デジタルワールドでの激闘を終え、ようやく穏やかな日常を取り戻しつつあるお台場の「選ばれし子供たち」。
しかし、その裏側で新たなる運命の歯車が静かに、そして残酷に回り始めていた。
舞台は、東京のお台場から一年中枯れない桜が咲き誇る神秘の島、初音島。
武石タケルの双子の妹・石田ミコトは、自らの内に潜む『未知の魔王』の因子、そして初音島にリアライズした『混沌の道化師』カオスピエモンの脅威に相棒のジークと共にたった一人で立ち向かう決意を固めていた。
愛する兄を二度と凄惨な戦いへ巻き込むまいと完璧な「平穏な日常」を演じ、真実を一人で背負い込むミコト。
だが、その精巧な嘘を見抜く者がお台場にいた。
八神太一の妹、ヒカリである。
自身の『光』の特性によって、遥か初音島から発せられる絶望的な深淵の気配を感知したヒカリは、光子郎の協力を得てミコトとのチャット接触を試みる。
画面越しに核心を突くヒカリの問いかけ‥‥それに耐えきれず、ミコトは検査を口実に逃げるように通信を絶ってしまう。
しかし、その痛々しい拒絶と逃亡こそが、ヒカリの胸の内にあった「違和感」を、覆しようのない「確信」へと変える決定打となってしまった。
お台場で孤独な警戒と確信を抱く光の少女と、初音島で退路なき戦いの渦中へと身を投じるテイマーの少女。
誰にも言えない秘密と強がりを抱えた二人の少女の運命が交錯した時、暗黒の道化師が仕掛ける極上の遊戯が、次なる幕を開けようとしていた――。
――初音島、水越総合病院。
パタン、とノートパソコンを閉じた直後、病室のドアが完全に開き、医療器具を乗せたワゴンを押した看護師が入ってきた。
「ミコトちゃん、お待たせ。それじゃあ午後の検温と、少し胸の音を聞かせてちょうだいね」
「……はい」
ミコトは努めて平静な声を取り繕い、差し出された体温計を受け取って脇に挟んだ。
だが、シーツの下に隠した小さな両手は、まだ小刻みに震えていた。
(よかった……本当に検査の時間で‥‥これがなかったら、私、どうやってあの言葉から逃げればよかったの……?)
物理的な『検査』という事実が、奇しくもミコトの抱える最大の『嘘』を守る盾となってくれたのだ。
看護師が血圧を測り、聴診器を当てている間も、ミコトの脳内ではヒカリの言葉が容赦なくフラッシュバックしていた。
『漆黒の翼みたいなおぞましい気配』
『誰にも言えない、凄く怖くて大きなものを、たった一人で抱え込んでない……?』
(なんで……なんで分かっちゃったの……? 完璧に隠していたはずなのに‥‥お兄ちゃんにだって、気付かれなかったのに……!)
やがて、「はい、今日も異常なしね。ゆっくり休んでね」と優しく微笑んで看護師が病室を去り、重いドアが完全に閉まった瞬間――。
ミコトは堪えきれず、ベッドの上に崩れ落ちるようにうずくまった。
「はぁっ……はぁっ……っ」
布団の奥に身を潜めてやり過ごしていたチビモン――ジークが、慌てて顔を出す。
「ミコト!? どうしたんだ?急に息が荒くなって……さっきのチャットのせいか?」
心配そうに見上げてくる相棒の赤い瞳を見つめた瞬間、ミコトの瞳から張り詰めていた涙がポロポロと溢れ落ちた。
「ジーク……どうしよう。気付かれちゃったかもしれない……」
「気付かれた? 誰にだ?」
「お台場にいる、お兄ちゃんの友人……八神太一さんの妹さんに‥‥私の中の魔王のことも、この島に得体の知れない闇が潜んでいることも、全部……見透かされているみたいだった」
