デジモンアドベンチャー Re:Life   作:ステルス兄貴

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四十八話 道化師のゲーム:見えない戦場の兄妹

 

デジタルワールドでの過酷な戦いを終え、平和を取り戻したはずの現実世界。

 

しかし、一年中桜が咲き誇る神秘の島「初音島」では、混沌の道化師・カオスピエモンによる新たなる絶望のゲームが幕を開けていた。

 

石田ヤマトの妹・ミコトは、愛する兄と初音島の平穏な日常を守るため、自身に宿る『魔王の因子』を狙う刺客たちと、相棒のジーク(ブイモン)と共にたった一人で戦う決意を固める。

 

敵が展開する「霧の結界」の性質を逆手にとり、人知れず成熟期へ進化して戦う術を見出した二人は、見事な連携でゴリモンとミノタルモンを撃破する。

 

しかし、彼女たちの未知なる力と、異質なデバイス『デジヴァイス01』の存在は、異次元から監視するカオスピエモンの歪んだ好奇心をさらに昂らせる結果となってしまう。

 

激化する戦いと予測不能な悪意に備え、ミコトとジークは次なる一手を打つ。

 

かつてデジタルワールドをデーモンの魔の手から救った古代種の幻竜「ゼロ丸」のデータをデジヴァイス01の機能でジークにアップリングし、進化の系譜を強制的に上書きする賭けに出たのだ。

 

二人の祈りは通じ、ジークは漆黒の悪魔(デビドラモン)とは異なるもう一つの姿――強大な力を持つ『黒いブイドラモン』への進化を成功させ、戦局を切り拓く新たな手札を手にする。

 

孤独な少女の秘密の戦いに、カオスピエモンの次なる悪夢のショーが今、静かに幕を開けようとしていた――。

 

 

初音島での人知れぬ戦いが日常の裏側で激しさを増していく中、ミコトは自身の身体にある『異変』が起きていることに気がついていた。

 

「驚いたよ、ミコトちゃん。ここ最近、全く発作の兆候が見られないね。血液検査の数値も劇的に安定している。この調子なら、もう少し治療のペースを上げても大丈夫そうだ」

 

水越総合病院の診察室で、カルテを見つめる主治医が嬉しそうに目を細めた。

 

椅子に座るミコトは、ホッと胸を撫で下ろしながら、

 

「本当ですか? よかった……」

 

と、小さな笑みをこぼす。

 

(魔王の因子が覚醒しかけていることと、関係があるのかな……? ううん、分からない。でも……)

 

病室に戻る廊下を歩きながら、ミコトはそっと胸元に手を当てた。

 

かつてはいつ訪れるか分からない発作の恐怖に怯え、息をするのすら苦しい夜が何度もあった。

 

しかし、カオスピエモンがこの島に現れ、ジークと共に戦うようになってからというもの、その忌まわしい発作がピタリと鳴りを潜めているのだ。

 

病室に戻ったミコトが今日の検査結果をベッドの中に隠れているジークに伝えると、

 

「よかったな、ミコト! お医者さんの言う通り、最近のお前、すごく顔色がいいよ。僕と一緒に特訓しているおかげかな?」

 

「ふふ、そうかもね……でも、本当に助かったわ」

 

ミコトの瞳に静かな決意の光が宿る。

 

今は、あの混沌の道化師を探し出し事、

 

送り込まれる刺客を人知れず討伐しなければならない。

 

もし戦闘の最中に発作が起きれば、ミコトだけでなく、戦うジークまでもが致命的な危機に晒されてしまう。

 

だからこそ、発作が起きない今のこの身体の状態は、ミコトにとって何よりも喜ばしく、戦いを継続するための命綱でもあった。

 

 

その日の夜‥‥

 

消灯時間を過ぎた静かな病室で、ミコトはベッドの上にノートパソコンを開いていた。

 

カタカタとキーボードを叩き、デジヴァイス01のデータを整理していると、不意に画面の右下にポップアップ通知が表示された。

 

『ピコンッ』

 

チャットアプリからの着信。

 

差出人の名前は『COLEO』――お台場にいる太一たちの仲間であり、ミコトのネット上の友人でもある泉光子郎のハンドルネームだった。

 

ミコトの肩がビクッと跳ねる。

 

(……COLEOさんから? もしかして、またヒカリちゃんが一緒にいるんじゃ……)

 

先日、ヒカリの類稀なる直感によって初音島での戦いを見透かされそうになり、逃げるように通信を絶った記憶が蘇る。

 

あの鋭い「光の少女」の勘は、今のミコトにとってどんなデジモンの攻撃よりも恐ろしいものだった。

 

