デジタルワールドでの過酷な冒険を終え、パートナーデジモンと離れ離れになってしまった選ばれし子供たち。
日常を取り戻した彼らの裏側で、一年中狂い咲く桜に覆われた神秘の島『初音島』では、混沌の道化師・カオスピエモンによる新たなる絶望のゲームが幕を開けていた。
病気療養のために島に滞在する石田ヤマトの妹・ミコトは、自身に宿る『魔王の因子』を狙う脅威から兄たちの平穏を守るため、相棒のジーク(ブイモン)と共に人知れず孤独な戦いに身を投じていた。
そんな彼女の心をへし折るべくカオスピエモンが差し向けた次なる刺客は、ヤマトの大切なパートナーである『ガブモン』の姿と技を模した、冷酷な偽物(デジモンモドキ)だった。
兄との絆を象徴するその姿を前に、一度は戦意を喪失したミコト。
しかし、かつて共に旅をした「本物のガブモン(ガーボ)」が持っていた不器用で確かな温もりを思い出し、決意を新たにデビドラモンへと進化したジークと共に偽物を打ち倒す。
だが、道化師の悪意が東京のヤマトにまで及ぶことを危惧したミコトは、不安を押し殺し、嘘の笑顔を作ってヤマトへと電話をかける。
一方、お台場にいるヤマトもまた、妹の不自然な明るさから彼女が独りで危険な事態を抱え込んでいることを察知していた。
「――せめて、ガブモンが居れば」
今のヤマトの隣に、あの温かい毛皮を持つ相棒はいない。
パートナー不在という抗いようのない無力さに苛立ちながらも、見えない暗雲から妹を救い出そうと焦燥を募らせるヤマト。
そして、兄を巻き込まないために、たった一人で絶望の最前線に立ち続けるミコト。
互いを大切に想うがゆえに真実を隠し、すれ違っていく不器用な兄妹の絆。
次元の狭間で嗤うカオスピエモンが次なる『絶望のカード』を切る時、かりそめの平穏に隠された残酷な運命の歯車が、激しく回り始めるのだった――。
朝の光が、カーテンの隙間から病室の床に柔らかな格子模様を描き出す。
窓の外に目をやれば、今日も変わらず風に揺れる初音島の桜が見事なピンク色の絨毯を広げていた。
「ん~……ふぁ~……」
ミコトはゆっくりと目を開けて、小さくベッドの上で身体を伸ばした。
かつてなら、朝起きた瞬間に胸の重苦しさや、体全体が鉛のような倦怠感に襲われることが多かった。
しかし、医師の言葉通り、ここ最近の体調は本当に驚くほど安定している。
深く息を吸い込んでも、胸が痛むことはない。
(本当に、少しずつ良くなっているんだ……)
自分の手のひらを握り締め、体調の回復を実感する。
しかし、そのすぐ後に、昨夜のヤマトとの電話、そして手元に残されたあのガブモンのカードが頭をよぎり、胸の奥が微かに痛んだ。
「ヤマトお兄ちゃん‥‥ガーボさん‥‥」
ぽつりと呟いたその時、掛け布団の端がもぞもぞと不自然に動き出した。
中からひょっこりと青い頭を覗かせたのは、チビモン姿のジークだ。
大きなあくびをしながら、眠そうに目をこすっている。
「ふわぁ~……おはよ、ミコト。もう朝?」
「おはよう、ジーク。よく眠れた?」
「うん、ばっちり! お腹もペコペコだよ!」
ジークはベッドの上に飛び乗ると、お腹をさすって無邪気に笑った。
その屈託のない笑顔に、ミコトの心にまとわりついていた暗い霧が、少しだけ晴れていくのを感じる。
「もう、ジークは食いしん坊なんだから。はい、これ。昨日、回診の看護師さんが『お見舞いのお裾分け』ってくれたクッキー」
ミコトが引き出しからこっそり取り出した小さな包みを渡すと、ジークは目を輝かせてそれを受け取った。
「わーい! いただきまーす!」
サクサクと音を立ててクッキーを頬張る相棒の姿を、ミコトは愛おしそうに見つめる。
デジタルワールドでの凄惨な戦いを経て、今こうして大好きなデジモンと一緒に朝を迎え、他愛のないお喋りを楽しんでいる。
それは、お台場の子供たちが失ってしまった「奇跡」のような時間だった。
コンコン、と小気味よい音が部屋に響いたのは、ジークが二枚目のクッキーを口に放り込んだ瞬間だった。
