歪められた世界。
そして、その頂点に君臨する四体の最凶な究極体デジモンたち――『ダークマスターズ』。
メタルシードラモン、ピノッキモン、ムゲンドラモン、そしてピエモン。
完全体はおろか、究極体に進化したウォーグレイモンたちでさえ歯が立たない圧倒的な力に打ちのめされた。
過酷なサバイバルと敵の存在、極限のストレスは、仲間たちの絆に暗い影を落としていった。
特に、仲間を引っ張ろうとする太一と焦燥感に駆られ自分の存在意義を見失っていくヤマトの意見は激しく衝突する。
互いの正義と譲れない想いがぶつかり合い、ついにはウォーグレイモンとメタルガルルモンという、味方同士での究極体激突という最悪の事態へと発展してしまった。
「やめて! お兄ちゃんたち、戦わないで!!」
ヒカリの悲痛な叫びが荒野に響き渡ったその時だった。
彼女の身体が突然、得体の知れない神々しい光に包まれる。瞳から感情の色が消え、彼女の口から発せられたのは、ヒカリ自身のものではない、荘厳で機械的な声だった。
デジタルワールドの安定を望む者――『ホメオスタシス』が、ヒカリの体を借りて顕現したのだ。
光に包まれた太一たちは、強引に意識を飛ばされ、時空を超えて『過去』の映像を見せられる。
そこは、かつてデジタルワールドのどこかに存在した、ゲンナイたちの秘密の研究室。
太一たち「選ばれし子供たち」が選ばれた理由、そしてパートナーデジモンたちのデジタマや、デジヴァイス、紋章がまさに生み出されている光景だった。
八人の子供たちのデータが浮かび上がる中、光子郎の視線は、部屋の最奥に鎮座する巨大な石板に釘付けになった。
そこには、自分たちが持つ『勇気』やヤマトの『友情』など、八つの紋章が美しく刻み込まれていた。
しかし、違和感があった。
八つの紋章が描かれたその【さらに上】、石板の最も高い頂点にあたる部分にも、明らかに何か別の意匠が描かれていた形跡があったのだ。
だが、その重要な上部は無残に砕け落ちており、元々そこに何の紋章が――あるいはどんな絶大な力(あるいは呪い)が示されていたのかは、完全に失われていた。
(なんだ、あれは……? 紋章は全部で八つじゃないのか?)
光士郎がその欠けた石板の謎に思考を巡らせる間もなく、映像の中で突如としてけたたましい警報が鳴り響く。
堅牢なはずの研究室の壁が紙屑のように吹き飛ばされ、絶望的な冷気と共に現れたのは、四天王の筆頭・ピエモンと、その配下である軍団だった。
「さぁて、無駄な抵抗はやめてもらおうか」
嗤う道化師の容赦ない殺戮が始まり、ゲンナイの仲間たちは次々と凶刃に倒れていく。
「くそっ……これまでか!」
完成したばかりの八つのデジタマ、紋章、そしてデジヴァイスを急いで手にする。
背後でピエモンのトランプソードが飛び交う中、若き日のゲンナイは血を吐くような思いで、敵のメカノリモンを奪い飛び乗る。
そして完成したばかりの八つのデジタマ、紋章、そしてデジヴァイスをメカノリモンの手で回収した後、脱出を図る。
「追え!!逃がすな!!必ず紋章を奪うのだ!!」
激しい追撃のレーザーとミサイルを間一髪で躱しながら、メカノリモンを操作して死に物狂いで逃亡するゲンナイ。
夜空へ飛び立つメカノリモンの背後で、あの欠けた石板がピエモンの無慈悲な攻撃によって跡形もなく完全に粉砕される光景を、太一たちはただ息を呑んで見つめることしかできなかった。
ただ逃亡の最中、一つのデジタマと紋章がメカノリモンの手から滑り落ちてしまった。
そのデジタマと紋章こそ、テイルモンのデジタマであり、ヒカリが持つ『光の紋章』であった。
過去の立体映像を見て、テイルモンは何故自分だけがアグモンたちと居なかったのかようやくその原因を知る事となった。
静まり返った秘密の研究室に、道化の笑い声が響く。
ピエモンは軽業師のような鮮やかな身のこなしで部屋へ侵入すると、そこにいるゲンナイの仲間たちを一瞥した。
ゲンナイによってデジタマと紋章、デジヴァイスの確保には至らなかったが、研究室の最奥に鎮座する巨大な石板へと興味深そうに歩み寄った。
「ほう……これがデジタマと紋章を生み出したとされる中枢の端末か‥実に興味深い造形をしている」
石板には、選ばれし子供たちの『勇気』や『友情』を示す八つの紋章が、まるで完全な調和を保つかのように美しく刻み込まれていた。
しかし、ピエモンはその意匠を指先でなぞりながら、すぐに首を傾げた。
「だが、おかしい‥これだけではないはずだ」
ピエモンの冷酷な赤い瞳が、八つの紋章が並ぶさらに上‥石板の最も高い頂点を見据える。