警戒してマウスを握る手に力が入るミコト。

 

しかし、次に送られてきたメッセージを見て、彼女はふっと肩の力を抜いた。

 

COLEO:『こんばんは、HATUNEさん。夜分遅くに急に連絡してしまってすみません。警戒させてしまったかもしれませんが、安心してください。今、ヒカリさんは近くにいません。僕一人で通信しています』

 

(COLEOさん……私がヒカリちゃんを避けて通信を切ったこと、察してくれているんだ)

 

相変わらずの鋭い洞察力と、相手を気遣う細やかな配慮。

 

一応の安堵を得たミコトは、キーボードに指を乗せ、チャットの返信を打ち込み始めた。

 

HATUNE:『こんばんは、COLEOさん。お久しぶりです。ヒカリちゃんのこと、お見通しだったんですね。ごめんなさい、この間は急に通信を切っちゃって』

 

COLEO:『いえ、気になさらないでください。HATUNEさんにも、色々と事情があるのでしょうから……それで最近の体調の方はどうですか?』

 

HATUNE:『はい。おかげさまで、今日もお医者さんに「最近すごく調子がいいね」って褒められたばかりなんです。治療も順調に進んでいます』

 

COLEO:『それは何よりです。お兄さんも安心するでしょう』

 

最初は、互いの近況を報告し合う穏やかな会話だった。

 

光子郎は東京での近況報告で太一たちが元気に過ごしていることを伝え、ミコトもそれに安堵の文字を返す。

 

しかし、数分間の世間話の後、画面の向こうの光子郎が、いよいよ本題を切り出してきた。

 

COLEO:『……実は今日、HATUNEさんに一つお聞きしたいことがあって連絡しました。HATUNEさんが今いる初音島の環境についてなんですが‥‥』

 

HATUNE:『初音島の環境?』

 

COLEO:『ええ。その島に咲いているという、「一年中枯れない桜」についてです。科学的にも気象学的にも、常時開花し続ける桜などあり得ないんです。現地では、あれは一体どのような理由で咲いていると言われているんでしょうか?』

 

ミコトは画面を見つめたまま、少しだけ考え込んだ。

 

(枯れない桜のこと……?COLEOさん、あの桜の異常性に気付いたんだ。でも、私は東京から治療のために来ただけで、あの桜の本当の秘密なんて知らないし……)

 

ミコトは嘘をつかず、自分が知っている範囲の事実だけを正直にタイピングした。

 

HATUNE:『ごめんなさい、COLEOさん。私も初音島の出身じゃないから、詳しい歴史や理由は分からないんです。でも、病院の看護師さんたちから聞いた話だと……』

 

HATUNE:『あの桜は、島の人たちにとっては「あって当たり前の風景」みたいです。昔からずっと枯れずに咲き続けていて、みんな「島が不思議な気候だから」とか「特別な魔法の桜だから」って笑って受け入れています。誰も深く気にしていないのが、逆に不思議なくらいです』

 

HATUNE:『ただ、一つだけ言えるのは……あの桜の周りの空気は、なんだかとても不思議で、心が落ち着くような、でもどこか懐かしいような気がします』

 

送信ボタンを押す。

 

しばらくの間、チャット画面には『COLEOが入力中…』の表示が点滅し続けていた。

 

東京のマンションの一室で、このメッセージを受け取った光子郎が何を考え、どんな仮説を立てているのか。ミコトには知る由もない。

 

COLEO:『いつかは僕も初音島に行ってその枯れない桜を見てみたいです』

 

HATUNE;『最初に見ると驚きますが、時間が経つにつれて不思議と違和感が無くなって行きます』

 

COLEO:『なるほど……時間が経つにつれて違和感がなくなる、ですか。それは単なる気候の異常にとどまらず、人間の認知機能にまで何らかの影響を及ぼす環境である可能性を示唆していますね。非常に興味深いです。夜遅くに長々と付き合っていただいて、ありがとうございました。おやすみなさい、HATUNEさん』

 

HATUNE:『こちらこそ、久しぶりにお話しできて嬉しかったです。おやすみなさい、COLEOさん』

 

ミコトは短く返信を打ち終えると、小さく息を吐き出してノートパソコンの電源を落とした。

 

薄暗くなった病室の中で、モニターの残光だけが彼女の憂いを帯びた横顔を微かに照らしている。

 

「終わったか、ミコト?」

 

布団の膨らみの中から、チビモン状態のジークがひょっこりと顔を出した。

 

ミコトは静かに頷き、膝を抱え込むようにしてポツリと呟く。

 

