最悪の敵を打ち倒し、過酷なデジタルワールドの冒険から現実世界へと帰還した選ばれし子供たち。
しかし、ヤマトとタケルの妹・ミコトは『魔王の因子』をその身に宿す過酷な運命を背負い、初音島の病院で生死の境を彷徨っていた。
妹の命が目の前で消えてしまうかもしれない――。
その極限の恐怖に耐えきれず、ヤマトは病室から逃げ出してしまう。
電話越しに聞く明るい妹の声にすら怯え、お台場の自室で一人、深い自己嫌悪の底へと沈み込んでいくヤマト。
一方、三軒茶屋では過去の暴言を謝罪しようと決意したタケルが、彼を守ろうとする母・奈津子の引き止めによって足止めを受け、葛藤していた。
そして初音島では、兄の苦悩を知らないミコトが、「次にお兄ちゃんに会う時は呆れ返るくらい元気な姿を見せる」と誓い、光子郎(COLEO)のネット越しの励ましを胸に、相棒のジークと共に病室で密かな特訓を続けていた。
すれ違う家族たちの想い。
そんな暗闇の中、不器用で真っ直ぐな友情がヤマトの凍りついた心を叩き割る。
かつて妹のヒカリを自らの行動で死なせかけたトラウマを持つ太一は、ヤマトを海浜公園に呼び出し、自身の最も隠したい過去の醜態を曝け出した。
「逃げるな」と正論を押し付けるのではなく、「一緒に情けなくビビりながら、俺がお前の妹の病室のドアを叩いてやる」 と、泥臭くヤマトの手を力強く握り締めたのだ。
太一の太陽のような熱量に触れ、ヤマトはようやく己の弱さを肯定し、大粒の涙を流す。
恐怖を抱えたままでもいい。不格好でもいい。親友の手の温もりを道標に、ヤマトはもう一度、妹の待つ初音島へと歩き出す決意を固めるのだった――。
オレンジ色に染まるお台場の海を見つめながら、ヤマトはギュッと太一の手を握り返した。
「オレ……もう一度、初音島に行く。今度はもう、逃げない。ミコトに会うよ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に袖で拭いながら、ヤマトは強い光を宿した瞳で前を向いた。
その不器用なヤマトの決意に、太一はニッと白い歯を見せて笑う。
「ああ、そうこなくっちゃな。それに言っただろう?俺も一緒にビビりながらドアを叩いてやるって」
一人で背負い込もうとするヤマトの隣には、泥だらけになっても一緒に歩いてくれる親友がいた。
その日の夜、八神家のダイニングテーブルには、賑やかな夕食の光景が広がっていた。
メインディッシュのデミグラスハンバーグを頬張りながら、太一はふと思い出したように家族へと切り出した。
「あっ、そういえばさ。俺、今度ヤマトと一緒に『初音島』ってとこに行くことになったから」
「初音島?随分と遠いじゃない。二人で旅行かしら?」
味噌汁のお椀を持った母の裕子が、目を丸くして尋ねる。
「いや、遊びじゃねぇんだ。ヤマトの妹が、そこの島にある病院に入院していてさ。そのお見舞いに付き合うことになったんだよ」
「えっ、石田くんに妹さんがいたの!?」
裕子は心底驚いたように声を上げた。
ヤマトにタケルという弟がいることは知っていたが、妹の存在は初耳だったのだ。
「ヤマトの両親が離婚した時に、ヤマトと一緒にお父さんの方に引き取られたらしいんだ。だけど、ちょっと具合が悪いみたいでさ……」
太一が事情を濁しながら説明すると、向かいの席で静かにご飯を食べていたヒカリが、ピクッと顔を上げた。
「ヤマトさんの妹さんのお見舞い……私も、一緒に行きたいな」