「ミコトちゃん、朝ご飯持って来たわよー!」
「あっ、大変! ジーク、隠れて!」
「んぐっ!? お、おう!」
ジークは慌てて残りのクッキーを口に押し込むと、ミコトの掛け布団の中へと滑り込んだ。
「おはよう、ミコトちゃん。今日もいいお天気ね」
入ってきたのは、この病院の看護師だった。
お盆の上には、湯気を立てる温かいお粥と島で採れた新鮮な果物や野菜、魚を使ったが並んでいる。
「おはようございます」
「ふふ、最近は食欲も戻ってきて本当に良かったわ。」
「え、ええ‥‥そのおかげかここ最近は発作もなく元気に過ごせています」
相変わらず小食ではあるが、この病室の同居人が一緒に食べている事を看護師は当然知らない。
「よかったわね。あっ、そう言えば、最近島に新しくできた和菓子屋さんの桜餅がすごく美味しいのよ。今度外に出た時、行ってみてね」
「へぇ~今度行ってみますね。情報提供ありがとうございます」
看護師の温かい言葉にミコトは心からの笑みを返した。
朝食をサイドテーブルの上に置くと看護師は病室を後にした。
看護師が病室から出て行くと、掛け布団の隙間から顔を出したジークが、目をぱちくりとさせながら首を傾げた。
「ワガシ?サクラモチ?なに?それ?」
その無邪気な様子に、ミコトは思わずクスッと吹き出してしまった。
「ふふっ、ジークったら。さっきクッキーを食べたばっかりなのに、もう次のおやつの話?」
「だって気になるじゃん! さっきの看護師さんが『すごく美味しい』って言っていたぞ。それって甘いの? それともお肉みたいにジューシーなの?」
食い入るように聞いてくるジークの鼻先を、ミコトは指先で軽くつついた。
「お肉じゃないよ。和菓子っていうのはね、昔から日本にあるお菓子のこと。桜餅はその一つで、外の桜の花びらみたいな綺麗なピンク色のお餅の中に、アンパンで使っている甘い『あんこ』がたっぷり入っているの。それに、少ししょっぱい桜の葉っぱでくるんであるから、甘じょっぱくてすごく美味しいんだよ」
「ピンク色のお餅……甘くて、しょっぱい……!」
想像を膨らませたのか、ジークは「じゅるり」と小さく生唾を飲み込んだ。
その様子があまりにも愛らしくて、ミコトの胸にじんわりとした温かさが広がる。
「先生から病院の外へお出かけしてもいいって許可が出たら、二人でこっそり買いに行こうね。ジークにも、この島の色んな美味しいものを教えてあげたいな」
「本当か!? やったー! 約束だぞ、ミコト!」
嬉しそうに飛び跳ねようとするジークを「しーっ、声が大きいよ」と慌てて布団の中に押し戻しながら、ミコトは久々に心からの無邪気な笑声をこぼした。
デジタルワールドでの凄惨な戦い。
そして、カオスピエモンという見えない恐怖。
張り詰めた糸のような日々の中で、この小さな相棒と過ごす他愛のない日常会話だけが、ミコトの心を人間らしく繋ぎ止めてくれていた。
その日の午後。
体調が良いことから、ミコトは医師から中庭までの軽い散歩を許可された。
「うーん……っ、気持ちいい!」
ぽかぽかとした春のような陽気の中、ミコトはベンチに腰掛け、大きく深呼吸をした。
一年中狂い咲く初音島の桜が、今日も風に揺れて見事なピンク色の花びらを舞い散らせている。
「よかったな、ミコト。外の空気、美味しいだろ?」
ミコトの膝の上に置かれたリュックサック。
その少しだけ開いたチャックの隙間から、ジークが小さな声で話しかけてくる。
「うん。此処最近は色んな事があったからこうしてのんびりとしていると、なんだか世界がすごく広く感じるよ」
(ヤマトお兄ちゃんもこうした平穏な生活を送っているんだろうな‥‥)
中庭にはリハビリのためにゆっくりと歩く年配の患者や車椅子を押しながら談笑する家族連れ。花壇の手入れをする用務員の姿。
誰もが穏やかな顔で、この異常なまでに平和な『一年中桜が咲く島』の日常を謳歌している。
もしこの平穏が、カオスピエモンの手の上で踊らされているだけの盤面に過ぎないのだとしたら?