ジークはハッと息を呑み、閉じられたノートパソコンへと視線を向けた。
「チャットの相手が、その妹だったのか?……だが、なぜだ? 遠く離れた東京の人間が、初音島の異常に気付くなんてあり得ない」
「ヒカリちゃんには、時々遠くのことが分かっちゃう力があるって言っていた……もし、このまま彼女がお兄ちゃんたちに本当のことを話したら、またヤマトお兄ちゃんが戦いに巻き込まれちゃう! あのカオスピエモンみたいな、おぞましいバケモノたちの殺し合いに……っ!」
ミコトは両手で顔を覆い、声を殺して咽び泣いた。
ヤマトの温かい笑顔、デジタルワールドでの凄惨な記憶、そして自分の中に眠る『未知の魔王』の冷たい感触が入り混じり、心を激しくかき乱す。
ジークは小さな体でミコトの膝にすり寄り、その震える手を力強く押し返した。
「ミコト、落ち着け。相手が感づいたとしても、まだ確証はないはずだ。お前が検査を理由にうまく切り抜けたのなら、これ以上尻尾を出さなければいい」
「……うん」
「それに、俺たちがやるべき事は変わらない。お前の中の魔王が目覚める前に、そしてお台場の奴らに飛び火する前に、俺とお前でこの島の闇を全部ぶっ潰す。それだけだ」
「……そうだよね。私が、ここで食い止めるんだもん」
誰にも頼らない。
誰にも真実は明かさない。
愛する日常を守るためなら、自分はどこまでも孤独な嘘つきで構わないのだと‥‥
――同時刻、東京・お台場。
泉家のマンションを出たヒカリは、茜色に染まる夕暮れの海浜公園を一人歩いていた。
いつもなら美しいと感じるはずの東京湾の夕景も、今のヒカリの目には、どこか不吉な血の色のように映ってしまう。
(ミコトちゃん……)
ヒカリは立ち止まり、潮風に吹かれながら、胸元で静かに揺れる自身のデジヴァイスをギュッと握りしめた。
『病院の検査の時間になっちゃったから』
頭に響くのは、画面に最後に残されたあの言葉。
ミコトが水越総合病院に入院している以上、あの時間に検温や診察が入ったこと自体は決して嘘ではないのかもしれない。
本当にそのタイミングで看護師が来たのだと、ヒカリも頭では理解していた。
だが、問題なのはその「切り方」だった。
自分が核心を突いた直後に訪れた、渡りに船とばかりの強制終了。
事実としての検査を口実にした、紛れもない「逃亡」の気配。
「……ミコトちゃんは、一人で戦うつもりなんだわ。誰にも言わずに、自分たちだけで何かを止めようとしている」
ポツリとこぼした声は、波の音に掻き消されていく。
もし今、自分が「初音島が危ない」と太一やヤマトに告げたらどうなるだろうか?
彼らは間違いなく、傷を癒やす間もなく再び立ち上がるだろう。
だが、デジタルワールドの激戦を終え、ようやく学校生活や部活といった「普通の幸せ」を取り戻しつつある彼らの笑顔を、ヒカリは誰よりも近くで見てきた。
(お兄ちゃんたちから、やっと戻ってきた平穏を奪いたくない……でも、このままじゃ初音島で、ミコトちゃんが闇に飲み込まれてしまう)
ヒカリはギュッと唇を噛み締めた。
遠く離れた海の上に浮かぶ、一年中桜が咲き誇るという島。
そこには確実に、かつてのヴァンデモンにも匹敵する、あるいはそれ以上の深淵が口を開けてミコトを待ち構えている。
「私に、何ができるの……?」
パートナーデジモンがいない自分には、今すぐ島へ飛んでミコトを助ける力はない。
大人たちに言っても信じてもらえるはずもない。