「うん……COLEOさんにも嘘はついてない。でも、本当のことも言えなかった」

 

島に潜む混沌の道化師。

 

そして、自分たちが毎日のように命懸けで戦っていること。

 

全てを打ち明けて助けを求めれば、東京にいる太一やヤマトたちは、間違いなく全力を挙げて初音島へ駆けつけてくれるだろう。

 

「……苦しいか?」

 

ジークの真っ直ぐな問いかけに、ミコトは首を横に振った。

 

「ううん。これでいいの。ヤマトお兄ちゃんたちをあの道化師の悪意に巻き込むわけにはいかない。それに、COLEOさんは相変わらず鋭いから……これ以上話したら、きっとボロが出ちゃう。そうなればヒカリちゃん経由でヤマトお兄ちゃんにもバレちゃうかもしれない」

 

「違いないな。お前の兄貴や太一と違って、あいつの頭の回転の速さはちょっと異常だからな」

 

ジークが呆れたように笑うと、ミコトの強張っていた頬も少しだけ緩んだ。

 

「ジーク、明日の午後も時間を使って繫華街に出よう。COLEOさんやヒカリちゃんが何か行動を起こす前に、私たちがこの島で、あの道化師を完全に倒さなきゃ」

 

「ああ、分かっている。新しい進化の力も手に入れたんだ。次どんな手駒が来ようが、俺たちがぶっ飛ばしてやるさ!」

 

心強い相棒の言葉に励まされながら、ミコトはそっと目を閉じた。

 

束の間の休息。発作の恐怖から解放された穏やかな眠りが、孤独な少女の心と体を癒していく。

 

――しかし、その頃。

 

東京・お台場のマンションの一室では、泉光子郎がHATUNEとのチャット画面を前に、険しい表情で腕を組んでいた。

 

「……『時間が経つにつれて不思議と違和感が無くなっていく』、ですか」

 

光子郎は、HATUNEが何気なく発したその一文に、強烈な引っ掛かりを覚えていた。

 

「普通、異常な現象に日常的に触れ続けていれば、慣れが生じるのは心理学的に理解できます。しかし……日本の四季において『桜が散らない』という物理法則を無視した現象に対し、島民全員が一様に疑問を抱かなくなるというのは、集団的な認知の歪み……極端に言えば、島全体が何らかの『認識阻害のフィールド』に覆われていると考える方が自然です」

 

光子郎の脳裏に、かつてお台場を覆い尽くしたヴァンデモンの『霧の結界』の記憶がフラッシュバックする。

 

あの時も、結界の内部と外部では情報の遮断と認識のズレが生じていた。

 

「初音島の枯れない桜。そして、局所的な次元の歪み……HATUNEさんは気付いていないようですが、あの島では今、確実に『デジタルワールドに関わる異常事態』が進行しています」

 

デスクの上の『知識の紋章』が、主の推論を肯定するかのように微弱な光を放った。

 

「でも推測だけで動くのは危険ですが、放置するにはあまりにもリスクが高すぎるな」

 

光子郎は悩むが、今は夏休みが終わって二学期が始まっている。

 

それに自分の推測が当たっているとしてもパートナーデジモンが居なければ野生のデジモンと戦う事は出来ない。

 

「ゲンナイさんからのメールは‥‥やっぱり無いか‥‥」

 

メールボックスを確認しても其処にはゲンナイからのメールは無かった。

 

光子郎はヤマトと別の意味で歯がゆい思いを抱いていた。

 

 

翌日‥‥

 

お台場小学校の校舎には活気あふれる児童たちの声が響き渡っていたが、図書室の隅の方にある机では周囲の喧騒とは対極の、重く張り詰めた空気が漂っていた。

 

昼休み。そこに集まっていたのは、太一、ヤマト、空、光子郎、そしてヒカリの五人だった。

 

「……これが、昨夜HATUNEさん——ミコトちゃんとチャットで話した内容の要約です」

 

光子郎がノートパソコンの画面を皆の方へ向ける。

 

そこには、初音島の異常性について光子郎がまとめた推測データが箇条書きで記されていた。

 

枯れない桜: 物理法則や気候条件を完全に無視した常時開花現象。

 

認知の阻害(認識阻害フィールドの疑い): 異常な現象であるにも関わらず、島民全員が「あって当たり前の風景」として疑問を抱かない集団的な心理状態。

 

結論の推測: 初音島全体が、かつてヴァンデモンがお台場を覆った『霧の結界』に酷似した、デジタルワールド由来の局所的な次元の歪みに呑み込まれている可能性が高い。

 

画面を見つめるヤマトの顔が、みるみるうちに険しく、蒼白になっていく。

 

「ミコトのやつ……そんな異常な場所に一人でいるっていうのかよ……っ!」

 

ドンッ!

