デジタルワールドでの過酷な冒険を終え、パートナーデジモンと離れ離れになった八人の選ばれし子供たち。
彼らが平和な日常を取り戻した裏側で、一年中桜が咲き誇る神秘の島『初音島』では、混沌の道化師・カオスピエモンによる新たなる絶望のゲームが進行していた。
病気療養のため初音島に滞在する石田ヤマトの妹・ミコトは、自身に宿る『魔王の因子』を狙う刺客から日常を守るため、相棒のジーク(ブイモン)と共に人知れず戦う決意を固める。
ジークを『黒いブイドラモン』へと進化させる新たな手札を手に入れ、孤独な戦いを生き抜いていくミコト。
一方、東京にいる泉光子郎は、ミコトとの何気ないチャットから初音島を覆う『認識阻害の結界』の存在を推論する。
妹を案じたヤマトは直接島へと足を運ぶが、そこには狂い咲く桜と異常なまでの平穏があるだけで、デジモンの痕跡を見つけることはできなかった。
「パートナー不在」という現実と見えない脅威の前に、なす術もなく無力感に苛立つヤマトたち。
そして、「兄たちを巻き込まないため」に真実を隠し、たった一人で戦い続けるミコト。
互いを想い合うがゆえにすれ違う兄妹の絆を、次元の狭間から嘲笑うカオスピエモン。
狡猾な道化師が放った次なる『絶望のカード』が初音島に舞い降りる時、かりそめの平穏は終わりを告げ、次なる悪夢の幕が静かに上がるのだった――。
光と闇が不規則に明滅する、歪んだ異次元空間。
虚空に浮かぶ玉座で、混沌の道化師・カオスピエモンは指先で一枚の黒いカードを弄んでいた。
彼の目の前に浮かぶ空間のモニターには、数日前に初音島を訪れた石田ヤマトと、彼に寄り添うように笑うミコトの姿がリプレイ映像として映し出されている。
「ククク……何度見ても素晴らしく、涙ぐましいほどの兄妹愛だ。妹を案じる兄と、兄に心配をかけまいと気丈に振る舞う妹……ああ、なんて美しいんだ!」
カオスピエモンは芝居がかった手つきで胸を押さえ、うっとりとしたため息を吐いた。
しかし、その仮面の奥で光る真紅の瞳は、底知れぬ悪意に満ちていた。
「これほど美しい絆を見せつけられては、私としても『極上の絶望』で応えなければ失礼というものだ。さて……彼女の戦意を根こそぎ奪い、心を粉々に砕くには、どんな配役がふさわしいかな?」
弄んでいたカードを指で弾くと、それは空間のモニターに映る『石田ヤマト』の姿に突き刺さった。
「かつて私と同等の存在であったダークマスターズを退けた、究極体メタルガルルモンのテイマー……石田ヤマト。あの小さな魔王は、この兄を心底敬愛している。ならば……」
カオスピエモンは両手を広げ、虚空から無数のジャンクデータをかき集め始めた。
「妹が、愛する兄の『絆の象徴』を容易く傷つけられるはずがない。偽物(デジモンモドキ)だと分かっていても、その姿を見るだけで心は激しく揺さぶられ、引き裂かれることだろう!」
どす黒い靄のようなデータの残骸が、道化師の魔力によって徐々に結合し、一つの輪郭を成していく。
「さあ、行っておいで。愛らしい悲鳴と、絶望に歪む顔を私に見せておくれ……!」
カオスピエモンがタクトを振り下ろすと同時に、次なる刺客は、現実世界の初音島へと向かって漆黒のポータルへと姿を消した。
ヤマトが初音島を去ってから数日後。
島を包み込む柔らかな日差しと、狂い咲く桜のピンク色が、今日も変わらず平穏な日常を演出していた。
「うん、やっぱりすごく調子が良いね。胸の音も綺麗だし、血液の数値も安定したままだ。これなら薬の量をもう少し減らして、様子を見ても大丈夫そうだね」
「本当ですか? ありがとうございます、先生」
主治医であるシンから告げられた言葉に、ミコトはホッと胸を撫で下ろし、明るい笑顔を見せた。
いつ起こるか分からない発作の恐怖と闘いながら、慎重に治療を続けていたのだが、ここ最近の劇的な体調の回復は、彼女に大きな希望をもたらしていた。
(ヤマトお兄ちゃんが来てくれたからかな。なんだか、前よりもずっと身体が軽い気がする)
ヤマトがわざわざ東京から顔を見せに来てくれたことは、ミコトの心に大きな活力をもたらしていた。