彼がその気になれば、この中庭で笑っている人たちの日常など、あの日のお台場のように一瞬で地獄へと変えられてしまうだろう。
「……ミコト?」
「ううん、なんでもないよ」
不安げに見上げてくる相棒を安心させるように、ミコトはリュックの上から優しくポンポンと叩いた。
(うじうじ考えても仕方ない。私にはジークがいる。手札だってある。もしあの道化師がこの島の人たちや、東京にいるヤマトお兄ちゃんたちを傷つけようとするなら……私がここで全部食い止めるんだ)
「ねぇ、ジーク。いつか本当に全部終わったら、ヤマトお兄ちゃんたちも呼んで、みんなで桜餅を持ってお花見したいね‥‥」
「おうさ! その時は、僕が一番でっかい桜餅を食べるからな!」
リュックの中からの元気な返事に、ミコトは力強く頷いた。
いつ壊れるともしれないかりそめの平穏。
それでも、膝の上にある確かな温もりと、遠く離れた東京にいる大好きな兄の笑顔を守るため、ミコトは桜舞う空を見上げ、静かに闘志を燃やし続けていた。
その日の夜‥‥
病室の明かりを落とした暗闇の中、ミコトのベッドの上ではノートパソコンの液晶画面だけが青白く発光していた。
「……なるほど。この前の実験で『デジヴァイス01』から引き出したゼロ丸さんのデータを基盤にすれば、ジークのデジコアへの負荷を減らしつつ、別の進化ルートを固定化できる……」
画面に表示された複雑なデータ列とデジヴァイス01のインターフェースを睨みながら、ミコトは真剣な表情でキーボードを叩いていた。
その傍らで、丸くなっていたジークがむくりと身を起こす。
「ふぁ~……ミコト、まだ起きているの? 一体何を調べているんだ?」
「ごめんね、起こしちゃった? 実はね、ジークの新しい進化について考えていたの」
「新しい進化?ああ、この前試したあの進化か!?」
ジークの目がパァっと輝く。
ミコトは頷き、パソコンの画面に表示された『V』の字を持つドラゴンのシルエットを指差した。
「そう。ゼロ丸さんのデータを『アップリング』することで、ジークは『ブイドラモン』というもう一つの姿へ進化できる。でも、これは通常の進化じゃなくて、過去のデータを上書きして引き出す特殊なプロセスなの。だから、普通の進化(エボリューション)とは違う、特別な掛け声を付けた方がいいと思って」
「特別な名前!?いいな、それ!!折角だし、かっこいいやつにしようぜ!!」
すっかり目が覚めたジークが身を乗り出してくる。
こうして二人だけの、小さな深夜の作戦会議が始まった。
「うーん……アップリングを使うから、安直に『アップリング・レボリューション』はどう?」
「なんか響きが固いなあ。もっと強そうなのがいい!」
「じゃあ、データを上書き(オーバーライト)するような進化だから、『データ・レボリューション』?」
「データ……ちょっと難しいかも。もっとこう、ババーン! って感じの!」
腕組みをして唸るジークに、ミコトはふふっと微笑んだ。
それからいくつか互いに候補を出したのだが、どうにもこれだと言う名前が出てこない。
そして、画面に映るゼロ丸のデータを見つめ、静かに口を開く。
「……『レガシー』はどうかな?遺産とか、受け継がれるものって意味があるの。ゼロ丸さんという偉大な先輩デジモンのデータ……その『意志』を受け継いでの進化。だから、『レガシー・レボリューション』」
「レガシー・レボリューション……!」
ジークは何度もその言葉を口の中で転がし、やがて満面の笑みで親指を立てた。
