デジタルワールドでの過酷な激闘を終え、ようやく穏やかな日常を取り戻しつつあった「選ばれし子供たち」。
しかし、一年中桜が咲き誇る神秘の島・初音島では、新たなる絶望のゲームが幕を開けていた。
石田ヤマトの妹・ミコトは、自身の中に眠る未知なる『魔王の因子』を狙う混沌の道化師・カオスピエモンの脅威から愛する兄を守るため、相棒のジーク(ブイモン)と共にたった一人で戦い抜く決意を固めていた。
だが、その精巧な「平穏の嘘」は、お台場にいる光の少女・八神ヒカリの類稀なる直感によって見透かされようとしていた。
ヒカリからの核心を突くチャットから逃げるように通信を絶ったミコトにカオスピエモンの次なる刺客・成熟期コカトリモンが容赦なく襲い掛かる。
相手を石化させるコカトリモンの技によってジークが絶体絶命の危機に陥る中、ミコトのヒーリング能力によって辛くもコカトリモンを撃退する。
しかし、その美しく純度の高い「再生の光」すらも、異次元から監視するカオスピエモンにとっては、次なる絶望を引き立たせるための極上のスパイスに過ぎなかった。
一方、お台場では、ミコトからの電話を受けたヤマトと太一が、妹たちの不穏な接触を「同い年の女の子同士の純粋な友情」と無邪気に勘違いし、微笑ましいシスコンぶりを発揮して笑い合っていた。
お互いを守りたいと願う兄と妹の優しさが残酷なまですれ違う中、初音島の深い闇は、孤独な決意を抱く少女をさらに深い渦へと引きずり込もうとしていた――。
カオスピエモンの第二の刺客、コカトリモンとの死闘から数日が過ぎた。
水越総合病院の静かな病室で、ミコトはベッドの上に広げたノートを見つめながら、これまでの戦いを冷静に分析していた。
(ゴブリモン、フーガモン……そしてコカトリモン)
これまでは、成長期であるブイモンの姿のままでなんとか敵を退けてきた。
しかし、先日のコカトリモンとの戦闘では、ジークがコカリトモンの必殺技を受けて石化してしまい、あわや取り返しのつかない事態になる寸前まで追い詰められた。
もし、自分にヒーリングの能力がなければジークは今頃、ただの石の彫像になっていたかもしれない。
成長期のままで成熟期以上の敵と戦い続けるのは、ジークが傷つくリスクが大きすぎる。
そこでミコトの脳裏に、ある一つの推測が浮かび上がった。
敵のデジモンモドキが出現する際、周囲の空間が不自然に歪み、紫色の雷光とともに禍々しい暗闇が辺りを覆い尽くした。
(あの現象……どこかで見たことがある‥‥)
(あれは先月、お台場で、ヴァンデモンが張っていた『霧の結界』に似ている……!)
お台場を外界から完全に隔離したあの恐ろしい霧‥‥
もし、カオスピエモンの手駒が現れる際に形成されるあの空間が「霧の結界」と同じ性質のものだとしたら?