「これ以上、あいつを一人にしておけない」という兄の不器用な優しさが、ミコトの孤独な戦いを支える何よりの原動力になっていたのだ。
「それじゃあ、また三日後に検査をするからね」
「それじゃあ、また来週様子を見せに来てくださいね」
「はい、失礼します」
診察室を出て、誰もいない静かな廊下の隅まで来ると、ミコトはそっとリュックのチャックを開けた。
「よかったな、ミコト! 先生も太鼓判を押してくれたじゃん!」
中から顔を出したチビモン状態のジークが、小さな両手を上げて自分のことのように喜んでくれる。
「ありがとう、ジーク……ねえ、この調子なら、もっと動けるようになるかもしれない。あの道化師がいつ仕掛けてきても、ジークをしっかりサポートできるように、私も頑張らなきゃ」
「おうさ! 僕とミコトのコンビなら、どんな奴が来ても敵じゃないよ!」
頼もしい相棒と微笑み合い、病室へ戻ろうとしたその時だった。
――ゾワッ。
ミコトの背筋を、氷の刃で撫でられたような悪寒が走る。
同時に、周囲の空気が急速に重く、冷たく変質していくのを感じた。
「……っ!?霧の結界……!」
窓の外を見ると、満開の桜が立ち並ぶ中庭の景色が、不自然な灰色の霧に飲み込まれようとしていた。
一般の患者や職員たちの姿が、霧の向こう側へと切り離されるように薄れていく。
カオスピエモンが仕掛けてくる『絶望のゲーム』の合図だった。
「来るぞ、ミコト!病院の裏庭だ」
「うん……っ!」
ミコトはリュックを抱き抱え、職員用の裏口から人気のない裏庭へと駆け出した。
灰色の霧に包囲された結界の内部。世界から隔離されたその空間で、ミコトと、成長期へと進化したジーク(ブイモン)は、息を呑んで前方を見据えた。
濃い霧の奥から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
今まで戦ってきたゴリモンやミノタルモンのような、巨大で重々しい足音ではない。
もっと小柄で、聞き覚えのある軽やかな足取り。
「今度の刺客は……何……?」
ミコトがデジヴァイス01を構え、警戒を強めたその時。
霧を割って現れた『それ』の姿を見て、ミコトは雷に打たれたように完全に硬直した。
「ガァウ……」
黄色い体に、青い縞模様の毛皮。額から伸びる一本の鋭いツノ。
それは、デジタルワールドでもよく知られた成長期のハ虫類型デジモン――『ガブモン』だった。
しかし、その瞳には知性の光はなく、ただ虚ろで、身体の周りには黒いオーラを漂わせており、コトたちを機械的にロックオンするような無機質な殺意だけが宿っていた。
異次元空間の玉座から、カオスピエモンのねっとりとした高笑いがミコトの脳内に直接響き渡る。
『ククク……アハハハハ! さあ、今日のショーの幕開けだ! 驚いたかい、小さな魔王よ?』
「道化師!?あんた、どうして……!」
『先日、君のところへ心優しいお兄さんがお見舞いに来ていたみたいだねぇ~感動的な兄妹愛、この私も涙を禁じ得なかったよ! だからこそ、君に最高のプレゼントを用意したのさ!』
道化師の声は、歓喜に震えていた。
『さあ、撃てるものなら撃ってみたまえ! 愛する兄のパートナーと同じ姿をしたそのデジモンを! 兄との絆を象徴するその姿を前に、君のその薄っぺらい決意とやらがどこまで通用するか……見せてもらおうかァッ!!』
カオスピエモンの目論見は明白だった。
ヤマトを敬愛するミコトにとって、ヤマトの相棒であるガブモンは特別な存在のはず。
たとえそれが偽物だと分かっていても、「兄のパートナー」の姿をした相手を、ミコトが易々と傷つけられるはずがない、と。
精神的な揺さぶりをかけ、絶望に歪むミコトの顔を見るための、悪趣味極まりない盤面だった。
「ガアアァッ!!」
ガブモンの姿をしたデジモンモドキが、鋭い爪を振り上げてミコトたちへ飛びかかってくる。
「ミコト! 指示を!」
前衛に立つジークが叫ぶ。
しかし、ミコトの唇はわななき、手は力なく震えており、デジヴァイス01にコマンドを送る気配がない。
だが、カオスピエモンは決定的な勘違いをしている。
ミコトが攻撃を躊躇っているのは、ガブモンが「お兄ちゃんのパートナーだから」ではなかった。
(ガーボ……っ!)