「いいな!!それ!!すっごくかっこいい!!決まりだな、ミコト!!」
「うん」
翌日。
体調の良さを確認したミコトは、医師の許可を得て病院の外へ足を伸ばした。
背中のリュックサックの中には、もちろんジークが潜んでいる。
先日、看護師から教えてもらった和菓子屋は、風情のある木造りの小さな店だった。
店先に並ぶ色鮮やかな和菓子の中から、お目当ての桜餅と、ジークが喜びそうなどら焼きを購入する。
「よし、それじゃあ、行こうか?ジーク」
「おう!!」
初音島を一望できる高台の絶景スポット。
海風が心地よく吹き抜け、満開の桜が空の青と海の蒼に美しく映えている。
周囲に人がいないことを確認し、ミコトはリュックのチャックを開けた。
「ぷはーっ! やっと出られた! うわぁ、すっげー景色!」
「ふふ、お疲れ様。さあ、お待ちかねのおやつだよ」
ミコトがベンチに座って桜餅とどら焼きを広げると、ジークは目を輝かせて飛びついた。
「これが和菓子‥サクラモチか!?いただきまーす! ……んんっ! 甘くて美味しい! この葉っぱのしょっぱさがたまらないな!」
「どら焼きも食べてみて。中にあんこが入っているでしょう?」
「おおっ! 同じあんこでも、やっぱりアンパンがナンバー1だけど……これもすっごく美味いぞ!」
口の周りにあんこをつけながら、幸せそうにどら焼きを頬張るジーク。
その姿を見つめながら、ミコトはふと、遠く離れた東京の空を思い浮かべた。
(パパとヤマトお兄ちゃん、最近ちゃんとご飯食べているかな……?今度ヤマトお兄ちゃんがこの島に来てくれた時は、絶対にこの桜餅を教えてあげよう。みんなで一緒に、ここで笑って、桜を見ながら一緒に桜餅を食べよう……)
そんなささやかな未来の約束を、ミコトは心の中でそっと結んだ。
その頃、次元の狭間に広がる歪んだ異次元空間。
チェス盤のような床の上で、カオスピエモンは三日月型の口を吊り上げて嗤っていた。
「ククク……偽物のガブモンは小手調べ。本番はここからだ」
宙に浮く複数のカードから、彼は一枚を指で弾き出した。
カードには、青き巨竜の姿が描かれている。
「今度はちょっとパワーのある奴が相手だ。さて、どう出る? 小さな魔王よ。ハハハハハ……!」
道化師の高笑いが、何もない空間に不気味に木霊した。
絶景スポットから病院への帰り道。
人気のない小道を歩いていたミコトとジークは、同時に足を止めた。
肌を刺すような、重く冷たいプレッシャー。
瞬く間に周囲の景色が薄暗い霧の結界に覆われていく。
「ミコト、来るぞ……!」
「うん。ジーク、お願い!」
霧を引き裂き、地響きを立てて現れたのは、巨大な恐竜型デジモン――『青いグレイモン』だった。
成熟期の中でもトップクラスのパワーを誇る強敵だ。
(相手はパワータイプ。ここでカオスピエモンに手の内を見せることにはなるけど……今後のためにも、実戦で試しておきたい!)
ミコトは迷わずデジヴァイス01を構えた。
「ジーク、行くよ! ゼロ丸さんのデータを……アップリング!」
「おう! ミコト!」
デジヴァイス01から放たれた光のデータ列が、ジークの体を包み込む。
『レガシー・レボリューション!!』
光が晴れた後、そこに立っていたのはデビドラモンではない。
漆黒の体表に青いラインが走る、幻の竜。
「ブイドラモン(黒)……!」
「グァァァァァッ!!」
青いグレイモンが咆哮と共に突進してくる。
「さあ、来やがれっ!」
黒いブイドラモンへと進化したジークもまた、真正面から迎え撃った。
ドォォォンッ!
