最悪の究極体デジモン・ヴェノムヴァンデモンがもたらしたお台場の絶望。
そして、歪んだデジタルワールドを支配するダークマスターズとデジタルワールドにおける真の歪みの原因となるアポカリモンの過酷な闘い――。
長きに渡る夏の冒険は、選ばれし子供たちの勝利によって幕を閉じた。
しかし、その陰で強固な闇の障壁を打ち砕く奇跡を起こしたヤマトとタケルの妹・ミコトは、自らの内に『魔王の因子』を宿すという過酷な運命を背負い、一人密かに初音島へと帰還していた。
現実世界へ帰還したヤマトとタケルは、すぐさまミコトの待つ初音島の病院へと向かう。
だが、覚醒した魔王の力と凄絶な闘いを繰り広げ、集中治療室で生死の境を彷徨う妹の姿は、ヤマトの心に潜む「家族を失う恐怖」というトラウマを容赦なく抉り出した。
極限の恐怖と絶望に耐えきれなくなったヤマトは、目を覚ましたミコトに声をかけることすらできず、タケルを引き連れて逃げるようにお台場へと帰ってしまう。
電話越しの妹の声にすら怯え、ヤマトは激しい自己嫌悪の底へと沈み込んでいく。
己の弱さに苛まれ、厚い壁を作っていくヤマト。
かつて妹のヒカリを死なせかけたトラウマを持つ太一、そして家族とのすれ違いや葛藤を経験している空や光子郎たちは、ヤマトの抱える底知れぬ闇と痛みを痛いほど理解していた。
だからこそ、軽々しく励ますことも踏み込むこともできず、ただ見守ることしかできない己の無力さに深く苦悩する。
昼間、太一の部屋で夏休みの宿題をやる勉強会が行われたのだが、ヤマトの纏う重苦しい空気の為、宿題はあまり進まなかった。
その日の夜、自室のベッドに仰向けに倒れ込み、ヤマトは暗い天井をただ虚ろな目で見つめていた。
手の中には、冷たい金属の感触‥いつも自分が持ち歩いているハーモニカだが、今の彼にはそれを唇に当てる気力すら湧かない。
『声が聞けただけでもよかったよ』
受話器越しに聞いたミコトの屈託のない明るい声が、呪いのように脳内をループし、ヤマトの心をズタズタに切り裂いていく。
(オレは……最低の兄貴だ)
ギリッと奥歯を噛み締め、ヤマトはハーモニカを握る手に力を込めた。
デジタルワールドでは、仲間のために体を張り、どんなに強大な敵にも立ち向かっていくことができた。
ガブモンという無二の相棒がいて、太一たちと背中を預け合い、『友情の紋章』を胸に輝かせることができたはずだった。
それなのに、現実世界に帰ってきた途端、自分はこのザマだ。
たった一人の妹が、無数の管に繋がれ生死の境を彷徨った姿を自分はガラス越しに見ただけで恐怖に足がすくみ、背を向けて逃げ出してしまった。
怖いのだ。
両親が離婚し、家族が真っ二つに引き裂かれたあの日‥自分の足元から世界が崩れ落ちるような、あの途方もない喪失感。
もし、あの細く弱々しい妹の命の灯火が自分の目の前でふっと消えてしまったら――今度こそ、石田ヤマトという存在の芯が完全に折れ、狂ってしまうという確信めいた恐怖があった。
傷つくのが怖い。
失うのが怖い。
だから初めから「関わらない」という分厚い壁を作り、自分の心を必死に守ろうとしているだけなのだ。
妹の体を心底案じているから直視できないのではない。
ただ、自分がこれ以上傷つきたくない‥‥ひどく卑怯で臆病なエゴイズム。
その醜い本質を、ヤマト自身が一番よく分かっていた。
(タケルは……あいつはちゃんと、過去の自分の過ちから逃げずに、泣きながらでもミコトと向き合おうとしているのに……!)
