デジタルワールドでの過酷な冒険を終え、日常を取り戻した選ばれし子供たち。
しかし、彼らがパートナーデジモンとの別れに直面し無力感に苛まれる裏側で、一年中狂い咲く桜に覆われた神秘の島『初音島』では、混沌の道化師・カオスピエモンによる新たなる絶望のゲームが幕を開けていた。
病気療養のために島に滞在する石田ヤマトの妹・ミコトは、自身に宿る『魔王の因子』を狙う脅威から遠く離れた東京の兄たちの平穏を守るため、相棒のジーク(ブイモン)と共に人知れず孤独な戦いに身を投じていた。
カオスピエモンの悪意は、ミコトの心をへし折るべく次々と残酷な刺客を送り込んでくる。
偽物のガブモンに続き、新たに差し向けられたのは、・青きグレイモンの偽物だった。
戦いはタイチが残した過去のデータからミコトとジークが有利に進んだが、青いグレイモンは完全体のメタルグレイモン(青)へと進化した。
圧倒的なパワーと質量を誇る完全体のサイボーグの竜を前に、ミコトとジークは新たな切り札を切る。
それは『デジヴァイス01』に遺された偉大なる幻竜デジモン・ゼロ丸のデータを上書き(オーバーライト)することで発現する特殊進化――『レガシー・レボリューション』。
受け継がれし、ゼロ丸のデータの力によってエアロブイドラモン(黒)へと超進化を遂げたジークは、壮絶な空中戦の末に青いメタルグレイモンを撃破。
懸念されていた戦闘後の生体データにも異常は見られず、二人は理不尽なゲームに対抗しうる確かな希望の光を手にした。
しかし、次元の狭間で嗤うカオスピエモンは、その予想外の力を「暗黒進化の完全制御」と勘違いし、さらなる歓喜と共に次なる絶望のカードを切る準備を進めていた。
見えない暗雲が渦巻く中、かりそめの平穏と愛する者たちの笑顔を守るため、たった一人で絶望の最前線に立ち続けるミコト。
不器用にすれ違う兄妹の絆と、孤独な少女の過酷な運命の歯車は、なおも激しく回り続けていく――。
夜の帳が下りた初音島の水越総合病院‥‥
人気のないロビーでミコトは公衆電話からお台場の石田家に電話をかける。
今日、青いメタルグレイモンの偽物を退けたとはいえ、カオスピエモンの悪意がいつ東京へ向かうか分からない。
既に相手には自分とヤマトの関係がバレている。
その不安が胸を締め付け、ミコトはどうしても東京の様子を確かめたくて、石田家の固定電話の番号をタップした。
『はい、石田です』
「あっ、ヤマトお兄ちゃん?」
『ああ、ミコトか? こんな夜遅くにどうした?』
数回のコールの後、電話の向こうから聞こえてきたヤマトの少し慌てたような声に、ミコトはふっと表情を和らげた。
「ううん、違うよ。夜分にごめんね、ヤマトお兄ちゃん。なんだか、お兄ちゃんの声が聞きたくなっちゃって」
『……そっか。いや、俺は全然起きていたから大丈夫だぞ』
電話口のヤマトの声は、どこか弾んでいるように聞こえた。
それもそのはずだった。お台場にいるヤマトにとって、ここ最近のミコトからの頻繁な電話は、純粋な喜びでしかなかったのだ。
(最近、ミコトの方からよく電話をくれるようになったな……)
ヤマトはリビングのソファーに腰掛けながら、電話越しに聞こえる妹の穏やかな声に耳を傾けていた。
以前のミコトは、どこかヤマトを避けているような、見えない壁を作っているようなところがあった。
それはヤマトも同じであり、ミコトがいつ自分の前から消えてしまうのか分からない状況下だったからこそ、接すれば接した分、突然の別れが来ることを恐れて極端に関わらない様にしていた。
だが、こうして他愛のないことで頻繁に連絡をくれる今の状況を、ヤマトは「これまでの兄妹のわだかまりがようやく解消したのだ」と好意的に受け取っていた。
まさか妹が、自分たちの平穏を守るために見えない敵と死闘を繰り広げ、その安否を案じて電話をかけてきているなどとは、夢にも思っていない。
「あのね、この前、病院の看護師さんから聞いたんだけど、島に新しく和菓子屋さんがオープンしたんだって」