巨大な角と、強靭な両腕が激突する。互いの肉体がぶつかり合う、純粋な力と力のぶつかり合い。ギリギリと筋肉が軋む音が響く。
「メガフレイム!!」
至近距離から放たれる超高熱の火炎球。
「ブイブレスアロー!!」
ジークの口から放たれた黒いV字の熱線が、メガフレイムと真正面から衝突し、周囲の霧を爆風で吹き飛ばす。
(パワーは互角……でも、グレイモンには明確な弱点があるはず!)
ミコトは素早くデジヴァイス01を操作し、かつてデジタルワールドでタイチがグレイモン系統と戦った際の戦闘記録(データ)を呼び出した。
『グレイモン種は頭部の装甲が非常に硬固だが、その分、背中への攻撃に脆い』
「ジーク! グレイモンの頭の殻は硬いけど、背中が弱点だよ! データを転送(アップリング)!」
「了解! もらったぜ!」
ミコトから転送された弱点マーカーが、ジークの視界に表示される。
ジークはグレイモンの巨体をいなし、身を翻してその背後へと回り込んだ。
「これで……終わりだっ!!」
強烈な一撃が、青いグレイモンの無防備な背中を正確に打ち抜いた。
「グギァァァァッ……!!」
悲鳴を上げ、青いグレイモンの巨体が地響きと共に倒れ伏す。
勝った、と思ったその瞬間だった。
倒れた青いグレイモンの身体から、どす黒い闇の力が爆発的に間欠泉のように噴き出したのだ。
「え……!?」
「ミコト、下がれ! こいつ、様子がおかしいぞ!」
闇のエネルギーが収束し、鋼鉄の装甲が肉体を覆っていく。
「ググガァァァァァッッ!!」
不気味な金属音を伴う咆哮が、結界の霧を激しく震わせた。
背中から生えた禍々しい紫色の肉翼が広がり、左腕は鈍い鈍色に光る巨大な鋼鉄の爪――トライデントアームへと変貌を遂げている。
その圧倒的な質量とウイルス種特有のどす黒いプレッシャーが小道に吹き荒れる。
「しまった!!こいつ完全体へ超進化しやがった……!」
黒いブイドラモンの姿のまま、ジークは身構えた。だが、彼の脳裏をよぎったのは、目の前の強敵への恐怖よりも、背後にいるパートナーへの強い懸念だった。
(まずいぞ……!青いメタルグレイモン……これって、タイチたちと旅をしていた時、四つのタグを守っていたアイツと同じゃないか……!?)
ジークは恐る恐る、後ろにいるミコトへと視線を向けた。
先日のガブモン(モドキ)が現れた時、ミコトは大切な仲間の姿を前に戦意を喪失し、あわや大惨事になりかけた。カオスピエモンは今回もまた、ミコトの大切な記憶を人質に取り、その心を内側から粉々に砕くつもりなのだ。
「ミコト! 大丈夫か!? 無理に戦おうとするな、ここは僕が――」
ジークは悲痛な声を上げ、ミコトを庇うように腕を広げようとした。
しかし‥‥
「心配しないで、ジーク。私は大丈夫」
返ってきたのは、驚くほど静かで、そして芯の通った凛とした声だった。
ジークが驚いて振り返ると、ミコトはデジヴァイス01をしっかりと胸の前に握りしめ、青いメタルグレイモンを真っ直ぐに見据えていた。
その瞳には、先日のような戸惑いや迷いは微塵も存在せず、ただ透き通った強い意志の光だけが宿っている。
ミコトにとって、ガブモンはただ一度も敵に回ることのなかった。
最初から最後まで「温かい光の記憶」そのものの存在‥‥
だからこそ、その姿を汚された時に激しいショックを受けた。
だが、この青いメタルグレイモンは違う。
(確かに貴方は、かつて私たちがデジタルワールドを旅した時、暗黒の力に囚われて四つのタグを守らされていた……でも、ガブモンの時とは決定的に違う理由があるの)
ミコトの脳裏に、かつての死闘の記憶が蘇る。
あの時、暗黒の霧に操られていた青いメタルグレイモンをミコトたちは命懸けで戦い、その呪縛を解き放った。
闇を打ち払い、浄化された彼は、本来の正しい姿である「オレンジ色の身体」を取り戻し、最後はミコトを守るために散った。
「あの時のメタルグレイモンさんの魂(データ)は……今もジーク、貴方の中で一緒に生き続けているんだから!」
「……っ!?そうか……そうだったな、ミコト!」
ジークの胸の奥、デジコアのさらに深奥で、かつて受け継いだ偉大な竜の意志が、ミコトの言葉に呼応するように熱く脈打った。
本物の彼は、自分たちの中にいる。自分たちの血肉となり、今も共に戦ってくれている。
ならば、目の前で咆哮を上げている青いサイボーグは、カオスピエモンが偶然選んだだけの中身のまったくない「ただの操り人形」に過ぎない。
青いメタルグレイモンが巨大な翼を羽ばたかせ、地面を蹴った。
鋼鉄の左腕が、容赦なく黒いブイドラモンへと振り下ろされる!
