デジタルワールドでの死闘を終え、ようやく掴み取った平穏な日常。
お台場の「選ばれし子供たち」が束の間の平和を謳歌するその裏側で、新たなる運命の歯車は不気味に回り始めていた。
病気余療養のために、家族と離れて暮らす武石タケルの双子の妹・ミコト。
一年中桜の咲き誇る初音島で、相棒のデジモン・ジークと共に暮らす彼女は、その身に恐るべき『魔王の因子』を宿していた。
9月1日、島を襲撃した凶悪なアイスデビモンとの死闘の最中、臨界点を突破したその闇は、島の『枯れない桜』の力はデーモンとは似て非なるもの──漆黒の翼を広げ、両目を静かに閉じて宙を浮遊する、妖艶で美しき『未知の魔王』のシルエットとなって敵を粉砕した。
大好きな兄たちを再び血みどろの戦いに巻き込むまいと、完璧な「日常の嘘」で真実を覆い隠すミコト。
ヤマトや太一たちがその嘘に安堵する中、ただ一人、八神ヒカリだけは自身の『光』の特性によって、遥か初音島の方向から響く圧倒的な深淵の気配を感知していた。
ミコトの嘘を直感しながらも、パートナーデジモンのいない現状と戻ってきた平穏を前に、ヒカリもまた孤独な警戒を強いられる。
しかし、初音島に迫る脅威はそれだけではなかった。
かつて選ばれし子供たちと戦って敗れ、ホーリーエンジェモンの『ヘブンズゲート』の亜空間へと葬られたダークマスターズのリーダー・ピエモン。
彼は亜空間の嵐の中で負のデータを喰らい、混沌の道化師『カオスピエモン』へと進化を遂げ、現実世界の初音島へとリアライズを果たしていた。
人間の大道芸人に化けて島を探索していたカオスピエモンは、水越総合病院でミコトと接触する。その際、彼女の奥底に眠る「極上の闇」の正体を確信し、耳元で妖しく囁いた‥‥
「見つけたぞ、小さな魔王よ」
残されたトランプのジョーカーから、敵がアイスデビモンとは比べ物にならない最悪の暗黒デジモンであることを知るミコトとジーク。
迫りくる絶望的な戦いを前に、少女は兄へのSOSを断ち、たった一人で敵を食い止める退路なき決意を固める。
自らが創り出した異空間の玉座へと戻り、何枚ものカードを手に三日月のような笑みを浮かべるカオスピエモン。
選ばれし子供たちへの復讐の前座として、「小さな魔王」の力を試す残酷な余興が、今まさに幕を開けようとしていた──。
現実世界ともデジタルワールドとも異なる、光と闇が不気味に明滅する異次元空間。
その空間にポツンと存在する豪奢な玉座に、カオスピエモンはどっかりと腰掛けていた。
長い指先で弄ばれるのは、禍々しい暗黒のエネルギーを放つ数枚のカード。
「まずは小手調べといきますか‥‥」
三日月のような笑みをさらに深く歪めると、彼は手にした一枚のカードを指先で弾いた。
カードは漆黒の光の尾を引きながら、異次元空間の彼方──現実世界の初音島へと向かって消え去っていく。
「さあ、小さな魔王よ、君の力を見せてもらおうか? フフフフ、ハハハハハ……!」
道化師の不気味な高笑いが、誰もいない深淵の空間にいつまでも冷たく響き渡っていた。
同じ頃、東京・お台場。
デジタルワールドでの激闘を乗り越えた太一やヤマトたちは、学校や部活といった、かつて失いかけた温かい「平穏な日常」を少しずつ、だが確かに歩み始めていた。
しかし、彼らの預かり知らぬ場所──初音島では、カオスピエモンによって、ミコトへの残酷な試練の幕が静かに引き上げられようとしていた。
「……どこにも、いない」
昼下がりの初音島市街地‥‥ミコトは周囲を警戒しながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
数日前、水越総合病院のロビーに現れたあの不気味な大道芸人。
その正体が、アイスデビモンなどとは比較にならないほど凶悪なデジモンであることは、相棒のジークがカードから感じ取った残滓からも間違いなかった。