幼かった弟でさえ、必死に前を向こうとしている。
それなのに、兄である自分は恐怖に震え、嘘をついて電話から逃げることしかできない。
「‥‥ガブモン‥‥オレは、どうすればいい‥‥どうすればいいんだ‥‥」
暗闇の部屋にポツリと響いたのは、もう隣にはいない相棒の助言を求める自分の声は、ひどく掠れた震え声だった。
どんな時も「ヤマトはヤマトのままでいいんだよ」と全てを受け入れてくれた温かい毛皮の感触は、もう現実世界にはない。
誰も答えてはくれない静寂の中、ヤマトは己の底知れぬ弱さと身勝手さに苛まれながら、ただひとり自己嫌悪の暗い沼の底へと沈み込んでいくのだった。
ヤマトが自室で自己嫌悪に心が押しつぶされそうになっている頃、お台場のマンションの一室では、パソコンの冷却ファンの音だけが静かに響いていた。
光子郎は、画面の隅で点滅を始めたチャットツールの通知アイコンに気づき、そっとマウスに手を伸ばした。
HATUNE:『こんばんは、COLEOさん! 今日も暑かったですね。そっちはどうでしたか?』
待ちに待った彼女からのメッセージ。
光子郎の口元に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
ヤマトの抱える深い苦悩を目の当たりにしてからというもの、光子郎はこの『HATUNE』との会話が、まるでヤマトとミコトの未来を繋ぐ細い糸のように感じられていた。
COLEO:『こんばんは、HATUNEさん。ええ、東京も記録的な猛暑日でした。体調は崩されていませんか?』
HATUNE:『ばっちり元気です! 実は体力をつけるための『秘密の強化プログラム』を始めたんです』
COLEO:『強化プログラム‥ですか?病室でできる範囲の運動ということでしょうか?』
HATUNE:『はい! 軽いストレッチとか、体幹トレーニングとか。あとは……私の中にいる『悪いもの』に絶対に負けないための、精神を集中させるイメージトレーニングです!』
光子郎はタイピングする指をふと止めた。
彼女の言う『悪いもの』‥それは一般的には「病魔」という意味合いで使っているのだろうと光士郎はそう思っていた。
たった一人で、見えない恐怖と戦う少女の並々ならぬ決意。それを画面越しに感じ取り、光子郎は真剣な眼差しでキーを叩く。
COLEO:『なるほど。イメージトレーニングは非常に理にかなっています。「病は気から」という言葉がある様に、脳と肉体は密接にリンクしていますから、自分が打ち勝つ姿を強く明確に思い描くことで、実際の免疫力や精神力の向上に繋がるというデータもあります。とても良いアプローチだと思いますよ』
HATUNE:『わあ、さすがCOLEOさん! なんだかお医者さんか、頭のいい学者さんみたいですね!』
COLEO:『いえ、知り合いの方にお医者さん家の方が居まして‥‥』
HATUNE:『実は、私一人じゃなくて、頼もしい『相棒』も一緒に特訓に付き合ってくれているんです』
COLEO:『相棒‥ですか?』
HATUNE:『はい! 小さくて、すっごく元気な子なんです。その子が「自分も強くなる!」って張り切ってくれていて。だから私も、弱音なんか吐いていられないなって』
光士郎は同じ病院に入院している年下の子供かと思った。
そして、画面の向こうの彼女が、おそらく病室のベッドの上で、入院している年下の子供と笑い合っている姿が目に浮かぶようだった。
まさか、HATUNEの相棒がデジモンであるとは光士郎は思いもしなかった。
COLEO:『それは心強いですね。お互いに支え合い、共に成長できるパートナーがいるなら、きっとその強化プログラムは大きな成果を生むはずです』
HATUNE:『COLEOさんもそう思いますか?』
COLEO:『はい。HATUNEさんとその相棒さんの努力は、必ず実を結びますよ』
HATUNE:『ありがとうございます! なんだかCOLEOさんにそう言ってもらえると、本当に無敵になれた気がします!』
COLEO:『ハハ、そんな大袈裟な‥‥』
HATUNE:『いえ、この特訓を続けて、次にお兄ちゃんと話す時や会う時は、絶対に心配かけないくらい元気な姿を見せてやります! 「私、こんなに強いんだよ!」って、びっくりして腰を抜かしちゃうくらいに!(笑)』