ミコトは、今日の凄惨な戦いのことなど微塵も感じさせない、明るく無邪気な声を作った。
「そこで桜餅とどら焼きを買って食べたんだけど、すっごく美味しかったの! 桜餅は甘じょっぱくて、どら焼きはあんこがたっぷりで……」
『へぇ~ミコトがそこまで言うなんて珍しいな。よっぽど美味しかったんだな』
「うん! だから……今度ヤマトお兄ちゃんが初音島に来てくれた時は、絶対に一緒に食べようね。約束だよ」
『ああ、約束だ。次に島に行く時の楽しみができたよ』
ヤマトの優しい返事に、ミコトは胸の奥が温かくなるのを感じた。
それと同時に、この他愛のない約束を絶対に守り抜かなければならないという決意が、より一層強くなる。
「……ねぇ、ヤマトお兄ちゃん。そっちの方はどう? お台場での生活、何か変わったこととかない?」
本題を悟られないよう、あくまで世間話の延長として尋ねるミコト。
電話の向こうで、ヤマトは少し考えるような間を空けた後、クスッと笑った。
『お台場? いや、特には何もないよ。相変わらず学校に行って、放課後は太一たちとサッカーしたり、宿題に追われたり……。本当に、びっくりするくらい平々凡々な毎日を過ごしているよ』
小学生のヤマトにとって、デジタルワールドでの旅をする前のただただ普通の日常だった。デジタルワールドでの命懸けの冒険が嘘のように、平和で、退屈で、安全な日々。
「……そっか。ふふっ、平々凡々が一番だよ」
ミコトは心底ホッとしたように息を吐き出した。
東京には、道化師の魔の手は届いていない。
兄は今日も無事に、笑って日常を過ごしている。
それだけで、今日の戦いの疲れもすべて報われる気がした。
翌日、放課後のお台場小学校 図書室‥‥
いつものように集まっていたタケルを除く選ばれし子供たち。
ヤマトは昨晩の妹との電話の出来事を、どこか嬉しそうに語っていた。
「最近、ミコトのやつがよく電話をかけてくるんだ。昨日も、島にできた和菓子屋の話を嬉しそうにしていてさ」
ヤマトがそう口にすると、それまで別の話をしていたミミが、ピクッと反応して勢いよく身を乗り出してきた。
「えっ!?なにそれ!?和菓子!? もしかして初音島のスイーツ!?」
「あ、ああ……ミコトが言うには、そこで買った桜餅とどら焼きがすっごく美味しかったらしいんだ。あいつが食べ物のことであんなにはしゃぐなんて珍しくてさ」
ヤマトが苦笑いしながら答えると、ミミは目をキラキラと輝かせた。
「いいなー! 桜餅! どら焼き!女の子が美味しいなんて言うお菓子なら、絶対に美味しいやつじゃない! なんでそういう大事な情報をもっと早く教えてくれないのよ、ヤマトさん!!」
「だ、大事な情報って……」
呆れるヤマトをよそに、太一や空も微笑ましそうに会話を聞いている。
ヤマトはふと、以前島を訪れた時の記憶を思い出した。
「そういえば、前に俺が島に行った時、ミコトと一緒に食べた地元のパン屋のアンパンも絶品だったな。なんていうか、生地がモチモチしていて、あそこの島は本当に飯が美味いんだよ。まぁ、観光地でもあるから当然かもな」
その言葉が、ミミの好奇心に完全に火をつけてしまった。
「ちょっとヤマトさん!!次に初音島に行く時は、絶対に私たちにもお土産買ってきてよね! 桜餅と、どら焼きと、その絶品アンパン! 絶対だからね!」
「ええっ、そんなにいっぱい持って帰れるかよ……」
「男の子なんだから気合で持って帰るの!!いいですか!? 約束ですからね!!」
ビシッと指を差して宣言するミミに、ヤマトは「はいはい、わかったよ」と肩をすくめながらも、その顔には自然な笑みが浮かんでいた。
空や太一もヤマトとミミのやり取りは笑みを浮かべながら見ていたが、ヤマトからあそこまで言われると、やはり気になるのか、今度、ヤマトが初音島に行く時はお土産を頼むことにした二人なのであった。
妹との距離が縮まり、仲間たちと他愛のない会話で笑い合う。
そんなヤマトの穏やかな日常の裏側で、たった一人の少女が絶望の最前線に立ち続けていることなど、誰一人として知る由もなかった――。