どうしてもあの存在が頭から離れず、無視するわけにもいかないと感じたミコトは、医師から外出許可を得て、こうして街を散策していた。
ミコトの左腕には、黒とさくら色のデジヴァイス01が装着され、衣服の下の首元には生命の紋章が静かに揺れている。
そして背負ったリュックの隙間からは、小さな相棒である幼年期のチビモン──ジークが、きょろきょろと外の様子を伺っていた。
だが、ミコトの警戒とは裏腹に、街にはいつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
「ミコト、ミコト、何だかいい匂いがするよ!!」
「ふふ、そうだね。じゃあ、ちょっと休憩にしようか?」
商店街のパン屋で、ジークが大好きなアンパンを買い、近くの公園のベンチへと腰を下ろす。
リュックから顔を出したジークは、嬉しそうにアンパンを小さな両手で抱え、美味しそうに頬張り始めた。
その微笑ましい光景を見つめながらも、ミコトの心は依然として重かった。
彼女の思考は、あのアイスデビモン戦の直後、自らの体内に宿る『未知の魔王』が脳裏に残した最後の言葉へと向いていた。
『しばらく眠る』
『また会おう』
(完全に信じることはできない……でも、これはしばらくの間、あの魔王は眠りについて、目覚めることはないって意味なのかな……?)
だとしても、それは一時しのぎに過ぎない。
いつかは再びあの強大な闇が目覚める時が来る。
魔王が再び目を覚ますまでの限られた時間の中で、自分とジークをもっと強くしなければならない。
その上、あの謎の道化師の対処まで考えなければならないのだ。
あまりにも重い課題が、まだ幼い彼女の肩にのしかかっていた。
ミコトは膝の上で、デジタルワールドでタイチ貰った大切な手帳を開いた。
そこには、これまでに遭遇したデジモンの特徴が書かれており、最新の情報にはアイスデビモン戦での詳細なデータが細かく書き留められている。
ミコトがあの道化師についての見解を書こうとペンを走らせようとした、その時だった。
「っ!?」
ミコトの背筋に、ゾクリとした冷たい感覚が走る。
同時に、アンパンを食べていたジークがピタリと動きを止め、鼻をクンクンと鳴らして周囲を鋭く警戒し始めた。
「ジーク、この気配……」
「ああ、間違いない。すぐ近くだ。それにおかしいぞ、あそこを見てくれ!」
ジークが短い手で指さした先──公園の一角にある野球場から、不自然なほどの白い霧が、地面を這うようにして立ち込め始めていた。
まだ昼下がりの、よく晴れた時間帯だ。
野球場の一角だけにこれほど濃い霧が立ち込めるなど、自然現象としては絶対にあり得ない。
「霧‥‥?」
ミコトの脳裏にあのお台場での記憶が過る。
あの時も、お台場はヴァンデモンの手によって不気味な霧に包まれ、現実世界と遮断されたのだ。
「あの道化師が、あそこにいるかもしれない……!!」
恐怖で足がすくみそうになるのを、大好きな兄たちの笑顔を思い浮かべることで強引にねじ伏せる。
ミコトは手帳を強く握りしめてリュックにしまうと、意を決してジークと共に白い霧の中へと足を踏み入れた。
霧に包まれた野球場の中は、恐ろしいほどに静まり返っていた。
誰もいないマウンドやベンチ。
周囲の景色は確かに見慣れた公園のもののはずなのに、肌を刺すような空気の感覚が、明らかに現実世界のそれとは異なっていた。
「この空気……デジタルワールドに似ている……」
「気をつけろ、ミコト、何かが来る!」
あの道化師かと思い、緊張した面持ちで周囲を警戒する。
ジークの警告と同時に、霧の奥から重苦しい足音と、不気味な唸り声が聞こえてきた。
「グゥゥゥゥ……ルアァッ!」
霧を切り裂いて姿を現したのは、小柄な鬼のような姿で手には棍棒を持ったデジモン‥‥ゴブリモンだった。