 

ヤマトは耐えきれず、傍らにあった机に強く拳を叩きつけた。

 

妹の病気療養のために選んだ初音島。それがまさか、デジタルワールドの脅威に晒されているかもしれないなど、思いもよらなかったのだ。

 

「ヤマト、落ち着け! 机に当たってもしょうがないだろうが」

 

太一がヤマトをたしなめるように言うが、その声にも隠しきれない不安が滲んでいる。

 

「落ち着いてなんかいられるか! 今すぐ初音島に行って、ミコトを連れ戻す! あいつの身体に、もしものことがあったら……!」

 

「待てよ、ヤマト! 気持ちは痛いほど分かるけど、お前の行動はいくらなんでも無茶苦茶だぞ!」

 

太一がヤマトの肩をガシッと掴み、強い視線で引き留めた。

 

「それにミコトくんは病気の療養のためにその初音島に居るのだろう?今、無理矢理お台場に連れて来て病気が悪化したらそれこそ本末転倒じゃないか?」

 

医者家系出身者の丈が医療的観点からもヤマトを止める。

 

「俺たちには今、アグモンもガブモンもいないんだぞ! ゲートが閉じていて、パートナーデジモンと離れ離れになっている今の俺たちが、もし本当に敵のデジモンと出くわしたらどうするんだ!? ミコトちゃんを助けるどころか、足手まといになるかもしれないんだぞ!?」

 

太一の正論が、ヤマトの胸に深く突き刺さる。

 

「……っ! くそっ……! なんでこんな時に、オレたちは無力なんだ……!」

 

ヤマトはギリッと歯を食いしばり、悔しそうに下を向いた。

 

かつてデジタルワールドで幾多の危機を乗り越えた彼らだが、「パートナー不在」という現実が、重い枷となって彼らの行動を縛っていた。

 

「……ミコトさんは、何かを隠している」

 

ふいに、それまで静かに窓の外を見つめていたヒカリが、ポツリと呟いた。

 

全員の視線がヒカリに集まる。

 

「隠しているって……ヒカリ、お前、ミコトちゃんとチャットをした時に何か感じたのか?」

 

太一が尋ねると、ヒカリはゆっくりと頷き、自身の胸元に手を当てた。

 

「うまく言えないけど……ミコトさんの言葉の裏側に、すごくピリピリした、戦いみたいな張り詰めた空気を感じたの。それに、あの島から……冷たくて、不気味な悪意みたいなものが漏れ出している気がする」

 

「悪意……」

 

「うん。昨日、三軒茶屋の小学校にいるタケルくんとも電話で話したんだけど、タケルくんも『最近、嫌な胸騒ぎがする』って言っていた。タケルくんも、お台場にはいないけど、何かを感じ取っているみたい」

 

弟のタケルの名前が出たことで、ヤマトの顔にさらなる焦燥が走る。

 

双子ならではのシンパシーのようなモノをタケルは感じているのかもしれない。

 

希望と光の紋章を持つ二人が、同時に不吉な予感を感じ取っている。

 

それは、初音島で起きている事態が、光子郎の推論以上に切迫していることを示唆していた。

 

「太一さんの言う通り、パートナーデジモンがいない今の僕たちでは、直接的な物理戦闘は不可能です。それに、ゲンナイさんからのメールによる指示や、デジタルワールド側の情報も一切ない……正直、僕もどう動くべきか、もどかしくて仕方がありません」

 

常に冷静で論理的な光子郎の口から漏れた、珍しく感情的な『歯がゆさ‥‥

 

デジタルワールドの謎を解き明かし、仲間をサポートしてきた彼にとって、「状況が分かっているのに手出しができない」という現状は、ヤマトとはまた違った種類の強烈なフラストレーションを生んでいた。

 

「……それでも、指をくわえて待っているわけにはいかない」

 

ヤマトが顔を上げ、決意の籠もった瞳で光子郎を見た。

 

「光子郎、お前は引き続き初音島のデータと、デジタルワールドへのゲートを開く方法を探ってくれ。オレは……親父に掛け合って、初音島に行く口実を作る」

 

「ヤマト……」

 

「戦えなくてもいい。ミコトの側にいて、あいつの顔を直接見て、無事を確認したいんだ。……兄貴として、これ以上あいつを一人にしておけない」

 

ヤマトの切実な声に、太一は小さく息を吐き、力強く頷いた。

 