「……結界の中なら、外の普通の人たちからは私たちの戦いが見えない……!」
ミコトは弾かれたように顔を上げた。
もし人目につかないのであれば、「平穏な日常」を壊すことなく、ジークを進化させることができる。
大きな体を持つ成熟期や完全体になれば、成長期のまま無茶な戦いをするよりも、ジークが傷つくリスクを大幅に減らすことができるはずだ。
「なるほど。あの道化師が用意した闘技場(結界)を、逆に利用してやるってわけだな!」
枕元でミコトのノートを覗き込んでいたジークが、ニヤリと笑う。
「うん。でも、油断は禁物だよ、ジーク」
ミコトはノートの余白にペンを走らせながら、真剣な眼差しで相棒を見つめた。
「いくら人目につかないからって、いきなり究極体になるのは絶対にダメ。究極体への進化はこの現実世界ではエネルギー消費が多すぎる。ジークの体力も激しく消費しちゃうし、あの道化師が一体ずつ律儀に敵を送ってくるとは限らない……もし連戦になった時にエネルギー切れを起こしたら、それこそ一貫の終わりだよ」
「確かに……あいつの悪趣味な性格なら、僕たちが疲れ果てたところに本命をぶつけてきそうだ」
「だから、進化するのは『成熟期』から、最高でも『完全体』まで。究極体になるのは、本当に最後の切り札の時だけ‥‥これが私たちの新しいルールだよ」
「分かった」
ミコトの課した制約に、ジークは力強く頷いた。
それからというもの、ミコトは日々の行動を大きく変えた。
ジークの基礎体力を上げるためのトレーニングと称し、そして何より、あの不気味な道化師やその手駒が潜む気配をいち早く察知するため、頻繁に病院を出て初音島のあちこちを歩き回るようになったのだ。
リュックの中にジークを隠し、海風に吹かれながら港や裏山、商店街の路地裏まで、鋭い視線でパトロールを繰り返す日々。
そんなミコトの後ろ姿を、ナースステーションの窓から見守る者たちがいた。
担当の看護師たちである。
「ねえ、最近のミコトちゃん、随分と変わったわね」
一人の看護師が、カルテを整理しながら窓の外の小さな背中を見つめて微笑んだ。
「そうね。ここに来たばかりの頃は、一日中ずっと病室に籠ってばかりで心配だったけど……最近はよくお外に出るようになったわね」
「うんうん。それに、どことなく顔つきもしっかりしてきたっていうか……なんだか前向きになっているみたいで、こっちまで嬉しくなっちゃうわ」
「それに食事も完食しているみたいだし、良い傾向よね」
「きっと、一年中桜が咲いているこの初音島の穏やかな空気が、あの子の心を少しずつ開いてくれたのね」
看護師たちは、ほっこりとした温かい眼差しでミコトを見守っていた。
彼女たちが知る由もない。
その小さな少女が、今まさに恐ろしい魔王の影をその身に宿し、世界を脅かす暗黒の道化師とたった一人で戦うために、過酷な戦場へと歩みを進めているのだということを‥‥そして食事が完食しているのはもう一人の同居人も食べているからだ。
周囲の温かな誤解という名の「平和な日常」。
それこそが、ミコトが自らの身を削ってでも守り抜こうと決めた、かけがえのない宝物だった。
現実世界とは異なる、光と闇が交錯する異次元空間。
カオスピエモンは、ミコトとジークが「霧の結界」の性質に気付き、それを逆手に取ろうとしている事など知る由もなかった。
「さあて、ここらでレベルアップといきますか?」
玉座から立ち上がったカオスピエモンは、口元を三日月に歪め、今度は二枚のカードを同時に異次元空間の彼方へと投げ飛ばした。
初音島、市街地。
複数の刺客が迫っている事を知る由もないミコトは、今日も警戒を怠らず島内を散策していた。活気ある商店街を抜け、駅前の大通りに差し掛かったその時、
「ミコト、空を見て!!」
リュックの中から顔を覗かせたジークの鋭い声に、ミコトはハッと上を見上げた。
抜けるような青空の一部が、墨を落としたように不自然な灰色の『モヤ』に覆われ始めていた。
(あのモヤ……ただの雲じゃない。これまでの敵が現れる時に発生していた、あの『霧の結界』だわ!)
ミコトもジークも、瞬時にその正体を察知する。
しかし、周囲を見渡せば、買い物客や学校帰りの学生など、多くの一般人が行き交っている。
(いくら結界が張られるとはいえ、ここで戦えば一般の人たちを巻き込んでしまうかもしれない……っ!)