しかし、その身体からは、禍々しい漆黒のオーラを纏い、瞳は理性を失ったように赤く濁り、ただのデジモンではない異常なプレッシャーを放っていた。
ゴブリモンは手にした不格好な棍棒を激しく振り回しながら、凄まじい殺気を放ってミコトたちへ向かって突進してくる。
「ジーク、いこう!」
「応っ!!」
ミコトの左腕のデジヴァイス01が眩い光を放ち、ジークの身体を包み込む。
「チビモン進化──ブイモン!!」
黒い皮膚を持つ小竜型のデジモンへと進化を遂げたジークは、鋭いステップで地を蹴った。
「まずは一発お見舞いだ! 『ブイモンヘッド』!!」
自慢の堅い頭部を突き出し、弾丸のように飛び出すジーク
その強烈な頭突きが、突進してくるゴブリモンの腹部へと真っ直ぐに直撃した。
「ごはっ!!」
鈍い衝撃音が響き、ゴブリモンは苦悶の声を漏らす。
しかし、普通の成長期のデジモンならこれで戦闘不能になるはずの威力を受けながらも、黒いオーラを纏うゴブリモンはすぐに体勢を立て直し、怒りに狂って棍棒を横一文字に払ってきた。
風を切り裂く棍棒の軌道‥‥
だが、ジークは慌てない。
デジタルワールドでの幾多の修羅場、そしてミコトと共に積み重ねてきた特訓の成果が、彼の肉体に深く刻み込まれていた。
「そんな大振りの攻撃、当たるかってんだ!」
ジークは上体を極限まで逸らして棍棒を紙一重でかわすと、その勢いのままゴブリモンの懐へと潜り込んだ。
「そらっ!」
下から突き上げるような強烈なアッパーカットが、ゴブリモンの顎を的確に捉える。
ゴブリモンの頭が大きく跳ね上がり、その隙にジークはバックステップで鮮やかに距離を取った。
「ルガァァァァァッ!!」
完全にプライドを打ち砕かれたゴブリモンは、獣のような絶叫をあげながら棍棒を天高く振り上げる。
しかし、それが振り下ろされるよりも、ジークの動きの方が遥かに早かった。
「遅い!」
ジークは地を爆る様に跳躍すると、無防備になったゴブリモンの顔面へ向けて、鋭い飛び蹴りを叩き込んだ。
強烈な衝撃に顔を歪ませながらも、ゴブリモンは倒れない。
それどころか、纏う黒いオーラをさらに激しく燃え上がらせ、自暴自棄な様子でジーク目掛けて猛突進を仕掛けてきた。
「しつこい奴だな……!?でも、これで終わりだ!!」
突進してくる直前まで引き付けたジークは、衝突の寸前、タイミングを完璧に見計らって真上へと大きくジャンプした。
標失したゴブリモンは、その凄まじい勢いのまま、野球場の頑丈な金網フェンスへと激しく激突する。
バガァァァン!!というけたたましい金属音が霧の中に響き渡り、フェンスが大きく歪んだ。
地面に着地したジークは、フェンスにめり込みながらもがき苦しむゴブリモンを見つめ、表情を険しくする。
「ミコト、こいつ、やっぱり普通じゃない。攻撃の手応えがない……って言うか、此奴は本当にデジモンなのか?」
「ん?どういう事?」
「外見はデジモン‥ゴブリモンだけど、見かけだけな気がする‥‥」
「‥‥」
デジモンであってデジモンではない。
ジークの言葉を聞き、困惑するミコト。
すると、ゴブリモンに異変が起きた。
フェンスに激突していたゴブリモンの身体から、あの不気味な黒いオーラが爆発的に噴き上がったのだ。
そのオーラは霧を黒く染め上げ、ゴブリモンの肉体を急速に変形させていく。
「グガガガ……アァァァァァッ!!」
骨が軋み、筋肉が膨れ上がる。
体躯は倍以上に巨大化し、その皮膚は燃えるような赤色、ではなく、禍々しい濁った色へと変貌していく。
霧の向こうから現れたのは、オーガモンの色違いであり、より凶暴性を増した成熟期デジモン──フーガモンだった。
「進化……した!?」
ミコトの瞳が驚愕に揺れる。
パートナーデジモンではなく、野生のデジモンがこれほど急激に、しかも戦闘の最中に進化を遂げるなど異常事態だった。
(やっぱりただのデジモンじゃない?)