「……分かった。俺や空も、お台場周辺で怪しい空間の歪みがないか、やれる範囲で探してみる。何か分かったら、すぐ共有しようぜ」

 

チャイムが鳴り響き、昼休みの終わりを告げる。

 

選ばれし子供たちは、それぞれが抱える焦燥感と無力感を胸の奥に押し隠し、平和な日常という名の「教室」へと足を踏み出していく。

 

 

金曜日の夜 お台場 石田家のマンション

 

「親父、オレ明日、初音島に行ってくる。ミコトの見舞いだ」

 

夕食の後片付けを終えたリビングで、ヤマトは意を決して父親の裕明に切り出した。

 

テレビのニュース番組から視線を外した裕明は、少し意外そうな、しかしどこか腑に落ちたような複雑な表情で息子を見つめた。

 

「初音島か……お前が自分からあそこへ行くなんて、珍しいな。お台場でのあの事件があってから、なんだか少し変わったか?」

 

裕明の問いに、ヤマトは一瞬、身体を硬くした。

 

お台場でのヴァンデモンとの死闘、そしてデジタルワールドでの冒険。世界を揺るがしたあの事件を経て、ヤマトの価値観は激変していた。

 

だが、今まさに初音島が「第二のお台場」と化しつつあるかもしれないという重大な異変を、普通の大人である父親に話せるわけがない。

 

「……変わった、のかもな」

 

ヤマトは視線を落とし、言葉を選びながら続けた。

 

「今まで俺、ミコトの病気から逃げていたんだ。あいつが苦しんでいる姿を見るのが怖くて、お見舞いに行くのも避けて、逃げていた…でも、お台場でいろんなことがあって、気付いたんだ。逃げていちゃ何も守れない。これからは、今まで遠ざけていた分、ちゃんとミコトと向き合いたいんだ」

 

それは嘘ではなかった。ミコトを異変から救うという目的の底には、兄としての本物の悔恨と決意があった。

 

裕明は息子の成長を感じ取ったのか、静かに微笑んで「そうか、気をつけて行ってきなさい」とだけ言い、それ以上は何も追及しなかった。

 

翌日‥‥

 

お台場から電車とフェリーを乗り継ぎ、ヤマトはついに初音島へと足を踏み入れた。

 

港に降り立ったヤマトの目に飛び込んできたのは、街の至る所で狂い咲く、満開の桜だった。

 

潮風が吹く島、しかも季節外れの時期であるにもかかわらず、ピンク色の花びらが物憂げに舞い散っている。

 

「相変わらず季節外れの満開の桜‥‥」

 

普通の観光客が見れば「神秘的で美しい光景」と思うのだろう。

 

だが、世界の崩壊を肌で知るヤマトにとって、物理法則を無視したその景色は不気味な違和感でしかなかった。

 

(この島全体が、デジタルワールドとの歪みに呑み込まれかけている証拠なのか……? だとしたら、この桜は敵の張った結界の類か、あるいはデジモンの仕業なのか……?)

 

一度そう考えてしまうと、ヤマトにはもう、この桜が到底綺麗なものとは思えなくなっていた。

 

しかし、実際のところ、この初音島に咲き誇る桜は、デジタルワールドともデジモンとも一切関係のない、島独自の「純粋な神秘」によるものであることを、ヤマトも、東京で解析を続ける光子郎も、知る由はなかった。

 

「ミコト、オレだ。ヤマトだ‥入るぞ」

 

重い足取りで病院に到着したヤマトだったが、病室のドアを開けた瞬間、思わず目を見張った。

 

「ヤマトお兄ちゃん! 遠いのにわざわざ来てくれてありがとう!」

 

ベッドの上にいたミコトは、いつものパジャマ姿ではなく、お気に入りの私服に身を包んでいた。

 

「ミコト、お前……私服なのか?体調は大丈夫なのかよ」

 

「うん! 驚いた? ここ最近ね、すっごく検査結果が良いの。お医者さんにも褒められちゃった。だから、今日はヤマトお兄ちゃんに初音島を案内してあげる!」

 

嬉しそうに微笑む妹の顔色は、確かに以前よりもずっと健康的で、血色が良かった。

 

ヤマトはひとまず安堵したものの、同時に光子郎の「島民の認知の歪み」という言葉が脳裏をよぎる。

 

ミコトのこの劇的な回復も、島を覆う異常な環境が原因なのではないかという疑念が拭えなかった。

 

一方でミコトは元気になりつつある自分の姿を見てもらいたいのと、病室に居るとジークが見つかってしまうのではないかと思いヤマトを連れ出したのだ。

 

病院を出て初音島の繁華街を歩くヤマトとミコト。

 