昨晩、太一からヤマトの苦悩を聞かされていたヒカリは、自分も力になりたいと懇願するような目を向けた。
しかし、太一は困ったように眉を下げて首を横に振る。
「気持ちは嬉しいけど、今回はダメだ。初音島までは結構距離があるし……お前、ついこの前も夏風邪をぶり返したばっかりだろう?また具合が悪くなったり、ヤマトの妹さんに風邪をうつしちゃったら大変だからな。今回は家で留守番していてくれ」
「……うん、わかった。お兄ちゃん、ヤマトさんのことお願いね」
ヒカリは少し残念そうに俯いたが、兄の言うことももっともだと納得し、静かに頷いた。
一方、同じ頃石田家では‥‥
夕食の片付けを終えた父親の裕明に対し、ヤマトは居間のソファで背筋を伸ばして座っていた。
「親父。オレ‥‥もう一度、初音島に行く‥‥ミコトに会いに行く」
真っ直ぐなヤマトの言葉に、テレビを見ていた裕明はリモコンを置いた。
「また行くのか?それで、タケルも一緒に連れて行くのか?」
裕明の顔には、大人の複雑な葛藤が浮かんでいた。
実は昨日、元妻である奈津子から裕明の元へ電話があったのだ。
その内容は、『ミコトの状態が不安定な今、タケルをミコトに会わせないで、万が一の事があったら、きっとあの子の心が壊れてしまう』という、タケルのメンタルを心配した母親としての悲痛な訴えだった。
タケルの父親でもある裕明も奈津子の言葉の意味を理解し、その点については了承した。
「いや、今回はタケルを連れて行かない……オレと太一の二人で行く。あいつが、一緒に行ってくれるって言うから」
ヤマトの眼差しには、先日病院から逃げ帰ってきた時の怯えた影はなかった。
恐怖を乗り越え、今度こそ兄として妹に向き合うという強い覚悟がそこにあった。
「……そうか」
裕明は少しの間黙り込み、ヤマトの顔をじっと見つめていたが、やがて短く息を吐いて深く頷いた。
「はぁ~分かった。ただし……母さんには、お前が初音島に行くことは絶対に黙っておけ。それにタケルにもだ。向こうの家には、また余計な心配をかけて波風を立たせたくないからな」
「ああ、分かっている」
大人たちの事情と子供たちの想いが複雑に絡み合う中、ヤマトは太一という強力な味方を得て、再び初音島への切符を手にしたのだった。
数日後‥‥
照りつける夏の太陽の下、ヤマトと太一を乗せた連絡船が初音島の港へと近づいていた。
「すげぇ!!……噂には聞いていたけど、マジでこの季節なのに桜が咲いているのかよ!!」
連絡船の甲板から島を見つめていた太一が、信じられないというように目を丸くした。
島の中央にそびえ立つ巨大な桜の木。
そして、島の市街地の至る所にある桜並木が、八月の真夏だというのに満開の薄紅色の花を咲かせている。
事前に初音島にある『一年中枯れない桜』という非科学的な噂を半信半疑で聞いていた太一だったが、目の前の幻想的な光景に圧倒されていた。
「不思議な島だろう?オレも初めて来た時は驚いたよ」
ヤマトは少しだけ口角を上げると、港に降り立ち、見覚えのある道を水越総合病院へと向かって歩き出した。
しかし――
いざ、ミコトが居る棟の個室の前まで来ると、ヤマトの足はピタリと止まってしまった。
「‥‥」
ドアノブに手を伸ばそうとするが、指先が微かに震え、どうしても触れることができない。
もし、ドアを開けた先に、また無数の管に繋がれ口に酸素マスクを着けて苦しむ妹の姿があったら?
もし、またあの「死」の恐怖が自分を襲ってきたら?