強がりではなく、心からの前向きな言葉。
ヤマトが恐れている「死にゆく弱い妹」の姿は、そこには微塵もなかった。
彼女は自らの足で、兄のトラウマすらも吹き飛ばそうと力強く歩き出している。
COLEO:『ふふ、それは楽しみですね。お兄さんも、きっと驚かれると思います。……ただ、くれぐれもオーバーワークには気をつけてくださいね。休息もトレーニングの重要な一部ですから』
HATUNE:『はーい、肝に銘じます! 明日も朝から特訓なので、今夜はこれで休みますね。COLEOさんも、夏休みだらと言って夜更かしのしすぎには気をつけてくださいね。おやすみなさい!』
COLEO:『おやすみなさい、HATUNEさん。良い夢を‥‥』
チャットルームから彼女のアイコンが退出したのを見届け、光子郎は深く、そして温かい息を吐き出した。
「……ヤマトさん。貴方の妹さんは、貴方が思っているよりも、ずっとずっと強くて、前を向いていますよ」
誰にも聞こえない声でそっと呟き、光子郎はノートパソコンの電源を落とした。
お互いに正体を知らないまま交わされるこの小さな会話が、いつか必ず、すれ違う不器用な兄妹の心を救う光になる。
そう固く信じながら、光子郎は窓の外の星空を見上げた。
一方、初音島の水越総合病院。
ノートパソコンを閉じたミコトは、暗い病室のベッドの上で小さく膝を抱えていた。
枕元では、疲れ切ったジーク(チビモン)がスースーと無邪気な寝息を立てている。
静寂に包まれた夜の病室。日中の強がりが嘘のように、ミコトの胸の奥で、冷たい『デーモン』の気配と、どうしようもない孤独感が顔を覗かせる。
「……ヤマトお兄ちゃん」
ぽつり、とこぼれ落ちた呟き。
電話口で聞いたヤマトの、どこかよそよそしく、怯えたような声が耳から離れない。
(ヤマトお兄ちゃん、逃げるように帰っちゃった……やっぱり、私に……会いたくないのかな?)
ポロリと、頬を冷たい涙が伝う。
強がってはみても、彼女もまた死の恐怖と孤独と戦う、一人の痛ましい少女だった。
けれど、ミコトは乱暴に涙を拭うと、寝ているジークの小さな頭を優しく撫でた。
(ううん、違う。私が弱いから、心配させているだけだ。だから……強くならなきゃ)
弱音を吐くのは夜だけ‥そう自分に言い聞かせ、ミコトはそっと目を閉じた。
翌朝。
初音島の水越総合病院には、雲一つない青空から眩しい朝日が降り注いでいた。
「いーち、にー、さーん、しっ……!」
「シュッ! シュッ! フンッ!」
静かなはずの一般病棟の個室からは、朝から妙に活気のある声と息遣いが漏れ聞こえていた。
病室のベッドの脇のわずかなスペースで、ミコトは額に汗を滲ませながらプランク(体幹トレーニング)の姿勢を維持していた。
その横では、成長期の『ブイモン』の姿となったジークが、見えない敵(デーモン)を想定して鋭いシャドーボクシングを繰り広げている。
「ジーク、いい動きだよ……! でも、絶対に壁やベッドには当てないでね……!」
「分かっているよ! でも、やっぱり力を持て余しちゃうなぁ。本当なら『ブイモンヘッド』で岩山くらい粉々に砕く特訓をしたいのに……!」
ジークが不満そうに腕をぶんぶんと振り回す。
現実世界で成熟期以上のパワーを解放すれば、この病室はおろか病院そのものが半壊してしまう。
そのため、ジークの特訓はあくまで「寸止め」と「スピードとフォームの最適化」に絞られていた。
「仕方ないよ。昨日の夜、COLEOさんも言っていたでしょう? 休息もトレーニングの一部だし、イメージトレーニングがすごく大事なんだって」
「うーん、COLEOってやつの言うことは難しくてよく分かんないけど、ミコトがそう言うなら我慢するよ!」
その時だった。
コンコンッ、とノックの音が響き、「ミコトちゃん、朝の検温の時間よー」と担当の看護師の声がした。
「わっ、ヤバっ!」
「ジーク、早く隠れて!」
ガラッとドアが開く直前、ポンッと小さな光が弾け、ブイモンから幼年期の『チビモン』へと素早く退化したジークが、ミコトのベッドの枕元へとダイブした。
ピタッと動きを止め、大きな瞳を見開いたまま「ただの青いぬいぐるみ」のフリをする。
