デジタルワールドでの過酷な冒険を生き抜き、お台場での平穏な日常を取り戻した八神太一たち「選ばれし子供たち」。
しかし、彼らの与り知らぬ場所で、新たなる運命の歯車はすでに回り始めていた。
石田ヤマトの双子の妹・ミコト。
彼女はその身に『魔王の因子』という恐るべき闇を宿し、一年中桜の咲き誇る初音島で、相棒のデジモン・ジークと共に孤独なテイマーとして己の運命と戦い続けていた。
9月1日‥初音島を突如として襲撃した凶悪なアイスデビモンとの死闘の最中、絶体絶命の危機に陥ったミコトの奥底で、闇の因子が臨界点を突破する。
現れたのは、デーモンとは似て非なるモノになっていた。
漆黒の翼を広げ、両目を静かに閉じて重力から解放されたかのように宙を浮遊する、妖艶で美しき『未知の魔王』のシルエットだった。
空間をも消し去る圧倒的な闇の力でアイスデビモンを粉砕したその女は、ミコトの胸の奥底で再び静かな眠りにつく。
得体の知れない強大な深淵をその身に抱え込むことになったミコト。
だが、大好きな兄たちを再び血みどろの戦いに巻き込むまいと決意した彼女は、ヤマトへ電話をかけ、完璧な「日常の少女の嘘」で真実を覆い隠す。
妹の健気な声に安堵し、太一と他愛もない言い争いを繰り広げるヤマト。
お台場の子供たちが束の間の平和を謳歌するその裏側で、たった一人、予測不可能な闇と対峙する少女の過酷な戦いが、静かに幕を開けようとしていた――。
放課後の図書室。
静寂を取り戻した空間で、光子郎はノートパソコンの画面を険しい表情で見つめ、カタカタとキーボードを叩いていた。
「……ダメですね。ゲンナイさんへいくつか暗号化したシグナルを送ってみたんですが、全く返信がありません。サーバーへのアクセス自体が完全に弾かれているような状態です」
「なんだよ、あの爺さん。肝心な時にはいっつも連絡つかねぇんだから!」
太一が後頭部で手を組みながら、不満げに天井を仰ぐ。
隣に座るヤマトも腕を組んだまま、苛立たしげに鼻を鳴らした。
いくらミコトの無事を確認したとはいえ、初音島で起きている不可解な現象とデジタルワールドとの繋がりが絶たれている現状は、彼らにとって気分の良いものではなかった。
「ただ、初音島の様子については以前からのチャット仲間であるHATUNEさんからのチャットで知る事が出来ました」
(そう言えば、光子郎はミコトとチャットを前からしていたな‥‥)
ヤマトは画面に映る『HATUNE』という文字列を見つめながら、以前に光子郎からそんな話をちらりと聞いたことをぼんやりと思い出していた。
だが、昨日からの焦燥感が落ち着き、改めてその事実を真正面から突きつけられた瞬間――ヤマトの胸の奥で、言葉にできないモヤモヤとした感情が、じわじわと鎌首をもたげ始めた。
自分は、両親の離婚によって離れて暮らすミコトの手元に写真一枚すらなく、たまの電話や、先日の直接の訪問くらいでしか繋がることができないでいる。
それなのに‥‥
(なぜ、オレの知らないところで、光子郎がミコトと日常的に文字のやり取りをしているんだ……!?)