ヤマトが息を呑み、その場で固まっていると、後ろから太一がバンッとヤマトの背中を叩いた。
「痛っ……!!」
「ここまで来て、なにクヨクヨしてんだよ!? ほら、行くぞ!!」
太一はヤマトの代わりに迷いなくドアノブを掴むと、ガラッと勢いよく病室のドアを開け放った。
「お、おい、まだ心の準備が‥‥」
ヤマトはビクッと身構えたが、恐る恐る病室の中を覗き込むと、そこにあったのは恐怖の光景ではなかった。
ベッドの上では、ミコトが静かに規則正しい寝息を立てて眠っていた。
午前中に行った秘密の特訓の疲労と新たに処方された薬の眠気で、今は深い眠りに落ちているのだ。
無数の管に繋がれ、口には酸素マスクを着けて弱弱しく呼吸をしていたICUに居た時とは違い、その頬には微かに赤みが差し、血色もずいぶんと良くなっているように見えた。
「ミコト……」
ヤマトは震える足でベッドに近づくと、そっとしゃがみ込み、ベッドの上の掛け布団から出ているミコトの細い手を両手で優しく包み込んだ。
温かい。
間違いなく、妹の命の温もりがそこにあった。
「ごめんな……今まで一人にして‥逃げたりして……最低な兄貴で、本当にごめん……」
ヤマトの目から一筋の涙がこぼれ落ち、ミコトの手の甲を濡らした。
「‥‥」
太一は病室のベッド脇に立ち、腕を組んだまま、そんな不器用な兄の姿をただ静かに、優しく見守っていた。
しかし、その病室の片隅で、太一の姿を見て息を呑んでいる小さな影があった。
(えっ……!? あ、あの顔、あのゴーグルは……タイチ!?)
ベッドの下の隙間に身を潜めていたチビモン状態のジークは、目を丸くして驚愕していた。
ミコトと共にデジタルワールドを旅した、あの無敵の100%テイマー『八神太一』と瓜二つの少年がそこに立っていたのだ。
思わず飛び出して声をかけそうになったジークだったが、ハッと立ち止まる。
(いや、待てよ……ホーリーエンジェモンが確か言っていたよな‥‥?タイチとミコトは、それぞれ『別の世界』から召喚された人間だって……)
目の前にいる少年は、確かにタイチにそっくりだが、デジタルワールドで共にあの死線を潜り抜けた『タイチ』ではない。
それを悟ったジークは、息を潜めたまま、ベッドの下からじっと二人の少年の様子を窺い続けることにした。
帰りの連絡船の時間の都合上、ヤマトと太一はミコトが目を覚ます前に病院を後にしなければならなかった。
だが、帰り道のヤマトの足取りは、前回とも往路とも見違えるほど軽かった。
「サンキュな、太一。お前がドアを開けてくれなかったら、オレ、また逃げていたかもしれない」
「へっ、気にするな。その代わり、今度サッカーの練習付き合えよ」
久しぶりに間近で見た、血色が回復しつつある妹の寝顔。
自分の抱えていた「失う恐怖」が少しだけ和らいだことで、ヤマトを苦しめていた自己嫌悪の暗雲にも、確かな光が差し込んでいた。
ヤマトと太一がお台場への帰路についた頃、ミコトはゆっくりと瞼を持ち上げた。
午前中の特訓の疲れと薬の作用による深い眠りから、ようやく意識が覚醒していく。
窓の外からは、夕日と真夏特有のじっとりとした空気と、島に咲き乱れる桜の花びらが風に舞う気配が伝わってきた。
「う……ん……」
微かに声を漏らしながら身を起こそうとすると、ちょうど部屋のドアが静かに開き、見知った看護師が体温計や記録用紙が乗ったトレイを持って入ってきた。
「あら、ミコトちゃん。目が覚めたのね」
看護師はミコトの顔色が良いのを見て、ホッとしたように柔らかな笑みを浮かべた。
「お薬、よく効いたみたいね……あっ、そうそう。ミコトちゃんが眠っている間、またお兄さんがお見舞いに来てくれていたのよ」
「えっ……!? ヤマトお兄ちゃんが……?」
ミコトは目を丸くした。
先日、ICU(集中治療室)から一般病棟に移ったばかりの頃、ヤマトが青ざめた顔で病室から逃げるように去っていったことをミコトは微かに覚えていた。
自分のせいで大好きな兄に怖い思いをさせてしまったと、胸を痛めていたのだ。