「おはよう、ミコトちゃん。……あら? なんだかすごく汗をかいているわね。息も上がっているみたいだけど、どこか苦しいの?」
「お、おはようございます! だ、大丈夫です! ちょっとベッドの上で軽いストレッチをしていただけで……」
ミコトは誤魔化すように愛想笑いを浮かべながら、急いで体温計を脇に挟んだ。
看護師は少し怪訝そうな顔をしたが、体温計の数値が平熱であることと、ミコトの顔色が昨日よりもずっと良く、生き生きとしているのを見てホッと胸を撫で下ろした。
「熱はないわね。顔色もすごくいいわ。でも、ICUから出たばかりなんだから、絶対に無理は禁物よ? お兄ちゃんたちも心配しているんだからね」
「はい、分かっています。ご心配おかけしました!」
看護師が病室を出て行くと、枕元のチビモンが「ぷはぁっ!」と大きく息を吐き出して身をよじらせた。
「あぁ~死ぬかと思った……! やれやれ、ぬいぐるみごっこも楽じゃないね」
「ふふっ、お疲れ様、ジーク。でも、おかげで良い汗かけたね」
ミコトはタオルで汗を拭いながら、自分の胸の奥にそっと意識を向けた。
激しい運動をしたことで心臓は早鐘のように鳴っているが、深層心理の底に封じ込めた『デーモン』の冷たい気配は、今は大人しく沈黙を保っている。
(初音島の桜の力とジークの存在……そして、私自身の『絶対に負けない』っていう意志。これが合わされば、きっとデーモンだってこの先、抑え込める)
昨夜、顔も知らないネットの友人・COLEOがくれた『お互いに支え合うパートナーがいるなら、きっと成果を生む』という言葉が、ミコトの心に強い光を灯していた。
「ねえ、ジーク」
「ん? なあに?」
「私、絶対に負けないよ。デーモンにも自分の弱い体にも……ヤマトお兄ちゃんが、いつかまた私に会いに来てくれた時、『なんだ、すっごく元気じゃん!』って、呆れ返るくらいピンピンしてやるんだから」
ミコトの瞳には、死の恐怖に怯える影は微塵もなかった。
お台場で自分のことを避けて逃げ出してしまった不器用な兄‥彼が背負ってしまった見えないトラウマごと、自分の明るさと力強さで吹き飛ばしてしまおう。
そんな頼もしい決意が、少女の小さな体に満ち溢れていた。
「うん! その時は、僕もとびっきり強い姿を見せて、ミコトのお兄ちゃんを驚かせてやろうね!」
「あははっ、それはちょっとお兄ちゃんたちの心臓に悪いかもね」
病室の中には、少女と小さな竜の明るい笑い声が響き渡る。
お台場で深い苦悩に沈む兄の暗闇を照らすかのように、初音島の朝日はどこまでも眩しく、二人の未来を力強く照らし出していた。
数日後‥‥
父親である裕明や兄・ヤマトと過ごしたお台場での滞在期間を終えたタケルは、母親の奈津子と暮らす三軒茶屋のマンションへと帰ってきていた。
夏休みの太陽が西の空へと傾き、リビングに長い影を落とす夕暮れ時、荷解きを終えたタケルは、胸の中にくすぶる熱い塊を抱えたまま、キッチンで夕食の支度をしている母親の背中をじっと見つめていた。
(……ママに、ちゃんと言わなきゃ)
デジタルワールドの過酷な冒険を乗り越え、エンジェモンやホーリーエンジェモンと共に絶望的な闇に立ち向かったタケルは、もう以前の「ただ守られるだけの泣き虫な弟」ではない。
過去に自分がミコトに浴びせてしまった残酷な暴言。その罪から逃げず、真っ直ぐに妹と向き合って謝罪するという決意は、少しも揺らいではいなかった。
タケルはギュッと両手を握り締め、意を決して奈津子へと歩み寄った。
「ねぇ、ママ」
「ん? どうしたの?タケル。もうすぐご飯できるから、手を洗ってきなさいね」
振り返って優しく微笑む奈津子に対し、タケルは真っ直ぐな瞳を向けて口を開いた。
「あのね、僕……もう一度、初音島に‥‥ミコトに、会いに行きたい!!」
タケルのその言葉を聞いた瞬間、奈津子の手から滑り落ちそうになったお玉が、カチャリと乾いた音を立てた。
「……えっ?」
「お台場から、お兄ちゃんと一緒に行った時は面会謝絶で会えなかったんだ。でも、どうしてもミコトに直接会って、言わなきゃいけないことがあるの。僕、ずっと逃げていたから……ちゃんと顔を見て、謝りたくて」
必死に訴えかけるタケルの小さな顔を見下ろし、奈津子の表情からスッと血の気が引いていく。
(タケルが、初音島に……?)
