真琴が目を覚ましたとき、最初に感じたのは、自分の身体がひどく重いということだった。
背中には硬く平らな寝台の感触があり、白い照明が顔のすぐ上で光っている。消毒薬に似た匂いが鼻につき、どこかで機械が低く唸っていた。
意識がはっきりするにつれ、記憶が断片的に戻ってきた。
仕事帰りの駅前。降り始めた雨。鞄から傘を取り出そうとした瞬間、背後に立った人影。口元を覆った布と、甘い薬品の匂い。
その先は何もない。
真琴は起き上がろうとした。
身体はほとんど動かなかった。
薬が残っているのだと思った。全身麻酔の後なのかもしれない。そう考えながら右手を握ろうとしたが、指の感覚が返ってこなかった。
脚へ力を入れても、足先が動く感覚はない。
「……誰か」
声は掠れていた。
「誰か、助けてください」
返事はない。
恐怖を押し殺し、真琴は肩へ力を入れた。
今度は、何かが動いた。
右腕が寝台の上を大きく跳ねた。
しかし、それは腕を持ち上げたというより、肩から吊り下げられた重い棒を振り回したような動きだった。肘も手首も曲がらず、掌が寝台の縁へぶつかって乾いた音を立てる。
かつん。
人間の手が当たった音ではなかった。
硬い物同士がぶつかる音だった。
真琴は息を止めた。
もう一度、肩を動かした。
腕は乱暴に持ち上がり、今度は自分の脇腹へ落ちた。重さはある。腕がそこにあることも分かる。だが、どれほど念じても、肘から先は一切反応しなかった。
真琴は左脚も動かそうとした。
股関節から何かを振る感覚があり、寝台の上で脚らしきものが横へずれた。
膝は曲がらない。
足首も動かない。
足の指を丸めようとしても、命令はどこにも届かなかった。
身体には白い布がかけられていた。
その下に何があるのか確かめたくなかった。
それでも、見なければならないという焦りが、恐怖を上回った。
「誰か!」
真琴が叫ぶと、部屋の扉が開いた。
灰色の作業着を着た男が入ってきた。五十歳ほどに見える。医師の白衣ではなく、名札もない。片手には、小さな櫛が握られていた。
男は真琴の顔を見ると、安堵したように微笑んだ。
「おはよう、エマ」
「ここはどこですか」
「まだ混乱しているね。長く眠っていたから仕方がない」
「警察を呼んでください」
男は答えず、寝台のそばへ来て真琴の髪を梳き始めた。
真琴は顔をそむけた。
「触らないで」
「髪が乱れているよ。きれいにしてあげないと」
「私の名前は真琴です。エマじゃありません」
男は笑いもしなければ、腹を立てもしなかった。
幼い子どもの勘違いを訂正するように、穏やかに首を振った。
「君はエマだ。私が作った人形だよ」
真琴の胸の奥が冷えた。
「何を言っているんですか」
「まだ、人間になった夢を見ているんだ」
「私は人間です」
「そう思っているだけだよ」
男は白い布へ手をかけた。
真琴は反射的に叫んだ。
「待って!」
男の手が止まる。
その下を見るのが恐ろしかった。
だが、真琴は震えながら言った。
「……見せて」
男が布を取り払った。
一瞬、何を見せられているのか理解できなかった。
肩から先にあるものは、見慣れた自分の腕ではなかった。
上腕の途中までは人間の皮膚が残っている。その先に、象牙色の硬い部品が接続されていた。肘には丸い関節があり、前腕の先には細く整えられた人形の手が取りつけられている。
五本の指には爪まで作られていた。
だが、指は一本も動かない。
左腕も同じだった。
両脚は太腿の途中から先が失われ、そこへ人形の脚がつながっていた。丸い膝関節と足首の継ぎ目が露出し、足先には小さな靴をはかせるための細い足がついている。
「……何、これ」
真琴の声が震えた。
「きれいだろう」
男が言った。
「違う」
真琴は首を振った。
「これは、上からつけてあるだけですよね」
「君に合うように作った」
「外してください」
「どうして?」
「私の手と脚を返してください」
男は不思議そうに真琴を見た。
その表情で、真琴はようやく、自分が何を尋ねなければならないのかを理解した。
「私の手足は、どこですか」
男は答えなかった。
「どこにやったんですか」
「人形には、最初から人間の手足なんてないよ」
真琴は肩を激しく動かした。
人形の腕が寝台へ叩きつけられた。
かつん、かつんと硬い音が響く。
左腕も振り回した。右脚も、左脚も、股関節から無茶苦茶に振った。
人形の手足は、真琴の必死さに合わせて大きく揺れた。
だが、どれだけ暴れても手は何もつかめなかった。肘は曲がらず、掌は男へ届いても、硬い指がその服をつかむことはない。
脚を振り上げても、膝が曲がらないため男を蹴ることができない。ただ長い棒のような脚が寝台の縁に当たり、虚しい音を立てるだけだった。
完全に動かないわけではない。
だからこそ、失ったものが分かった。
肩は残っている。
股関節も残っている。
脳は腕を動かそうとしている。
脚で逃げようとしている。
だが、その先にあるのは、自分の意思を細かな動きへ変えてくれない人形の部品だけだった。
「返して!」
真琴は叫んだ。
「私の手を返して! 脚を返して! まだ間に合いますよね。病院へ行けば、つなげられますよね!」
