お台場を絶望の霧で包み込んだ最悪の究極体、ヴェノムヴァンデモン。
選ばれし子供たちの最強の切り札であるウォーグレイモンとメタルガルルモンですら破れなかった強固な闇の障壁を打ち砕いたのは、ヤマトとタケルの妹・ミコトの命を懸けた祈りと、奇跡の顕現を果たした相棒の究極体・メタルメギドラモンであった。
誰にもその真実を知られることなく、己を蝕む『魔王の因子』を抱えたままミコトが密かに初音島へと帰還する中、太一たちは崩壊の危機に瀕したデジタルワールドを救うため、再び空の彼方へと旅立つ。
しかし、最凶の四天王『ダークマスターズ』が君臨する歪んだ世界での過酷なサバイバルは、子供たちの絆に暗い影を落としていった。
ヤマトが己の存在意義を見失い仲間から離脱していく一方、極限状態の中で倒れたヒカリの姿を見たタケルは、かつて病弱な妹・ミコトに対して決定的な暴言を浴びせてしまった過去を思い出す。
激しい後悔と懺悔の涙の末、タケルは逃げずにミコトと向き合うことを決意。
そしてヤマトもまた、妹を失う恐怖から彼女を避けていた自分自身の弱さを認め、現実世界へ帰還した暁には、二人で初音島へ謝罪に行くことを誓い合う。
やがて大いなる闇を打ち倒し、長い夏休みの冒険を終えて現実世界への帰還を果たしたヤマトとタケルは、その足ですぐさまミコトの待つ初音島へと向かった。
だが、彼らを待っていたのは残酷な現実であった。
お台場で浴びた強大な闇の波長によってミコトの中の『魔王の因子』が覚醒し、デーモンの残留思念が彼女の肉体を乗っ取ろうと牙を剥いていたのだ。
精神の奥底での凄絶な闘いの末、ミコトは初音島の奇跡である「桜の力」を極限まで引き出し、辛くも魔王を封じ込めて命を繋ぎ止める。
しかし、集中治療室のガラス越しに見る妹のあまりにも弱々しい姿は、ヤマトのトラウマを容赦なく抉り出した。
『妹を失うかもしれない』という絶望的な恐怖に再び心を完全に支配されてしまったヤマトは、目を覚ました妹に声をかけることも、謝罪の言葉を伝えることもできず、タケルを引き連れて逃げるように東京へと去っていくのだった。
デジタルワールドで手にしたはずの確かな成長と決意。
それを最も伝えたかった妹に届けることができなかった二人の兄。
すれ違う兄妹の想いは、未だ交わることなく――。
初音島から逃げるように東京へと帰還したヤマトとタケルを包む空気は、行きに新幹線に乗った時のそれとは比べ物にならないほど、重く、どんよりと沈み込んでいた。
連絡船と新幹線を乗り継ぎ、すっかり日の落ちたお台場のマンションに帰り着くと、父の裕明が心配そうな顔で二人を出迎えた。
「ヤマト、タケル、おかえり……ミコトの容態が急変した件は、さっき病院から電話で聞いたよ。命に別状がなくて本当によかった」
裕明は安堵の息を吐きながら、うつむいたままの二人の肩をポンと叩いた。
「せっかくお台場から出向いたのに、タイミングが悪かったな。面会もできなかったんだろう? でも、夏休みはまだあと三週間ある。ミコトの容体が落ち着いたら、今度は母さんも誘って、家族みんなでお見舞いに行こうじゃないか」
「……いや」
ヤマトは父の手をすり抜けるように一歩下がり、顔を背けた。
「オレは、いい……」
「ヤマト……?」
「もう行く気はない」
「何を言っているんだよ、ヤマト」
「オレが行ったからってあいつの病気が治るわけじゃないだろう?」
吐き捨てるようにそう言い残し、ヤマトは逃げるように自室へと閉じこもってしまった。
残されたタケルもまた、何も言えずにただ唇を噛み締めることしかできなかった。
ヤマトの冷たい言葉の裏に隠された、身を切られるような恐怖と自己嫌悪の深さを、傍で見ていたタケルだけは痛いほど理解していたからだ。
翌日。
お台場の海浜公園には、デジタルワールドから帰還した選ばれし子供たちが集まっていた。