お台場の海風に吹かれながら、ヒカリは誰にも言えない重い秘密を、その小さな胸の内にそっと封じ込めた。
決して交わるはずのなかった二人の少女。
奇しくも「大切な人を守るための嘘」を抱え込んだ彼女たちの孤独な決意を嘲笑うかのように、異空間の玉座では混沌の道化師が次なる残酷な余興の準備を進めていた。
「さて、最初は成長期だったから順番では、次は成熟期か‥‥だが、ただ成熟期のモドキを送り込むのでは芸がない。次は少し、"時間制限"のあるゲームといこうじゃないか小さな魔王よ‥‥」
カオスピエモンは一枚のカードを異空間の彼方へと投げ飛ばした。
「フフフフ‥‥さあ、次はどんなショーを楽しませてくれるのかな?ハハハハハ‥‥」
異空間にカオスピエモンの狂気じみた笑い声が響いた。
ヒカリとの、あの息が詰まるようなチャットから数日が過ぎた。
初音島は相変わらず、一年中咲き誇る桜が風に舞い、絵画のように穏やかな日常を保っていた。
しかし、ミコトの心の中には、冷たい鉛のような重圧が常に居座り続けていた。
(ヒカリちゃんからの連絡は……あれから一度もない。COLEOさんからも‥‥)
夕暮れ時、人気のない港の倉庫街を歩きながら、ミコトは左腕のデジヴァイス01を無意識に撫でた。
ヒカリとのチャットでは彼女がまるで自分の事を見透かしているかのような内容を言って来た事から、このままでは自分が抱えている秘密がバレてしまうのではないかと思い、病院の検査を言い訳にして、逃げるように通信を絶った。
東京に居るヒカリが何故、自分の抱えている秘密を知っているのかは不明だが、自分が何かしらの事情を抱えている事に確信を抱いているのは間違いないだろう。
それでも、東京にいる彼女たちが直接この島へ干渉してこないのは、大人たちの目があるからか、あるいはヒカリ自身が一人で事態を見極めようとしているからかもしれない。
「ミコト、また難しい顔をしているよ。やっぱり、例のヒカリって奴の事が気になるのか?」
リュックの中から顔を出したチビモン――ジークが、心配そうにミコトを見上げてくる。
「ううん、大丈夫……ただ、ヒカリちゃんに気付かれちゃった以上、時間がないなって思って。お兄ちゃんたちが異変に気付いて駆けつけてくる前に、あの不気味な道化師をなんとかしなきゃ」
「ああ、そうだな。僕とミコトで、きっちりケリをつけてやるさ」
ジークの力強い言葉に、ミコトが微かに微笑みを浮かべるが内心は気が気でない。
(あのヒカリって子がお兄ちゃんに話さなければ、それが一番いいのだけれど‥‥)
ミコトはヒカリの家の電話番号なんて知らない。
COLEOならば当然知っているのだろうけど、変に勘繰られたくはないし、電話番号を聞いて電話をすれば、確実に自分が抱いている秘密について言及して来る違いない。
情報が無いなかで、現状打開をしなければならないので嫌でもミコトに焦りが生じる。
(焦るな‥‥冷静になれ‥‥)
ミコトはタイチからの教えに倣い冷静に事を進めようとする。
その時だった‥‥
ビリッ!!
突如として、夕焼けに染まる空気が不自然に歪み、紫色の雷光が倉庫街のコンクリートを激しく叩き割った。
周囲の温度が一気に下がり、この世のものとは思えない禍々しい暗黒の気配が、海風を切り裂いて膨れ上がる。
「来たかっ……!」
ジークが鋭く叫び、ミコトの前に飛び出す。
歪んだ空間からズシンッ、ズシンッと重苦しい足音を響かせて現れたのは、巨大な白い鳥型のデジモンだった。