そこにも明らかに、かつて何事かを象徴する壮大な紋章――あるいはこの世界を根底から揺るがすような忌まわしい『何か』が刻まれていた形跡があった。
しかし、その最も重要な頂点にあたる部分は、無残にも砕け散り、大きく欠けている。
かつてそこに何が描かれていたのか、流石のピエモンですら知る由もない。
「上層の意志か……それとも、我々ダークマスターズをも凌駕する『神の領域』の痕跡を消し去るための細工かな? まぁいい」
ピエモンは不気味に目を細め、背中に背負った四本の剣『トランプソード』の柄に手をかけた。
「どうせこんな欠けた石板の謎など、お前たちのような下等な存在が解き明かせるわけがない。すべては、我々ダークマスターズがこの世界を創り変えるための礎に過ぎんのだからな!」
ピエモンが冷酷に腕を振り抜いた瞬間、放たれた無数のトランプの刃が、研究室の壁と、あの欠けた巨大な石板とを、音もなく粉々に切り裂き、破壊し尽くした。
過去の光景がプツリと途絶え、太一たちは再びスパイラルマウンテンの荒涼とした大地へと引き戻された。
自分たちが『選ばれし子供たち』として召喚された意味。そして、世界を救うという背負わされた使命の重さ。沈黙が場を支配する中、その静寂を破ったのはヤマトだった。
「……オレは、行くよ」
ヤマトの冷たく、しかしどこか迷いを孕んだ声に、太一が弾かれたように顔を上げる。
「行くって、どこへだよ!? 今はみんなで力を合わせてダークマスターズを倒すしか……!」
「違うんだよ、太一」
ヤマトは自嘲気味に笑い、自らの手を見つめた。
「オレは……自分が何なのか、どうしてここにいるのか、もう分からないんだ。お前みたいに、迷わず前だけを見て進むことはできない。だから……オレは自分の道を探したい」
ガブモンが悲しげに、しかし決意を秘めた瞳でヤマトの傍らに寄り添う。
太一が伸ばしかけた手は、ヤマトの拒絶するような背中を前に、空を切った。
そして、崩壊は連鎖する。
「……ごめんなさい」
震える声で俯いていたミミが、ポロポロと大粒の涙を零し始めた。
「あたし、もう嫌なの。これまでの戦いで、チューモンやピッコロモン、ホエーモン……たくさんのデジモンが傷ついて、死んでいった……これ以上、誰かが傷ついたり、死んでいくの……あたし、見たくない!」
耳を塞ぎ、泣き崩れるミミ。
その悲痛な叫びは、極限状態にあった子供たちの心を鋭く抉った。
これ以上の戦いの強制は、彼女の心を完全に壊してしまう。
そう直感した丈は、ゆっくりとミミの肩に手を置いた。
「ミミくん一人じゃ危険すぎる。僕が……僕が、彼女と行動を共にするよ。年長者として、せめて彼女を守りたいんだ」
己の無力さに唇を噛み締める太一、そっと目を伏せる空、不安げに揺れるタケルや光子郎たちを残し、かつて固い絆で結ばれていた八人の子供たちは、己の心と向き合うためにそれぞれの道へと散っていった。
その後、残された太一たちは森の王であるピノッキモンに決戦を挑む。
追い詰められたピノッキモンは最後の切り札として自身の屋敷の隠しコマンドを作動させる。
ピノッキモンの屋敷はただの屋敷ではなく、巨大ロボになる屋敷であった。
屋敷ロボが太一を襲う中、ピノッキモンは逃亡し、態勢を立て直そうとする。
そんな中、ピノッキモンの部下であるレッドベジーモンが助けを求めるも、ピノッキモンは足手まといと言ってレッドベジーモンを切り捨てた。
そこへ、ヤマトとメタルガルルモンが姿を現す。
ピノッキモンは糸でメタルガルルモンを操ろうとするも何故か術が効かない。
自棄にやったピノッキモンはメタルガルルモンに突っ込むが、
「コキュートスブレス!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
真正面から突っ込んだピノッキモンは格好の的だった。
「ヤマト!」
太一が喜びの声を上げるが、ヤマトの瞳はかつての仲間たちに合わせられることはなかった。
彼は何も語らず、ただ背を向け、再び何処かに消えて行った。
仲間が助けてくれた。
しかし、心はまだ戻っていない。
ヤマト、ミミ、丈の三人が離脱したが、立ち止まることは許されない。
太一たちは三人目のダークマスターズを討つべく、歩みを進めていた。
だが、極限の疲労とストレス、不安は、最もか弱い存在に牙を剥いた。
ヒカリの顔は妙に赤く、咳をしていた。
アメリカに有りそうな荒野の中に続くアスファルト舗装の道を歩いていると、ヒカリは段々と太一たちから遅れていきついには道路上に倒れてしまった。