しかも『HATUNE(ハツネ)』などという、兄である自分すら聞いたこともないハンドルネームを、光子郎は当然のように知っている。
以前、ミコトの寂しさを少しでも紛らわすために光子郎にはミコトとチャットを続けてくれと頼んだのだが、ミコトとのわだかまりが減少しここ最近は電話をするようになってからモヤモヤとした霧のような感情は、一瞬にして明確な「ムカムカ」へと変貌を遂げた。
ヤマトの目が、じわじわと据わっていく。
矛盾していると言うのは自分でも分かる。
虫のいい話だと言う事も分かる、
だが、それでも妹が兄である自分ではなく他人と文字での楽しそうな会話をしている事が妙に納得がいかなかった。
「……昨夜の事件の直後、僕からHATUNEさんのアカウントに向けてメッセージを送ってみたんです。島で何か変わった電波障害や目撃情報がなかったかって。そしたら今朝早くに返信がありましてね。『昨夜は強い突風が吹いて病院の窓ガラスが割れて怖かったけれど、怪我はない。外で大きな音がしたみたいだけど、よく分からなかった』と。ご覧の通り、デジモンに関する内容は一切ありませんでした」
「なるほどな。ヤマトが電話で聞いた話ともぴったり一致するし、やっぱり何も気づいてないってことか‥‥」
太一が腕を組んで納得したように頷く。
しかし、隣のヤマトは完全に別世界にいた。
その背後からは、まるでヴァンデモンを目の前にした時のような、おぞましい『黒いオーラ』が立ち上り始めている。
「……おい、光子郎」
地を這うような、恐ろしく冷徹な声だった。
「ひゃ、はいっ!? な、何でしょうか、ヤマトさん!?」
振り返った光子郎は、至近距離から放たれるヤマトの凄まじい眼力に思わず椅子ごと後ずさりした。
「以前、ミコトとはチャットを続けてくれとは言ったが、お前……いつからミコトとそんな頻繁に連絡を取り合う仲になっていたんだ?」
「ネットの通信フォーラムで、パソコンの設定について質問されて、それに答えたのがきっかけでして……!」
「そもそも『HATUNE』だ? なんだ?その可愛らしい名前は?」
「それはミコトさんが初音島に居るからじゃあ‥‥」
「光子郎……ミコトはチャットでお前のことをなんて呼んでいるんだ? まさか『光子郎お兄ちゃん』とか言わせてないだろうな!?」
ヤマトが机に両手を突き、ジリジリと光子郎に顔を近づけていく。その表情は完全に理性を失ったシスコン兄貴のそれだった。
「な、何言っているんですか!?普通に僕だってハンドルネームを使っていますよ!!」
「ヤマト君、いい加減にしなさいってば!!」
見かねた空が慌ててヤマトの服の裾を引っ張るが、一度火がついたヤマトの独占欲と嫉妬の炎は止まらない。
「光子郎……そのチャットのログ、オレにも最初からここ最近のモノ全部見せろ。ミコトとお前がどんな言葉使いでメッセージを送っりあっているのか、ミコトの兄として、オレには検閲する義務がある!!」
「ヤ、ヤマトさん、僕とミコトさんにもプライバシーというものが……! うわっ、顔が近いです!」
「見せられないような内容のチャットをしているのか?」
「で、ですから‥‥」
完全にヤマトからの理不尽な嫉妬の標的にされてしまった光子郎は、ノートパソコンを抱え込みながら必死に防衛体制をとった。
その光景を、一歩引いたところから見ていた太一は、呆れ果てて額に手を当てている。
「おいおい……ヤマトのやつ、完全にイカれていやがるな」
「ヤマトさんってあそこまで妹さんの事を思っていたの?私、デジタルワールドにいる時、ヤマトさんの口から妹さんの事なんて一切聞いていないけど‥‥」
ミミがミコトに対するヤマトの姿を見て疑問を口にする。
「僕もだよ‥‥タケル君を大切にしていたのは知っているけど‥‥」
実際にミミと丈がミコトの存在を知ったのは新学期になってからであり、それ以前はヤマトに妹が居るなんて一切知らなかった。
なので、今のヤマトのミコトに対する行動がどうも不思議に思えた。
「まぁ、ヤマトの家でも色々と事情があってな‥‥最近になってヤマトとミコトちゃんの間のわだかまりが解消されて、今まで接してやれなかった反動が来ている感じだ」
「なるほど」
「私にお兄ちゃんが居たらああなっていたのかな?」
丈は太一の説明を聞き納得し、ミミは自分に兄が居たらシスコンな兄になるのかと思った。
そんなやり取りが行われている間も光子郎は、迫りくるヤマトのプレッシャーを受け止めながら、内心で激しくため息をついていた。
(……はぁ。太一さんもヒカリさんが関わると周りが見えなくなりますが、まさかあの常にクールを装っているヤマトさんまで、妹のことになるとここまで理性を無くして此処までしつこく絡んでくるは……)
(ものすごく、めんどくせぇ~‥‥)