その二人の姿を異次元空間から覗き見ている者が居た。

 

「ほう……?」

 

混沌の道化師・カオスピエモンは、異次元空間に表示されスクリーンに映るヤマトの姿見て、不気味な笑みを深める。

 

「おやおや?あれは選ばれし子供の一人‥‥確かメタルガルルモンを連れていた子供ではないか‥‥よもや、小さな魔王が、あの忌々しい選ばれし子供の一人の関係者であったとはね……世間というのは、意外と狭いモノだ」

 

ミコトとヤマトが兄妹であるという事実は、カオスピエモンにとって予想外の、しかし最高のスパイスだった。

 

「ここで『デジモンモドキ』を送り込んで、選ばれし子供の一人を速やかに抹殺してしまっても良いのだが……いや、いや、それではちっとも面白くない。将来性を考えれば、ここは泳がせておくのが最善だ」

 

道化師は、ゆらりと指揮棒を振るかのように指を動かす。

 

「まずは小さな魔王との『絶望のゲーム』を完璧に終わらせ、彼女のすべてを私の手中に収める。その後、絶望のどん底に落ちた妹を、あの兄の前に引きずり出してやれば……どれほど極上の美しい絶望の悲鳴が聞けることか!?」

 

カオスピエモンが手出しを控えたのには、もう一つ理由があった。

 

彼が持つ情報では、石田ヤマトはかつてヴァンデモンやダークマスターズを破った、「究極体へと進化できるデジモンのテイマー」である。

 

今ここで中途半端な刺客を送り込んでも、あの強力なメタルガルルモンに瞬殺されてしまい、自らのショーが台無しになるのを恐れたのだ。

 

もっとも、今のヤマトはゲートの閉鎖によってガブモンを連れておらず、完全に無力な状態なのだが……狡猾なカオスピエモンすらも、その「現実世界の防衛線の穴」までは知る由がなかった。

 

「今は束の間の兄妹の時間を楽しむがいいさ。お前たちの日常が、より深く、より凄惨な悪夢へと変わるその日までね……ヒャーッハッハッハ!」

 

道化師の歪んだ高笑いが、誰も気づかない次元の隙間で、静かに、そして不気味に響き渡っていた。

 

 

満開の桜が風に舞う初音島の繁華街は、週末ということもあって多くの人々で賑わっていた。

 

平和な笑い声が飛び交う中、ミコトは一軒の古びた、しかし活気のあるパン屋の前で足を止めた。

 

「お兄ちゃん、ここのパン屋さんのアンパン、絶品なんだよ! 病院を抜け……じゃなくて、散歩の時によく買うんだけど、本当に美味しいの!ちょっと待っていて‥‥」

 

少しだけ言葉を濁したミコトが、パン屋の中に入って行く。

 

「すみません。アンパン二つ下さい!!」

 

「あら?ミコトちゃん。いつもありがとね。ん?あの男の子は?もしかしてデートかい?」

 

「ううん、私のお兄ちゃん」

 

「あら?そうなの?」

 

「うん。いつもは離れて暮らしているんだけど、今日は観光に来てくれたの」

 

「そうだったの?」

 

「はい。今からこの島をガイドするんです」

 

「そうかい、良かったね。お兄ちゃんが来てくれて」

 

「はい。それじゃあ、また」

 

「また来てね~」

 

そしてパン屋で焼きたてのアンパンを二つ買ってヤマトに手渡す。

 

売店のアンパンも良いけど、やはりジークはこの店のアンパンが好きなようで、探索の際はよくこの店のアンパンを買っており、店の店員にも顔を覚えられているミコトであった。

 

ヤマトは苦笑しながらそれを受け取り、一口かじった。

 

「……本当だ。甘すぎなくて、生地もモッチリしている。確かに東京でもなかなか食べられない味だな」

 

「でしょう? えへへ……」

 

無邪気に笑う妹の頭を撫でながら、ヤマトは周囲の景色へと鋭い視線を滑らせていた。

 

(街並みも、行き交う人々の様子も、至って普通だ。だが……光子郎の言う通り、この不自然な桜に対して誰も疑問を抱いていない。空間の歪みや、デジモンの気配はどこから発生している……?)

 

(だが、前に来た時は、デジヴァイスには何の反応もなかった)

 

(やっぱりゲートが開いたり、閉じたりしているからタイミングが合わなければならないのか?)

 

ヤマトの脳内では、常に見えない敵に対するシミュレーションが展開されていた。

 

もし今、ヴァンデモンの配下のような凶悪なデジモンが街に現れたら、パートナーであるガブモンがいない自分はどうやってミコトを連れて逃げるべきか?