太一が慌てて抱き起こすと、その小さな身体は火のように熱かった。
現実世界で患っていた夏風邪が、この過酷な環境下で最悪の形で再発してしまったのだ。
「ヒカリ! しっかりしろ、ヒカリ!!」
道上にあった古い屋根付きのバス停に倒れたヒカリを慌てて運ぶ太一。
「ぶり返しちゃったのね‥‥夏風邪はしつこいって言うから‥‥」
とりあえず陽射しを避けるため、ベンチにヒカリを横たえ、濡らした布で空が懸命に看病をしていた。
近くに街か集落が無いかテントモンが空から偵察に向かい、今はテントモンの帰りを待っている中、タケルはベンチの端で、ただ震える手で膝を握りしめていた。
荒い息を吐き、苦しそうに顔を歪めるヒカリ。
その姿が、タケルの脳内で一人の少女の姿と重なっていく。
ヤマトとタケルの妹、ミコト。
『ごめんね、タケルお兄ちゃん……また、一緒に遊べなくなっちゃった……』
病弱で、いつも病院のベッドで白い顔をしていた妹。
両親が離婚する前、そして離れ離れになった後も、タケルにとってミコトの存在は「守るべきもの」ではなく、「両親を引き裂いた元凶」 「自分から家族を奪った存在」という認識であった。
今よりもずっと幼かったあの頃‥楽しみにしていた家族での遊園地が、ミコトの急な発熱で中止になった日。
タケルは、泣きながら謝るミコトに向かって、決して言ってはならない言葉を叩きつけてしまったのだ。
『どうしてミコトはいつも病気なの!? ミコトのせいで、全部台無しだ! こんな妹、いなければよかったのに!!』
そして両親が離婚し、タケルが母親に引き取られた日、
『ミコトなんて、死んじゃえばいいんだ!! お前がいるから、パパとママは喧嘩してお兄ちゃんと離れる事になったんだ!!』
あの時の、ミコトの絶望に染まった瞳。
取り返しのつかない暴言を吐いてしまったという罪悪感は、タケルの心の奥底に封印されていたのだが、風邪で倒れたヒカリを見て、タケルは思い出した。
(ぼ、僕は‥‥何て事を‥‥)
(僕はミコトのお兄ちゃんなのに‥‥)
(今の今まで忘れていたなんて‥‥)
「タケル君?」
空の優しい声でハッと我に返ると、テントモンが空から戻ってくるところだった。
「光士郎はん!!見つけましたで!!」
テントモンは休める場所を見つけてみたいだ。
ガブテリモンに進化して皆を背中に乗せて見つけた街へ向かう。
その街並みは奇妙な街並みで、ニューヨークやパリ、ローマの有名な建物が、全部ごちゃ混ぜにくっついたみたいな奇妙な街だった。
人気のない、不気味なほど静まり返ったキメラ都市。
一行はその一角にあった、ヨーロッパ風の屋敷にヒカリを運び込んだ。
屋敷内を捜したが、薬は見つからなかった。
そこで、太一と光子郎は風邪薬を捜しに街へと向かった。
タケルと空はヒカリの看病と護衛に残った。
静けさが戻った寝室で、空はヒカリの額の布を替えながら、ずっと俯いたままのタケルに目を向けた。
「タケル君……大丈夫? さっきから、顔色が悪いわよ」
「……空さん」
タケルは堪えきれないように、ぽつりとこぼした。
「……ヒカリちゃんを見ていたら、ミコトの事を思い出しちゃって」
「ミコトってヤマト君の妹の‥‥」
「そう、僕の双子の妹‥‥」
「確か病院に入院中だって‥‥」
空は以前、ヤマトからミコトの存在と彼女の現状を聞かされ知っていた。
「僕……最低なお兄ちゃんだったんです」
「タケル‥‥?」
タケルの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、埃っぽい床に染みを作った。
パタモンが心配そうにタケルの頭にすり寄る。
「ミコトは昔から身体が弱くて。僕、あの時は今よりももっと子供だったから‥‥パパとママが離れて暮らすときに、病気で一番苦しんでいるミコトに酷いことを言っちゃったんです」
タケルは嗚咽を漏らしながら、空に向かって懺悔するように言葉を紡いだ。
「『ミコトなんて、死んじゃえばいいんだ!! お前がいるから、パパとママは喧嘩してお兄ちゃんと離れる事になったんだ!!』って‥‥ヒカリちゃんが倒れたのを見るまでその事を忘れていたなんて‥‥」
空は何も言わず、ただ静かにタケルの傍に歩み寄り、その小さな背中を優しく撫でた。
「今、ヒカリちゃんが苦しんでいるのを見て……太一さんが必死になっているのを見て……僕、自分がどれだけミコトに酷いことを言ったのか、本当の意味で分かった気がします。僕……ミコトに会って謝りたい……っ!」
「タケル君……」
空は母性すら感じさせる温かい手で、タケルをそっと抱き寄せた。