この異常進化を見て眼前のデジモンがやはりただのデジモンではない事を確信する。
「フガァァァァッ!!」
成熟期へとパワーアップしたフーガモンは、手にした巨大な骨の棍棒を地面に叩きつけ、凄まじい衝撃波を放ってきた。
「ジーク!」
「分かっている! 成熟期が相手だからって、ビビってられるかよ!」
ジークは成長期のブイモンの姿のまま、鋭い眼光で巨大な敵を睨み据えた。
ミコトの首元の紋章が、彼女の「絶対に負けない」という強い決意に呼応するように、微かに熱を帯び始める。
たった一人で闇と対峙する少女と、その想いを背負う黒い小龍。
混沌の道化師が仕掛けた余興を打ち破るため、ミコトとジークの真の戦いが今、始まった。
「フガァァァァッ!!」
成熟期へと進化したフーガモンは、その巨体に似合わぬスピードで距離を詰め、巨大な骨の棍棒を大上段から振り下ろした。
ズドォォォン!!
ジークが寸前で横へ跳躍して躱すと、元いた場所の地面がクレーターのように大きく陥没する。
「くっ、やっぱりパワーは桁違いだな……!」
土煙を被りながらも、ジークは黒い身体を躍動させて体勢を立て直す。
「ジーク、気をつけて! 闇雲に突っ込んじゃダメ、相手の動きをよく見て!」
ミコトの切実な声が、ジークの背中を力強く後押しする。
「分かっている! デカくて力があっても、当たらなきゃ意味がないんだよ!」
フーガモンは理性を欠いた赤い瞳でジークを睨みつけ、再び棍棒を振り回しながら荒れ狂う暴風のように突進してきた。
しかし、ジークの眼には、その大振りな攻撃軌道がはっきりと見えていた。
(右、左、そして……大振りな上段!)
「そこだっ!!」
棍棒が空を切った一瞬の隙を突き、ジークはバネのように脚を屈伸させて一気にフーガモンの懐へと飛び込む。
「『ブンブンパンチ』!!」
小さな両腕から繰り出される連続の乱れ打ちが、フーガモンの無防備な腹部へ機関銃のように叩き込まれる。
「グォォォッ!?」
巨体がよろけたところへ、ミコトの首元で『生命の紋章』が淡く、しかし力強い光を放った。
その光の波動がジークを包み込み、黒い小龍の身体に更なる力を漲らせる。
「これで……決める!!」
ジークは後方にバックステップを踏むと、地面を深く抉るほどの強い踏み込みで弾丸の如く宙へ射出された。
「いけえぇぇっ、ジーク!!」
ミコトの叫びと重なるように、ジークは全身を錐揉み回転させながら敵の眉間へと突っ込む。
「『ブイモンヘッド』ォォォッ!!」
ドゴォォォォォォンッ!!!