心の中とは言え、つい丁寧語を忘れてしまう程の呆れ具合であった。
デジタルワールドの解析や、世界の危機を救うプログラミングならいくらでも喜んでやるが、重度なシスコン兄貴の嫉妬の矛先を向けられるのは、光子郎のキャパシティを遥かに超えていた。
しかし、ここで下手に刺激すれば、ヤマトは本当に今すぐ初音島行きのフェリーに飛び乗りかねない。
光子郎は引きつった笑顔を浮かべ、努めて冷静に、やんわりとその場をやり過ごすことに決めた。
「あ、あはは……ヤマトさん、そんなに怒らないでくださいよ。昨日のやり取りでもミコトさん、ヤマトさんの事を書いていましたよ」
光子郎は素早くキーボードを叩き、特定のログを画面に強調表示した。
「『昨夜の突風のことは、お兄ちゃんが心配するから内緒にしてねって看護師さんに言ったの』とか、『お兄ちゃんの声が聞けて嬉しかった』とか……彼女の頭の中は、ヤマトさんのことでいっぱいなんですよ。僕はただの、都合のいい物知りメカニック扱いですよ。ですから、そんなに睨まないでください……」
光子郎の必死の(そして半分本音の混じった)なだめ文句に、ヤマトの動きがピタッと止まった。
画面に並ぶお兄ちゃん」という愛らしい文字の羅列を見た瞬間、ヤマトの全身から立ち上っていた黒いオーラが、嘘のようにスゥッと霧散していく。
「そ、そうか……? まあ、ミコトがオレのことをそんな風に……フッ、仕方ないな、あいつはオレがいないとダメだからな」
ヤマトは照れくさそうに口元を抑え、咳払いを一つしてスンッと席に戻った。
やんわりとその場をやり過ごすことに成功した光子郎は、パタン、とノートパソコンを閉じ、どっと押し寄せた疲労感にひっそりと肩を落とした。
太一たちが苦笑いしながらヤマトを宥める中、図書室にはいつもの、騒がしくも平和な空気が戻っていく。
誰もが、ヤマトの嫉妬劇に呆れ、笑っていた。
しかし、光子郎が提示したチャットのログ――『内緒にしてね』というミコトの言葉が、単なる兄への気遣いではなく、彼女が自らの身に宿した「最悪の深淵」をひた隠しにするための防壁であることに、この時の彼らはまだ、誰一人として気づいていなかった。
「割れたくらいで済んだなら、普通の突風だったってことでしょうし」
空がホッとしたように息を吐き、ヤマトの肩を軽く叩いた。
ヤマトはまだ少し口元を尖らせていたが、先ほどまでの刺々しい空気はすっかり消え去り、どこか満足げに腕を組んでいる。
「あぁ。あいつは昔から身体が弱いくせに、オレを心配させまいと強がる変な癖があるからな。今回の件も、もしかしたらデジタルワールドと現実世界との歪みの余波かもしれない。アポカリモンを倒してまだ一ヶ月くらいしか経っていないから、こういう事もまだ起きるのかもしれないな」
「そうですよ。ゲンナイさんと連絡がつかないのは気になりますが、ひとまずは静観するしかありませんね」
「えぇーそれってパルモンとは会えないって事!?」
「仕方ないわよ、ミミちゃん。仮りにゲートが開くとしても東京から初音島までは距離があるし‥‥」
「お台場があれだけ大変だったんだ。それにタークマスターズやアポカリモンを倒したんだ。これ以上、別の場所でデジモン騒ぎなんて起きてたまるかってんだよな。よし、じゃあ今日のところはこれで解散にするか!」
「賛成ー! 私、お腹空いちゃった。丈先輩、帰りに何か奢って!」
「ええっ!? なんで僕がミミくんに奢らなきゃいけないんだよ!」
図書室に響く、いつもの騒がしくも温かい日常の笑い声。
お台場での死闘を乗り越えた彼らにとって、この何気ない平穏こそが、守り抜いた誇るべき成果だった。
全員が「ミコトは無事であり、初音島には何も起きていない」という結論に疑いを持たず、安堵の表情を浮かべている。
――ただ、一人を除いて。
ヒカリは、みんなの笑い声の輪から少し離れた場所で、じっと自分の両手を見つめていた。
その指先は、ポケットの中で握りしめたデジヴァイスごと、微かに、だが拒むことのできない恐怖に震えている。
(違う……)
ヒカリの心臓が、ドクドクと不穏な警鐘を鳴らしていた。
みんなは安心している。お兄ちゃんも、ヤマトさんも、光子郎さんも、ミコトちゃんからの「嘘」を完璧に信じ切っている。
現実世界には、今やパートナーデジモンたちの姿はない。
デジタルワールドへ戻った彼らと離れ、お台場にはようやく普通の子供としての平穏が戻ったはずだった。
でも、ヒカリの持つ『光』の性質――現実世界の歪みや、デジタルワールドの深層に眠る大いなる意思を敏感に感じ取ってしまうその特異な体質だけが、明確な異変を告げていた。
先ほど、ヤマトが光子郎に詰め寄った時、ヤマトの激しい感情に呼応するように、彼の血脈の先……遥か遠くの『初音島』の方向から、恐ろしいほどの闇の奔流がヒカリの脳裏に直接流れ込んできたのだ。