「……間違えちゃったなら、何度でもやり直せばいいの。タケル君が今そうやって泣いて後悔できているなら、その想いは絶対にミコトちゃんに届くわ。だから……今は泣いてもいい。でも、泣き終わったら、ミコトちゃんに胸を張って会えるように、私たちにできることを頑張りましょう?」
空の優しい言葉に、タケルは彼女の服の袖を握りしめ、子供のように声を上げて泣き続けた。
狂気に満ちた歪な街の中で、小さな懺悔の涙は、彼が「希望」の紋章を背負う者として、また一つ成長するための痛みを伴う儀式でもあった。
その頃、現実世界では、
温かなさくら色の光が、ミコトの小さな掌から溢れ出していた。
彼女の持つ特異なヒーリング能力によって、力を使い果たし、チコモンにまで退化していた相棒は、みるみるうちに生気を取り戻していく。
「ミコト、もう大丈夫。それ以上、その力は使わないで‥‥」
眩い進化の光と共に、チコモンは完全体のギガドラモンへと姿を変えた。
究極体であるメタルメギドラモンの圧倒的な飛翔能力には劣るが、その分エネルギーの消費量は格段に抑えられる。
今の二人が誰にも見つからずに初音島へ帰還するには、この姿が最も適していた。
ギガドラモンの強靭な背に乗せられ、ミコトはヒーリング能力を使用したせいで、ギガドラモンの背中にぐったりとして横たわりながら雲海を割って飛ぶ風を肌に感じていた。
眼下には、ヴェノムヴァンデモンの残した絶望の霧が完全に晴れ渡った、美しい海が広がっている。
「ミコト」
「ん?なに?ジーク」
風の音を切り裂いて、ギガドラモン――ジークが重々しい声で語りかけた。
「僕は……もっと強くなる。究極体になっても、ミコトの命を削らずに戦えるくらい、もっともっと強くなってみせる」
「ジーク……」
「だから、もうあんな無茶はしないでくれ。僕の本当の力は、ミコトを守るためにあるんだから‥‥」
不器用だが、痛いほどに真っ直ぐな相棒の言葉。
ミコトは吹きすさぶ風の中で、ギガドラモンの冷たい装甲にそっと頬を寄せた。
「うん……私も強くなる。強くなったジークの隣に胸を張って立てる、パートナーになるよ」
二人だけの静かな誓いを乗せて、黒き鉄竜は初音島へと向かって一直線に飛んでいった。
時を同じくして、デジタルワールドでは‥‥
太一たち、選ばれし子供たちは想像を絶する困難と絶望を乗り越え、四天王『ダークマスターズ』、そして世界の破滅を望む大いなる闇『アポカリモン』をついに打ち倒した。
しかし、完全なる勝利の余韻に浸る間もなく、残酷な事実が子供たちを襲う。
アポカリモンを討伐したことで、デジタルワールドと現実世界の『時間のズレ』が完全に修正されてしまったのだ。
それはすなわち、限られた時間しかこの世界に滞在できないことを意味していた。
もし時間を過ぎれば、彼らは永遠にデータとなって分解されてしまう。
刻一刻とタイムリミットが迫る中、子供たちはそれぞれのパートナーデジモンと涙ながらに最後の別れの時を過ごしていた。
そんな感傷の傍らで、光子郎はゲンナイに一つの重要な問いを投げかけていた。
「ゲンナイさん。現実世界に戻る前に一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあるんですが‥‥」
「ん?なんじゃ?光子郎」
「以前、僕たちが見た過去の映像……あの秘密の研究室にあった石板のことです。僕たちが持つ八つの紋章のさらに『上』……欠けたあそこには元々、何が描かれていたんですか?」
光子郎の真剣な眼差しに、ゲンナイは少しの間沈黙し、やがて重い口を開いた。
「……あれはワシにも確証はない。あの石板を発見した時、既に上の部分が欠損した状態だった‥‥その点を踏まえただの推測じゃが‥‥あの欠けた頂点にはお主たちの持つ八つの紋章、そのすべての源流となった『祖となる紋章』が刻まれていたのではないかと、ワシは考えておる」
「祖となる紋章……!?つまり、九つ目の紋章が存在したという事ですか!?」
驚愕に目を見開く光子郎。
「いや、正確には一番目の紋章じゃ‥‥我々はあの石板にある古代デジタル語を解読し、八つの紋章を作り出した。しかし、祖となる紋章については肝心なその部分が欠けていた事で再現は出来なかったんじゃ‥‥もっともその石板もピエモンに破壊されてしまった以上、解析する事も出来んがのう‥‥」
「‥‥」
『勇気』も『友情』も『希望』も『光』でさえも、元を辿ればそのたった一つの紋章から派生したものに過ぎないのだとしたら――。