鋭いトサカに、狂気に濁った赤い瞳。下半身は異様に発達し、その巨体から放たれるプレッシャーは、先日のゴブリモン(フーガモン)の比ではない。
「あれは、コカトリモン……! 成熟期のデジモンだよ!」
手帳の知識とデジヴァイスの反応から、ミコトは即座に敵の正体を看破した。
「チビモン進化──ブイモン!!」
眩い進化の光と共にブイモンの姿となったジークは、コンクリートを蹴り砕いてコカトリモンの懐へと突進した。
「先手必勝だ! 『ブンブンパンチ』!!」
小柄な身体から繰り出される連続の乱れ打ちが、コカトリモンの分厚い胸元へ叩き込まれる。
しかし、コカトリモンは痛がる素振りすら見せず、不気味な濁った瞳でブイモンをギロリと見下ろした。
「ギャァァァァッ!!」
「なっ、硬えっ!?」
コカトリモンが巨大な翼を広げて雄叫びを上げると、その巨体に似合わぬ凄まじいスピードでブイモンを強引に跳ね飛ばした。
地面を転がりながらも体勢を立て直すブイモンに向け、コカトリモンが大きく口を開く。
その奥底で、不吉な灰色のエネルギーがバチバチと収束し始めた。
「ジーク、避けて! あれに当たっちゃダメ!!」
ミコトの悲痛な叫び声が響く。
「『ペトラファイアー』!!」
放たれたのは、触れたものを全て石へと変える呪われた石化の光線。
「くそっ!」
ブイモンは間一髪で横へ跳躍したが、完全に避けきることはできず、光線の端が右足首を掠めてしまった。
「ぐっ……あ……!?」
着地した瞬間、ブイモンが苦悶の表情を浮かべて片膝をつく。
見ると、光線が掠めた右足首から下が一瞬にして灰色の石へと変貌し、さらにその石化がジワジワと膝の上に向かって浸食を始めた。
「ジーク!!」
「来るな、ミコト! 足が……言うことを聞か……っ!」
石化の呪いにより機動力を完全に奪われたブイモンに向け、コカトリモンは残酷な赤い瞳を細め、その巨大な足でゆっくりと踏み潰そうと歩み寄る。
(どうしよう……このままじゃジークが潰されちゃう! 私の中の『あの力』を……引き出すしかないの……!?)
ミコトの脳裏に、氷のように冷たく妖艶な『未知の魔王』のシルエットが過る。
自分が暴走すれば、ジークを助けられるかもしれない。
けれど、もしそれに呑み込まれてしまえば、今度こそ取り返しのつかない悲劇が起きる。
ヒカリのあの悲痛な問いかけが、ヤマトの笑顔が、ミコトの心を激しく引き裂く。
「……嫌だ」
ミコトは震える両足で地面を踏み締め、ブイモンを庇うように両手を広げて前に立ち塞がった。
「私の大事なパートナーを……これ以上、傷つけさせないっ!!」
少女の魂からの叫びに呼応するように、衣服の下に隠された『生命の紋章』が、これまでにないほど強く、温かいさくら色の光を放って爆発した。
「ミコト……お前……」
溢れ出した紋章の光の波動がブイモンの身体を包み込む。
その瞬間、ブイモンの右足を蝕んでいた灰色の石化現象が、ピタリとその進行を止めた。
「進行が……止まった? それに、力がみなぎってくる……っ!」
「ジーク、今だ!私たちの力を見せてやって!!」
「おうっ!!」
石化して動かない右足を引きずりながらも、ブイモンは左足一本に紋章から受け取った全エネルギーを集中させ、地を爆発させるように跳躍した。
巨体を見下ろすはるか上空へと舞い上がったブイモンは、身体を錐揉み回転させながら、コカトリモンの頭上へと急降下する。
「ミコトに手出しはさせねえ! この島は、俺たちが守る!!」
「ブイモンヘッドォォォッ!!」
ズドォォォォォォンッ!!!