ミコトの脳裏にフラッシュバックするのは、かつてタイチたちと共にデジタルワールドを旅した日々の記憶。
焚き火を囲んで笑い合った夜‥冷たい雨の中で、その温かい毛皮で包み込んでくれたこと。過酷な戦いの中で、何度も励ましてくれた優しい声。
ミコトにとってガブモンは、単なる「兄のパートナー」ではない。
ミコト自身が心を通わせ、共に笑い、共に泣き、共に命を懸けて旅をした、かけがえのない『大切な仲間(ガーボ)』なのだ。
「だめ……っ、私、攻撃なんて……!」
かつての友と同じ姿、同じ毛並み、同じ温もりを思い出させるその存在に、ミコトは戦意を完全に喪失してしまっていた。
「ミコト、しっかりしろ!!」
ジークが、敵の爪を間一髪で避けながら悲痛な声を上げた。
「あいつはガーボじゃない!!そもそもデジモンですらない!!あの道化師が創り出した、ただのデジモンモドキだ!! 目を覚ませ!!」
ジークの言葉は正しい。
目の前の存在は、データの残骸で作られた虚像に過ぎない。
理屈では分かっている。
分かっているはずなのに‥‥
無抵抗な二人を前に、ガブモンの姿をしたデジモンモドキがゆっくりと口を大きく開けた。
その胸郭が膨らみ、喉の奥で青白い光が収束していく。
それは、ミコトとジークがデジタルワールドであの見慣れた必殺技の予備動作だった。
「ガァァッ……プチファイヤー!!」
虚ろな瞳のまま放たれた青い炎の弾が、容赦なく二人に向かって一直線に飛来する。
「しまっ……!」
「ジーク!!」
反射的にミコトを庇うように両腕を交差させたジークだったが、攻撃をためらっていた無防備な状態での直撃。
「ぐああっ!!」
青い炎を浴びたジークは、そのまま後方へと激しく吹き飛ばされ、裏庭地面をゴロゴロと転がった。
「ジーク!!」
ミコトは悲鳴を上げ、膝をついた相棒のもとへと駆け寄る。
ジークの青い皮膚のあちこちには、生々しい火傷の痕が刻まれていた。
『アハハハハハ! 傑作だ! 傑作だよ!君の大好きなお兄さんのパートナーデジモンの必殺技で焼かれる気分はどうだい? これこそが極上の絶望……!!』
次元の向こう側から響くカオスピエモンの歓喜の絶叫が、灰色の霧の中で反響する。
ガブモンモドキは感情を微塵も動かすことなく、再び口を開き、次なる『プチファイヤー』の充填を始めていた。
「う、うう……っ」
煙を上げながら、ジークがゆっくりと立ち上がる。
その瞳は、傷つきながらも決して闘志を失っていなかった。
「……ミコト。目を……覚ませ……」
「ジーク……でも、私……」
「あれは、ガーボじゃない……アイツの『プチファイヤー』は、確かに青い炎だけど……あんなに冷たくて、痛いだけの炎じゃなかったはずだろ……!!」
その言葉に、ミコトはハッと息を呑んだ。
そうだ。
本当のガブモンの放つ炎は、敵を焼き尽くすための苛烈な力でありながらも、振り返ればいつも、仲間を守ろうとする確かな優しさと熱があった。
冷たい雨の夜、震えるミコトたちを温めてくれたのも、あの不器用で優しい青い炎だった。
しかし、今目の前にある炎からは、そんな温度は欠片も感じられない。
あるのはただ、標的を破壊するためだけにプログラムされた、底なしの冷酷さだけだ。
(あれは、ガーボじゃない。ガーボの姿と技を冒涜する、ただの偽物……!)