ジークの渾身の必殺技が、フーガモンの頭部にクリーンヒットした。
「ア、ガァ……ァァァ……ッ」
決定的な一撃を食らったフーガモンは、骨の棍棒を取り落とし、白目を剥いてゆっくりと仰向けに倒れ伏す。
ズシンッ、と地面が揺れ、野球場に土煙が舞い上がった。
荒い息を吐きながら着地したジークは、警戒を解かずに倒れた敵を見据える。
ミコトもまた、デジヴァイス01を構えたままジークの隣へと駆け寄った。
「やった……倒した……?」
しかし、次の瞬間、二人は信じられない光景を目の当たりにする。
通常のデジモンであれば、致命傷を負えばデータが分解されて光の粒子となって消滅するかデジタマ(卵)へと還るはずだ。
だが、倒れたフーガモンの肉体は、ボロボロと崩れ落ちるように不気味な黒い霧へと変貌し、風に流されるように四散して空へと溶けていったのだ。
「……消えた? データの粒子にもデジタマにもならずに……?」
ミコトが呆然と呟く。
黒い霧が完全に晴れた後、野球場の地面にはただ一つ、異質なものがぽつんと残されていた。
「ミコト、あれを見てくれ」
ジークが顎で示した先。フーガモンが倒れていたはずのグラウンドの土の上に、一枚のカードが落ちている。
ミコトは恐る恐る近づき、そのカードを拾い上げた。
カードの表面に描かれていたのは、狂暴に牙を剥く『ゴブリモン』の絵柄だった。
「カード……? これが、さっきのデジモンの正体だったってこと?」
「ああ。やられ方が普通のデジモンと全く違った。あれは最初から命のあるデジモンなんかじゃなく、このカードから実体化させられただけの『デジモンモドキ』だったってことだ」
ジークは忌々しげにカードを睨みつけ、鋭い牙を剥き出しにして唸った。
「デジモンを愚弄するようなこんな悪趣味な真似……あの病院にいた『道化師』の仕業で間違いない‥‥あの道化師が、私を試すためにこんなものを……?」
ミコトは手にしたゴブリモンのカードを強く握りしめた。
アイスデビモンのような本物の悪魔ではなく、カード一枚でこれほどの脅威を作り出し、自分たちをからかうように嗾けてきた謎の敵。
それは、圧倒的な力を持つ者が行う、残酷な「ゲーム」の始まりを意味していた。
「……負けないよ」
ミコトは顔を上げ、すっかり異常な霧が晴れて元の平穏を取り戻した野球場の空を見つめた。
「私の中にいる『魔王』が目覚める前に……あの道化師のふざけた遊びは、私とジークで絶対に終わらせてみせる!」
まだ幼い少女の瞳には、恐怖を乗り越えた強い決意の光が宿っていた。
現実世界ともデジタルワールドとも異なる、光と闇が不気味に明滅する異次元空間。
玉座に深く腰掛けたカオスピエモンは、虚空に映し出された初音島での一部始終を、酷薄な笑みを浮かべながら見つめていた。
自身が送り込んだデジモンモドキのフーガモンが、ブイモンの渾身の一撃によって黒い霧となって四散する光景。
手駒があっさりと打ち破られたというのに、カオスピエモンの表情に悔恨や怒りの色は一切ない。
それどころか、肩を揺らして愉快そうに甲高い笑い声を上げ始めた。
「ククク……アハハハハ! いいぞ、素晴らしい!素晴らしいぞ!!これくらいの事で負けてしまっては、せっかくの余興がつまらないからね」
虚空のスクリーン越しに、ゴブリモンのカードを握りしめたミコトの強い決意の言葉が異空間に響く。
『私の中にある「魔王」がいつか目覚める前に……あの道化師のふざけた遊びは、私とジークで絶対に終わらせてみせる!』
その健気で、しかし恐怖をねじ伏せた力強い宣言を聞いたカオスピエモンは、まるで愛しい相手へ囁きかけるかのように、甘く、そして底知れぬ狂気を孕んだ声で応えた。
「私もだよ、小さな魔王。この極上のゲーム、たっぷりと楽しませてもらうよ。出来れば君の中の魔王が起きるまでね‥‥」
道化師の仮面の奥で、紅蓮の双眸が歓喜に歪み、妖しい光を放つ。
選ばれし子供たち――かつて自分を亜空間へと葬った憎き八神太一や石田ヤマトたちへの復讐など、もはや今のカオスピエモンにとってはひどく退屈で些末なことでしかなかった。
彼らの妹であるミコトが内に秘める、圧倒的で妖艶な『極上の闇』。
その力が完全に目覚めるまで、絶望という名のスパイスを振りかけながら、どこまでこの少女が抗い、もがくことができるのか?