「いやー、アポカリモンが現れた時はどうなるかと思ったけど、なんとかなって本当によかったぜ!」
太一が明るい声で笑い、光子郎や丈がそれに頷く。
長く過酷な冒険を乗り越え、現実世界での平和な日常を取り戻した子供たちは、パートナーデジモンとの別れがあったが、話題は尽きることのない思い出話に花を咲かせていた。
しかし、その和やかな輪の中で、ヤマトとタケルだけはどうしても笑顔を作ることができず、ただぼんやりと海を見つめていた。
「……ヤマト君、タケル君。ちょっといいかしら?」
二人のただならぬ様子に気づいた空が、そっと声をかけ、輪から少し離れた木陰へと二人を連れ出した。
「昨日、初音島に行ってきたんでしょう ?……どうだった? ミコトちゃんには、ちゃんと会えたの?」
空はタケルがデジタルワールドで「ミコトに暴言を吐いたことを謝りたい」と泣きながら語っていたことを知っている。
だからこそ、二人が晴れやかな顔をしていないことが気掛かりだったのだ。
空の優しい問いかけに、ヤマトは重い口を開き、初音島の病院で起きた出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
病院に着いた直後タイミングが悪く、ミコトの容態が急変したこと。
面会謝絶となり、無数の管に繋がれた痛々しい姿をガラス越しに見ることしかできなかった事を‥‥
「そうだったの……でも、命が助かって本当によかったわ。タケル君も、謝れなくて辛かったわね」
空は痛ましそうに眉を下げると、二人を励ますように優しく微笑んだ。
「でも、夏休みはまだ半分以上残っているじゃない。ミコトちゃんの体調が落ち着いたら、今度こそもう一度初音島に行って……」
「行かない」
ヤマトが、空の言葉を遮るように短く吐き捨てた。
「えっ……? でもヤマト君、デジタルワールドの帰りの電車で、ミコトちゃんに謝らなきゃいけないことがたくさんあるって……」
「無理なんだよっ!!」
ヤマトの悲痛な叫びが、海風を切り裂いた。
「あいつが……ミコトが死にかけている姿を見るのは、もうたくさんなんだ……! ガラス越しに心電図の音を聞きながら、いつあいつの心臓が止まるかビクビクして……あんな思いをするくらいなら、最初から会わない方がマシだ!」
それは、妹を案じるがゆえの言葉ではなく、傷つくことから逃げ出したいというヤマト自身の弱さそのものだった。
激しく呼吸を乱し、顔を覆うヤマトを前に、空は彼の抱えるトラウマと闇の深さにただ言葉を失うしかなかった。
一方その頃、初音島の水越総合病院では‥‥
集中治療室から一般病棟の個室へと戻ったミコトは、ベッドの上で静かに自分の胸に手を当てていた。
身体の奥底深く、今は静まっているが、確かにそこにある名状しがたい『闇』の気配。
(まさかあのデーモンが私の中に入り込んでいたなんて‥‥)
精神世界での熾烈な戦いを思い出し、ミコトは微かに身震いした。
己の命を削り、初音島の桜の力を極限まで引き出して、なんとかデーモンの残留思念を深層心理の奥底に封じ込めて眠らせることに成功した。
だが、それは完全な『消滅』ではなく、あくまで一時的な『封印』に過ぎない。
いつかの日か、再びあの絶望の塊が目を覚まし、自分を乗っ取ろうとするかもしれない。
途方もない恐怖と不安が胸を過るが、ミコトは首を横に振ってその暗い感情を振り払った。
「……ううん、負けない。私だって、簡単に私の身体をデーモンなんかに明け渡すつもりはないんだから」
「その意気だよ、ミコト!」
枕元のタオルの下からひょっこりと顔を出したのは、幼年期のチビモンへと退化し、病室にこっそりと潜んでいたパートナーのジークだった。
「僕がついている。いざとなったら、僕がミコトの中からデーモンを引っ張り出して、コテンパンにしてやるからね!」
「ふふっ、頼もしいね、ジーク」