それは、かつてお台場を恐怖に陥れたヴァンデモンのような、禍々しく泥にまみれた悪意ではない。
もっと純粋で、冷徹で、圧倒的。
それでいて、不謹慎なほどに妖艶で、美しいと感じてしまうような、完成された深淵の気配‥‥
背中から広がる漆黒の翼‥重力から解き放たれ、両目を静かに閉じて宙を浮遊する、得体の知れない「誰か」のシルエットが、一瞬だけヒカリの視界の裏側に焼き付いて離れなかった。
(ミコトちゃんは、嘘をついている……)
ヒカリは窓の外の遠い空を見つめながら、心の内で小さく呟いた。
確証はなかった。ミコトとはまだ一度も会ったことがない。
けれど、わかるのだ。
彼女は、自分のすぐ近くに存在する「それ」を、お兄ちゃんたちに知られないように、必死に胸の奥に隠し持っている。
大好きなヤマトたちを、もう二度と血みどろの戦いに巻き込まないために。
「お兄ちゃん……」
ヒカリは、楽しそうにヤマトと明日のサッカーの予定を話している太一を見つめた。
(言わなきゃ。初音島には、何か恐ろしいものがいるって。ミコトちゃんは、今も一人で、私たちの知らない闇と戦っているかもしれないって……)
口を開けようとした。しかし、その言葉は喉の奥でつかえて、どうしても出てこない。
今、ようやくお台場に平和が戻ったのだ。
ヤマトもミコトの無事を聞いて、あんなに嬉しそうに笑っている。
もしここで、何の証拠もない自分の「直感」だけで「ミコトちゃんが危ない」なんて言ったら、ヤマトは正気を失って島へ飛び出してしまうだろう。
それは、ミコト自身が一番望んでいないことのはずだった。
それに――何より。
「デジモンはもういない、か……本当に、平和になって良かったよな、ヤマト」
「あぁ。もうあんな危ない目に遭わせたくないからな、誰にも」
二人の兄の笑顔が、あまりにも眩しすぎた。
みんなが信じている「平穏」という名の強固な城壁の前に、ヒカリの不穏な直感は、まるで入る隙間のない異物のように弾かれてしまう。
何よりデジヴァイスと紋章があってもパートナーデジモンが居なければデジモンと戦う事は出来ない。
初音島でゲートが開き、デジモンたちが来てもパートナーデジモンが居なければ戦う事は出来ない。
「ヒカリちゃん、どうしたの?そんなところでぼんやりして」
荷物をまとめた空が、不意に優しく声をかけてきた。
太一も振り返り、「ほらヒカリ、帰るぞー。今日のご飯、唐揚げだってさ!」と無邪気に手を振る。
「……うん! 今、行く!」
ヒカリはハッと我に返ると、精一杯の「日常の少女の笑顔」を作って、みんなの元へと駆け寄った。
ミコトがヤマトに電話で完璧な嘘を吐いたのと、全く同じように。
「どうしたんだよ、急に黙り込んじゃってさ」
太一がヒカリの頭をぽんぽんと叩く。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと、夕焼けが綺麗だなって思って」
「なんだ?それ。ほら、置いていっちゃうぞ!」
歩き出すみんなの背中を追いかけながら、ヒカリはそっと胸の中のデジヴァイスに触れた。
(私だけでも、ずっと見ていなきゃ……。あの島で、何が起きようとしているのか)
全員が「無事」を信じ、笑顔で歩みを進める日常の裏側。
世界を揺るがすほどの巨大な闇の予感にたった一人で対峙し、その恐怖を誰とも共有できないという奇妙な孤独の中で、ヒカリの心は静かに、みんなの輪から切り離されていく。
初音島で孤独に戦うテイマー・ミコト。
そしてお台場で孤独に闇を警戒する、選ばれし子供・ヒカリ。
交わるはずのなかった二人の少女の運命が、現実世界の裏側で、不気味に共鳴を始めようとしていた――。
此処で時系列は約一ヶ月のデジタルワールドに戻る。
「ヘブンズゲート!!邪悪なるものをゲートの向こうの亜空間に葬り去るのです!!」
「ガイアフォース!!」
「ガルルトマホーク!!」
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――!!」
ダークマスターズのリーダーであるピエモンはウォーグレイモンのガイアフォース、メタルガルルモンのガルルトマホークをくらいその衝撃でホーリーエンジェモンのヘブンズゲートの中に放り込まれた。
しかし、ピエモンは他のダークマスターズのメンバーと異なり、消滅した訳ではなかった。
光と闇が交錯する無の空間。
ホーリーエンジェモンの放ったヘブンズゲートの奥底に広がる亜空間で、ピエモンは無限の苦痛を味わっていた。
(この私が……!ダークマスターズのリーダーであり、ナイトメアソルジャーズを統べるこのピエモン様が、あんな子供たちとデジモン共の力に屈したというのか……!?)