光子郎の脳裏に、かつてないほどの謎と胸騒ぎが渦巻いたが、それを考察・解明する時間は、もう残されてはいなかった。
「バイバーイ!! みんな、絶対忘れないからねー!!」
空へ向かって飛び立つ路面電車。
窓から身を乗り出し、小さくなっていくデジタルワールドとパートナーたちに手を振り続ける子供たちの顔は、涙と、そして確かな成長の喜びに満ちていた。
ガタゴトと次元の狭間を揺れながら進む電車の中。
座席に座るタケルは、窓枠に反射する自分の顔をじっと見つめていた。
幾多の死線を潜り抜け、希望の光を灯し続けたその横顔は、デジタルワールドに来る前とは見違えるほど逞しくなっている。
タケルは隣に座るヤマトへ、ゆっくりと顔を向けた。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「ん? どうした、タケル」
「現実世界に帰ったら……僕、初音島に行きたい。ミコトのお見舞いに行きたいんだ」
その言葉に、ヤマトはハッと息を呑んだ。
「どうしたんだ?急に『ミコトに会いに行く』なんて‥‥」
「僕、ずっと逃げていたんだ」
タケルは両手で自分の膝を強く握りしめた。
「えっ?」
「僕、パパとママが‥お兄ちゃんと離れ離れになった時、ミコトに酷いことを言っちゃって‥‥それを今の今までずっと忘れていた‥‥でも、デジタルワールドを旅して、パタモンやヒカリちゃん、みんなと一緒に戦って……僕、もう逃げたくないって思ったんだ」
タケルの瞳には、かつての泣き虫だった面影はない。
「ちゃんとミコトに会って、謝りたい。僕がどれだけミコトを大切に思っているか、それをちゃんとミコトに伝えたいんだ」
弟の真っ直ぐな言葉が、ヤマトの胸に鋭く、そして温かく突き刺さった。
(……逃げていたのは、俺も同じだ)
ヤマトは自嘲気味に、心の中でそう呟いた。
物心ついた頃から、妹のミコトはいつも死の淵を彷徨っていた。
白く細い手足、弱々しい寝息。
いつか突然、彼女の命が消えてしまうのではないかという恐怖が、常にヤマトを支配していた。
『もし、深く愛情を注いだ妹が死んでしまったら、オレの心は耐えられるのか……?』
無意識のうちに、ヤマトはミコトと深く接することを避けてきた。
いざという別れの時に、自分の精神が崩壊してしまうのが怖かったのだ。
妹の病弱さを言い訳にして、傷つくことから逃げていた自分。
それに比べて、目の前にいるタケルはどうだ。
自らの罪悪感と正面から向き合い、一歩を踏み出そうとしている。
「……タケル。お前は本当に強くなったな」
ヤマトは優しく微笑むと、タケルの頭をくしゃりと撫でた。
「オレも、一緒に行くよ。お前だけに行かせるわけにはいかないからな」
「お兄ちゃん……」
「オレも……ミコトに謝らなきゃいけないことが、たくさんあるんだ。オレたちの妹に、ちゃんと会いに行こう」
ヤマトの言葉に、タケルはパッと顔を輝かせ、「うんっ!」と力強く頷いた。
窓の外では、次元のトンネルが眩い光を放ち、懐かしい現実世界の景色が近づいてきている。
選ばれし子供たちの長く過酷な夏休みの冒険は、今、一つの終わりを迎えようとしていた。
しかしそれは同時に、彼らがそれぞれの現実と向き合い、新たな未来へと歩み出すための、始まりの瞬間でもあった。
眩い次元のトンネルを抜け、お台場へと帰還した選ばれし子供たち。
現実世界の時間は、あの日、ヴェノムヴァンデモンを倒してデジタルワールドへ旅立ったあの夏の日のままだった。
しかし、彼らの内面は、長く過酷な冒険を経て劇的な成長を遂げていた。
解散の輪から離れ、ヤマトとタケルは真っ直ぐに自分たちの父親である裕明に向き直った。
「親父、俺たち……これから初音島に行きたい。ミコトに会いに行く」
ヤマトの口から出た予想外の言葉に、両親は揃って驚きに目を見開いた。
「初音島に……? 今からかい?流石に今日はもう島に向かう時間はない、行くとしたら明日の朝一だな」
「じゃあ、明日の朝一で行く」
「でも、どうしたんだ?お前たちは今まであの子の話題を出すことすらしていなかったのに……」
裕明が戸惑うようにタケルを見つめる。
タケルは真っ直ぐに父親の目を見返し、力強く頷いた。
「僕、今までミコトから逃げていたんだ。自分が酷いことを言った罪悪感から目を背けて……でも、もう逃げないって決めたの。ちゃんとミコトに会って、ごめんなさいって言うんだ」
「オレも同じだ。ミコトが苦しんでいるのに、失うのが怖くて向き合おうとしなかった。オレたち、兄貴として……ミコトに伝えなきゃいけないことがあるんだ」