 

退路の確認と、周囲の地形の把握を無意識のうちに行っていた。

 

しかし、隣を歩くミコトもまた、ヤマトとは全く別の理由で神経を尖らせていた。

 

(どうしよう……ヤマトお兄ちゃんにバレないように、ジークには病室でお留守番してもらっているけど……)

 

ミコトはアンパンを頬張りながらも、人混みの影や路地裏にチラチラと視線を送る。

 

(もし今、あの道化師が『デジモンモドキ』を送り込んできたら……デジヴァイス01もなければジークも居ないこの状態じゃあ、結界の中で応戦することすらできない。ヤマトお兄ちゃんを巻き込んじゃう……っ!)

 

お互いが相手を護ろうと強く願い、お互いが「今、敵に襲われたら戦えない」という致命的な無力感を抱えながら、二人は表面上だけの穏やかな散歩を続けていた。

 

繁華街を抜け、ミコトが次にヤマトを案内したのは、初音島の海と街並みを一望できる小高い丘の上の絶景スポットだった。

 

眼下には、常春の島を象徴するピンク色の桜の海が広がり、その向こうに青く澄んだ海がキラキラと輝いている。

 

「……やっぱりここからの景色は最高なんだよ。ヤマトお兄ちゃんにも、ここの景色を見せてあげたかったんだ」

 

柵から身を乗り出し、海風に髪を揺らすミコト。

 

その横顔は、かつて病気の発作に怯え、塞ぎ込んでいた頃の彼女からは想像もつかないほど生命力に溢れていた。

 

「ああ……本当に綺麗な場所だな」

 

ヤマトは相槌を打ちながらも、丘の上から島全体を俯瞰し、やはり「異変の震源地」を探っていた。

 

しかし、これほど広範囲を見渡しても、デジタルワールド特有のノイズや、空間が歪んでいるような視覚的な異常は一切見受けられない。

 

(これだけの規模の異常を起こしていながら、気配を完全に絶っている……。敵は相当な力を持ったデジモンなのか……?)

 

ヤマトが密かに焦燥感を募らせているその横で、ミコトもまた、眼下に広がる街の平穏が「いつ破られるか」と、胸の奥で冷や汗を流していた。

 

(お願いだから、今日だけは……ヤマトお兄ちゃんが帰るまでは、何事も起きないで……!)

 

カオスピエモンの気まぐれ一つで、この美しい景色はいつでも惨劇の舞台へと変わる。

 

それを知っているのは、この島でミコトただ一人だけだ。

 

「……ミコト」

 

「えっ? な、なに?」

 

不意にヤマトに名前を呼ばれ、ミコトはビクッと肩を揺らした。

 

ヤマトは妹の様子を気遣うように、真っ直ぐにその瞳を見つめ下ろした。

 

「本当に、体調は悪くないんだな? もし少しでもキツかったら、すぐに病院に戻るぞ。無理して俺に付き合う必要はないんだからな」

 

「う、うん! 全然平気だよ。むしろ、お兄ちゃんとこうして外を歩けるのが嬉しくて……」

 

ミコトは必死に笑顔を作って誤魔化したが、その言葉の半分は本心だった。

 

ヤマトと一緒に過ごすこの時間は、過酷な戦いの中で得た、かけがえのない宝物のように感じていた。

 

「そうか……なら、もう少しだけ案内してもらおうかな」

 

「うんっ! 任せて!」

 

互いに重大な秘密を抱え、見えない影に怯えながらも、相手を思いやる兄妹。

 

カオスピエモンすら嘲笑うその滑稽で切実な二人の時間は、初音島の狂い咲く桜の下で、静かに過ぎていった。

 

茜色に染まる海を背に、フェリーの出航を知らせる汽笛が鳴り響いた。

 

「ヤマトお兄ちゃん、気をつけて帰ってね!」

 

「あ、ああ‥‥ミコトも今日は元気みたいだったが、油断はするなよ。体調管理には十分に気をつけろ」

 

「分かっているよ」

 

岸壁から大きく手を振るミコトの姿は、夕日の中で活き活きとして見えた。

 

フェリーの甲板から手を振り返すヤマトは、妹の姿が小さくなるまでその場を動こうとはしなかった。

 

最後まで彼女の体調を案じていたヤマトだったが、ミコト本人が言う通り、咳き込む様子も顔色が悪くなる兆候も全く見られなかった。

 

しかし、ヤマトの胸の内には、安堵とは別の黒いモヤモヤが渦巻いていた。

 

(結局、何も見つからなかった……)