一方、ヤマトとの穏やかな電話から一夜明けた、初音島の水越総合病院の病室では‥‥
一年中散ることのない桜の花びらが窓の外を舞う中、ミコトはベッドの上に簡易テーブルを引き寄せ、ノートパソコンの画面を真剣な眼差しで睨みつけていた。
画面に映し出されているのは、昨日の青きメタルグレイモンとの戦闘データ、そして『デジヴァイス01』から抽出したジークの生体ステータスだ。
「……レガシー・レボリューションの成功。これで、ジークの進化の選択肢と戦術の幅は確実に広がったわ。でも……」
カタカタとキーボードを叩きながら、ミコトは小さく息を吐く。
エアロブイドラモン(黒)への超進化は強力無比だったが、カオスピエモンが次にどんな規格外のバケモノを送り込んでくるかは予測できない。
力と力のぶつかり合いだけでは、いずれ限界が来る。
相手に勝つには絶対的な『手数』と『戦術』が必要だった。
ふと、ミコトの脳裏には、かつてデジタルワールドで八神タイチと共に戦った記憶がフラッシュバックする。
最強のテイマーであったタイチ。
そして、彼と激闘を繰り広げた二人のテイマー、彩羽ネオと藤本秀人の姿だ。
(……あの二人が使っていた戦術。二体のデジモンを合体させる『ジョグレス』と、ジョグレスしたデジモンを攻撃回避のために瞬時に元の二体に分裂させる『パーティション』……)
それは、合体と分裂をハイスピードで繰り返すことで、敵の攻撃を無効化しつつ波状攻撃を叩き込む、恐るべきコンビネーション『無限ジョグレス』。
当時のミコトにとって、その戦術は常軌を逸した高度な次元のものに見えた。
「ねぇ、ジーク」
ミコトが声をかけると、病室のベッドで丸まって昼寝をしていたチビモンのジークが、むくりと顔を上げた。
「んぁ? どうした、ミコト。そんなしかめっ面して。また難しいこと考えているのか?」
「うん……私たちには、無限ジョグレスはできない。そもそもパートナーデジモンはジーク、あなた一体だけだもの。でもね……『応用』ならできるかもしれないって思ったの」
「応用?」
ジークが首を傾げながらベッドに近づいてくると、ミコトはパソコンの画面に二つのデジモンのホログラムモデルを並べて表示させた。
片方は、幻の聖竜『ブイドラモン』。
もう片方は、邪悪なる暗黒竜『デビドラモン』。
現在、ジークにはこの二つの成熟期への進化ルートが確立されている。
「無限ジョグレスの真髄は、状態を瞬時に切り替えることで生まれる『回避』と『隙のない連続攻撃』にあるわ……もし、戦闘中にブイドラモンからデビドラモンへ、デビドラモンからブイドラモンへ、退化を挟まずに直接姿を変えることができたら?」
「あっ……!」
ジークの目が大きく見開かれた。
「それって、つまり……スライドする進化って事か!?」
「そう‥スライド・レボリューション‥‥」
ミコトは力強く頷いた。
「敵の攻撃を受ける直前、ブイドラモンからデビドラモンにスライド・レボリューションして、飛行能力と変則的な動きで回避。そのままデビドラモンの暗黒の力で牽制して、隙ができた瞬間にブイドラモンにスライド進化して必殺の『Vブレスアロー』を叩き込む……これなら、擬似的な無限ジョグレスと同じような変幻自在の戦い方ができるはずよ」
聖なる幻竜と悪魔の黒竜‥‥本来相反する二つの属性を瞬時に切り替えることができれば、敵はターゲットの質量も、属性も、攻撃パターンも絞りきれなくなり、完全に翻弄される。
「……すっげぇ!それができたら、どんなデカい敵にもスピードで撹乱して勝てるじゃないか!!」
興奮気味に拳を握りしめるジーク。しかし、ミコトの表情はまだ険しいままだった。
「理論上は可能よ。でも、異なる属性間での連続したスライド進化は、ジークのデジコアに想像を絶する負荷をかけるはず。それに、タイミングを少しでも間違えれば、進化の隙を突かれて致命傷になりかねないわ」
「へっ、心配すんなよ!」