(ミコトに会いに行ったの!?)
(それにヤマトも一緒に行った‥‥?)
(あの人は一体、何を考えているのよ‥‥)
奈津子の脳裏に、数日前に初音島の病院からかかってきた血の凍るような電話の音声がフラッシュバックした。
『石田ミコトちゃんのお母さんですか?実は、今朝、ミコトちゃんが発作を起こして意識不明の重体です。今夜が峠になるかもしれません――』
電話の向こう側からは看護師の鬼気迫る声がした。
結果的にミコトは奇跡的に持ち直し、一命を取り留めたと後から連絡を受けたものの、奈津子の中で「娘がいつ死んでもおかしくない」という恐怖は、これまで以上に生々しい現実として重くのしかかっていた。
(ダメよ。この子には……まだ早すぎる)
奈津子は胸が締め付けられるような思いで、目の前の幼い次男を見つめた。
小学二年生という、心も体も未熟な子供‥‥
もし、今タケルを初音島に行かせ、いつ命の灯火が消えるとも知れない痛々しい妹の姿を見せてしまえば、この子の精神はどうなってしまうのか?
ヤマトがその光景に耐えきれず逃げ出してしまったように、タケルの心もまた、残酷な現実に耐えきれずに無惨に壊れてしまうのではないか?
母親としての強い防衛本能が、奈津子の中で警鐘を鳴らした。
「タケル。ミコトちゃんに会いたいって思ってくれるのは、お母さんもすごく嬉しいわ……でもね、今はダメよ」
「えっ?……どうして?」
奈津子はゆっくりとしゃがみ込み、タケルの小さな両肩を包み込むように優しく、しかしどこか逃げ場を塞ぐような力強さで手を置いた。
「ミコトちゃんは、この前、すごく具合が悪くなってしまって、今は誰ともお話しできないくらい、とっても苦しい思いをしているの。お医者さんたちも一生懸命治療してくれているわ。だから今は、ミコトちゃんがゆっくり休めるように、そっとしておいてあげなきゃいけないのよ」
「でも……僕……!」
「謝りたいことがあるのよね? だったら、ミコトちゃんが元気になって、ちゃんとタケルのお話を聞けるようになってからにしましょう? だから、今は……もう少しだけ、待ってあげてちょうだい」
それは、紛れもない「母親の愛情」だった。
タケルを傷つけまい、凄惨な現実から遠ざけようとする、真綿で包み込むような優しい嘘と先延ばし‥‥
「……わかった。我が儘言ってごめんなさい、ママ」
「ううん、いいのよ、分かってくれれば‥‥」
タケルは俯き、それ以上反論することなく静かに身を翻した。
「タケル……ごめんね」
自室へと戻っていく次男の小さな背中を見送りながら、奈津子は痛ましそうに眉をひそめ、深く、重い溜め息を夕暮れのキッチンに落とした。
一人残された夕暮れのキッチンで、奈津子は震える手で顔を覆った。
(本当は、会わせてあげたいのよ……でも、もしあなたの目の前で、あの子の命が消えたらと思うと……)
娘を失うかもしれない恐怖。
そして、残された息子まで壊れてしまうかもしれない恐怖。
三軒茶屋のマンションにもまた、愛しているがゆえの苦しいすれ違いが静かに影を落としていた。
同じ頃、お台場の八神家のマンション
夕食を終え、静まり返った自室のベッドに寝転びながら、太一は天井を見つめていた。
頭をよぎるのは、洗面所で顔を洗って戻ってきた時のヤマトのあの凍りついたような、世界中の絶望を背負ったかのような瞳だ。
『あいつが死にかけている姿を見るのは、もうたくさんなんだ……!』
空から聞いたヤマトの悲痛な叫び。
そして、それに対して何も言えなくなってしまった自分。
太一には分かっていた。
かつて幼いヒカリを自分の不注意から肺炎にさせ、生死の境を彷徨わせたあの日の恐怖が太一の中で蘇る。