「ええ。今回はね、ミコトちゃんのベッドの横で、ずーっと愛おしそうに手を握ってくれていたわ……なんだか、ポロポロ涙を流しながら『ごめんな、逃げたりして』って、何度も謝りながらね。本当に優しいお兄さんね」
看護師の言葉に、ミコトの胸の奥がじんわりと熱くなった。
そっと自分の右手に触れてみる。
もうヤマトの姿はそこにはないけれど、兄が残していってくれた確かな温もりが、まだ皮膚のすぐ下に残っているような気がした。
(ヤマトお兄ちゃん……私の手を握ってくれたんだ……)
「次にお兄ちゃんに会う時は、呆れ返るくらい元気な姿を見せる」という光子郎との約束が、より一層強い決意となってミコトの心に満ちていく。
「ふふ、じゃあ検温も終わったし、私は行くわね。無理しちゃダメよ」
看護師は優しくミコトの頭を撫でると、トレイを片付けて病室から出て行った。
カチャリ、とドアが閉まり、再び静寂が戻った病室。
すると、ベッドの下の暗がりから、パタパタと小さな足音が響き、黒い小さな身体が這い出てきた。
「ふぅ~……やっと行ったか。冷や冷やしたぜ」
「ジーク!」
ミコトの相棒であるチビモン――ジークは、ベッドの縁に器用に飛び乗ると、少しソワソワした様子でミコトの顔を覗き込んだ。
その大きな瞳には、いつになく複雑な感情が揺れている。
「どうしたの?ジーク。なんだか落ち着かない顔をして」
「あのさ、ミコト……さっき、ミコトのお兄さんがお見舞いに来ていたって、看護師さんが言っていただろう?」
「うん。ヤマトお兄ちゃん、私の手を握って泣いていたって……」
「そう。僕、ベッドの下からずっと見ていたんだ。お兄さん、本当にミコトのことが心配でたまらないって顔をしていた……でもさ、実は、此処に来たのはお兄さんだけじゃなかったんだ」
ジークの真剣なトーンに、ミコトは小さく首を傾げた。
「え?パパも一緒に来ていたの?」
「ううん、違う。お兄さんの友達……だと思うんだけどさ。僕、その友達の顔を見た瞬間、心臓が止まるかと思うくらいびっくりしちゃってさ……ミコトに言うべきか、ずっと迷っていたんだ。だって、ホーリーエンジェモンから聞いていた話だと、あり得ないはずだから……」
ジークは頭を抱えるようにして、うーんとうなり声を上げた。
彼自身、デジタルワールドを共に旅した「あのタイチ」とは別人であると理屈では理解していた。
しかし、あまりにも容姿が酷似していたため、目の前の現実をどう受け止めるべきか、小さな頭で懸命に葛藤していたのだ。
「ジーク、一体誰が来たの?」
ミコトの催促に、ジークは意を決したように真っ直ぐ彼女を見つめた。
「……ツンツンに尖った茶髪に、額に大きなゴーグルをかけた奴だった。ミコトと一緒にデジタルワールドを旅した、あの無敵の100%テイマー……『八神太一』と、一卵性の双子かってくらいそっくりの奴が、ミコトのお兄さんと一緒にこの病室に入ってきたんだ」
「えっ……!? タイチさんが!?」
ミコトは息を呑み、思わずベッドのシーツを強く握りしめた。
「でも、そんなのって……タイチさん、私とは全く『別の世界』から召喚された人間だって、ホーリーエンジェモン様が言っていたよね? どうしてそのタイチさんがヤマトお兄ちゃんと……?」
「うん。僕も、最初はあのタイチが世界を超えて来てくれたのかと思った。でも、あのタイチとは『別人のタイチ』なんだと思う」
ジークはふぅ、と息を吐き、ヤマトと太一が並んでいた時の光景を思い浮かべるように目を細めた。
「最初は、ミコトが混乱すると思って黙っていようと思ったんだ。でも……お兄さんが病室の前で怖気づいて止まっちゃった時さ、そのタイチにそっくりな奴が、お兄さんの背中をドンって叩いて、代わりに迷わずドアを開けてくれたんだよ。お兄さんが泣いている時も、ずーっと傍で優しく見守っていてさ……」
ジークの言葉を、ミコトは静かに、一言も漏らさないように聞き入っていた。
「それを見た時、確信したんだ。あの二人は、ものすごく深い絆で結ばれた親友なんだって。お兄さんは、あのゴーグルをかけた奴に支えられて、もう一度ミコトに会う勇気をもらえたんだよ。だから……ミコトにも、知っておいて欲しかったんだ」