紋章の力で限界以上に強化された渾身の頭突きが、コカトリモンの脳天へ隕石のように直撃した。
「ギャ、ァ……ァァァ……ッ」
断末魔の悲鳴を上げ、巨大な鳥の身体はボロボロと崩れ落ちるように黒い霧となって四散していく。
後に残されたのは、やはり前回と同じ、一枚の『コカトリモン』のカードだけだった。
「……はぁっ、はぁっ……」
片足で着地したブイモンは、そのままドサリと地面に倒れ込んだ。
「ジーク!」
ミコトが慌てて駆け寄る。右足の石化はそれ以上進んでいないものの、元の皮膚には戻っておらず、依然として石のように硬く冷たいままだった。
「ごめんね、ジーク……私のせいで」
「気にするな……足の先くらい、なんてことない。ちゃんと動かせるし、痛みもないさ。ミコトの光が、守ってくれたんだ」
強がるように笑うジークの頭を抱き締めながら、ミコトは落ちているコカトリモンのカードを強く睨みつけた。
時間経過でじわじわと自由を奪い、絶望させる。
この悪趣味な人選は、間違いなくあの道化師の悪意そのものだった。
(デジヴァイス越しではダメだ‥‥)
ミコトはジークの足に手を添える。
「ミコト‥まさか‥‥」
ジークはミコトが何をしようとしているのか見当がついた。
そして予想通り、ミコトはヒーリング能力を使いジークの脚を治した。
成長期だった事から意識を失ったり、鼻血を出したりはしなかったが、それでも体中に倦怠感を広がった。
「ごめんね、ちょっと休ませて‥‥」
ミコトはその場に座り込み、体力の回復をする、
ジークはそんなミコトの傍に寄り添った。
現実世界ともデジタルワールドとも異なる、光と闇が明滅する異次元空間では‥‥
「おやおや……? ククク、アハハハハハ!」
玉座に深く腰掛けたカオスピエモンは、虚空のスクリーンに映し出されたミコトのヒーリング能力を目の当たりにし、狂おしいほどの歓喜に肩を震わせた。
道化師の仮面の奥で、紅蓮の双眸が爛々と輝き、不気味な光を放つ。
「素晴らしい! 実に素晴らしいぞ、小さな魔王よ! ただ壊すだけの闇ではなく、これほど純度の高い『再生』の光まで持ち合わせているとはね!」
彼が送り込んだコカトリモンの石化の呪いは、並のデジモンでは解除することすら叶わない絶望の足枷のはずだった。
それを、まだ幼い人間の少女が、完全に打ち砕いてみせたのだ。
手駒を破られたというのに、カオスピエモンの胸にあるのは、極上の玩具を手に入れた子供のような歪んだ悦楽だけだった。
「いいね、いいね、最高だよ……光が強ければ強いほど、それが絶望に染まり、漆黒の闇へと反転した瞬間の美しさは格別なものになる。ただ痛めつけるだけのゲームなんて、退屈で仕方がないからねぇ~」
カオスピエモンは立ち上がり、長い指先で自身の顔をなぞるようにしながら、妖しく、甘く囁いた。
「君のその美しい癒やしの力が、次なる絶望の前にどこまで耐えられるか……さあ、次はどんな『悪夢』をプレゼントしてあげようか? ククク、フフフハハハハハ……!」
混沌の道化師の不気味な高笑いが、誰もいない深淵の空間に、いつまでも、いつまでも冷たく響き渡っていた。
――初音島、水越総合病院。
コカトリモンとの死闘を終え、無事に自室のベッドへと戻ってきたミコトは、小さく息を吐きながら病院のロビーにある公衆電話の受話器を握りしめていた。
ジークの石化はヒーリング能力によって完全に元通りになり、今は再びチビモンの姿に戻って、疲れ果て、病室のベッドの枕元で丸くなって眠っている。
肉体的な疲労もさることながら、ミコトの心を今一番締め付けているのは、別の懸念だった。
(ヒカリちゃん……ヤマトお兄ちゃんたちに、私のことを話しちゃってないかな……)
『漆黒の翼みたいなおぞましい気配』
『たった一人で抱え込んでない……?』
チャットでのあの鋭い追及。そして、自分が逃げるように通信を切ってしまった不自然な態度。
もし、ヒカリが不審に思い、ヤマトに「初音島のミコトちゃんが危ないかもしれない」と伝えていれば、過保護なヤマトのことだ、すぐにでも血相を変えて飛んでくるに違いない。
カオスピエモンのような最悪の敵が潜むこの島へ、ヤマトを再び巻き込むわけには絶対にいかないのだ。
ミコトは震える指で、お台場の石田家の固定電話の電話番号をプッシュする。
呼び出し音が鳴る数秒間が、永遠のように長く感じられる。
『はい、石田です』
「あっ、ヤマトお兄ちゃん?」
『ミコトか!?どうした?』
電話口から聞こえてきたのは、底抜けに明るく、そして微かに弾んだヤマトの優しい声だった。
「あ、あの‥ヤマトお兄ちゃん」
『体調でも崩したか? それとも、病院のご飯に飽きたとか? もし何か欲しいものがあるなら、すぐに送るからな。いや、なんなら今週末に俺が直接、初音島に――』
「ち、違うよ!!大丈夫、私は元気だから!!それに、欲しいモノとかも今は特にないから大丈夫だよ!!」
慌ててヤマトの言葉を遮りながら、ミコトは胸を撫で下ろした。
ヤマトの声には、焦りも、初音島を警戒するような切羽詰まった響きも一切ない。
もし、ヒカリから何かを聞かされていれば、こんなに呑気なトーンで電話に出るはずがない。
(ヒカリちゃん……ヤマトお兄ちゃんには、何も言ってないんだ……)
安堵と共に、ヒカリに対する不思議な感情が芽生える。
彼女もまた、自分と同じように「誰かを守るために秘密を抱え込む」ことを選んだのだろうか?