ジークは自身の胸をドンッと叩き、ニカッと笑って見せた。
「僕とミコトの絆があれば、そんな負荷なんてぶっ飛ばせるって!!それに、あのふざけた道化師の野郎をぶっ飛ばして、東京にいる兄さんたちの平和を守るんだろう? だったら、これくらいやってやらなきゃな!」
その真っ直ぐな言葉に、ミコトの心に張り詰めていた緊張が少しだけ解けた。
ジークの言う通りだ。愛する兄が生きる平穏な日常を守り抜くためなら、どんな無茶な戦術だって己のものにしてみせる。
「……ありがとう、ジーク。早速、デジヴァイス01のプログラムを調整して、スライド進化のシミュレーションを構築してみるわ」
「おう!僕もいつでも特訓に出られるように準備しとくぜ!」
再びノートパソコンに向き直るミコトの横顔には、もはや迷いはなかった。
忍び寄る絶望の影を切り裂くための新たな刃を研ぎ澄ませながら、孤独な少女は次なる戦いへと静かに備えを固めていた。
「……とはいえ、理論はあくまで理論。この『スライド・レボリューション』も、ゼロ丸のデータを上書きした『レガシー・レボリューション』と同じで、まったく前例のないイレギュラーな進化システムよ」
ノートパソコンの画面から視線を外し、ミコトは真剣な面持ちでジークを見つめた。
「ぶっつけ本番で実戦に投入して、もしジークの身体に予期せぬ負荷がかかったら……それこそ致命的な隙を生むことになる。スライド・レボリューション自体が確実に成功する保証もないわ。だから……」
「ああ、分かっているよ」
チビモンからブイモンへと姿を変えたジークが、力強く頷く。
「戦いの前に、一度試してみる必要があるよな。……行くんだろう? 前に黒いエアロブイドラモンに進化する特訓をした、あの場所へ」
「ええ。お願いね、ジーク」
その日の午後、初音島のはずれにある人気のない廃工場。
錆びついた鉄骨とコンクリートの残骸に囲まれた薄暗い空間の中央で、ブイモンから進化した幻竜『ブイドラモン』が静かに息を吐いていた。
「……バイタル安定。デジコアの出力も正常値。行くわよ、ジーク。準備はいい?」
少し離れた安全圏から、ミコトは『デジヴァイス01』を構えながら声をかける。
「おう! いつでも来い!」
ブイドラモンが力強く咆哮を上げたのを確認し、ミコトはデジヴァイスのコマンドを素早く入力した。
「属性反転!スライド・レボリューション!!」
ミコトの叫びと共に、デジヴァイス01から眩い光が放たれ、ブイドラモンの巨体を包み込む。
『ブイドラモン、スライド・レボリューション……!!』
光の中で、聖なる幻竜のシルエットがどろりと溶けるように変形していき悪魔の様な姿へと変えた。
『デビドラモン……!!』
光が晴れた後、そこに立っていたのは、深紅の四つの目を持つ邪悪なる暗黒竜だった。
「……成功よ! 退化を挟まずに、成熟期から成熟期への直接移行ができた……っ!」
ミコトの顔にパッと喜びの色が浮かぶ。
だが、その安堵も束の間だった。
「……ハァッ、ハァッ……ぐっ……!!」
着地したデビドラモンが、突如として苦しげな呻き声を上げ、その場に片膝をついたのだ。
巨体を構成するデータが明滅し、ノイズが走る。
「ジーク!? 嘘、バイタルが急激に乱れている!?」
ミコトが慌てて進化解除のコマンドを打ち込むと、デビドラモンの姿は光の粒子となって弾け、元のチビモンの姿に戻ってコンクリートの床に転がった。
「ジーク! 大丈夫!?」
駆け寄って小さな身体を抱き起すミコト。
チビモンは肩で荒い息をしながらも、なんとか顔を上げて強がって見せた。
「ハァ……ハァ……平気、だぜ……ただ、なんかすげぇ……一気に体力を、持っていかれたみたいな……」
「無理しないで……やっぱり、そう単純な話じゃなかったみたいね」
ミコトはチビモンを優しく撫でながら、デジヴァイス01に記録された先程の変異データをパソコンに転送し、険しい顔で数値を読み解き始めた。