亜空間の荒れ狂う嵐の中で、ピエモンのデータは粉々に引き裂かれては、微かな生存本能によって再び結合する。
消滅と再生の永遠とも思える無限ループ。
圧倒的な敗北感と屈辱が、道化師の仮面の奥でドロドロとした執念へと変わっていく。
しかし、絶望の淵にあって、ピエモンは気がついた。
この次元の狭間には、デジタルワールドから弾き出されたありとあらゆる『負のデータ』と『闇』が吹き溜まっていることに。
(フフ……フハハハ! 素晴らしい。これほどまでに濃密な絶望が、この空間には満ち溢れている!)
引き裂かれる痛みを歓喜の嗤いで上書きし、ピエモンはその身を亜空間の闇へと完全に委ねた。
周囲に漂うおびただしい量の暗黒エネルギーを、自らのデジコアへと貪欲に吸収していく。
カラフルだった道化師衣装がより深く、より禍々しい漆黒と混沌の色へと染まり上がる。
仮面の奥の双眸が、紅蓮の光を放って妖しく輝いた。
次元の嵐を喰らい尽くし、更なる高みへと至った混沌の道化師――『カオスピエモン』の誕生である。
「さあ、待っていろ、選ばれし子供たちよ。次はお前たちが、終わりのない絶望を味わう番だ……!」
空間の壁を切り裂き、カオスピエモンが再び這い出た先は、デジタルワールドではなかった。
潮の香りと、季節外れの桜の花びらが舞う人間の世界だった。
「此処は‥‥?どうやらデジタルワールドではない‥‥人間の世界の様だな‥‥」
リアライズを果たしたカオスピエモンは、見知らぬ島の路地裏で踵を返し、子供たちへの復讐を果たすため、すぐに選ばれし子供たちを捜そうとしたその時――カオスピエモンの歩みがピタリと止まる。
彼方から、微かだが強烈な『匂い』が漂ってきたからだ。
つい最近、この地で強力な悪魔型デジモン(アイスデビモン)が消滅した痕跡。
だが、カオスピエモンの興味を惹きつけたのはそこではない。
その氷の悪魔を文字通り「塵一つ残さず粉砕した」であろう、途方もなく冷徹で、妖艶で、美しく、そして底知れない深淵の気配。
「……ほう? なかなか面白そうな気配があるじゃないか」
カオスピエモンは薄い唇を歪め、三日月のような笑みを浮かべた。
自分をあのような目に遭わせた選ばれし子供たちへの復讐は、いつでもできる。
それよりも今は、この奇妙な島に隠された『極上の闇』の正体を突き止める方が、よほど上質な余興になりそうだった。
この闇の力を利用できれば子供を捜す事も倒すことも容易いと思ったのだ。
一方その頃、お台場にいるヒカリは、この強大な脅威のリアライズに全く気づいていなかった。
かつてお台場にヴァンデモンが潜入した当初、ヒカリはすぐにはその存在を認知できなかった。
彼女の持つ『光』の感知能力は、完全な異世界の存在単体よりも、現実世界の人間との『縁』や『接触』を媒介にした時に強く働く傾向がある。
現在、ヒカリのレーダーは「ミコトの抱える闇」と強く共鳴しており、まだミコトと何の接触も持っていないカオスピエモンは、皮肉にもヒカリの感知網を完全にすり抜けてしまっていたのだ。
「さあさあ、次は帽子の中から何が飛び出すかな?」
数日後、初音島にある水越総合病院のロビーは、子供たちを始めとする大勢の人々の歓声に包まれていた。
全身を派手な衣装に身を包んだ大道芸人が、見事なジャグリングや手品を披露している。
誰もがその陽気なピエロの正体が、かつてデジタルワールドを恐怖に陥れたダークマスターズのなれの果てだとは気づいていない。
カオスピエモンは、大道芸人に扮しながら、島中をくまなく探っていた。
そんな中、水越総合病院で行われた慰問イベントに参加した。
無邪気に笑う人間の子供たちを「いつでも捻り潰せる脆弱な存在」と見下しながら、手品を続ける。
だが、ふと彼の視線が、ロビーの後方に立つ一人の少女で止まった。
(……ほう?)