「ガァァッ……プチファイヤー!!」
二発目の青い炎弾が、無慈悲に放たれる。
しかし、ミコトの瞳に宿っていた迷いは、もう完全に消え去っていた。
大好きな兄のパートナー。大切なデジタルワールドの友達。
その温かい記憶を、こんな悪趣味なゲームのために利用する混沌の道化師への、静かで、しかし激しい怒りが心の中で燃え上がる。
ミコトは、叫んだ。
「ジーク!! かわして、反撃を!!」
「待っていたぜ、その言葉を!!」
ミコトの迷いなき声を受け、ジークの全身に力が漲る。
ジークは迫り来るプチファイヤーを身を沈めて間一髪で回避すると、地面を力強く蹴り上げ、ガブモンモドキの懐へと一気に肉薄した。
「ガーボの姿で、ミコトを泣かすなァッ!! ブイモン・ヘッドォォッ!!」
渾身の力を込めた強烈な頭突きが、ガブモンモドキの腹部にクリーンヒットする。
「ガギャッ!?」
鈍い音と共に、ガブモンモドキの身体が大きく吹き飛び、結界の霧の中へともんどり打って倒れ込んだ。
「やった……!」
だが、敵はまだ完全に沈んではいない。
ミコトはデジヴァイス01を高く掲げ、次なる一手を打つべく、揺るぎない決意の眼差しで前を見据えた。
(ガーボの思い出は、私が守る。こんな偽物に……私たちの絆を汚させたりなんかしない!!)
「ガァウゥゥゥッ……!!」
吹き飛ばされたガブモンモドキは、不気味な鳴き声を上げながらゆっくりと立ち上がった。
その身体を黒いオーラが激しく包み込み、周囲の灰色の霧を巻き込みながら渦を巻く。
『ククク……そうだ。素晴らしい怒りだ。だが、その強がりがいつまで続くかな?』
カオスピエモンの嘲笑と共に、ガブモンモドキの身体が膨張し、姿を変えていく。
「グルルルルッ……!!」
四つ足の銀狼――成熟期『ガルルモン』の姿。
鋭い牙を剥き出しにし、殺意に満ちた咆哮が結界の中に響き渡る。敵がより強力な姿へと進化したことで、さらなる絶望がミコトたちを襲う――カオスピエモンはそう確信していたに違いない。
だが、ガルルモンの姿を見たミコトとジークの顔から、最後の戸惑いが完全に消え去った。
「……やっぱり、お前はガーボなんかじゃない」
ミコトの瞳には、冷たい怒りと明確な戦意が宿っていた。
もしもミコトとジークが知っているガブモンがヤマトのガブモンならばまだ戸惑っていたかもしれない。
だが、ミコトとジークがデジタルワールドの旅で共に過ごし、心を通わせた『彼らの知るガブモン(ガーボ)』は、ただの一度もガルルモンに進化することはなかったのだ。
「僕たちのガーボは、そんな姿にはならない! これで完全に吹っ切れたぜ!!」
「行くよ、ジーク! 私たちの絆を見せてやろう!!」
ミコトがデジヴァイス01を真っ直ぐに突き出す。
すると黒き力の波動がジークを包み込み、その身体を禍々しくも力強い姿へと変えていく。
「ブイモン進化ぁぁっ! デビドラモン!!」
真紅の複眼と漆黒の翼を持つ『複眼の悪魔』デビドラモンへと進化したジークは、力強い羽ばたきと共に一気に上空へと舞い上がった。
ガルルモンが地上から「フォックスファイアー」を放つが、空を自在に舞うデビドラモンにはなかなか当たらない。
「そこだッ!」
上空からの急降下でデビドラモンの鋭い爪がガルルモンの背中を無慈悲に切り裂く。
機動力と地の利を完全に掌握したジークの猛攻により、戦況は完全に逆転した。
『チッ……小癪な真似を‥ならば、これならどうだ!!』