「ジーク、場所を変えるよ!」
ミコトはリュックの紐を固く握りしめ、人目につかない場所を目指して駆け出した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
病み上がりのなけなしの体力を振り絞り、息を切らしながら走るミコト。
しかし、上空の禍々しいモヤは、まるで意思を持っているかのように明確にミコトを追いかけてくる。
その滑稽な逃走劇を、異次元空間の玉座から見下ろしていたカオスピエモンは、腹を抱えて嗤った。
「ハハハハハ、どこに逃げると言うのかね? 小さな魔王よ。絶望からは、決して逃れられはしないのだよ」
やがて、ミコトは市街地から遠く離れた郊外の廃工場へとたどり着いた。
錆びついた鉄扉を抜け、人気のない広大な敷地に足を踏み入れると同時に、頭上を覆っていたモヤが急激に降下し、周囲一帯を不気味な暗黒の空間へと作り変えた。結界の完成だ。
『グォォォォォォッ!!』
紫色の雷光と共に、廃工場の中央に二つの巨大な影がリアライズする。
一体は、白い体毛に覆われた巨大なゴリラ型のデジモン。その右腕は、無骨で巨大な砲口へと改造されている。
もう一体は、二足歩行の筋肉隆々とした牛人のようなデジモン。こちらは左腕が巨大なランチャー状になっていた。
「ゴリモンとミノタルモン……どっちも成熟期!」
デジヴァイス01のモニターを確認し、ミコトは相手の名前とクラスをデジヴァイス01で調べる。
デジモンモドキとは言え、デジモンのデータを基にしているのかデジヴァイス01には相手のデータが表示される。
「今回は成熟期が二体同時か‥‥ミコト、行くぞ!」
「うん! ジーク、進化して!あいつらはあの道化師が作ったデジモンモドキ……本物のデジモンじゃない‥‥手加減はいらないよ!」
ミコトがデジヴァイス01をジークに向けると、眩い進化の光が廃工場を照らし出した。
「ブイモン進化ァァッ! デビドラモン!!」
光の中から現れたのは、真紅の複眼と漆黒の翼を持つ『複眼の悪魔』、デビドラモンへと成熟期進化したジークだった。
今後の連戦を見据え、そして何より確実に二体の成熟期を仕留めるため、ジークは咆哮を上げて空へと舞い上がる。
「グロォォォッ!」
ゴリモンとミノタルモンが、空中のデビドラモンへ向けて一斉に砲口を向ける。
ミコトは左腕のデジヴァイス01を通じて、冷静にジークにコマンドを送る。
その戦況を分析する思考の片隅で、ミコトはデジヴァイス01の特性からある可能性に気がついた。
だが――。
(これを試すのは後‥‥)
(今は、目の前のバトルに集中しなきゃ!)
ミコトは首を横に振り、思考をクリアにした。
「ジーク、右に旋回して!」
「ガァッ!」
ミコトの巧みな誘導により、デビドラモンは空中で鋭い軌道を描く。
直後、ゴリモンが右腕の砲口から必殺技『エネルギーカノン』を轟音と共に放った。
しかし、デビドラモンが間一髪でそれを躱したことで、巨大な光弾は空振りに終わる――否。
デビドラモンの直線上、その後方に陣取っていたミノタルモンへと、その光弾は一直線に向かっていったのだ。
「モォォォッ!?」
回避すら間に合わず、ミノタルモンは味方であるゴリモンのエネルギーカノンをモロに被弾し、大爆発と共に黒いデータの塵となって消滅し地面にはミノタルモンが描かれたカードが落ちていた。
「残るはゴリモンだけ! ジーク、一気に決めるよ!」
味方を誤射したことなど気にも留めず、ゴリモンは再び右腕の砲口に膨大なエネルギーをチャージし、デビドラモンを撃ち落とそうと狙いを定めた。
「そこだ! 『ファイアーバスター』!!」
ミコトの指示と同時に、急降下したデビドラモンの口から灼熱の火炎弾が放たれた。
狙いはゴリモンの巨体ではない。
凄まじいエネルギーがチャージされつつある、ゴリモンの『右腕の砲口』のど真ん中だ。
「ウゴォォォッ!?」
ゴリモンが放とうとしていたエネルギーカノンの力と、ジークのファイアーバスターの火炎が砲口の内部で激突、引火する。