「あ、あのね、ヤマトお兄ちゃん。ちょっと聞きたいことがあって……」
『ん? 聞きたいこと?なんだ?遠慮せずに言ってみろよ』
「太一さん……ヤマトお兄ちゃんのお友達の太一さんの妹さんいるでしょう?あの子って、どんな女の子なの?」
不自然にならないよう、できるだけ軽い調子で尋ねてみる。
『ヒカリちゃんのことか?あれ?お前、ヒカリちゃんと面識なんてあったのか?』
「あっ、うん‥‥実はこの前、チャットで少し‥‥だから、どんな子なのかなって思って……」
ミコトはヤマトに半ばHATUNEの正体が自分である事を暴露していたがミコトは、ヤマト自身は兄がチャットなんてしている筈がないと思い、ヒカリとチャットした事を尋ねた。
電話の向こうで、ヤマトが少し考えるような間が空いた。
『そうだな……すごく優しくて、いつも周りのことを第一に考えていて、自分が辛い時でも他人のために無理して笑うようなところがある。それに……なんていうか、普通の人間には見えないものを感じ取る、不思議な勘みたいなものを持っている子なんだ』
デジタルワールドでヒカリはホメオスタシスに身体を貸して、過去のデジタルワールドの出来事を他の選ばれし子供たちに見せた事があった。
(やっぱり……)
ヤマトの言葉に、ミコトは公衆電話の受話器をギュッと握りしめた。
あのチャットでの鋭い直感は、彼女が生まれ持った特別な力なのだと確信する。
『太一の奴、あいつの事になると周りが見えなくなるくらい過保護でさ。まぁ、あんなに健気で可愛い妹がいれば、シスコンになっちまう太一の気持ちも分からなくはないけどな‥‥』
ヤマトはそこで言葉を区切ると、ふっと声のトーンを甘く、そして謎の自信に満ちたものに変えた。
『――でもな、ミコト』
「ん?」
『ヒカリちゃんも確かに可愛いけど、世界で一番可愛いのは、絶対に俺の妹のミコトだ。これは誰がなんと言おうと譲れない事実だからな』
「……は?」
突然のヤマトの宣言に、ミコトは一瞬思考が停止した。
『そもそも、お前は昔から天使みたいに可愛かったけど、最近はもっと綺麗になったっていうか……いや、離れて暮らしているからこそ分かるんだ。太一はヒカリちゃんのことを自慢してくるけど、俺から言わせればミコトの笑顔の破壊力はあんなもんじゃない。もしお前に変な虫がつくようなことがあったら、俺がそいつを地の果てまで――』
「ちょ、ちょっと待って、ヤマトお兄ちゃん!!一体、何を言っているの……っ!?」
顔から火が出そうなほどの気恥ずかしさに、ミコトの顔がゆでダコのように真っ赤に染まる。
今まで離れて暮らしていた時間を取り戻そうとするかのように、最近のヤマトの「兄としての愛情」が少し重いことは感じていたが、まさかここまで重度のシスコンを発症し始めているとは思わなかった。
『本当のことだろ? お前は俺の自慢の妹だ。ミコトが俺を頼りにして電話してきてくれたのが、すっげぇ嬉しいんだよ。だから、何かあったら一番に俺に言えよ? お前のことは、俺が絶対に守るからな!』
「も、もう! お兄ちゃんのバカ! そういう恥ずかしいからそういうことサラッと言わないでよ!」
ガチャっ!!