「‥‥なぁ、ヒカリ」
太一はベッドから起き上がると、意を決して同じ子供部屋で夏休みの宿題をしているヒカリに声をかけた。
「ん?どうしたの?お兄ちゃん。難しい顔して」
「あっ、いや……ちょっとさ、ヒカリに聞きたいことがあって」
「私に?なに?」
太一は床にどっかりと座り、ヒカリを見つめつつ少し気まずそうに頭を掻いた。
普段なら何でもストレートに言う太一が、どう言葉を切り出すべきか激しく躊躇している。
その様子を見て、ヒカリは静かに次の言葉を待った。
「なぁ、ヒカリ‥‥その‥‥お前‥昔、俺が無理に外へ連れ出して、入院させちまった時のことを‥‥覚えているか?」
ヒカリの身体が、かすかにピクリと反応した。
兄である太一が今でもその件を深く悔やみ、心の傷にしていることをヒカリは誰よりも知っている。
「うん、覚えているよ。お兄ちゃんがすごく泣いて、何度も私に『ごめんね』って言っていたことも‥‥」
ヒカリは気まずそうに答える。
「‥‥あのさ‥‥もしも‥‥もしもだ‥‥」
太一は膝の上に置いた両拳を、ギュッと握り締めた。
「もし、あの時、お前がすごく苦しんでいて……無数の管に繋がれて、いつ死んじゃうか分からないような状態だったとしてさ。俺が、その姿を見るのが怖くて、怖くてたまらなくなって……お前の傍にいることから逃げ出して、病院から帰っちゃったら……お前は、俺のことを『最低な兄貴だ』って、怒ったか?」
太一の問いかけは、ヤマトの行動をなぞったものだった。
同じ「妹を持つ兄」として、ヤマトの犯してしまった過ちを、もし自分がやっていたら妹はどう思うのか?
太一はそれを確かめずにはいられなかったのだ。
ヒカリは、太一の言葉の裏にある、誰か他の『お兄ちゃん』の深い苦悩を敏感に察知した。
彼女は手に持っていた鉛筆をそっと置き、太一の向かいに座ると、その小さな温かい手で、太一の固く握られた拳を優しく包み込んだ。
「怒る訳ないよ」
ヒカリは、迷いのない穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「えっ……? でも、一番苦しい時に、一番信じている家族に‥兄貴に背中を向けられて逃げられるんだぞ? 寂しいとか、薄情者だとか、思わないのか?」
「思わない。だってね、お兄ちゃん」
ヒカリの瞳に、深い慈愛の光が宿る。
「お兄ちゃんが逃げ出したくなるくらい怖がっているのって、それだけ私のことが『大好き』で、私を失うのが『死ぬほど怖い』からでしょう? 本当にどうでもいい相手なら、怖くなんてならないもん」
「ヒカリ……」
「妹から見たらね、お兄ちゃんがどれだけ強いフリをしていても、本当はすごく傷つきやすくて、繊細だってこと、ちゃんと分かっているんだよ。だから、もしお兄ちゃんが怖くて逃げちゃったとしても、それは私を嫌いになったんじゃなくて、私を愛してくれているからだって、ちゃんと伝わるよ」
ヒカリの言葉は、まるで初音島で前を向くミコトの心を代弁しているかのようだった。
妹という生き物は、兄が思うよりもずっと精神的に大人で、兄の「弱さ」すらも、自分への愛情として受け入れる強さを持っているのだと‥‥
「それにね」と、ヒカリは言葉を続けた。
「逃げちゃったそのお兄ちゃんが、一番傷ついていることも、妹には分かっちゃうんだよ。妹を置いて逃げた自分を、誰よりも責めて、許せなくて、暗い部屋で、一人で泣いているんじゃないかな……って。怒るどころか、かわいそうで、今すぐ抱きしめて『大丈夫だよ』って言ってあげたくなる」
ドン、と胸を突かれたような衝撃が太一を襲った。