「グガァァァッ! トライデントアーム!!」
「正面から受けて立つ!!」
ジークは鋭い爪を交差させ、迫り来る鋼鉄の質量を真っ向から受け止めた。
キィィィィンッ!! と火花が散り、激しい衝撃波が周囲の桜の木々を揺らす。完全体のパワーは凄まじく、ジークの足元の地面がメリメリとひび割れていく。
「ジーク! 力負けしないで! 貴方の中にある、本物の底力を見せてあげて!」
ミコトはデジヴァイス01の画面を素早くスワイプし、ジークへさらなるエネルギーを送り込む。
「うおおおおおっ!! 舐めるなぁぁぁッ!!」
ジークの咆哮と共に、黒い身体のブルーラインが眩く発光した。
内側から湧き上がる「受け継がれし魂」の力が、完全体のパワーを押し返す!
「ガ、ガァッ!?」
青いメタルグレイモンが、力比べで逆に押し込まれ、体勢を崩した。
すると、胸のハッチが不気味な音を立てて開く。
その奥に覗くのは、すべてを消し飛す破壊兵器『ギガデストロイヤー』。
(まずいっ!!あれを撃たれたら……いくら霧の結界があるとはいえ、余波だけで初音島の繁華街まで吹き飛んじゃう!)
「ジーク! さらに進化よ!」
「おう!!」
ミコトの強い意志に呼応し、デジヴァイス01が限界を超えた光を放つ。
「ブイドラモン、超進化――!! エアロブイドラモン(黒)!!」
漆黒の翼を持つ竜戦士、エアロブイドラモン(黒)へと進化したジークは、ミコトをその背に乗せ、一気に上空へと飛び立った。
「此奴を街から引き離すよ、海へ向かって!」
「分かった。しっかり掴まっていろよ、ミコト!」
黒いエアロブイドラモンになったジークは翼をはためかせて空へと飛ぶ。
すると、青いメタルグレイモンも背中の翼を広げ、後を追って飛翔する。
そして、戦いの舞台は初音島を離れ、波打つ海の上空へと移った。
初音島から遠く離れた、波打つ海の上空。
漆黒の翼を持つエアロブイドラモンと、巨大な紫色の肉翼を羽ばたかせる青いメタルグレイモン。
二体の完全体による空中戦は、互いの意地と力が真っ向からぶつかり合う、一進一退の激戦となっていた。
「グガァァァァッ!!」
「そらそら、遅いぜ!」
巨体にも関わらずミサイルのような推進力で突進してくるメタルグレイモンの攻撃を、ジークは身軽な空中機動で紙一重で躱し、すかさず反撃の蹴りを叩き込む。
打撃と鋼鉄がぶつかる重い衝撃音が、波の音を掻き消して何度も空に響き渡った。
(すごい……完全体同士の戦い。でも、ジークの動きは相手のパワーに少しも押されていない!)
ジークの背中にしがみつきながら、ミコトは相棒の頼もしい姿に目を細めた。
業を煮やした青いメタルグレイモンが、距離を取るように大きく後退する。
そして、左腕の『トライデントアーム』を真っ直ぐにミコトたちへと向けた。
「グオオオオッ!!」
咆哮と共に、巨大な鋼鉄の爪がロケットパンチのように射出される。
背後の本体とワイヤーで繋がったまま、唸りを上げて空を裂き、一直線に襲い掛かってきた。
「ジーク、来るよ!」
「任せろ!」
回避することは十分に可能だった。
しかし、ジークはあえて逃げることなく、正面から両腕を前に突き出した。
ガキィィィンッ!!