小さな相棒の鼻先を優しく撫で、ミコトが強く生きる決意を新たにしていたその時、ガラッと病室のドアが開き、担当の看護師が入ってきた。
咄嗟にジークはぬいぐるみの振りをする。
「ミコトちゃん、調子はどう? ……そういえば言い忘れていたんだけど、あなたがICUに運ばれた日、東京からお兄ちゃん二人がお見舞いに来てくれていたのよ」
「えっ……? ヤマトお兄ちゃんと、タケルお兄ちゃんが?」
ミコトは目を丸くした。両親が離婚して以来、ほとんど接点を持つことがなかった兄たちが、わざわざ自分に会いに来てくれたというのだ。
「面会謝絶だったから会えずに帰ってしまったんだけどね。すごく心配そうな顔をしていたわ」
看護師が病室を出て行った後、ミコトは少し迷った末に、病院のロビーに行き、公衆電話でお台場の家に電話をかけた。
数回のコールの後、受話器越しに聞き覚えのある声が響く。
『……もしもし石田です』
「もしもし、ヤマトお兄ちゃん? 私、ミコト」
『ミ、ミコト……!?』
電話の向こうで、ヤマトが弾かれたように息を呑む気配が伝わってきた。
『お前……意識が戻ったのか!? 具合はどうなんだ!?』
「うん、心配かけてごめんなさい。もうすっかり大丈夫だから。それより、看護師さんから聞いたよ。先日、わざわざ初音島までお見舞いに来てくれたんだって? せっかく来てくれたのに、会えなくてごめんね」
ヤマトは沈黙した。
受話器を握るヤマトの手は震え、心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。
(ちがう……オレは、お前から逃げたんだ。お前が死ぬのが怖くて、目を背けた最低の兄貴だ……!)
胸を締め付ける強烈な罪悪感から、ヤマトはどうしても真っ直ぐな言葉を返すことができなかった。
『あ、ああ……まぁ、たまたま近くまで用事があったから、ついでに寄っただけだ。別に……気にしてない』
「そうなんだ。タケルお兄ちゃんも元気にしていた?」
『……あ、ああ。……悪い、ちょっとこれから用事があるんだ。またな』
ガチャッ、ツーツー……。
いたたまれなくなったヤマトは、お茶を濁すような口実を並べ立て、逃げるように慌てて電話を切ってしまった。
残されたミコトは、ツーツーと無機質な音が鳴る受話器を耳に当てたまま、小さく首を傾げた。
「切られちゃった」
「ミコトのお兄さんなんだかそっけない態度だったね」
ジークが不満そうに頬を膨らませるが、ミコトは受話器を置きながらあっけらかんとして笑った。
「うーん、まあ一年以上も会ってなかったしね。ヤマトお兄ちゃんもいろいろ忙しいお年頃なんでしょう。まぁ、声が聞けただけでもよかったよ」
特に傷ついた様子もなく、気にする素振りすら見せないミコト。
彼女の視線は、すでに過去や家族とのしがらみではなく、自分自身の未来へと真っ直ぐに向けられていた。
「それよりも、ジーク。いつ私の中のデーモンが目を覚ますか分からない。いざという時に備えて、今のうちに私たちの力を底上げする新しい強化プログラムを組まないとね!」
「うんっ! 僕、究極体になってもミコトに負担をかけないくらい、もっともっと強くなるよ!」
すれ違う兄の苦悩など知る由もなく、病室の少女と小さな竜は、二人だけの明日を生き抜くために力強く前を向くのだった。
ガチャリ、と無機質な音を立てて受話器を置いた瞬間、ヤマトは激しい自己嫌悪の波に飲まれ、その場に崩れ落ちそうになった。
「……オレは、なんて馬鹿なんだ」
震える両手で顔を覆い、ギリッと歯を食いしばる。
どうしてあんなに慌てて切ってしまったのか。病室で直接顔を合わせるわけではない、ただ電話越しの声だったのだ。
(電話なら……せめてもう少し、あいつの話を聞いてやれたんじゃないのか? お前は無事なのかって、それくらい言えたはずなのに……?)