(……ジョグレス進化の場合、二体のデジモンのうち一体がダメージを受けていても、合体することで体力はある程度回復・補完される。でも、そこから元の二体に分裂する『パーティション』を行う際は、莫大なエネルギーを消費する特徴があったはず……)
ミコトの指がキーボードの上を滑り、赤い警告音と共に一つの結論が弾き出された。
「……スライド・レボリューションも、これと同じだわ。属性を強制的に書き換えて再構成するプロセスで、ジークのデジコアのエネルギーを著しく消費している」
「……ってことは、連続してバンバン切り替えるってのは無理なのか?」
チビモンの問いに、ミコトは重く頷いた。
「ええ。今のジークの体力じゃ、一回の戦闘中にスライドできる回数は限られている。それに……ダメージを受けて体力が消耗している状態での使用は、進化の途中でデータが崩壊する危険性が高すぎるわ」
それはつまり、無敵に思えた変幻自在の戦術に、明確な『使用制限(リスク)』が存在することを意味していた。
切り札にはなり得る。
だが、使い所を少しでも誤れば、自滅に直結する諸刃の剣。
「……ごめんよ、ミコト。僕がもっとタフだったら、完璧な戦法になったのに……」
悔しそうに耳を垂らすチビモン。
ミコトは首を横に振り、チビモンを抱きしめた。
「ううん、謝らないで。スライド・レボリューションの成功自体が、ものすごい進歩なんだから。エネルギー消費の制限さえ計算に入れて戦えば、敵の不意を突く最高の『切り札』になるわ」
カオスピエモンの繰り出す刺客は、どれも常識外れの強敵ばかりだ。
この諸刃の剣を、いつ、どのタイミングで抜くか?
それが、今後の戦いの勝敗を‥そして東京にいるヤマトたちの平和を守れるかどうかの境界線になる。
薄暗い廃工場の中で、ミコトは静かに、だが確かな決意を込めてパソコンの画面を見据えていた。
廃工場に吹き込む隙間風が、ミコトの髪を静かに揺らした。
冷たいコンクリートの感触とは裏腹に、腕の中にいるジークの小さな体温は、彼女にとって何よりも確かな希望の熱だった。
「切り札は、ここぞという時のために隠しておくものよ。敵が『こちらの手の内をすべて理解した』と思い込んだ、その一瞬の隙を突くためのね」
ミコトはジークをそっと床に下ろし、その目を真っ直ぐに見つめた。
「どんなに強大な敵が現れても、私たちなら必ず勝機を見出せる……だから、無茶だけはしないで。ジークがもしも限界を超えてデータ崩壊を起こしたら、私は……」
言い淀むミコトの言葉を遮るように、チビモンの姿のジークがポンッと彼女の膝に手を置いた。
「わかっているって。僕はミコトを残して消えたりしない。お兄さんたちと和菓子を食べる約束、僕だって楽しみにしているんだからな!」
「……ふふっ、そうね。ジークにも、特別に甘いあんこを分けてあげる」
張り詰めていた空気がふっと緩み、薄暗い廃工場に二人の小さな笑い声が響いた。
だが、その笑顔の裏で、ミコトは脳内のシミュレーションを止めることはなかった。
ブイドラモンの機動力
デビドラモンの変則的な暗黒攻撃
レガシー・レボリューションに今回実験をしたスライド・レボリューション‥‥
手札は揃いつつある。
あとは、これをいかに盤面で使いこなすかである。
夜が更け、病室に戻ったミコトは、窓辺で一人、夜風に舞う初音島の桜を見つめていた。
ベッドでは、特訓の疲れが出たのか、ジークがすやすやと寝息を立てている。その無防備な寝顔を見ていると、自然とミコトの口元も綻んだ。
(……ヤマトお兄ちゃんは、今頃もう寝ているかな)
昨日の電話での、ヤマトの明るく、そしてどこか退屈そうな声が脳裏に蘇る。
『本当に、びっくりするくらい平々凡々な毎日を過ごしているよ』
あの言葉が、どれほどミコトの心を救ったか、ヤマトは一生知ることはないだろう。
デジタルワールドでの冒険を終え、ようやく手に入れた子供らしい日常。
宿題に文句を言い、友達と笑い合い、何気ない日々を重ねていく。
(その『平々凡々』を、私が守る。何があっても……絶対に、東京には行かせない)