ヤマトが今、自身の暗闇でどれほど激しい自己嫌悪に苛まれているか。
ガブモンという相棒もいない世界で、どれほど孤独に震えているか。
ヒカリの言葉によって、ヤマトの魂の悲鳴がありありと脳裏に浮かんできた。
ヤマトは冷酷だから逃げたのではない。
妹を愛するあまり、その愛の重さに心が耐えきれず、潰れてしまっただけなのだ。
「……そっか‥そうだよな。冷たいどころか、あいつが一番あいつ自身をなぶってやがるんだ……」
太一の目から、自然と張り詰めていた涙がこぼれ落ちそうになる。
立ち上がり、ヒカリの頭を優しくポンポンと叩いた。
「ありがとな、ヒカリ。お前のおかげで、あいつの気持ちが……少し分かった気がする」
「ううん。そのお兄ちゃん、早く元気になるといいね」
「ああ。あいつが自分で前を向くまで、俺は……何もしねぇよ。ただの宿題仲間として、あいつの傍にいてやる。あいつがまた笑えるようになるまで、絶対に手を離さねえ」
不器用な『友情』の誓いを胸に、太一は部屋を後にした。
東京、初音島、そして三軒茶屋‥それぞれの場所で、家族の絆を巡る少年少女たちの切なくも温かい心の闘いは、静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。
蝉時雨が降り注ぐ、夕暮れのお台場海浜公園。
先日の勉強会での重苦しい沈黙に耐えかねた太一は、ヤマトを一人、呼び出していた。
オレンジ色に染まる海を見つめるヤマトの背中は、デジタルワールドで世界を救った英雄のそれとは到底思えないほど、小さく、痛々しいほどに強張っていた。
いつもならポケットに突っ込んでいる両手は、行き場をなくしたように固く握り締められている。
「……一体何の用だよ、太一。こんな時間にいきなり呼び出したりして」
振り返りもせず、拒絶を滲ませた低い声が響く。
太一はゆっくりとヤマトの隣に歩み寄り、同じように海を見つめながら口を開いた。
「空から聞いたよ。お前、タケルと一緒に初音島に行って……妹さんのところに行ったんだってな」
ビクッ、とヤマトの肩が跳ね上がった。
夕日に照らされたヤマトの横顔が、見る見るうちに青ざめていく。
「……空のやつ、余計なことを」
「空を責めるなよ。空もお前のことが心配でたまらないんだ……それとな、昨日、俺、ヒカリと話したんだ」
太一は真っ直ぐにヤマトを見据えた。
「『もし、妹が死にそうなくらい苦しんでいる姿を見るのが怖くなって、お兄ちゃんが傍から逃げ出しちゃったらどう思う?』って。そしたらヒカリ、なんて言ったと思う? 『怒る訳ない』ってさ。『お兄ちゃんが逃げ出したくなるくらい怖がっているのは、それだけ私のことが大好きで、失うのが死ぬほど怖いからだって、ちゃんと伝わるよ』って……」
「やめろ……ッ!」
ヤマトの声が、激しい拒絶とともに響き渡った。
ヤマトは太一の胸ぐらを乱暴に掴み、その顔を激しい怒りと自己嫌悪で歪ませた。
彼の瞳の奥には、今にも決壊しそうな涙がなみなみと湛えられている。
「綺麗事を言うな!!お前に……お前なんかにオレの気持ちの何がわかるんだよ!?違うんだ、オレはあいつを愛しているから逃げたんじゃない!!自分がこれ以上傷つきたくないだけだ!!あいつの細い腕にいっぱい管が繋がれて、心電図の音が鳴って…酸素マスクをして‥‥弱弱しい呼吸をして‥‥あいつの命が消える瞬間を特等席で見るのが怖くて、自分のために逃げ出したんだよ!!最低な兄貴なんだよ、オレは……!!」
ヤマトの手が小刻みに震える。