直後、ゴリモンの右腕が耐えきれずに暴発した。
鼓膜を破るほどの巨大な爆発音が廃工場に響き渡り、断末魔の叫びと共にゴリモンは跡形もなく消滅し、これまでのデジモンモドキの様に地面にはゴリモンの姿が書かれたカードが落ちていた。
「‥‥」
ミコトは警戒しつつその二枚のカードを回収する。
この場に放置すれば、あの道化師が回収し、また使用されてしまうかもしれないからだ。
現実世界とは異なる、光と闇が明滅する異次元空間。
虚空に浮かぶ巨大なスクリーンには、見事な誘導で同志討ちと誘爆を誘い、二体のデジモンモドキを無傷で葬り去ったミコトとジークの姿が映し出されていた。
「ほぉ~……成熟期クラスの二体同時でも、ああも容易くあしらわれるとはね。あの程度の成熟期では、もはや小さな魔王の準備運動にもならないようだな」
玉座に深く腰掛け、長い足を組んだカオスピエモンは、苛立つどころかひどく感心したような声を漏らした。
そして、彼の紅蓮の双眸は、スクリーンの中で静かに息を整えているミコトの左腕――そこに装着されたデバイスへとゆっくりとズームアップしていく。
「……それにしても、このデジヴァイスは実に興味深い」
カオスピエモンは、道化師の仮面の奥で目を細めた。
かつて、自分たちダークマスターズを滅ぼしたお台場の『選ばれし子供たち』。
彼らが握りしめていた神聖なアイテムであるデジヴァイスは、あの忌々しい老人・ゲンナイが作り出したものだったはずだ。
しかし、ミコトの左腕に装着されているものは明らかに形状が異なる。
デジタル時計のようなフォルムに、詳細なデータを表示するモニター。
声を発せずにパートナーデジモンへ指示を出せる機能。
ゲンナイの作ったものとは設計思想そのものが違う異質なデバイスだ。
「一体どこの誰が、あんなイレギュラーな代物を作り、小さな魔王に渡したというのだ? 少なくとも、あの老いぼれやホメオスタシスの眷属が用意したものではないようだが……」
いつ、誰が、ミコトにあのデジヴァイスを渡したのか?
強大な力を持つカオスピエモンにすらそれは全く分からなかった。
未知なる魔王の因子。
奇跡の治癒力をもたらす少女の未知なる力。
そして、見たこともない謎のデジヴァイス。
イレギュラーな要素ばかり。
しかし――その「分からない」という事実こそが、カオスピエモンの歪んだ心をかつてないほどに昂らせていた。
「フフ……アハハハハハ! 素晴らしい!!実に素晴らしいぞ!! 盤面が完全に読めないからこそ、このゲームは最高に面白くなるというものだ!!」
カオスピエモンは玉座から立ち上がり、両腕を大きく天へ向けて広げると、狂気に満ちた歓喜の声を張り上げた。
「選ばれし子供たちへの復讐など、後回しにして大正解だったよ! もし復活してすぐに復讐をしていればこれほどまでに極上で、予測不能なエンターテインメントには決して出会えなかったのだからね!」
彼にとって、太一やヤマトたちへの過去の因縁など、今となっては些末なことだった。
この初音島という閉ざされた舞台で、未知の力を持った孤独な少女を絶望の底へ叩き落とすことこそが、至高の遊戯となっていたのだ。
「さあ、もっと私を楽しませておくれよ、小さな魔王とその相棒君! 君たちのその未知なる力が、私が用意する極上の絶望の前に、どれほど美しく歪んでいくのか……! アーッハッハッハッハッハッハ!!」
狂喜乱舞する混沌の道化師の高笑いが、底知れぬ異次元の闇の奥深くへと、いつまでもいつまでも反響していった。
その日の夜、静まり返った水越総合病院の病室で、ミコトはベッドの中に潜り込み、布団の隙間から漏れるデジヴァイス01の淡いブルーの光を見つめていた。
画面に表示される複雑なデータ配列を小さな指先で真剣に操作していく。
そんな相棒の様子に気づき、枕元から静かに顔を覗かせたのは、チビモンの姿に戻ったジークだった。
看護師たちが「治療の成果で食事を完食している」と喜んでいた裏で、実はミコトの食事を半分近く平らげていた同居人は、満足そうにお腹をさすりながら声を潜めて尋ねる。