(この場にジークが居なくて良かった‥‥)
(居たら絶対に意地悪そうに笑っていただろうし‥‥)
ミコトは逃げるように受話器を戻し、両手で熱い頬を覆いながら、その場にへたり込む。
「ううぅ~……ヤマトお兄ちゃん、あんなキャラだったっけ……恥ずかしくて死にそう……」
だが、その恥ずかしさと同時に、心の奥底にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じていた。
『お前は俺の自慢の妹だ』
『俺が絶対に守る』。
その不器用で真っ直ぐな愛情が、冷たい絶望に支配されそうになっていたミコトの心を確かな光で照らしてくれたのだ。
(ヤマトお兄ちゃん……ありがとう)
火照った頬を両手で包みながら、ミコトは窓の外に広がる初音島の夜空を見上げた。
この温かくて少し恥ずかしい、大好きな兄との日常。
これこそが、自分がたった一人で闇を背負ってでも、絶対に守り抜かなければならないものなのだと、改めて心に誓うのだった。
翌日、東京・お台場 お台場小学校・校庭
昼休みのお台場小学校。サッカーをして遊ぶ同級生たちの喧騒から少し離れた校庭の隅、大きな木陰に座り込んでいたヤマトは、隣でスポーツドリンクを飲んでいる太一にふと口を開いた。
「太一、聞いてくれよ。昨日の夜、ミコトから急に電話がかかってきたんだよ」
「へぇ~あの子、元気にしていたか?」
太一がドリンクのボトルを下ろし、興味深そうに顔を向ける。
「ああ、声は元気そうだった。……たださ、あいつ、お前の妹のヒカリちゃんについて色々と聞いてきたんだよな。どんな女の子なのか、とかさ。なんかやけにヒカリちゃんに興味があるみたいでさ」
「ヒカリに?」
太一は少し目を丸くした後、「ああっ」と何か合点がいったようにポンと手を叩いた。
「なるほどな。そういえば、ヒカリとお前の妹って同い年だもんな!」
「あ、ああ。まあそうだけど‥‥」
「光子郎の奴も『二人がチャットで話していたみたいです』って言っていたな。お互い、同い年の女の子同士で色々話してみたいお年頃なんだろう。ミコトちゃんはずっと初音島の病院にいるし、同じ女の子の友達が欲しいんじゃないか?」
太一のあっけらかんとした言葉に、ヤマトも「そういうもんか」と小さく頷いた。
「まぁ、確かに俺やタケルみたいな男兄弟には分からない、女の子同士の話題とかもあるんだろうしな。ヒカリちゃんみたいな優しくてしっかりした子がミコトと仲良くしてくれるなら、俺としても安心だよ」
「だろ? うちのヒカリは本当にいい子だからな! きっとミコトちゃんともすぐに親友になれるって!」
妹を自慢げに語る太一に、ヤマトは昨晩の電話を思い出して少しだけムッとして言い返す。
「おい、ヒカリちゃんがいい子なのは認めるけどな、ミコトだって負けてないぞ。あいつのあの健気な優しさと可愛さは、世界一――」
「はいはい、出たよヤマトの重度シスコン発言。お前のミコトちゃんが可愛いのはよーく分かっているから、少し落ち着けっての」
「う、うるせぇ! お前だって相当なシスコンのくせに!」
どこまでも平和で、他愛のない小学生の男子同士の言い合い。
澄み渡る初夏の青空の下で笑い合う二人の兄たちは、妹たちが抱えている重く暗い秘密に、微塵も気づいていなかった。
同い年だから興味を持った。友達になりたいからチャットをした。
太一や光子郎が下したその健全で当たり前すぎる推測は、ミコトとヒカリが必死に隠そうとしている「残酷な真実」を覆い隠すための、これ以上ないカモフラージュになってしまっていた。
『お兄ちゃんたちから、やっと戻ってきた平穏を奪いたくない』
奇しくも、お互いを守りたいと願う兄妹たちの優しさがすれ違い、二人の少女を初音島の深い闇と孤独の中へ、さらに追いやる結果となっていた。