苛立ちを隠せないカオスピエモンの声に呼応するように、傷ついたガルルモンモドキの身体が再び黒い光に包まれる。
「ガアアアァッ!!」
二本足で立つ獣人――完全体『ワーガルルモン』の姿。
完全体へ進化したワーガルルモンは、デビドラモンの追撃を獣の俊敏さで躱すと、病院の裏庭に鬱蒼と生い茂る巨大な桜の木々へと跳躍した。
「こいつ、空からの攻撃がダメなら、姿を隠して仕掛けてくる気か……!?」
ワーガルルモンは枝葉の茂みに身を潜め、完全に気配を絶った。
次の瞬間、木々の死角から弾丸のような速度で飛び出し、空中のデビドラモンへと襲いかかる。
「カイザーネイル!!」
「ぐあっ!?」
虚空を切り裂く鋭い爪がデビドラモンの翼を掠め、ジークは体勢を崩した。
反撃しようにも、ワーガルルモンは既に別の木の茂みへと姿を消している。
「くそっ、ちょこまかと……!」
「落ち着いて、ジーク! 奴の動きには必ずパターンがあるはず!」
何度か死角からの奇襲を受け、ジークの漆黒の皮膚に傷が増えていく。
しかし、地上から戦況を見つめるミコトの瞳は、焦るどころか研ぎ澄まされた観察眼で敵の動きを追っていた。
右の木から、左の木へ‥‥そして次は上段の太い枝から……。
(……っ!?見えた!!)
ワーガルルモンの俊敏な動き。
しかし、感情を持たないプログラムされた「偽物」であるがゆえに、その動きはあまりにも機械的で、奇襲のタイミングと踏み込む足場に一定の『癖』があった。
「ジーク! 次は右斜め下、三時の方向から来る!! わざと隙を見せて!!」
「分かった!!」
ミコトの的確な指示を信じ、デビドラモンはわざと高度を下げ、背後を無防備に晒す。
「ガァァッ!!」
狙い通り、ワーガルルモンが三時の方向の茂みから飛び出してきた。
鋭い爪を振りかざし、デビドラモンの無防備な背中を狙う――。
「今だッ!!ジーク!!」
「捕まえたぜ!!この偽物野郎!!」
振り返りざま、デビドラモンの強靭な腕が、空中で回避不能となったワーガルルモンの首根っこをガッチリと掴み上げた。
「ガ、ガァッ!?」
「ガーボの顔で、ミコトを傷つけようとしたこと、あの世で後悔しな!!」
至近距離‥逃げ場のないゼロ距離で、デビドラモンの右腕が禍々しい真紅の光を帯びる。
「クリムゾンネイルゥゥッ!!」
空間ごと引き裂くような真紅の爪撃が、ワーガルルモンの胸部を十字に深く抉り取った。
「ギャアアアアァッ……!!」
断末魔の叫びと共に、ワーガルルモンの身体はノイズ混じりのポリゴンへと崩壊し、霧散していく。
『……チッ、つまらん結末だ。だが、ゲームはまだ始まったばかりだよ、小さな魔王。次のゲームも楽しみにしている。ハハハハハ‥‥』
捨て台詞と共にカオスピエモンの気配と周囲を覆っていた灰色の霧が嘘のように晴れていく。
カオスピエモンとしてはミコトの絶望した顔を見たかったのだが、何らかのきっかけで吹っ切れたかのように今回の刺客に攻撃をしかけて来た。
これはカオスピエモンの大きな計算違いであった。
絶望を与えて戦意喪失を狙ったのだが、逆に進化させた事で闘争意欲を掻き立ててしまったのだから‥‥
病院の裏庭には、再び狂い咲く桜のピンク色と穏やかな日差しが戻ってきた。
戦いを終えて、チビモンの姿に戻ったジークを胸に抱きとめながら、ミコトは大きく息を吐いた。
「勝った……ね、ジーク」
「おう!ミコトの指示が完璧だったからな!」
ふと、ミコトの視線が、ワーガルルモンが消滅した地面に注がれた。
そこには、一枚の黒いカードが落ちている。