『声が聞けただけでもよかった』と無邪気に笑う妹の声が耳の奥で何度もリフレインし、ヤマトの心をズタズタに引き裂いていく。
自分の弱さと逃げ癖が、底知れぬ泥沼のように彼を絡め取っていた。
「ヤマト? 今の電話、誰からだ?」
リビングの奥から、父・裕明の怪訝そうな声がした。ヤマトはビクッと肩を震わせ、慌てて表情を取り繕う。
「……いや、ただの間違い電話だよ」
父の目を真っ直ぐに見ることができず、ヤマトは顔を背けたまま短く嘘を吐き、足早に自室へと逃げ込んだ。
閉まったドアを背にしてへたり込み、ヤマトは深く、ひたすらに重い溜め息を暗い部屋の中に落とした。
しかし、そんなヤマトの複雑な事情や深い苦悩など知る由もなく、初音島のミコトはすでに新たな未来へと前を向いていた。
その日の夜。
消灯時間を過ぎ、静まり返った個室のベッドの上で、ミコトは毛布をテントのように頭から被り、こっそりとノートパソコンの画面を開いていた。
彼女の密かな楽しみ――それは、インターネットのチャットルームで仲のいいネット友達と会話をすることだ。
カタカタと静かなタイピング音が、暗いベッドの中に響く。
HATUNE:『こんばんは、COLEOさん。今日も来ている?』
COLEO:『こんばんは、HATUNEさん。うん、起きています』
すぐに画面の向こうの友人、『COLEO(コレオ)』からレスポンスが返ってきた。
ミコトは嬉しそうに微笑みながら、キーボードを叩く。
COLEOとはお互いの本名も顔も知らないが、些細な日常の出来事を語り合える、ミコトにとって大切な友人だった。
二人はチャットを楽しみ、互いの日常を語り合う。
HATUNE:『サマーキャンプ、雪で中止になったけど、夏休みはまだあるでしょう?何処かに旅行とか行くの?』
COLEO:『いえ、特にその予定は‥‥』
HATUNE:『そうなんだ‥‥あっ、夏休みの宿題はちゃんと消化できている?』
COLEO:『ええ、順調ですよ』
HATUNEから夏休みの宿題の件を尋ねられて、光士郎は他の皆は出来ているのかとふと思った。
(丈さん、空さん、ヤマトさん、タケル君、ヒカリさんはしっかりしているから出来ていそうだけど‥‥)
(ミミさんと太一さんあたりは夏休み後半に慌ててやるんだろうな‥‥)
(もしかしたら手伝う事になるかも‥‥)
夏休み後半の事を思い浮かべ、光士郎は思わず口元が緩んだ。
COLEO:『HATUNEさんは入院中とお聞きしましたが、ご家族の方がお見舞いに来たりとかしないのですか?』
HATUNE:『この前、発作を起こして二日ほど生死の境をさまよった時にお兄ちゃんたちが来たみたい』
COLEO:『えっ?生死の境って‥‥ドッキリですか?』
HATUNE:『ううん、事実だよ』
COLEO:『事実でもそんなサラッという事じゃないでしょう‥‥』
パソコンのモニター越しに、COLEOが慌ててキーボードを叩く姿が目に浮かぶようで、ミコトは思わず「ふふっ」と小さく吹き出した。
HATUNE:『ごめんなさい、心配かけちゃったね。でも、今は本当にピンピンしているから大丈夫だよ!』
東京の自室でそのメッセージを受け取った光子郎は、ほうっと安堵の溜め息をついた。
顔も知らないネット上の友人だが、彼女の底抜けの明るさにはいつも救われている気がする。
だからこそ、生死の境を彷徨ったという言葉には心底肝を冷やした。
COLEO:『本当ですか? 無理は絶対に禁物ですよ。お兄さんたちも、さぞご心配されたでしょう。直接お話しはできたんですか?』
HATUNE:『ううん、ICUにいた時は面会謝絶だったから、会えずに帰っちゃったの。それでね、今日私からお兄ちゃんに電話してみたんだけど……なんだかすごくそっけなくて。忙しいからって、すぐに切られちゃったんだ』
光子郎のタイピングする指が、ぴたりと止まった。
妹が死線を彷徨った直後だというのに、そっけない態度をとる兄。