病室に心地よい沈黙が流れる。
ミコトは窓の外の枯れない桜を見つめながら、そっと胸に手を当てた。
デジタルワールドで自分を引っ張ってくれた、あの強く、眩しいゴーグルのテイマー、八神太一。
そして今、この世界で、傷つき、苦しんでいた実の兄・ヤマトの背中を押し、共に歩んでくれている、もう一人の八神太一。
運命の不思議な巡り合わせにミコトの唇から、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちた。
「……そうなんだ。ヤマトお兄ちゃんには、そんな素敵な友達がいるんだね」
(やっぱり、タイチさんは世界が違っても凄い人なんだ‥‥)
世界が違っても、『八神太一』という存在は、誰かの心を救う太陽のような人間なのだろう――そんな確信に似た思いが、ミコトの心を温かく満たしていく。
「ヤマトお兄ちゃんが、その人と一緒に、私のために勇気を出してくれたのなら、私も負けていられないよね、ジーク」
「おう! もちろんだぜ、ミコト! お兄さんが次にここへ来る時までに、腰を抜かすくらい元気になって驚かせてやろうな!」
ジークは小さな拳を突き出し、ミコトもまた、笑顔でその拳に自分の小さな拳を合わせた。
ミコトの内に宿る『魔王の因子』という過酷な呪い。
しかし、兄の残した手の温もりと、別世界の英雄の影を宿した少年の存在、そして隣で笑う相棒の励ましがある限り、ミコトの心が闇に屈することは決してない。
満開の桜に見守られながら、少女と小さなデジモンは、再び前を向いて歩みを進めるのだった。
すっかり夜になり、太一が初音島から自宅であるお台場のマンションへと帰宅した時のことだ。
「ただいまー。いやぁ、遠かったけど行ってよかったよ。マジで真夏なのに桜が咲いていてビックリしたぜ」
靴を脱いでリビングに入ると、ソファで本を読んでいたヒカリがパタパタと駆け寄ってきた。
「おかえり~‥‥ん?」
そして、太一の顔を見上げるなり、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「どうした?ヒカリ」
「ねぇ、お兄ちゃん……今日、デジモンと会ったの?」
「は?」
突拍子もないヒカリの言葉に、太一はポカンと口を開けた。
「いや、デジモンになんて会ってないぞ。そもそもここは現実世界なんだから、デジモンが居る訳ないだろう?」
太一の記憶にある限り、今日一日、デジモンの姿など影も形も見ていない。
しかし、ヒカリは何だか納得がいかない様子で、太一の服の袖をクンクンと嗅ぐような仕草をした。
「でも……お兄ちゃんから、デジモンの気配っていうか……匂いがしたから」
「匂い……って、お前な」
太一は苦笑しながら、もう一度自分のTシャツの襟元を引っ張り、鼻を押し当てて深呼吸してみた。
しかし、何度嗅いでも微かな潮風と真夏の熱気を含んだ汗の匂いしかしない。
「いや、気のせいだろう? そもそもデジタルゲートは閉じているし、今の現実世界にデジモンが入り込めるわけがない。それに、俺が今日行ったのは初音島だぞ。ただの田舎の島じゃないか」
太一はヒカリの頭を軽く撫でて誤魔化そうとしたが、ヒカリはその手をそっと両手で包み込み、真剣な眼差しで太一を真っ直ぐに見つめ返した。
「ううん、気のせいじゃないよ。匂いっていうか……『気配』みたいなもの。お兄ちゃんから、微かにだけど確かに感じるの。あの、データと命が混ざり合ったような、デジモン特有の温かい気配……」
ヒカリの瞳には、かつてデジタルワールドで幾度となく不思議な力を感じ取った時と同じ、深く澄み切った光が宿っていた。
「‥‥」
太一の顔から、スッと笑みが消える。
ヒカリのこの不思議な「直感」は、ただの子供の思い過ごしで片付けられるものではないことを、太一はこれまでの過酷な冒険の中で嫌というほど思い知らされていた。
(ヒカリがここまで言うなら、間違いなく『何か』が俺に接触したってことだ。でも、いつ? どこで……?)