「ミコト、こんな夜遅くに何をしているんだ? 昼間の戦いで疲れているだろう?早く体を休めないと‥‥いつまたあの道化師が刺客を送り込んでくるのか分からないんだから」
ミコトは画面から目を離さないまま、ジークの頭をそっと撫でた。
「あっ、ごめん、ジーク。起こしちゃった?……ねえ、ちょっとこれを見て欲しいの」
手元の画面を示され、ジークは目を細めて光るモニターを覗き込んだ。
そこに映し出されていたのは、かつてデジタルワールドの歴史に刻まれていた、一尊の偉大なデジモンのコアデータだった。
「えっ?これって……もしかして『ゼロ丸』のデータ?」
「うん。昼間のバトルの時にね、デジヴァイス01が敵の成熟期二体のデータを一瞬で解析してコマンドを送るのを見て、ある可能性に気がついたの‥‥このデジヴァイス01には、かつて世界を救った古代種のブイドラモン――ゼロ丸さんの戦闘データが克明に記録されている。そして、ゼロ丸さんはジークの根底にある同じ『ブイ』の種族データでしょう?」
ミコトはデジヴァイス01を胸元に引き寄せ、確信を秘めた瞳でジークを見つめた。
「もし……このゼロ丸さんのデータを、ジークのコアに『アップリング』したらどうなると思う?」
「どう‥って‥‥」
「今のジークは通常の進化だと漆黒のデビドラモンになるけれど、このデータを上書きするようにリンクさせれば、通常の進化系統とは違う、成熟期の『ブイドラモン』、そして完全体の『エアロブイドラモン』へと進化できるようになるんじゃないかって思ったの‥‥ホエーモンさんはこのデジヴァイス01を渡す時に『使い方次第で様々な機能が生まれる』って言っていた‥‥デジヴァイス01特有このスキャン能力とアップリング能力があれば、進化の先を一つだけでなく、複数持てるんじゃないかな?」
ジークは大きな目を丸くした。
突飛な思いつきのようにも聞こえるが、ジークの脳裏に、かつて経験したとある苦い記憶が呼び覚まされる。
「……データの強制的な書き換えと変質、か。なぁ、ミコト。お前がヴァンデモンに洗脳されていた時のこと……覚えているか?」
「ええ……忘れるわけないよ」
ミコトの表情に、一瞬だけ暗い影が差す。
あの『幻夢のタグ』を手に入れるために操られていた時、そして自分の力によって配下のバケモンたちが異常なまでのパワーアップを遂げて凶暴化した出来事‥‥それは二人にとって、今でも思い出すだけで胸が痛む、互いに最悪で嫌な経験だった。
しかし、ジークは力強く言葉を続けた。
「あの時の事は最悪の思い出だった。だけど、お前の持つあの特別な『再生と変革の波長』、そしてこの未知のデジヴァイス01の機能が組み合わされば……デジモンの内部データに直接干渉して進化の系譜を捻じ曲げることだって、もしかしたら本当に可能かもしれないな」
「うん。あの時の嫌な経験を、今度はジークを‥日常を守るための正しい力に変えたいの」
ミコトは頼もしそうに頷く相棒を見て、小さく微笑んだ。
「流石に、その先の究極体である『アルフォースブイドラモン』にまでなれる保証はどこにもないし……それに、究極体への進化は現実世界だとエネルギー消費が多すぎるから、禁止ルールとして課しているでしょ? だから、まずは明日、ゼロ丸さんのデータをアップリングして、ゼロ丸さんと同じ成熟期である『ブイドラモン』の姿になれるかどうかだけを試してみたいの」
「なるほどな。ぶっつけ本番で戦うよりは、一度テストしておいた方が安全だ……で、場所はどこにする? さすがに病院の敷地内じゃ大騒ぎになるぞ」
ジークがニヤリと不敵に笑うと、ミコトも同じように悪戯っぽく微笑み返した。
「場所はね、今日ゴリモンとミノタルモンと戦った、あの郊外の廃工場。あそこなら、デジモンモドキの霧の結界が無くても完全に人気はないし、成熟期クラスのブイドラモンくらいの大きさなら、建物の影にうまく姿を隠すことができるわ」
「よし、決まりだ。明日の昼間、散歩を装ってあそこへ向かおうぜ、ミコト」