普通なら「冷たい家族だ」と思うところだが、光子郎の脳裏には、なぜか今日、海浜公園で見たヤマトの沈み込んだ横顔が重なった。
(ヤマトさんも……初音島の病院で、妹さんに会えずに帰ってきたと空さんが言っていたな……)
まさか目の前の『HATUNE』がヤマトの妹である『ミコト』だとは夢にも思っていない光子郎だが、持ち前の洞察力と優しさが、自然と言葉を紡がせた。
COLEO:『もしかすると、お兄さんはHATUNEさんが倒れたことに大きなショックを受けていて、どう接していいか分からなくなっているのかもしれませんね』
HATUNE:『どう接していいか?』
COLEO:『ええ。人間は、本当に大切なものを失いかけた時、その恐怖から無意識に距離を置こうとしてしまうことがあります。僕の身近にも……不器用で、本当は誰よりも家族を大切に思っているのに、素直になれない人がいますから』
暗い病室のベッドの上で、ミコトはそのメッセージをじっと見つめた。
『悪い、ちょっとこれから用事があるんだ。またな』
逃げるように切られた電話の声。
あれは、単に忙しかったり、自分に興味がないから冷たくしたわけではなく――。
(ヤマトお兄ちゃん……私のことが、怖かったのかな。私が死んじゃうかもしれないことが、怖くて……)
光子郎の的確な指摘によって、ミコトはヤマトの不自然な態度の裏にある「怯え」に気付かされた。
一年以上会っていないとはいえ、血の繋がった兄だ。
昔から自分の病気のことで、両親だけでなく兄たちにもずっと暗い影を落としてきたことは、ミコト自身が一番よく分かっていた。
HATUNE:『そっか……COLEOさんの言う通りかもしれないね。私、全然お兄ちゃんの気持ち、分かってあげられてなかったな』
COLEO:『焦る必要はありませんよ。HATUNEさんが元気な姿を見せ続ければ、きっとお兄さんの心の緊張も解けるはずです。まずは、ご自身の回復を第一に考えてください』
HATUNE:『うん! ありがとう、COLEOさん。なんだかすごくスッキリしたよ。次にお兄ちゃんと話す時は、とびっきり元気なところをアピールしてみるね!』
COLEO:『はい。応援しています』
HATUNE:『それじゃあ、今日はもう寝るね。COLEOさんも、引き続き夏休みの宿題頑張ってね! おやすみなさい』
COLEO:『おやすみなさい。またお話ししましょう』
チャットルームから『HATUNE』のアイコンが消え、光子郎は静かにノートパソコンを閉じた。
烏龍茶が入ったグラスを手に取り、窓の外に広がるお台場の夜景を見つめる。
「ヤマトさんたちも、HATUNEさんのお兄さんみたいに、いつか素直に妹さんと向き合える日が来るといいんですが‥‥」
誰に言うともなく呟いた光子郎の言葉は、静かな自室の空気に溶けていった。
初音島の海から吹き込む爽やかな風が、病室のカーテンを小さく揺らしていた。
昨夜のチャットで光子郎(COLEO)から助言をもらい、心のモヤモヤがすっかり晴れたミコトの表情は、どこか清々しく明るかった。
「よし、ジーク! 今日から本格的に私たちの『強化プログラム』を練っていくよ!」
ベッドの上に広げた大学ノートにペンを走らせながら、ミコトは意気揚々と声を上げた。
その声に応えるように、枕元でチビモンから成長期の『ブイモン』へと姿を変えたジークが、力強く小さな拳を突き上げる。
「任せてよ、ミコト! 僕、デーモンなんかに負けないくらい、もっともっと強くなるための特訓ならいくらでも付き合うからね!」
二人は真剣な表情でノートを覗き込み、今後のトレーニング案をリストアップしていった。
【対デーモン用・強化プログラム案】
精神集中トレーニング: 深層心理に封じたデーモンの残留思念を抑え込むための瞑想とイメージトレーニング。
基礎体力の向上: 病室の限られたスペースでミコト自身が行えるストレッチと体幹トレーニング。
成長期(ブイモン)状態での戦闘シミュレーション: 技の精度向上と、無駄のない動きの反復練習。