太一は眉間に皺を寄せ、今日一日の行動を頭の中で必死に巻き戻した。
ヤマトと一緒にお台場から東京駅に行き、そこから新幹線に乗った。
初音島行きのフェリー乗り場からフェリーに乗って、初音島のフェリー乗り場へ‥‥
桜並木の坂道。
病院の受付とロビー。
そして、病院の廊下。
ヤマトの妹であるミコトの病室。
どこにも怪しい影‥デジモンの姿なんてなかった。
すれ違ったのは普通の島民や観光客に看護師、入院患者、自分たちと同じ見舞客ばかりだ。
ヤマトと会話した時も周りに変わった様子はなかった。
ならば、デジモンの気配が自分の服に染み付くほど、密閉された空間で、ある程度の時間留まっていた場所はどこだ?
「……ま、まさか!?」
太一はハッと息を呑み、目を見開いた。
今日、彼が足を踏み入れた『密閉空間』。
ヤマトの背中を押し、自らドアノブを握って開け放ったあの場所。
「ヤマトの妹の病室……?」
ぽつりと漏れた太一の言葉にヒカリがコクンと頷く。
「どんなデジモンなのかお前……分かるか?」
「流石に姿までは見えないよ。でも……すごく小さくて、元気な感じ。それから、その子の奥の方に、すごく強くて、大きくて……ちょっと不思議な力を隠しているような、そんな気がする」
(小さくて元気なデジモンが、ヤマトの妹の病室にいた……?)
太一の背筋にゾクッとした悪寒と説明のつかない高揚感が同時に走った。
もしヒカリの言う通りなら、あの時、眠るミコトの傍でヤマトが涙を流していたあの病室のどこかにデジモンが身を潜めて自分たちを見ていたことになる。
「ヒカリ、ちょっと待っていてくれ」
太一はリビングへと駆け込み、電話の受話器を手に取ると迷わず光子郎の家の番号をダイヤルした。
数回のコールの後、ガチャリと電話が繋がる。
『はい、泉ですが……』
「光子郎か?俺だよ、太一だ」
『太一さん? こんな夜中にどうしたんですか?』
「光子郎! 悪い、夜遅くに。今から俺が言うこと、頭がおかしいと思うかもしれないけど、とりあえず聞いてくれ」
『は、はぁ‥‥いいですけど‥‥』
太一は焦る気持ちを抑えながら、早口で事の顛末を説明した。
初音島から帰ってきたこと。
そして、ヒカリが自分から『デジモンの気配』を感じ取ったこと。
『……ヒカリさんが、ですか?』
電話の向こうで、光子郎の声色が一段階低く、真剣なものに変わった。
光子郎もまた、ヒカリの直感が持つ重みを十分に理解している。
「ああ。ヒカリのやつ、『小さくて元気なデジモンの気配がする』って言うんだ。なぁ光子郎、デジタルワールドから現実世界に俺たちの知らないデジモンがまだ迷い込んでいるなんてことなんて、あり得るのか?」
電話口からは、光子郎がパソコンのキーボードを高速で叩くタイピング音だけがしばらく響いていた。
やがて、その音がピタリと止む。
『太一さん……実は、思い当たることが一つだけあります』
「えっ? なんだよ、それ」
『僕が以前、ネットのチャットルームで知り合った『HATUNE』という女の子がいるんです。僕は彼女が、そのハンドルネームの通り『初音島』の病院に入院している、ヤマトさんの妹さん――ミコトさんなのではないかと推測しているんです』
「ヤマトの妹と光子郎がチャットの知り合い!?」
『はい。確実な確証はありませんが‥‥彼女は以前、僕にチャットで、こう言ったんです。『自分には、小さくてすっごく元気な相棒が居て、一緒に特訓に付き合ってくれている』と‥‥』
太一の脳内で、ヒカリの言葉と光子郎の証言が雷に打たれたようにピタリと一致した。