「ありがと、ジーク。じゃあ、明日の実験に備えて、もう寝ようね」
デジヴァイス01の画面が消え、病室は再び静かな闇に包まれた。
忍び寄る混沌の道化師の影に対抗するため、孤独な少女と相棒のデジモンは、暗闇の中で静かに新たな希望の力を研ぎ澄まそうとしていた。
翌日、太陽が真上に昇る昼下がり。
ミコトは周囲の目をすり抜け、昨日ゴリモンとミノタルモンを打ち倒したあの郊外の廃工場へと再び足を踏み入れた。
鉄錆の匂いと静寂に包まれた広大な空間。霧の結界が張られていなくとも、ここならば人目に付く心配はない。
「よし……誰もいないね。ジーク、まずは準備運動からいくよ」
「おう! 任せろ!」
ミコトの合図とともに、リュックから飛び出したチビモンが眩い光に包まれる。
「チビモン進化ァァッ! ブイモン!!」
黒い小竜の姿、成長期のブイモンへと進化したジークは、トスッと軽い音を立ててコンクリートの床に着地し、力強く拳を突き合わせた。
「体調は万全だ。病院を出る間にアンパンをたらふく食べたからな!!いつでもいけるよ、ミコト」
「ありがとう、ジーク。それじゃあ……いよいよ本命の実験を始めるよ」
ミコトは深呼吸を一つすると、左腕に装着されたデジヴァイス01へそっと右手を添えた。
ひんやりとした金属の感触が、彼女の決意を後押ししてくれる。
(ゼロ丸さん……どうか、ジークに力を貸して……)
かつて異世界・デジタルワールドを駆け抜け、強大な敵たちと戦い抜いた偉大なる仲間の姿を思い浮かべながら、ミコトは祈るように心の中で呟いた。
そして、デジヴァイス01のモニターに呼び出しておいた『ゼロ丸(ブイドラモン)』のコアデータを、目の前に立つジークの内部データへと繋ぎ合わせる。
「ジークへ、データをアップリング……!!」
ミコトの指先がコンソールを弾いた瞬間、デジヴァイス01から放たれた不可視のデータストリームがジークの体を包み込んだ。
「グォォォォォォッ……!!」
ジークの口から、ブイモンのそれとは違う、野性味と力強さを帯びた咆哮が轟く。
通常ならば、彼は闇の力に導かれて、漆黒の悪魔である『デビドラモン』へと姿を変えるはずだ。
しかし、ミコトの祈りとデジヴァイス01による強制的なデータの書き換え(アップリング)が、彼の進化の系譜に新たな可能性の道(ルート)をこじ開けた。
「ブイモン進化ァァッ! ブイドラモン!!」
光の奔流が廃工場を照らし出し、やがてその光が収束していく。
「……嘘‥成功した……けど……!?」
光が晴れた後、そこに立っていた巨大なデジモンの姿を見て、ミコトは目を丸くした。
鋭い角、逞しい四肢。
そのシルエットや放たれる闘気は、間違いなくミコトが知る古代種の幻竜『ブイドラモン(ゼロ丸)』そのものだった。
しかし、決定的に違っていたのはその色彩だ。
本来ならば鮮やかな青色であるはずの鱗や皮膚が、ジークの持つウィルス種の因子、の影響を受けたのか――底知れぬ夜の闇のような、美しい漆黒に染まり上がっていたのである。
「ブイドラモン……いや、黒いブイドラモン……!」
「ガァァァッ!……凄いよ!!ミコト、力が……ゼロ丸の力が、僕の体中に漲ってくるのが分かる!!」
黒いブイドラモンとなったジークは、自身の巨大な黒い両腕を握りしめ、その桁違いのパワーに興奮の声を上げた。漆黒の鱗は鋼のように硬く、それでいてしなやかに躍動している。
「すごい……本当に、ゼロ丸さんのデータで進化系統を上書きできたんだ……!」
ミコトの顔に、希望に満ちた明るい笑みが咲いた。
漆黒のブイドラモンへの進化に成功したということは、理論上、ここからさらにゼロ丸の完全体のデータをアップリングすれば、『漆黒のエアロブイドラモン』へと進化することも可能になったという決定的な証左である。
デビドラモンという一つの手札しかなかったこれまでに比べ、進化の道(ルート)が拡張されたことは、孤独に戦う二人にとって計り知れないほど大きな意味を持っていた。
(これで……状況に合わせて戦い方を選べる!)