順調に案を書き出していくミコトだったが、ふとペンの動きを止め、小さく溜め息を吐いた。
「……でも、やっぱり現実世界じゃ限界があるよね」
「うん……」
ジークもまた、ミコトの言葉に同調するようにシュンと耳を垂らした。
現実世界であるこの初音島――ましてや病院の個室という閉鎖空間では、デジモンが成長期(ブイモン)以上の大きさに進化することは、周囲への影響を考えると到底不可能だった。
もし無理に成熟期以上の姿になろうものなら、病室はおろか病院ごと破壊しかねない。
「本当なら、成熟期や完全体、それに究極体であるメタルメギドラモンの姿になって、強大な力のコントロールや大技の特訓もしておきたいところなんだけど……ブイモンでの強化をメインにするしかないね」
「デジタルワールドでなら、周りの被害なんて気にせずに思いっきり暴れ回って訓練できるのになぁ……」
ジークが窓の外の青空を見上げながら、心底残念そうに呟く。
デジタルワールドという無限のフィールドがあれば、どんな高レベルの特訓でも試すことができたはずだ。現実世界の窮屈さが、今はひどくもどかしかった。
しかし、ミコトはすぐに力強く首を横に振って、その悔しさを振り払うようにパチンと両頬を叩いた。
「ないものねだりをしていても仕方ないよ! 今はデジタルワールドには行けないんだから、ここにある環境でベストを尽くすしかない」
「そうだね。僕、ブイモンの姿のままでも、成熟期相手に立ち回れるくらいスピードと技のキレを磨いてみせるよ! 『ブイモンヘッド』の威力だって極限まで高めてみせる!」
「うん、その意気だよ、ジーク!」
不自由な現実世界の制限を嘆く気持ちはあれど、二人の瞳から闘志の炎が消えることはなかった。
いつか再び訪れるであろうデーモンとの再戦、そしてお台場で足踏みをしている不器用な兄たちの不安を払拭するため、病室の少女と小さな竜は、限られた環境下で最強への道を力強く模索し始めるのだった。
一方、その頃。
お台場にある八神家のマンションでは、太一の部屋に空、光子郎、そしてヤマトが集まり、山積みになった夏休みの宿題を片付けていた。
「「「‥‥」」」
けたたましく鳴くセミの声と、扇風機の回る単調な音が部屋に響く中、ヤマトの周りだけがまるで深海のように重く、どんよりとした空気を纏っていた。
開かれたままの算数のドリルに、シャープペンシルの芯がポキリと折れて転がる。
ヤマトの視線は問題の文字を追っておらず、ただ虚空を見つめ、時折ひどく苦しそうな、消え入りそうな溜め息を零していた。
そんなヤマトの纏う空気に太一たちも気まずさを覚えて彼らの宿題も進んでいない。
「……悪い。ちょっと、顔洗ってくる」
限界が来たのか、ヤマトは唐突に立ち上がると、逃げるように部屋を出て洗面所へと向かっていった。
パタン、とドアが閉まった途端、太一が手元の鉛筆を置き、身を乗り出して空と光子郎にひそひそ声で尋ねた。
「なあ、ヤマトのやつ、一体どうしたんだ? デジタルワールドから帰ってきてから、ずっとあんなお通夜みたいな顔しているぞ‥ガブモンとの別れがそんなに辛かったのか?」
デジタルワールドでパートナーデジモンと別れたのは自分たちも同じだ。
しかし、ヤマトの纏う空気はあまりにも重い。
空と光士郎は何か事情を知っているのかと思い尋ねたのだ。
太一の問いかけに、光子郎は複雑な表情でノートから目を伏せ、空は痛ましそうに眉を寄せて小さく息を吐いた。
「……実はね、昨日、ヤマト君たち初音島に行ってきたみたいなの」
「初音島?ヤマトは何でそんな所に行ったんだ?」
空は声を潜めながら、昨日海浜公園でヤマトから聞いた凄惨な出来事を太一に語り始めた。
初音島の病院で、ヤマトとタケルの妹である『ミコト』の容態が急変したこと。ガラス越しに見る妹の死に直面する恐怖に耐えきれず、ヤマトが面会もせずに逃げ帰ってきてしまったことを‥‥
「い、妹……!? ヤマトに、妹なんていたのか!?」