「小さくて、元気な相棒……それって‥‥まさかっ!?」
『ええ。僕はてっきり、同じ小児科病棟に入院している年下のお友達かと思っていました。ですが、ヒカリさんの直感と併せて考えると……一つのある仮説が成り立ちます』
光子郎の弾むような、しかしどこか戦慄を含んだ声が、静かな太一の部屋に響く。
『ミコトさんの言う『相棒』とは……彼女の傍にいる、デジモンなのかもしれません』
「‥‥」
光子郎の推測を聞き、固まる太一。
『兎に角、明日、皆で集まって話し合いましょう』
「あ、ああ‥‥そうだな」
太一は一先ず、今は夜であり皆と集まり話すには無理があるので、詳しい事は明日にした事から夜はモヤモヤした思いを抱きながら過ごすのであった。
翌日‥‥
照りつける真夏の太陽と喧しいほどの蝉時雨に包まれたお台場海浜公園。
その一角にある木陰に、太一、ヤマト、光子郎、空、そしてヒカリの五人が集まっていた。
タケルは三軒茶屋のマンションに居り、昨日の初音島への訪問は彼と母親の奈津子には絶対に秘密であるため、当然この場に呼ぶことはできない。
また、最年長の丈は中学受験に向けた過酷な夏期講習の真っ最中で塾に缶詰め状態。
ミミは家族と長期のハワイ旅行に出かけていて不在だった。
そのため、事情を知り、今すぐ動けるこの五人が急遽集められることになったのだ。
海から吹き抜ける生温い風を受けながら、太一は腕を組み、集まった仲間たちに向かって昨夜の出来事を静かに、しかし深刻な面持ちで語り終えた。
ヒカリが太一の服から『デジモンの気配』を感じ取ったこと。
そして、光子郎がチャットでやり取りしている『HATUNE』が、「小さくて元気な相棒」と共に病室で特訓をしていると語っていたこと。
「……それはつまり、ミコトの病室に現実世界へ迷い込んだデジモンが隠れているって言うのか!?」
信じられないというように、ヤマトが声を荒げた。
その端整な顔には、驚きと焦燥が色濃く浮かんでいる。
昨日、ベッドの傍らで涙を流して妹の手に触れた時、ヤマトは周囲に不審な気配など微塵も感じなかったのだ。
「ヤマト君、落ち着いて。まだ決まったわけじゃないわ。でも……」
空がヤマトをなだめるように言いながら、心配そうにヒカリへと視線を移した。
「ヒカリちゃんの言う事だものね……それに光子郎くんの聞いた話とタイミングが合いすぎているわ」
「はい。デジタルゲートは既に閉じているはずですが、現実世界にデジモンが一切存在しないと言い切る証拠もありません」
光子郎は膝の上に置いたノートパソコンを開き、何やらデータを打ち込みながら推察を述べる。
「ヴェノムヴァンデモンを倒す時に現れたあの竜‥‥あれもやっぱりデジモンだとすると、やっぱり、現実世界にまだ俺たちの知らないデジモンが居るって事も十分にあり得るな」
「HATUNEさんの言う『小さな相棒』が他の入院患者の友達なら話は別ですが……ヒカリさんが太一さんから感知したデジモン特有の気配。これが事実なら、ミコトさんの傍には、間違いなくデジモンが潜んでいると考えるのが自然です」
「ヒカリちゃん、君が感じたそのデジモンって……凶暴なヤツだったり、悪いヤツだったりしそうか?」
ヤマトはしゃがみ込み、ヒカリの目線を合わせるようにして真剣に尋ねた。
もし、あのヴァンデモンのような邪悪なデジモンが抵抗できない状態の妹の傍にいるのだとしたら、一刻の猶予もない。
しかし、ヒカリはヤマトの問いにゆっくりと首を横に振った。