 

丸一日かけて島を歩き回ったにもかかわらず、デジタルワールドへのゲートらしき歪みはおろか、デジモンの気配や、戦闘の痕跡すら見当たらなかったのだ。

 

あるのは、ただ狂ったように咲き続ける桜と、それを疑問にも思わない人々の異様な日常だけ‥‥

 

平和と言えば平和なのだが、異変と言えば異変なので、その原因の手掛かりが何一つないという事実が、逆にヤマトの焦燥感を煽っていた。

 

お台場のマンションに帰宅したヤマトは、夕食の席で父親の裕明に真剣な面持ちで切り出した。

 

「親父……ミコトを初音島以外の病院に転院させることはできないのか?」

 

裕明は箸の手を止め、驚いたようにヤマトを見た。

 

「転院?どうして急にそんなことを言うんだ?今日、お見舞いに行って直接様子を見てきたんだろう? ミコトの具合が、悪かったのか?」

 

「いや、体調はすごく良さそうだった。だから東京の病院に‥‥大体、あそこは少し遠すぎる。何かあった時にすぐ駆けつけられないし‥‥もっと設備の整った病院の方がいいんじゃないかと思って……」

 

必死に捻り出したヤマトの理由に、裕明は少し困ったように眉を下げて首を横に振った。

 

「ヤマト、お前の気持ちは分かるが、それは難しいな。ミコトの病気は特殊なんだ。初音島のあの病院は、ミコトの症状に合わせた特別な療養環境と専門医が揃っているし、東京の空気は初音島の空気と比べると悪い。それに、ようやくミコトの症状が安定しているのに、環境を変えることでまた発作がぶり返すリスクが高すぎるんだ」

 

「……っ!」

 

裕明の言葉は、保護者として極めて正論だった。

 

医学的な見地からすれば、ミコトを初音島から引き離すことこそが「命の危険」に直結する。

 

ヤマトはギリッと奥歯を噛み締め、膝の上で拳を強く握りしめるしかなかった。

 

翌日。お台場小学校の使われていない空き教室に、タケルを除く選ばれし子供たちが集まっていた。

 

「……報告は以上だ。街の中、絶景スポット、病院の周辺……どこを歩いても、デジモンの痕跡もデジタルワールドやゲートの歪みも見つからなかった」

 

黒板の前で腕を組むヤマトの報告に、太一たちは重い沈黙を落とした。

 

「あのヤマトさんが見落とすはずはありません。やはり、敵は相当巧妙に痕跡を隠蔽しているか、あるいは僕たちの予想とは全く違う現象が起きているのか……?」

 

光子郎がノートパソコンを抱えながら唸る。

 

「でも、ミコトちゃんの体調が良かったのは本当に安心したわね」

 

空がフォローするように微笑むが、ヤマトの表情は硬いままだった。

 

「ああ。だが、だからこそ不気味なんだ……ヒカリちゃん」

 

ヤマトは不意に、太一の隣に立っていたヒカリに向き直り、真剣な眼差しを向けた。

 

「オレを見てくれ。昨日一日、初音島にいたオレに……何か『デジモンの気配』や、ヴァンデモンの時のような『悪いものの気配』が憑いていないか、確認してくれないか?」

 

ヒカリの持つ「光の紋章」の直感は、時にどんな機械のデータよりも正確に闇の気配を察知する。

 

ヤマトの意図を汲み取ったヒカリは、小さく頷くと、ヤマトの真正面に立ち、その澄んだ大きな瞳で彼をじっと見つめた。

 

教室の空気がピンと張り詰める。

 

数十秒の静寂の後、ヒカリはゆっくりと瞬きをして、ヤマトを見上げた。

 

「……大丈夫。ヤマトさんからは、悪い気配も、デジモンの匂いみたいなものも、何も感じない」

 

その言葉に、太一や空がホッと胸を撫で下ろす。

 

しかし、ヒカリは言葉を区切り、少しだけ不安そうに眉を寄せた。

 

「でも……ヤマトさんを通して感じる『初音島』の空気には、やっぱり何か大きな幕が引かれているような、不自然な静けさを感じる。まるで、わざと何事もないように見せかけているみたいな……」

 

「わざと見せかけている……か」

 

ヤマトは窓の外、広がるお台場の青空を見つめた。

 

カオスピエモンという最悪の存在が、ミコトとジークを相手に歪んだゲームを展開していることなど知る由もない。

 

しかし、子供たちは確実に「見えない異常」の輪郭を掴み始めていた。手出しができない焦燥感だけが、ヤマトの胸の中で黒い炎のように燻り続けていた。

 

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