ミコトは窓ガラスに映る自分自身の瞳を見据えた。
そこに映っているのは、孤独に怯える病弱な少女ではない。
一人の誇り高きテイマーの顔だった。
「……かかってきなさい、道化師」
ミコトは誰に聞こえるでもなく、静かに、だが確かな闘志を込めて呟いた。
「あなたがどんな絶望のカードを切ろうと、私とジークが……お前のすべて喰い破ってみせる」
一年中狂い咲く桜の花びらが、まるで見えない嵐の到来を予感するように、激しく夜空を舞い上がっていった。
その日の夜、東京・お台場 石田家のマンション
ミコトが初音島で決意を新たにしていた頃。
東京・お台場の石田家では、ヤマトが夕食の片付けを終えた父・裕明に、温かいお茶の入った湯呑みを差し出しながら口を開いていた。
「……なぁ、親父。ちょっと相談があるんだけど」
「ん? なんだ、ヤマト。改まって」
裕明はテレビのニュース番組から視線を外し、息子の顔を見遣った。
ヤマトは少し照れくさそうに頭を掻きながら、昨晩からの出来事を話し始める。
「実はさ、最近ミコトの方からよく電話をかけてくるんだよ。昨日も夜遅くに、島にできた和菓子屋の話なんかをしてさ」
「へぇ、ミコトがねぇ。あの子が自分から頻繁に連絡してくるなんて、珍しいな。体調が良い証拠かもしれないな」
裕明も嬉しそうに目を細め、お茶を一口すする。
ヤマトは真剣な表情になって、本題を切り出した。
「ああ、最近は体調もよくて発作の頻度も減ったって言っていた‥‥それでさ……あいつに、携帯電話を買ってやってくれないか?」
「携帯電話?」
「ああ。ミコトが電話をかけてくる時、いつも病院のロビーにある公衆電話からなんだ。あいつ、ただでさえ身体が弱いのに、夜遅くにわざわざ病室からロビーまで下りて電話をさせるのは大変だろう? 携帯があれば、病室のベッドからでも気軽に電話できるし……」
ヤマトの言葉には、不器用ながらも妹を深く思いやる兄としての優しさが滲み出ていた。
実際にヤマト自身、光子郎の携帯電話を貸してもらい、その便利さは理解している。
裕明は少し驚いたようにヤマトを見つめた後、ふっと温かい笑みをこぼした。
「……そうだな。お前がミコトのことをそこまで気にかけてくれているのは、親父としても嬉しいよ」
「べ、別に大したことじゃないさ。ただ、その方が便利だろって思って……」
そっぽを向いて照れ隠しをするヤマトに、裕明は「だがな……」と真面目なトーンで言葉を継いだ。
「携帯電話を持たせてやりたいのは山々だが、病院という場所柄、少し問題があるんだ」
「問題?」
「ああ。携帯電話が発する強力な電波は、精密な医療機器に悪影響を与えかねない。それに、普通の携帯電話は毎月の通話料金も基本料金も、子供に持たせるには少し高すぎるからな」
「そっか……電波のことなんて考えてなかった。じゃあ、病室から電話するのは無理なのか……」
ヤマトはシュンと肩を落とした。
ミコトともっと気軽に、彼女に負担をかけずに話がしたいという純粋な願いが断たれ、あからさまに落胆する息子を見て、裕明はクスリと笑った。
「早とちりするな。携帯電話がダメでも、PHSならどうだ?」
「ピーエッチエス……?」
聞き慣れない単語に、ヤマトはきょとんと首を傾げる。
「ああ。携帯電話に似ているが、発する電磁波が携帯よりもずっと微弱なんだ。だから、医療機関でも比較的持ち込みが許可されやすい。おまけに料金設定も携帯電話よりずっと安いから、学生や子供でも持ちやすいんだよ」
「本当か!? じゃあ、それならミコトの病室でも……!」
「ああ。もちろん、念のため病院側に確認を取る必要はあるが、許可が下りればミコト専用の連絡手段として持たせてやれるだろう」
パッと顔を輝かせるヤマトを見て、裕明はカレンダーに目をやった。
「よし。明日にでも病院の先生に確認を取って、問題なければ週末にでも契約して、島に送ってやろう」
「サンキュー、親父! ミコトのやつ、きっと喜ぶぜ!」
ヤマトは嬉しそうに笑い、自分の部屋へと駆け戻っていった。