「ううん、違うよ、ヤマトさん。その子から伝わってきたのは、すごく温かくて、元気で……ヤマトさんたちのガブモンやお兄ちゃんのアグモンたちみたいな、真っ直ぐな気配だった。だから、ミコトちゃんを傷つけようとしている悪いデジモンじゃないと思う」
「真っ直ぐな気配……」
「でもね、少しだけ不思議だったの‥‥」
ヒカリは少しだけ眉を寄せ、昨晩感じた気配を思い出すように空を見上げた。
「その小さくて元気な気配の奥底に、なんだかとっても強くて、大きな力が眠っているような……そんな気がしたの‥‥」
「強くて大きな力……進化の可能性‥ということでしょうか?」
光子郎が顎に手を当てて呟く。
「分からない。でも‥‥」
ヒカリはそう言ってヤマトをジッと見つめる。
「ん?どうした?ヒカリ、ヤマトにもデジモンの気配があるのか?」
「ヤマトさんにも昨日、お兄ちゃんと同じデジモンの気配があるんだけど‥‥他にも何だか、『悪いもの』の気配を微かに感じるの‥‥」
「えっ?オレに?」
『悪いもの』――その言葉に、ヤマトと太一の表情が同時に険しくなった。
ヤマトの妹・ミコトの内に宿る『魔王の因子』。
ミコトの手を握ったヤマトについた僅かな気配をヒカリはキャッチしていた。
「……もし、ミコトの傍にいるのが味方のデジモンだとしたら、そいつはどうやって初音島に行ったんだ? そもそもなんでミコトなんだよ!?」
ヤマトはギュッと拳を握り締めた。
自分が恐怖から逃げ出し、一人ぼっちにさせてしまった妹。
そんな妹の孤独を埋めるように現れた正体不明のデジモンに対し、兄としての不甲斐なさと、わずかな嫉妬、そして何より深い心配が入り混じる。
パートナーデジモンを連れている者への試練とも言えるあの過酷な経験‥‥
ミコトにそんな運命を課すのか?
八人目の選ばれし子供がミコトでなかった事に安堵していたのに、此処でミコトが九人目の選ばれし子供の可能性がいきなり浮上してきた。
「ヤマト、焦るな」
太一がヤマトの肩にポンと手を置いた。
「そいつが敵か味方か、どうして初音島にいるのかは分からない。でも、もしそいつがミコトちゃんを守ろうとしてくれているなら、今は下手に動かない方がいいかもしれない。下手に動いて大人たちや病院の人間を巻き込んで騒ぎになれば、ミコトちゃんを余計に苦しめることになる」
「太一の言う通りね。それに、ミコトちゃん自身が光子郎くんとのチャットで前向きになっているなら、その『相棒』はミコトちゃんの心の支えになっているはずよ」
空の優しくも冷静な意見に、ヤマトは奥歯を噛み締めながらも深く頷いた。
「ああ……そうだな。ミコトが今、そいつのおかげで前向きになっているなら……オレが兄貴面してぶち壊すわけにはいかない」
ヤマトは海へ向かって立ち上がり、波間を照らす太陽を真っ直ぐに見据えた。
「光子郎。ミコト……『HATUNE』とのチャット、これからも続けてやってくれないか? あいつの様子を知るには、今はそれが一番確実だ。ただし、正体を確認したり、デジモンについては絶対に聞くなよ」
「ええ、もちろんです」
光子郎が力強く頷く。
「俺も、次にヤマトと一緒に初音島に行く時は、もう少し気をつけて周りを見てみるよ」
太一がニッと笑ってヤマトの背中を叩くと、ヤマトもまた、ふっと憑き物が落ちたような柔らかい笑みを浮かべた。
「……助かるよ、みんな。タケルにはまだ言えないけど……ミコトのことは、オレが絶対に守り抜く」
強い決意を秘めたヤマトの言葉が、夏の海風に乗って静かに溶けていく。
現実世界に帰還した彼らの夏休みは、まだ終わりの見えない新たな物語の入り口へと差し掛かっていた。