患者の証であるパジャマにカーディガンを羽織った、一人の少女‥‥
周りの子供たちが手品を見て無邪気に手を叩いて笑う中、彼女――ミコトだけは、一切笑っていなかった。
いや、ただ笑っていないのではない。
彼女の瞳は、手品のタネはおろか、道化師の皮を被った自分の「本質」さえも無意識に見透かしているような、底冷えのする静けさを湛えていた。
カオスピエモンは、自身の魔眼を通してその少女の奥底を覗き込む。
瞬間、道化師の背筋に、ゾクッとするような悦楽が走った。
(っ!?間違いない……あの華奢な肉体の奥に眠る、圧倒的な虚無と妖艶さこそ、この島を覆う極上の闇の正だ。まさかあのような幼い少女とは‥‥)
(選ばれし子供たちへの復讐の前にその顔をまずは苦痛で歪め、絶望に染め、極上の闇を我が手に入れよう)
イベントが終わり、楽しげな余韻を残したまま、患者たちがそれぞれの病室へと戻っていく。
ミコトもまた、一つ小さく息を吐き、静かな廊下を歩いて自室へと向かっていた。
大切な家族に嘘をつき通し、たった一人で初音島を守り抜くと決意した彼女の背中は、痛々しいほどに孤独だった。
コツ、コツ、とスリッパの音だけが響く夕暮れの廊下。
――その時。
『見つけたぞ、小さな魔王よ』
「……っ!?」
不意に、耳元でねっとりとした声が囁かれた。
冷たい刃物で首筋を撫でられたような悪寒。
ミコトの心臓が早鐘を打ち、彼女は弾かれたように背後を振り返った。
「誰っ……!?」
しかし、振り返った先‥‥夕日が差し込む長い廊下には、ミコトの他には誰もいない。
ただ、ミコトの足元に、手品で使われるトランプの『ジョーカー』のカードが一枚、音もなくヒラリと落ちてきただけだった。
「トランプのジョーカー?」
ミコトは落ちていたジョーカーのトランプを拾い、首を傾げたがそのカードを拾った瞬間に身体に再び悪寒が走った。
「っ!?」
ミコトはそのままダッシュで自分の病室に戻ると、ガチャリ、と重い音を立てて病室のドアが閉まる。
そして、そのままドアに背中を預け、ずるずると床へ座り込んだ。
「はぁっ……、はぁっ……」
必死に平静を装っていた呼吸が、ここへ来て大きく乱れる。
右手には、先ほどの廊下で拾った一枚の『ジョーカー』のカードが、じっとりと汗ばんだ指にきつく握りしめられていた。
「ミコト? どうしたんだ?そんなに顔色を悪くして」
誰もいないはずの病室‥‥そのベッドの下から、不意に身を翻して姿を現したのは、相棒のデジモン・ジークだった。
病院内では常に隠れているように言いつけてある彼だが、テイマーであるミコトのただならぬ動揺を察知し、心配そうに駆け寄ってくる。
ミコトは震える手でジョーカーのカードをジークの前に差し出しながら、乾いた唇を開いた。
「……ジーク。さっき、一階のロビーで慰問のイベントがあったでしょう?そこに、ピエロの格好をした大道芸人の人がいたの」
「大道芸人の人?その人が、どうかしたのか?」
「姿形は……間違いなく人間だった。おかしなところなんて一つもなかった。でもね……」
ミコトは自分の胸元――『未知の魔王』の因子の眠る奥底を、ギュッと服の上から掴んだ。
「纏っている空気が、人間じゃなかったの‥‥あの大道芸人を見た時、私の中にある『闇』が‥‥泥みたいにざわめいたわ。お台場の時と同じ‥‥まるで、同類を見つけたみたいに‥‥」
その言葉に、ジークの空気が一変した。
彼はミコトの手からジョーカーのカードを受け取ると、鋭い嗅覚でその表面のデータ残滓を読み取ろうと鼻を近づける。