あの悪趣味な道化師(カオスピエモン)が、今後どんな卑劣な刺客を送り込んできたとしても、それに対処するための戦術の幅が劇的に広がったのだ。
「やったね、ジーク! これで私たち、もっと戦えるよ……!」
「ああ! どんなデジモンモドキが来ようが、今の僕たちなら絶対に守り抜いてみせるぜ!」
誰もいない廃工場で、真っ黒な幻竜と小さな少女は、確かな手応えと共に力強く頷き合った。
此処で時間は昨晩に巻き戻し、視点はお台場の泉家のマンションに移る。
光子郎は自身の部屋でデジタルワールドからの帰還後も、あの冒険で得た数々の謎を解き明かすべく、一人で膨大なデータの解析を続けていた。
しかし、いくらキーボードを叩いても、光子郎の脳裏から離れない疑念があった。
それは、デジタルワールドを去る直前にゲンナイが遺した、いくつかの不可解な言葉だった。
(あの石板に刻まれていた、僕たちの紋章の『祖』となる未知の紋章の存在……。そして、現実世界に現れた局所的な次元の歪み……)
光子郎は手を止め、デスクの上に置いてあった自身の『知識の紋章』をそっと手に取った。
紫色に鈍く光るその紋章を見つめながら、彼は世界各地、特に日本国内で起きている微細な環境データの異常値を画面に呼び出す。
その中で、光子郎の鋭い知性が一つの奇妙な符合を捉えていた。
「一年中、枯れることなく桜が咲き誇る島……『初音島』、ですか」
画面に映し出されたのは、瀬戸内海に浮かぶというその神秘的な島のデータだった。
光子郎の合理的な思考は、その記述を見た瞬間から激しい違和感を訴え続けている。
普通に考えて、日本の気候特性や桜という植物の生態学的な特徴からして、常時開花し続けるなどということは科学的に絶対にあり得ない。
それは現実世界の法則を逸脱した、明らかな「異常現象」だった。
(もし……あの島で起きている超常的な現象が、一時的に現実世界とデジタルワールドを繋いだ『ゲート』の残滓なのだとしたら? そして、そこにゲンナイさんの言っていた『祖たる紋章』のデータが深く関わっているとしたら、すべてに説明がつきます)
散らばっていたピースが、光子郎の頭の中で静かに繋がり始めていた。
あのお台場でのヴァンデモンとの決戦の裏で、あるいは自分たちがデジタルワールドでダークマスターズとアポカリモンとの死闘を繰り広げていたその裏で、現実世界の別の場所――あの初音島でも、目に見えない次元の亀裂が生じていたのではないか。
だとすれば、今この瞬間も、あの島には自分たちの知らない「何か」が潜んでいる可能性がある。
「……突き止めなければなりませんね」
光子郎は手の中の知識の紋章をきゅっと握りしめた。
湧き上がるのは、未知の領域に対する恐怖ではなく、真実を求める飽くなき探究心。
彼の内に宿る『知識』の輝きが、まだ見ぬその島へと彼を突き動かそうとしていた。
「いずれ近いうちに、直接あの初音島へ向かいましょう。実際にこの目で現象を確かめて、データの整合性を取れば、必ずあの世界と僕たちの真の繋がりが見えてくるはずです」
モニターの光を反射する眼鏡の奥で、光子郎の瞳は確かな決意を宿して輝いていた。