その残酷な遊戯を味わい尽くすことこそが、今の混沌の道化師にとって最優先すべき至高の悦楽となっていたのだった。
カオスピエモンが不気味な高笑いを異空間に響かせていたその日の夕方‥‥
お台場の八神家のマンションでは、裕子が夕食の準備をする小気味よい音が台所から響いていた。
しかし、自室のベッドに腰掛けたヒカリの表情は、どこか上の空だった。
窓の外に広がる夕焼け空はどこまでも美しいが、ヒカリの胸の奥にある「冷たい違和感」は、時間が経つにつれてじわじわと確信へと変わりつつあった。
(やっぱり、何かが起きている……あの島で、誰かが泣いているような気がする)
これ以上、自分一人で抱え込んでいるわけにはいかない。
けれど、お兄ちゃんやヤマトさんを巻き込むような段階でもない。
確実な情報が必要だった。
ヒカリは意を決して、リビングに出ると受話器を取り、耳に当て、光子郎の家へとダイヤルした。
『はい、泉ですが』
電話に出たのは光子郎の母、住江だった。
「あの私、八神太一の妹の八神ヒカリと言います。光子郎さんはいらっしゃいますか?」
『光子郎ね、ちょっとまっていて‥‥光子郎、電話よ』
それから直ぐに、
『もしもし、お電話代わりました』
「あっ、光子郎さん。私、ヒカリです」
『ヒカリさんですか?どうしました?』
受話器の向こうから、いつも通りの光子郎の落ち着いた声が聞こえてくる。
「光子郎さん、お騒がせしてごめんなさい……あの、ちょっと光子郎さんにお願いがあるの」
『お願い、ですか? 僕にできることなら何でも言ってください』
「光子郎さんが言っていた、初音島の『HATUNE』さん……その人と、私もチャットでお話してみたいの‥‥」
『えっ、HATUNEさんとですか?』
光子郎は一瞬、意表を突かれたように声を上げた。
しかし、すぐに納得したように声を和ませる。
『なるほど……HATUNEさん――ミコトさんはヤマトさんの妹さんですし、年齢もヒカリちゃんと同じですからね。同性の‥しかも同じ歳くらいのお友達と話してみたいと思うのは当然です。ヤマトさんにあれだけ剣幕で詰め寄られた後ですから僕から紹介するのは少し緊張しますが、ヒカリちゃんなら大歓迎だと思いますよ』
「ありがとう、光子郎さん。お手数かけてごめんなさい」
『いえいえ、お安い御用です。さっそく今夜、彼女がネットに繋ぐ時間に僕から打診してみますね。時間が決まったらまた連絡します』
「はい」
光子郎の快い返答に、ヒカリは「よろしくお願いします」と静かに頭を下げて電話を切った。
受話器を置いたヒカリは、小さく息を吐きながら自分のデジヴァイスを見つめる。
同性のお友達が欲しいというのは、光子郎を納得させるための半分は本音の嘘だ。
本当の目的は、ミコトという少女の「声」を文字越しでもいい‥直接聴き、彼女が隠しているはずの闇の正体に触れることだった。
その日の夜‥‥
窓ガラスの修復が終わった初音島の水越総合病院の病室では、ミコトがベッドの上でノートパソコンを開いていた。
昼間のフーガモンとの死闘の興奮は冷め、ジークはチビモンの姿に戻って、ミコトの枕元で静かに息を立てて眠っている。
ミコトは手にしたゴブリモンのカードを見つめ、あの大道芸人の底知れない悪意に胸を痛めていた。
その時、画面のチャットツールが静かに点滅した。
チャット仲間のCOLEOからのメッセージだった。
COLEO:『HATUNEさん、今時間よろしいでしょうか?』
ミコトは少し疲れた顔に、努めて普段通りの笑みを浮かべてキーボードを叩く。
HATUNE:『大丈夫ですよ。COLEOさん、どうかしましたか?』
COLEO:『実は僕の知り合いの方が、HATUNEさんとチャットをやりたがっているそうなんです』
HATUNE:『COLEOさんの知り合い?』
COLEO:『はい。僕が通う小学校の二個下の後輩の女の子なんです。同い年の女の子とお話がしてみたいそうで、もしよければ、一度お相手をしてあげてくれないでしょうか?』
画面を見つめながら、ミコトは暫し考え込んだ。
初音島での生活、そしてこの身体の事情もあって、ミコトには同い年の同性の友達と呼べる存在がほとんどいなかった。
話すのは最近になり、わだかまりが解消されつつある兄のヤマトとチャット仲間のCOLEO(光子郎)、そして相棒のジークだけ‥‥
東京に住む、COLEO(光子郎)の後輩の女の子‥‥