「ぐっ……おもっ……!」
猛烈な勢いで飛んできた鋼鉄の爪を、エアロブイドラモンの強靭な両手ががっしりと受け止める。
凄まじい推進力に押し込まれそうになるが、ジークは空中で力強く踏ん張り、その質量を完全に停止させた。
「捕まえたぜ。そのワイヤーで本体と繋がっているのが、お前の運の尽きだ!」
「……え? ジーク、まさか!」
「しっかり掴まっていろよ、ミコト! うおおおおおっ!!」
ジークはトライデントアームをしっかりと抱え込んだまま、空中で横回転を始めた。
最初はじりじりと、しかし次第にその回転速度は増していく。
「グガッ!? ガァァァ……ッ!!」
ワイヤーで繋がれている青いメタルグレイモンは、抗う術もなく強引に引っ張られ、振り回され始めた。
巨大なサイボーグ竜が、まるでハンマー投げのハンマーのように海上をぐるぐると旋回する。
ジークの生み出す強烈な遠心力に、メタルグレイモンは翼を羽ばたかせることすらできず、ただ目を回して呻き声を上げるしかなかった。
「それっ! 飛んでけぇぇっ!!」
回転の速度が最高潮に達した瞬間、ジークは掴んでいたトライデントアームを勢いよく手放した。
「グギャァァァァァァッ!!?」
猛烈な遠心力に乗せられ、突然空の彼方へと放り投げられた青いメタルグレイモン。
天地がひっくり返る錐揉み状態のまま宙を舞い、重いサイボーグの身体では空中で態勢を立て直すことなど到底不可能だった。
完全に無防備な姿を晒す巨大な標的。
「今よジーク! 一気に決めて!!」
「おう! これで終わりだぁっ!!」
ミコトの叫びに呼応し、ジークは漆黒の翼に莫大なエネルギーを収束させる。
空気が震え、空間そのものを切り裂くような高熱のエネルギーが形成されていく。
「『Vウイングブレード』ォォォッ!!」
翼から放たれた、超高熱を帯びた深紅のV字型の光剣。
それは一直線に空を駆け抜け、為す術もなく落下していく青いメタルグレイモンの巨体を真っ二つに切り裂いた。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
海上の空で、一際巨大な爆発が巻き起こる。
激しい光と爆風が吹き荒れ、やがて黒煙が晴れると、そこにはもはや強大なサイボーグ竜の姿はなかった。
完全に消滅したのだ。
「……勝った。やったね、ジーク!」
「へへっ、どんなもんだい!」
荒い息を吐きながらも、得意げに笑うジーク。
すると、メタルグレイモンが消滅した虚空から、一枚の黒いカードがひらひらと海面に向かって舞い落ちてきた。
ミコトはジークの背から手を伸ばし、そのカードをしっかりとキャッチした。
(前回のガブモンはワーガルルモンへ‥そして今回のグレイモンはメタルグレイモンへ……)
手の中のカードを見つめ、ミコトは戦慄を覚えた。
あの道化師は、ただ遊んでいるだけではない。
確実に、ミコトを殺すために『完全体』という強力な刺客のカードを切り始めていた。
一方、その様子を異次元空間のモニター越しに見ていたカオスピエモンは、驚きで目を見開いていた。
「……ほう。デビドラモンとは別ルートの進化か‥‥本来パートナーデジモンは固定された進化ルートか暗黒進化の二択だと思っていたが……まさか、『黒いブイドラモン』へ進化するとはな」
しかも、カオスピエモンをさらに驚かせたのは、その戦いぶりだった。
暗黒進化に伴うはずの『理性の喪失』や『暴走』といった現象が、あの黒い竜には一切見られなかったのだ。
「フフッ……アハハハハ! 素晴らしい! 魔王の因子は、暗黒進化のデメリットさえも完全に制御(コントロール)してしまうというのか!?」
カオスピエモンは歓喜に打ち震えた。
ミコトが『デジヴァイス01』に宿る『ゼロ丸のデータ』をアップリングするという、規格外の荒業を使っていることなど、彼には知る由もなかった。