二人の少年の瞳には、かつての弱さや迷いは微塵もなかった。
その確かな決意と成長の証を前に、裕明はやがて優しく、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。
「……分かった。気をつけて行ってきなさい」
父親の承諾を得た二人は、翌日、東京駅へと向かった。
新幹線に乗り込み、車窓から流れる夏の景色を見つめながら、連絡船へと乗り継ぐ。
海風が頬を撫でる中、水平線の向こうに、一年中枯れない桜が咲き誇るという不思議な島――初音島の島影が徐々に大きくなっていった。
「もうすぐだね、お兄ちゃん」
「ああ……」
ヤマトの掌には、じっとりと汗が滲んでいた。
いざ妹に会うとなると、どんな顔をして病室に入ればいいのか、どんな言葉をかければいいのか、緊張が胸を締め付ける。
連絡船を降りた二人は、迷うことなく島で一番大きな病院、『水越総合病院』へと向かった。
静かな波の音から一転、病院の自動ドアを抜けた瞬間、ヤマトは冷や水を浴びせられたような奇妙な悪寒を感じた。
ロビーから続く廊下の奥、ミコトの病室があるはずの小児科・内科病棟の周辺で、複数の看護師たちが青ざめた顔でバタバタと走り回っていたのだ。
「なんだろう?」
「何かあったのか‥‥ま、まさかっ!?」
嫌な予感がヤマトの心臓を鷲掴みにする。
タケルと顔を見合わせ、慌ててナースステーションへと駆け寄った。
「あの、すみません! 石田ミコトの兄ですが、妹の病室は……!」
ヤマトの声に振り返った中年の看護師は、二人の顔を見るなりハッと息を呑み、悲痛な顔で目を伏せた。
「ミコトちゃんのお兄さん?実は、ミコトちゃんが今朝、突然大きな発作を起こして……そのまま意識不明になってしまったの。今、集中治療室(ICU)に運ばれたわ」
「えっ?」
タケルから、血の気が引いていく。
「い、意識不明って……どういうことですか!? ミコトの容態は落ち着いていたはずじゃ……!」
「私たちにも分からないの。ただの心不全や呼吸器の発作じゃなくて‥‥まるで、身体の内側から細胞が破壊されているような……今、先生たちが必死に……」
その後の看護師の言葉は、ヤマトの耳には入ってこなかった。
タケルの手を引き、二人は無我夢中で集中治療室の前へと走った。
「ミコト……っ!」
分厚いガラス窓に張り付くようにして中を覗き込む。
そこには、無数の管と生体モニターのコードに繋がれ、酸素マスクをつけられたミコトが、紙のように青白い顔をして横たわっていた。
医師たちが額に汗を滲ませながら、懸命に救命処置を施している。
ピコン……ピコン……と、か細く不安定な電子音だけが、ガラス越しに微かに聞こえてくる。
「嘘だろ……なんで‥だよ……」
「ミコト……やだ、僕がちゃんと謝る前に……いなくならないでよ……っ!」
タケルはガラス窓にすがりつき、ボロボロと涙を溢した。
ヤマトもまた、己の無力さに唇を噛み破るほど強く食いしばり、ただガラス越しの妹の命が繋ぎ止められることだけを祈り続けていた。
しかし、二人は知る由もない。
このミコトの絶体絶命の危機が、単なる病状の悪化などではないことを‥‥
彼女の身体の中で起きていたのは、医学では到底説明のつかない、次元を超えた超常の争いだったのだ。
お台場での死闘の際、ヴェノムヴァンデモンが放った強大な闇の波長――。
それに激しく共鳴してしまったミコトの中に巣食う『魔王の因子』が、ついに本格的な覚醒を始め、彼女の肉体を完全に『器』として乗っ取ろうと牙を剥いたのだ。
現実世界において、肉体が激しい痙攣と心停止の危機に瀕し、生死の境を彷徨っているその裏側で、ミコトの精神世界――深く暗い意識の底では、壮絶な戦いが繰り広げられていた。
『――グォォォォォ‥‥器ヨ‥‥ワシヲ‥‥闇ヲ受ケ入レヨ‥‥サスレバ絶大ナ力ヲ手ニスルコトガ出来ルノダゾ』
暗黒の空間で渦巻くのは、かつてデジタルワールドに君臨した七大魔王の一角、デーモンの残留思念。
その圧倒的な絶望の塊が、真っ黒な泥のようにミコトの意識を飲み込もうと迫り来る。
「ふざけないで……っ!」
だが、その底知れぬ闇の中心で、ただ一つの光が抗っていた。
ミコトの魂だ。
「こんなところで、あなたなんかに私の身体を明け渡すもんですか……!」
ミコトの精神体は、初音島が持つ奇跡の力――『桜の力』を極限まで引き出し、温かくも力強い「さくら色のオーラ」を全身から立ち昇らせていた。
「私は……帰るの!ジークが待っている現実世界に……私だって、生きるんだから!!