その子が自分とどんなことを話したがっているのか、純粋に興味が湧いてきた。
何より、混沌の道化師による恐怖の余興に押し潰されそうになっていたミコトにとって、その誘いは救いのような日常の光に思えたのだ。
HATUNE:『COLEOさんいいですよ。私でよければ、喜んで』
COLEO:『本当ですか!? ありがとうございます。では、チャットのやりとりの日時は……』
そこから、光子郎とミコトの間で、数日後の週末の昼下がりにチャットを行うスケジュールがテキパキとセッティングされていった。
そして、ヒカリとミコトとのチャット当日‥‥
ヒカリは泉家のマンションを訪れていた。
光子郎の部屋のデスクには、既にいくつかの暗号化を施したプライベートチャットの画面が立ち上がっている。
「わざわざ来てもらってすみません。相手の方も、楽しみに待ってくれていますよ」
光子郎がキーボードに指を乗せ、ミコトへの最後の確認メッセージを送り込んだ。
COLEO:『では、これより、僕の知り合いの方と代わりますね』
「さあ、どうぞ」
光子郎が椅子を譲り、笑顔でヒカリをパソコンの前に促す。
「ありがとうございます、光子郎さん」
ヒカリは少し緊張した面持ちで椅子に腰掛け、画面の向こうで待っている『HATUNE』という文字列を見つめた。
深呼吸を一つ。
ヒカリは小さな指先で、カタカタとキーボードを叩き始めた。
COLEO:『はじめまして。COLEOさんの後輩です。HATUNEさん、今日はお話ししてくれてありがとう』
少しの間の後、画面が更新され、優しい文章が返ってくる。
HATUNE:『はじめまして。私はHATUNEって言います。こちらこそ、お話しできて嬉しいな。東京は今、どんな様子ですか?』
画面から伝わってくるミコトの言葉は、どこまでも健気で、普通の日常を過ごす少女のそれだった。
お兄ちゃんたちを心配させまいと、完璧に普通の女の子を演じている「嘘」の気配。
しかし、チャット越しであるにもかかわらず、ヒカリの『光』の特性は、画面に表示された文字の羅列の向こう側にある「本質」を鋭敏に捉え始めていた。
文字の奥に隠された、張り詰めたような緊張感。
そして、冷たく、妖艶に、静かに眠っている圧倒的な深淵の気配――。
(やっぱり……ミコトちゃんのすぐ近くに、凄く大きな闇がいる……そしてミコトちゃん自身も、何かを必死に隠している)
挨拶を交わす日常の会話を数行続けた後、ヒカリは意を決して、核心に触れるための言葉を打ち込み始めた。
光子郎が後ろで見守っている手前、デジモンという単語は使えない。
けれど、感覚を共有するための、ヒカリにしか使えない問いかけ。
COLEO:『HATUNEさん……初音島は、本当に何もない?』
画面の向こうで、ミコトが息を呑む気配が、海を越えて伝わってくるようだった。
HATUNE:『えっ? どういうことかな?この前、突風で病院の窓が少し割れちゃったけど、それ以外はいつも通り、桜が綺麗で静かな島だよ?』
HATUNEからの取り繕うような返信‥‥
しかし、ヒカリは引かなかった。画面を見つめるヒカリの瞳に、真剣な光が宿る。
COLEO:『私ね、時々、変わったことが分かっちゃうことがあるの……上手く言えないんだけど、私のお兄ちゃんの友達がお話ししていた時、凄く冷たくて、でも凄く綺麗な……漆黒の翼みたいな、おぞましい気配が私の心の中に流れ込んできたの‥‥HATUNEさんは何か心当たりはない?』
キーボードを叩くヒカリの指が、微かに震える。
COLEO:『HATUNEさん。あなた、本当は……誰にも言えない、凄く怖くて大きなものを、たった一人で抱え込んでない……?』
文字となって画面に映し出されたヒカリの「直感」。
それは、完璧な日常の嘘で自らを閉ざし、たった一人で退路なき戦いに赴こうとしていたミコトの頑なな心を、チャット越しに激しく揺さぶるのだった。
画面に映し出されたヒカリの言葉は、初音島で孤独な戦いを続けるミコトの心臓を激しく撃ち抜いた。
(漆黒の翼……おぞましい気配……?なんで、この子がそんなことまで……)
心拍数が跳ね上がり、冷や汗が背中を伝う。
ヤマトでさえ気づかなかった自分の中の『魔王の因子』の気配、そしてつい先ほど体験したカオスピエモンによる悪夢のような余興の気配。
そのすべてを、チャット先の人物は見通しているというのだろうか?