初めて知る事実に、太一は思わず大きな声を出しそうになり、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
ヤマトの両親が離婚し、タケルと離れ離れに暮らしていることは知っていたが、まさかもう一人、妹がいたなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「病気がちで、ずっと初音島の病院に入院しているそうよ……ヤマト君、妹さんが死んじゃうかもしれない姿を見るのが怖くて、たまらなくなっちゃったみたいなの」
空の悲痛な言葉を聞いた瞬間。
普段の太一であれば、「逃げてどうするんだ! 妹が一番苦しい時に、傍にいてやれよ!」と真っ直ぐにヤマトを 咤激励し、力強く背中を叩いていたはずだった。
「‥‥」
しかし、今の太一は何も言えず、ただ顔面からさっと血の気を引かせて固まっていた。
脳裏にフラッシュバックしたのは、数年前の凄惨な記憶。
まだ幼かったヒカリが風邪で寝込んでいた日、自分が無理やり外へ連れ出してサッカーをしたせいで、ヒカリが肺炎をこじらせて生死の境を彷徨った時のことだ。
(あの時、息も絶え絶えに倒れたヒカリを見た時……俺は……)
救急車のサイレン。冷たくなっていく妹の小さな手。
『自分が妹を殺してしまったかもしれない』という、目の前が真っ暗になるような絶望と恐怖。
あの時の心臓が握り潰されるような底知れぬ怯えを、太一は痛いほど知っている。
だからこそ、ヤマトの逃げ出してしまった弱さを、決して「無責任だ」と責めることなど絶対にできなかった。
太一としても他人の事などではない。
「……ヤマトのやつ……そんな重いもん、一人で抱え込んで……」
太一はギュッと拳を握り締め、ギリッと唇を噛んだ。
軽はずみな励ましなど、今のヤマトにとっては呪いでしかないと悟ったのだ。
その太一の痛切な横顔を見て、空と光子郎もまた、それぞれに重い沈黙を落としていた。
空は、かつて家業の華道を押し付ける母親に反発し、サッカーを続けることで深くすれ違っていた自分自身の過去を思い返していた。
「愛情があるからこそ、傷つくのが怖くてぶつかってしまう、逃げてしまう」という家族の面倒な感情の絡まりを、空は嫌というほど理解している。
そして光子郎もまた、自分が泉家の本当の子供ではなく「養子」であることを偶然知ってしまい、両親との間に見えない壁を作り、パソコンの世界へ逃げ込んでいた過去がある。
現在は育ての両親とはそのようなわだかまりは解消している。
(昨夜のチャットで、HATUNEさんが『お兄ちゃんがそっけない』と言っていたのは、やはりヤマトさんのことだったのかもしれませんね……)
光士郎はチャット仲間のHATUNEがヤマトの妹、ミコトではないかと思い始めた。
しかし、光子郎は自分のチャット仲間がミコトかもしれない事をヤマトには告げなかった。
彼は家族の形や抱える闇は、他人が土足で踏み込んで簡単に解決できるほど単純なものではないと知っていたからだ。
自分たちも家庭環境に色々と問題を抱え、それに苦しんできた身だ。
だからこそ、よそ様のデリケートな家庭事情、それも「生死」が関わる深いトラウマに、外野が軽々しく首を突っ込むべきではないというブレーキが強く働いてしまう。
「……俺たちにできること、何かないのかな」
太一が絞り出すように呟いた言葉に、明確な答えを返せる者はこの部屋にはいなかった。
ただ傍にいて、彼が自力で顔を上げるのを待つことしかできない。
仲間を想えば想うほど、何もしてやれない自分たちの無力さに、三人はただ深く、苦しい歯痒さを抱えて沈黙するのだった。
「‥‥」
光子郎は、閉ざされた部屋のドアをじっと見つめていた。
ヤマトが逃げるように出て行ったそのドアの向こうから、痛いほどの沈黙が伝わってくるようだった。
隣では、普段なら真っ先にヤマトの胸倉を掴んででも活を入れるはずの太一が、ひどく青ざめた顔で唇を噛み締めている。