ミコトが拾い上げると、そこにはこれまでのカード同様、不気味な道化師の紋章と共に、先ほどまで戦っていた『ガブモン』の絵柄が冷たくプリントされていた。
手の中に残された、禍々しいガブモンのカード。
カオスピエモンと偽物の脅威は去ったが、灰色の霧が晴れた後も、ミコトの心にはどす黒い不安の影が色濃く落ちていた。
(あの道化師……数日前にヤマトお兄ちゃんがお見舞いに来たことを知っていた。それに、私とヤマトお兄ちゃんの関係もバレた‥‥)
ミコトの脳裏に、あのお台場を覆い尽くした絶望の濃霧の中での記憶がフラッシュバックする。
お台場の街中に無数のバケモンが暴れ狂う地獄のような光景の中、彼女は確かに見たのだ。
巨大な蒼い狼――ガルルモンの背中に跨り、必死に戦う兄の姿を‥‥
そして今日、目の前に現れた刺客。
これで決定的な確信へと変わった。
兄・石田ヤマトもまた、自分と同じようにデジモンと共に戦うテイマーであり、ガブモンが彼の本当のパートナーなのだと‥‥
「……どうしたんだよ、ミコト。怖い顔して」
腕の中でジークが心配そうに見上げてくる。
「……ねえ、ジーク。今日の道化師の口ぶりから、どうやら私とヤマトお兄ちゃんの関係がバレたみたい」
「どうやらその様だな」
「もしあの道化師が、私への嫌がらせのためだけに、東京にいるお兄ちゃんを標的にしたら、どうしよう……?」
ミコトの呟きに、チビモンもハッと息を呑んだ。
あの道化師が何処に潜んでいるのか未だに不明だ。
いつ、何処から、どんな刺客を送り込んでくるのか?
主導権は常にあの道化師が握っている。
今の所、あの道化師の狙いは自分であるようだが、いつ標的を自分から兄に変えてもおかしくない。
「……確かめなきゃ」
ミコトはカードを固く握りしめ、足早に病室へと戻っていった。
その日の夜‥‥
人気のなくなった病院のロビーの公衆電話からミコトは東京・お台場の石田家へと電話をかけた。
『――もしもし、石田です』
「あっ、ヤマトお兄ちゃん?」
『ミコトか? どうした、こんな時間に?』
数回のコール音の後、電話の向こうから聞こえてきたのは、少し驚いたようなヤマトの落ち着いた声だった。
「ヤマトお兄ちゃん? 夜遅くにごめんね。ちょっと……ヤマトお兄ちゃんの声が聞きたくて」
『……なんだよ、具合でも悪いのか? 昼間は検査の日だったんだろう。何か言われたのか?』
すぐに心配性を発揮する兄の声に、ミコトは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながらも、努めて明るい声を作った。
「ううん、違うよ! 検査の結果はすごく良くて、先生にも褒められたくらいだもん。ただ……ちょっと変な夢を見ちゃって」
『夢?』
「うん……ねぇ、お兄ちゃん。最近、お台場の方で何か変わったこと……変な事件とか、起きてない?」
息を殺し、電話越しの兄の反応を待つ。
ほんの数秒の沈黙が、ミコトには永遠のように長く感じられた。
『……変なこと?』
ヤマトは少し拍子抜けしたように笑うと、穏やかな声で答えた。
『いや、特に何もないぞ。至って普通だ。学校行って……強いて言えば、タケルが前より頻繁にこっちへ遊びに来るようになったくらいかな?退屈なくらい、平和な毎日だよ』
ヤマト自身、初音島に何か異変があるのではないかと内心思っていたが、ミコトを不安にさせないようにその点については黙っており、お台場では何の異変もない平穏な日々が流れている事を伝える。