「タケルは泣きながらでもミコトと向き合おうとした!!それなのに兄貴のオレは、あいつからかかって来た電話の一本すら嘘をついて逃げ出した!!ガブモンが、みんながオレに『友情の紋章』なんて大層なもんをくれたけど、こんな卑怯な男にそんな資格ねぇんだよ!!お前みたいな真っ直ぐな奴に、常に時限爆弾を抱えているようなオレの恐怖が分かってたまるかよ!?」
叫び、太一を突き放そうとするヤマト。
しかし、太一はそのヤマトの腕を、痛いほどの力でガシッと掴んで離さなかった。
「‥‥わかるよ」
太一の声は、驚くほど低く、そして深く震えていた。
その瞳に宿る生々しい「傷口」を見て、ヤマトの動きがピタリと止まる。
「わかるさ……だって俺‥昔、ヒカリを殺しかけたことがあるからな」
「……えっ?」
太一の言葉にヤマトはピタッと固まる。
「まだヒカリが小さかった頃、俺はヒカリの風邪が治りきっていない事に気づかないで、無理矢理外に連れ出してサッカーしたんだ。その結果、ヒカリは急性肺炎になって、倒れて、病院に運ばれて生死の境を彷徨った……あの時、病院の集中治療室のガラス越しに、息も絶え絶えになっているヒカリを見た時、俺は……怖くて頭がおかしくなりそうだった」
太一はギュッと奥歯を噛み締め、自分の最も隠したい過去の「醜態」を、ヤマトの前に曝け出した。
「『俺のせいでヒカリが死ぬ』。そう思った瞬間、心臓が握り潰されそうで、吐き気がして、その場から全力で走って逃げ出したくなった。もしあのままヒカリの心臓が止まっていたら、俺は間違いなく病院の屋上から飛び降りて、自分の罪から、現実から、全部投げ出して逃げていたよ……ヤマト、お前だけじゃないんだ。俺だって、世界で一番不甲斐なくて、卑怯で、臆病な兄貴なんだよ!」
「太一……」
自分の知らない太一の過去を聞いて、太一も自分と同じ経験をしたことを知り、ヤマトの手から力が抜け、太一の胸ぐらから離れていく。
太一は、そのヤマトの震える両手を、今度は自らの両手で力強く握り締めた。
「妹が死ぬかもしれないなんて、そんなの怖くて当たり前だろう!?誰が怖がっちゃいけないって決めたんだよ!?……一人で行くのが怖いなら、俺もついてってやる。一緒にビビりながら、お前の妹の病室のドアを、俺が叩いてやるよ!!」
それは、「怖がるな」 「立ち向かえ」 という、かつての太一なら言いかねない綺麗事ではなかった。
ヤマトの持つ底知れぬ恐怖を、その情けない弱さを、丸ごと肯定し、「一緒に泥を被ってやる」という、不器用で、泥臭い友情の証明だった。
「一人で格好つけて悪者になってんじゃねぇよ。お前がビビって動けないなら、俺がお前の手を引いてやる。俺がビビったら、今度はお前が俺を引っ張れ……弱いままでもいい、怯えたままでもいいんだよ。ガブモンだって言っていたろう?お前はお前のままでいいんだって。だから、もう一度だけ、一緒に妹さんに会いに行こう。なっ?ヤマト」
「っ……あ、ああ……っ!」
ヤマトの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
太一の太陽のような熱量に触れ、彼の心を覆っていた凍りついた自己嫌悪の壁が、音を立てて崩れ落ちていく。
自分は最低の兄ではなかった。
ただ、妹を失うのが死ぬほど怖い、一人の人間だったのだ。その弱さを、太一は拒絶せず、そのままの形で抱きしめてくれた。
「悪りぃ……太一……ごめん、な……っ」
ヤマトは太一の肩に頭を預け、子供のように声を上げて泣いた。
お台場の夕闇が二人を静かに包み込んでいく。
まだ恐怖が消え去ったわけではない。
ミコトの病室のドアを開ける怖さは、今でもヤマトの胸を締め付けている。
けれど、握られた太一の手の温もりが、彼に「もう一度だけ歩き出す」ための、確かな免罪符と勇気を与えていた。