これからもっと妹と話ができる。
もしかしたら、タケルと同じように、これまで失っていた兄妹の時間を取り戻せるかもしれない。
そんな淡い期待に胸を膨らませるヤマトだった。
数日後、初音島の水越総合病院――。
昼下がりの病室に、お台場からの小さな小包が届けられた。
差出人は、東京の父・石田裕明。
「私宛てに、荷物……?」
ベッドの上でノートパソコンを開いていたミコトは、不思議そうに首を傾げながら丁寧に包装を解いた。
中から現れたのは、小さな、手のひらにすっぽりと収まるサイズの、見慣れない機械だった。
「これ……携帯電話? ううん、違う。携帯電話より、ずっと小さくて軽い……」
「なになにー? ミコト、何が届いたんだ?」
机の下からひょっこりと顔を出したブイモンのジークが、目を輝かせてその機械を覗き込んでくる。
ミコトは首を傾げながら、箱の底に同封されていた一通の手紙を開いた。
そこには、父の少し几帳面な文字が並んでいた。
『ミコトへ、体調はどうだ? 突然こんなものを送って驚かせたかもしれないな。
これはPHSという、携帯電話の仲間だ。
実はな、ヤマトがお前のことをとても心配していたんだ。いつも夜遅くに、わざわざ病室からロビーの公衆電話まで下りて電話をかけてくるんだろう? あいつ、「ミコトの身体に障るから、病室からかけられるように携帯電話を買ってやってくれ」と、必死に頭を下げてきてね。
病院に確認したところ、通常の携帯電話は電波が強すぎて医療機器に影響があるが、このPHSなら電波が微弱だから、病室で使っても問題ないという許可をもらった。実質、ヤマトからのプレゼントのようなものだ。
大切に使ってほしいが、いくつか約束だ。
夜遅くの通話は、周りの患者さんの迷惑にならないよう小さな声で話すこと。
診察中や、先生から指示があった時は必ず電源を切ること。
いくらヤマトと話したいからといって、長電話で夜更かしはしないこと。
使い方については説明書を読んでおきなさい。番号は、ヤマトの部屋の固定電話と、私の仕事場だけが登録してある。また元気な声を聞かせておくれ。
父より』
手紙を読み終えたミコトは、ぽかんと口を開けたまま、しばらく動けなくなってしまった。
(ヤマトお兄ちゃんが……私のために……)
脳裏に浮かぶのは、お台場のリビングで、自分の身体を心配して父親に必死に交渉している不器用な兄の姿。
ヤマトは、遠く離れた島にいる妹の「夜の寒さ」や「移動の負担」を、それほどまでに真剣に考えてくれていたのだ。
「どうしたの?ミコト、泣きそうな顔して。おやじさん、怒っているのか?」
心配そうに顔を覗き込んできたジークに、ミコトは胸がいっぱいになりながら、優しく首を振った。
「ううん、違うの……ヤマトお兄ちゃんがね、私が夜に公衆電話まで歩くのを心配して、お父さんに頼んでくれたんだって。これ、病室からヤマトお兄ちゃんとお話できる機械なのよ」
「へぇーっ! すごいじゃん、それ! 優しいな、ミコトのお兄さん!」
ジークが自分のことのように嬉しそうに飛び跳ねる。
ミコトはその小さな端末を、まるで宝物でも扱うかのように、両手でそっと包み込んだ。
指先から伝わるプラスチックの硬質な感触が、今はどんな温もりよりも温かく感じられる。
「……ふふっ、これで、ヤマトお兄ちゃんの様子がもっとよく分かるようになるわね」
ミコトの口元に、自然と心からの笑顔がこぼれた。
これがあれば、カオスピエモンの襲撃があった後でも、わざわざロビーに移動するリスクを冒すことなく、即座にお台場の無事を確認できる。
何より、大好きな兄との距離が、物理的にも精神的にも、ぐっと縮まった気がした。
「ヤマトお兄ちゃん、ありがとう……」
窓の外で風に舞う桜を見つめながら、ミコトは胸の中でそっと呟いた。
兄がくれた、小さな絆の結晶。
守るべき日常の象徴が、今、ミコトの小さな手の中に加わった。
その温かさが、孤独な最前線に立つ少女の心に、何にも負けない確かな勇気を与えていた。