「……そっか。何もないなら、よかったよ。ただの夢の話だから気にしないで」
『なんだよ、変なヤツだな……本当は心細いんじゃないのか? 週末、また島に行こうか?』
「ううん、大丈夫!私は平気だから、お兄ちゃんも自分の時間を大切にしてね……おやすみなさい、ヤマトお兄ちゃん」
『ああ。おやすみ、ミコト』
通話が切れ、画面が暗くなる。
ミコトは大きく安堵の息を吐き出し、ベッドの上に寝転がった。
東京は平和だ。
カオスピエモンの魔の手は、まだヤマトたちには届いていない。
しかし、それは同時に「戦いの最前線は、この初音島にしかない」という残酷な事実の裏返しでもあった。
「ヤマトお兄ちゃんには、私が戦っていること……絶対に秘密にしなきゃ」
布団の隙間から顔を出したチビモンの頭を優しく撫でながら、ミコトは暗闇の中で決意を新たにする。
東京にいる兄たちは、あのお台場とミコトは知らないがデジタルワールドでの死闘を戦い抜き、ようやく平和な日常を取り戻した。
これ以上、兄たちを危険な戦いに巻き込むわけにはいかない。
カオスピエモンの標的が自分と体内の『魔王の因子』であるならば、すべての脅威はこの島の中だけで、自分とジークの手で終わらせてみせる。
「守ってみせるよ……お兄ちゃんたちの平和な日常を‥‥」
かりそめの平穏を享受する兄とその裏で孤独な死闘を背負い込む妹。
互いを想い合うがゆえに真実を隠し合う二人の運命を次元の狭間で嗤う道化師の影が、すぐそこまで迫っていた。
通話が切れ、ツーツーという無機質な電子音が響く。
ヤマトは受話器をゆっくりと置きながら、重いため息を吐き出した。
「……ミコトのやつ、また無理して笑ってやがったな」
窓の外には、お台場の穏やかな夜景が広がっている。
ミコトの言葉通り、東京の街は平和そのものだった。
かつてヴァンデモンが引き起こしたあの悪夢のような日々はすっかり過去のものとなり、人々は当たり前の日常を享受している。
だが、電話越しに聞いた妹の微かな声の震えをヤマトの耳が聞き逃すはずがなかった。
『ちょっと変な夢を見ちゃって』
『お台場の方で何か変わったこと……変な事件とか、起きてない?』
あからさまに何かを警戒し、探りを入れるような不自然な質問。
ミコトは昔から、本当に辛い時や何かを隠している時ほど、あのようにわざとらしいほど明るい声を出す癖がある。
ふと視線をやると、机の片隅に飾られた写真立てが目に入った。
そこには、太一たち仲間と共に笑うヤマト、そしてヤマトの隣で嬉しそうに笑う黄色い毛皮の相棒――ガブモンの姿が収められている。
「……ガブモン」
ヤマトは写真立てにそっと指を這わせた。
デジタルワールドでの過酷な冒険を終え、平和な日常を取り戻した代償として、選ばれし子供たちはパートナーデジモンたちと離れ離れになってしまった。
ガブモンは今、デジタルワールドにいる。
どれほど強く呼ぼうとも、あの温かい毛皮を持つ相棒がヤマトの足元から顔を出す事も声をかけてくる事もない。
(せめて、ガブモンが居れば、初音島の異変を突き止める事が出来たのかもしれないな‥‥)
デジモンの事はデジモンが一番よくわかっている筈だ。
もし、今自分の下にガブモンが居てくれたら‥‥
と、思ってしまうヤマトだった。
そして、ミコトが今日、その「大切な相棒」の姿をした偽物に心をえぐられそうになっていたことなど、ヤマトは知る由もない。
ただ、大切な妹が一人で何かを抱え込んでいるという予感だけが、ヤマトの心を暗く覆っていた。