空もまた、悲痛な面持ちで俯いていた。
光士郎は太一が行動を移せない理由を知っている。
デジタルワールドでヒカリが夏風邪をぶり返して倒れて、一緒にキメラ都市で風邪薬を捜しに行った際、太一の暗い過去を彼自身の口からきいていた。
だからこそ、太一はヤマトに声をかけづらかったのだ。
同じ妹を持つ兄として‥‥
(……やはり、そうだったんですね)
そして、光子郎の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが音を立てて組み合わさっていく。
初音島の病院に入院している、ヤマトの妹『ミコト』。
先日、面会謝絶になるほど生死の境を彷徨い、ヤマトが会えずに逃げ帰ってきたという事実。
そして昨夜、チャットでやり取りをしたネット上の友人、『HATUNE』。
彼女はチャット内で言っていた‥『二日ほど生死の境をさまよった』『お兄ちゃんたちが来たみたいだけど、会えずに帰っちゃった』『今日電話したら、そっけなくてすぐに切られた』と。
(初音島だから、ローマ字で『HATUNE』……間違いない。僕がチャットで話していた彼女は……ヤマトさんの妹さんだ)
まさか、自分にとって心のオアシスのような存在だった明るいネットの友人が、あのヤマトの隠された妹だったとは‥‥
光子郎は膝の上で、ギュッと両手を握り締めた。
HATUNE――ミコトは、「お兄ちゃんが冷たい」と少し寂しそうにしていた。
だが、光子郎には痛いほど分かっていた。
ヤマトが冷たい態度をとってしまったのは、妹を愛していないからではなく、妹を失う恐怖から逃げ出したいという、あまりにも人間らしくて脆い防衛本能なのだと。
(僕にも分かります。ヤマトさんの逃げ出したくなる気持ちが‥‥)
光子郎の脳裏に、かつて自分が両親の秘密――自分が両親とは血が繋がっていない養子であるという事実――を立ち聞きしてしまった日のことが蘇る。
あの時、光子郎もまた真実と向き合うことが怖くて、両親が傷つくのも、自分が傷つくのも恐れて、パソコンという『別の世界』へと逃げ込んだ。
両親との間に分厚い壁を作り、自ら孤独を選ぼうとした。
だからこそ、ヤマトを「薄情だ」「逃げるな」と責めることは、光子郎には絶対にできなかった。
家族だからこそ、愛しているからこそ、どうしようもなく怖くなる夜があるのだ。
(僕からヤマトさんに、「妹さんはチャットで元気にしていましたよ」と伝えるべきでしょうか……? いや、駄目だ)
光子郎はすぐにその考えを打ち消した。
今、ヤマトは極限状態にある。
そんな時に、見ず知らずの他人に妹が心を許していると知れば、ヤマトはさらに殻に閉じこもってしまうかもしれない。
それに、ミコトにとってもチャット仲間である『COLEO』は顔も知らない第三者だからこそ、素直に弱音を吐ける逃げ場なのだ。
その領域に土足で踏み込むことは、絶対に避けなければならない。
(家族の抱える深い闇は、僕たち他人が無理やりこじ開けられるものじゃない……)
光子郎は、烏龍茶の入ったグラスに視線を落とした。
水滴が静かにテーブルへと滑り落ちていく。
(僕にできるのは、現実世界でヤマトさんをそっと見守ること。そして……ネットの世界(チャット)で、HATUNEさんを全力で励ますことくらいだ)
「お兄ちゃんが怯えなくて済むように、とびっきり元気なところをアピールする」と言っていた彼女の強さを、光子郎は密かに信じることにした。
いつか必ず、あの不器用な兄妹が本当の意味で向き合える日が来ることを祈りながら、光子郎は静かに、誰にも気づかれないように深い溜め息を飲み込んだ。
やがて、廊下からヤマトの足音が近づいてくる。
三人は慌てて表情を取り繕い、何事もなかったかのように鉛筆を握り直した。
開かれたドアの向こうから現れたヤマトの顔には、冷たい水滴が滴っていたが、その瞳の奥に広がる暗い闇は、洗面所の水ではとうてい洗い流せるものではなかった。