(ダメだ。ここで認めたら、それこそヤマトお兄ちゃんたちに本当のことが伝わっちゃう。私が、全部一人で背負うって決めたんだから……)
ミコトは震える手でキーボードに覆いかぶさり、必死に笑顔の絵文字を思い浮かべる。
これ以上チャットを続ければ、ボロが出そうだ。
完全に押し黙るか、それとも――。
その時、コンコン、と病室のノックの音が響き、扉が静かに開いた。
「ミコトちゃん、そろそろ午後の検温と診察の時間ですよ。お友達とのお話は、もう終わりにしましょうか?」
優しげな看護師の姿が視界に入る。
ミコトにとって、それはこの圧倒的な窮地を脱するための、これ以上ない「言い訳」だった。
(……ごめんなさい!)
ミコトは画面の向こうのヒカリを引き留める隙すら与えず、素早くメッセージを打ち込んだ。
HATUNE:『検査の時間になっちゃったから、もうチャットを切らなきゃいけないの。せっかくお話しできたのにごめんね。それじゃあ、またね!』
送信ボタンを押すや否や、ミコトはパタンとノートパソコンを勢いよく閉じた。
「はぁっ……はぁっ……」
パソコンの画面を見つめながら、ミコトは肩で息をする。
「大丈夫?ミコトちゃん。息が乱れているけど‥‥?」
「だ、大丈夫です」
最後まで「平和な日常の少女」を演じ切り、真実を語ることはなかった。
しかし、その逃げるような慌ただしい幕引きは、ヒカリの直感が決して間違いではなかったことを皮肉にも雄弁に物語っていた。
一方、お台場の泉家にある光子郎の部屋のパソコンの前では‥‥
ヒカリが投げかけた核心を突く問いかけの直後、唐突に画面に表示された『検査だから切る』というメッセージ。
そしてチャットルームは一方的に閉じられた。
ヒカリは画面の真っ黒になったディスプレイを見つめたまま、微動だにしなかった。
文字のやり取りは途絶え、直接顔を合わせて言葉を交わしたわけではない。
けれど、あの切羽詰まったようなメッセージの気配と唐突な切断の事実が、ヒカリの胸に刺さる。
(逃げた……ミコトちゃん、逃げたんだわ)
それは「何も知らない」普通の少女の反応ではない。
初音島には、やはり計り知れない闇が潜んでいて、ミコトはその全てを隠し通そうとしている。
自分と同じ、デジモンや不可解な世界と関わってしまった人間特有の痛々しいほどの強がりと孤独。
ヤマトが「ミコトは無事だ」と笑う中、ヒカリだけがその深淵の淵を覗き込み決定的な異変を完全に確信していた。
「……ヒカリさん、大丈夫ですか?」
光子郎が心配そうに顔を覗き込んでくる。
ヒカリはゆっくりと視線を光子郎に向け、まるで氷砂糖を含んだような、冷たくて儚い微笑みを浮かべた。
「うん、大丈夫です……今日はありがとうございました、光子郎さん」
胸の奥でドクドクと鳴る警鐘を抱えながら、ヒカリは静かに椅子から立ち上がる。
海を隔てた初音島で孤独に鍵をかけたテイマーと、お台場で誰にも言えない不安を抱える光の少女。
交錯し始めた二つの運命の歯車は、もはや誰にも止めることはできなかった――。