「っ……!!」
瞬間、ジークは弾かれたようにカードを床に放り投げ、臨戦態勢のように低く身構えた。
その喉の奥から、微かな唸り声が漏れる。
「……ジーク?」
「ミコト、そいつは多分、人間じゃない。間違いなくデジモンだ。それも……この間倒したアイスデビモンなんかとは次元が違う。このカードの表面にこびりついているのは、果てしなく濃密で、おぞましい暗黒のエネルギーだ」
ジークの言葉が、ミコトの感じた恐怖を決定的な現実として裏付けた。
ミコトは膝を抱え込み、青ざめた顔で相棒を見つめる。
「やっぱり……ねぇ、ジークはどう思う? あの道化師、帰り際に私の耳元で、はっきりとこう囁いたの。『見つけたぞ、小さな魔王よ』って……そいつは私の中に在るものが何なのか、完全に知っているような口ぶりだった」
「……十中八九、ミコトの中に眠る『魔王の因子』に引き寄せられて、この初音島にやって来たんだろうな。そして、人間の姿に完璧に偽装できるほどの高度な知能と力を持った、最悪の暗黒デジモンだ」
ジークは忌々しげに床のジョーカーを睨みつけた。
「奴は、ミコトを標的に定めた。ただ命を狙うだけじゃなく……ミコトの中の『闇』がどれほどの力を持っているのかを楽しむようにな」
ジークの推論は、ミコトが本能で感じ取っていた最悪の予感そのものだった。
アイスデビモン級の敵であれば、なんとかジークの力と、自分の中の闇が何故か手助けをしてくれたおかげで退けることができた。
しかし、あの底知れない深淵を覗き込ませるような『道化師』を相手に、自分はどこまで自我を保っていられるのだろうか?
もし、戦いの中で体の中にある魔王の因子が暴走し、自分が完全に『未知の魔王』へと呑み込まれてしまったら――。
「……ヤマトお兄ちゃんには、絶対に言えない」
ミコトは震える両腕で、自らの肩を強く抱きしめた。
「こんなの、お兄ちゃんたちが束になって戦っても勝てるかどうかわからない。もし知られたら……またお兄ちゃんを、あんな血みどろの戦いに引きずり込んじゃう」
お台場のあの霧の戦場以上の戦いになるかもしれない。
そんな戦いに兄を巻き込む訳にはいかない。
「ミコト……」
「私とジークだけで、なんとかしなきゃ。この島で……私がアイツを食い止めるの」
「う、うん。分かった」
夕闇が迫り、薄暗くなり始めた病室。
強大なカオスピエモンの影がすぐそこまで迫っているにも関わらず、ミコトはヤマトへのSOSを自ら封じ、退路のない孤独な決意を一層固くしていくのだった。
夜の初音島の市街地の路地裏では一人の男が歩いていた。
やがて、行き止まりの箇所に来ると、その空間がグニャリと歪みブラックホールの様な漆黒の穴が開く。
男は迷うことなくその穴に入った。
穴の中は現実世界ともデジタルワールドとも異なる異空間となっており、その空間に入った途端、男の姿は人間からデジモン‥カオスピエモンの姿へと変わる。
カオスピエモンが入った異空間には一脚の椅子があり、それはまるで一国の王が座るような立派な玉座の様な椅子だった。
カオスピエモンはその椅子にどっかりと座る。
「選ばれし子供たちへの復讐の前の余興であるが、なかなか楽しめるかもしれないな‥‥あの小さな魔王の力がどれほどのモノか試してみるか‥‥」
カオスピエモンの手には何枚ものカードがあり、彼は口を三日月の様な形に歪め、選ばれし子供たちへの復讐の前にこの前座を楽しむことにした。