『フフフフ‥‥』
「何がおかしい!?」
『哀レナ器ヨ。オ前ハ生キテイルノデハナイ。ワシニ生カサレテイルダケダト、忘レタカ』
「例えそうであっても‥‥この先、短い命であっても私は私として生きる!!」
ミコトは両手を前に突き出し、迫り来るデーモンの残留思念に向けて、己の生命力と桜の力を奔流のように放った。
闇と桜の光が、精神世界で激しく衝突する。
魔王の因子に刻まれたデーモンの思念はあまりにも巨大で、今のミコトの力をもってしても、その存在そのものを完全に消滅させることは叶わなかった。
(消せないなら……!)
ミコトはさくら色の光をさらに強く輝かせ、デーモンの漆黒の思念を包み込むように侵食させていく。
(消せないなら、その闇のプログラムごと、私が書き換えてやる……っ!)
『――ガァァァァァッ!? キ、サマ……タダノ人間ノ、分際デェェェェッ‥‥ワシノ‥‥思念ガ‥‥書キ換エラレル‥‥ダト‥‥』
桜の浄化の波動が、デーモンの残留思念の周波数を強引に書き換え、無理やり鎮静化させていく。
暴れ狂っていた暗黒の泥は、さくら色の光の鎖に幾重にも縛り上げられ、徐々にその形と力を失っていった。
「‥‥眠りなさい。私の奥深くで‥‥永遠に‥‥」
『愚カナ小娘‥‥ワシハ滅ンダ訳デハナイ‥‥忘レルナ‥‥イツノ日カ‥‥再ビ‥‥蘇ッテ‥‥ヤ‥‥ル‥‥』
ミコトの魂からの叫びと共に、精神世界を眩いさくら色の光が完全に覆い尽くした。
光の奔流の中で、デーモンの残留思念はついに抗うことをやめ、再び深く、重い眠りの底へと封じ込められていく。
己の命を燃やし尽くすような精神の激闘の果てに、ミコトは魔王の浸食をギリギリのところで跳ね除けたのだ。
現実世界、集中治療室――。
「……っ! 先生、心拍が……不整脈が治まりました! バイタル、安定していきます!」
計器を見つめていた看護師が、信じられないものを見たかのように声を上げた。
ピーッという警告音から、規則正しく力強い「ピッ、ピッ」という心電図の音へと変わる。
ミコトの青白かった頬に、わずかだが確かな血の気が戻り始めていた。
それから二日後のことである。
「……ん」
白いシーツの上で、ミコトの指先が僅かに動いた。
「先生! 反応があります!」
看護師の緊迫した声が響く中、固く閉ざされていた瞼が微かに震える。
そして、ゆっくりと開かれた瞳に映ったのは、無機質で白い天井だった。
「……ジーク……」
酸素マスクの下で、ひび割れた唇から微かな声が漏れる。
それは、愛するパートナーを呼ぶ、確かな生命の証だった。
此処で少し時間を巻き戻し、
ミコトが精神世界で、デーモンの残留思念と必死に戦っている中、現実世界では‥‥
「……峠は、なんとか越えました」
集中治療室から出てきた初老の医師のその一言に、ヤマトとタケルは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「本当ですか……っ! よかった、本当によかった……!」
タケルは両手で顔を覆い、安堵の涙をボロボロとこぼした。
ヤマトもまた、壁に背中を預けながら深く、震える息を吐き出した。
デジタルワールドでのどんな死闘よりも、この数十分間は彼の精神をすり減らしていた。
しかし、医師の表情は依然として険しいままだった。
「ですが、命を取り留めたのは、文字通り奇跡としか言いようがありません。患者の容体は極度の体力消耗と心臓への甚大な負担は計り知れない。当面はICUでの厳重なモニタリングと、絶対安静が必要です。誠に心苦しいですが……ご家族であっても、しばらくは『面会謝絶』とさせていただきます」
「面会……謝絶……」
タケルの声が微かに震える。
「あの、ガラス越しでもいいんです! 声だけでも、かけちゃダメですか……? 僕、ミコトにずっと謝りたかったことがあって……!」
必死にすがりつくタケルを、医師は痛ましそうな目で見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ない。今の彼女には、どんな僅かな刺激も致命傷になりかねないんです。今はただ、彼女自身の生きる力を信じて、休ませてあげてください」