「最高だよ、小さな魔王。お前は私の想像を遥かに超えて楽しませてくれる。さあ……次なる絶望には、どう抗う?」
暗闇の空間で、道化師の嗤い声がいつまでも響き渡っていた。
激闘を終え、再び穏やかな潮風が吹き抜ける初音島へ戻ったジーク。
人気のない高台の絶景スポットに降り立った黒いエアロブイドラモンは、光の粒子となって収束し、本来の小さなチビモンの姿へと戻った。
「ふぃ~っ……さすがに完全体になって敵の完全体の相手は疲れたぜ……」
「お疲れ様、ジーク。本当に頑張ってくれたね」
芝生の上にぺたんと座り込んだチビモンを、ミコトは優しく抱き上げ、リュックサックの中ではなくベンチの上にそっと降ろした。
戦いの余韻か、ジークの息は少し弾んでいる。
今回の戦いは、ゼロ丸のデータを基盤とした新しい進化『レガシー・レボリューション』を実戦で用いた初めてのケースだった。
相手は強力な完全体。未知の進化プロセスを経たジークのデジコア(電脳核)に、どれほどの負荷がかかっているか分からない。
「ジーク、身体のどこか痛いところはない? 苦しかったり、データが熱を持っていたりしない?」
「ん~? 痛いところはないけど……強いて言うなら、お腹がペコペコなことくらいかな! さっきの桜餅かどら焼きはもう一個ないの?」
ケラケラと無邪気に笑うジークの様子に、ミコトはふっと息を吐いて微笑んだ。しかし、表情をすぐに真剣なものへと引き締める。
「……ううん、油断は禁物だよ。ジークの身体にもしものことがあったら大変だもの。念のため、デジヴァイス01で生体データをスキャンさせてね」
ミコトはリュックからノートパソコンを取り出し、デジヴァイス01とケーブルで接続した。
キーボードを素早く叩き、ジークのデジコアの波長や、エネルギーの残留値を細かくチェックしていく。
画面に流れる緑色のデータ列を追うミコトの瞳は、真剣そのものだ。
(過去の偉大なデジモンのデータを上書き(オーバーライト)する進化……理論上はジーク自身のデジコアへの負荷を抑えられるはずだけど、実際の戦闘ダメージと進化の反動がどう影響しているか……)
数分後。解析が完了したという電子音が鳴り、画面に『ALL GREEN(異常なし)』の文字が表示された。
「……よかった。デジコアの損傷も、データの異常な肥大化も見られない。本当に無傷だよ、ジーク!」
「なっ? だから言っただろ! 僕は全然平気だって!」
胸を張ってえっへんと威張るジークの頭を、ミコトは愛おしそうに撫でた。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、ミコトの心にひとつの確かな手応えが生まれていた。
(いける……! 『レガシー・レボリューション』による黒いブイドラモン、そしてエアロブイドラモンへの進化ルート。これなら、デビドラモンの時よりもずっと安定して、強力な力を引き出せる)
カオスピエモンは、間違いなく次も完全体、あるいはそれ以上の刺客を送り込んでくるだろう。
相手がどれほど強力な絶望のカードを切ろうとも、この新しい力があれば、ミコトとジークは決して無力ではない。
「ジーク。この『レガシー・レボリューション』は、これからの戦いで私たちにとって最大の切り札になる。あの道化師の理不尽なゲームに対抗するための、確かな希望の光に……」
「おう! ミコトが僕を導いてくれる限り、どんな敵が来たってぶっ飛ばしてやるさ! この島も、東京のヤマトたちも、全部僕たちが守り抜こうぜ!」
ジークの力強い言葉に、ミコトは深く頷いた。
狂い咲く桜の隙間から、夕暮れの赤い光が差し込み、二人を優しく照らしている。
道化師の悪意は未だ次元の狭間で嗤っている。
ミコトとジークとの孤独な戦いはまだまだ続きそうだった。