その言葉に、タケルはギュッと唇を噛み締め、抗うのをやめた。
命が助かっただけでも御の字だ。
我儘を言って、これ以上妹を苦しめるわけにはいかない。
一方で、壁際で俯いていたヤマトの心の中には、安堵とは全く別の、黒くどろどろとした感情が急速に広がっていた。
「……お兄ちゃん? 大丈夫?」
タケルが心配そうに声をかけるが、ヤマトは答えない。
ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りで集中治療室のガラス窓へと近づく。
分厚いガラスの向こう側。
心電図の音は安定したとはいえ、無数の管に繋がれ、人工呼吸器と酸素マスクの下で力なく横たわるミコトの姿は、ひどく小さく、今にも消え入ってしまいそうだった。
(……オレは、何をしているんだ)
ヤマトの呼吸が、再び浅く、早くなっていく。
デジタルワールドで太一とぶつかり合い、仲間と離れ、自分なりの答えを見つけようともがいた。
タケルの成長を目の当たりにし、自分も逃げずに妹と向き合おうと決心したはずだった。
『オレも……ミコトに謝らなきゃいけないことが、たくさんあるんだ』
あんなにかっこよく口にした決意は、ガラス越しの妹の「死の淵に立つ姿」を見た瞬間、音を立てて砕け散ってしまった。
(む、無理だ……)
ヤマトは無意識のうちに、後ずさりしていた。
(あいつが苦しむ姿を見るのは……命の灯火が消えかけるのを、何もできずに見ているだけなんて……オレには、耐えられない)
妹を愛している。
だからこそ、その妹を失う恐怖がヤマトの心を完全に支配してしまったのだ。
もし次、あいつが発作を起こしたら?
もし次こそ、本当に心臓が止まってしまったら?
その時、自分は冷静でいられるのか?
心が壊れてしまわないか?
「……帰ろう、タケル」
絞り出すようなヤマトの声に、タケルは驚いて振り返った。
「え……? でも、まだ……」
「面会はできないんだ。これ以上ここにいても、どうしようもない……それに、帰りの便の時間もある」
ヤマトの指摘に、タケルはハッと壁の時計を見上げた。
東京へ戻るための、島を発つ連絡船と新幹線の最終便の時間が、無情にも迫っていた。
両親には「今日中に帰る」と約束して出てきている。
これ以上島での滞在を延ばせば、今度は両親に余計な心配をかけることになる。
「でも……せめて、目が覚めるだけでも……」
「行くぞ」
ヤマトの拒絶するような冷たい声。
その背中は微かに震え、両手は白くなるほど固く握りしめられていた。
タケルはヤマトの横顔を見て、彼がまた昔のように――いや、それ以上に深く、自分の殻に閉じこもろうとしていることを悟った。
「……うん。わかった」
タケルは最後に一度だけ、ガラス越しのミコトに向かって深々と頭を下げた。
(ごめんね、ミコト。今日はちゃんと謝れなかったけど……絶対、また来るから。だから、元気になってね)
声なき懺悔と祈りを残し、タケルはヤマトの後を追って歩き出した。
夕日に染まる初音島の港。
遠ざかっていく島影を甲板から見つめながら、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっていた。
ヤマトは海風に吹かれながら、ポケットの中で拳を握りしめる。
一度は前を向き、踏み出そうとした一歩。
しかし、残酷な現実は容赦なく彼のトラウマを抉り、再び彼を深い恐怖の底へと突き落とした。
「ごめんな……ミコト……オレは……オレはやっぱり、駄目な兄貴だ……」
波の音にかき消されたヤマトの呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。
結局、彼らはデジタルワールドから持ち帰った「成長」と「決意」の証を、最も伝えたかった相手に何一つ届けることができないまま、逃げるように東京へと帰っていくのだった。