男は黙っていた。
「お願いです。警察にも言いません。お金も払います。家族に頼めば、いくらでも――」
言葉が途切れた。
男の沈黙が答えだった。
切り離されたものは、もうどこにもない。
救急車が来ても、世界で最も優れた医師が来ても、失った腕や脚が元どおりに生えてくることはない。
「いや……」
真琴は肩を震わせた。
「いや、そんなの……」
両腕を振り上げ、顔を覆おうとした。
硬い手が頬へぶつかった。
しかし指は開いたままで、涙を拭うことも、目を隠すこともできない。顔を守るように腕を曲げることさえできなかった。
「いやああああっ!」
悲鳴が部屋を震わせた。
真琴は寝台の上で暴れ続けた。
肩や腰から乱暴に振られる人形の四肢が、周囲へ何度もぶつかった。動いているのに、何ひとつできない。
男を押しのけられない。
拘束を外せない。
起き上がれない。
自分の身体を抱きしめることさえできない。
失った手の指には、まだ感覚があった。
存在しない掌を握りしめている気がする。爪が皮膚に食い込み、指先が痺れ、手首を強く縛られているように痛んだ。
「痛い」
真琴は泣きながら言った。
「手が痛いんです。まだあるんです。ちゃんと感じる。だから返してください」
目の前にある人形の手は、微動だにしなかった。
「殺して」
真琴は声を枯らしながら言った。
「こんなことをするくらいなら、殺して」
「どうして?」
男は穏やかに尋ねた。
「こんなにきれいになったのに」
男は操作盤を取り出した。
レバーを動かすと、それまで垂れていた人形の右腕が静かに持ち上がった。肩だけでなく、肘も曲がり、手首が回り、指がひとつずつ閉じていく。
真琴にはできなかった動きだった。
人形の手が真琴の頬に触れた。
硬い指が、流れ続ける涙を拭う。
「ほら。ちゃんと動く」
「やめて」
「君が動かす必要はない。私が動かしてあげる」
「私の身体です!」
「エマの身体だよ」
男が操作すると、真琴の右手は自分の髪を撫でた。
左手は胸元で美しく重ねられた。
脚は寝台から下ろされ、膝が人形らしく滑らかに曲がった。
自分の意思では振り回すことしかできない四肢が、男の命令には従順に応じていた。
真琴は、自分の身体の所有権を奪われたのだと悟った。
その日から、真琴をエマへ変える訓練が始まった。
男はまず、彼女に服を着せた。
肘や手首を隠す長袖のブラウス。指先まで覆う白い長手袋。脚には厚いストッキングをはかせ、その上から足首まで届くロングスカートをまとわせた。
手袋をつければ、手首の継ぎ目も硬い指も見えなかった。
スカートの下では膝や足首の丸い関節も隠れた。
靴をはかせ、髪を整え、椅子へ座らせる。
鏡の中には、上品な服を着た一人の女性がいた。
膝の上で手を重ね、背筋を伸ばしている限り、普通の人間とほとんど変わらない。立ち上がらない理由も、行儀よく座っているだけだと思われるだろう。
「よく似合っている」
男は満足そうに言った。
真琴は鏡を見つめた。
長手袋の下に、自分では握ることのできない手がある。
スカートの下に、自分では曲げることのできない膝がある。
肩を振れば腕は揺れる。
腰をひねれば脚も少し動く。
だが、それは歩くための動きでも、物に触れるための動きでもなかった。
美しい衣装は、人間らしさを取り戻すものではない。
人間の形を失った事実を、他人の目から隠すための包装だった。
「病院へ連れていって」
真琴は何度も頼んだ。
「病院へ行っても、元には戻らないよ」
男ははっきり言った。
「別の義手や義足をつけることはできるかもしれない。でも、君が生まれたときから使ってきた手と脚は、もうどこにもない」
真琴は目を閉じた。
分かっていた。
しかし、言葉にされると、胸の奥に残っていた最後の希望まで潰れた。
たとえ救出されても、元の手で母に触れることはできない。
自分の足で歩いていた感覚も戻らない。
最新の義手を手に入れたとしても、それは失った手そのものではない。訓練を重ねて何かをつかめるようになったとしても、以前と同じ自由が戻るわけではない。
真琴はその夜、眠らなかった。
母の手の温度を思い出した。
父と並んで歩いた道を思い出した。
仕事帰りに買い物袋を持った感覚。熱いマグカップを両手で包んだ感覚。風呂の中で足の指を動かした感覚。
取るに足らないと思っていた動作の一つ一つが、二度と戻らないものになっていた。
翌日から、男は別の訓練を始めた。
真琴の前に大きな鏡を置き、人形の右手を机の上へ載せた。
長手袋は外され、硬い指が露出している。
男は真琴の残された上腕へ、小さな器具を当てた。
「何をするんですか」
「君の手を、戻してあげる」
「嘘です」
「見ていれば分かる」
男が操作盤を使い、人形の人差し指を柔らかな布で撫でた。
同時に、上腕のある一点へ弱い刺激が加えられた。
真琴は身体を震わせた。
存在しない人差し指を、何かがなぞったような感覚があった。
目の前では、人形の指が撫でられている。
触れられた感覚があるのは、失ったはずの自分の指だった。
「違う」
真琴は首を振った。
「偶然です」
男は今度は人形の親指を押した。
それと同時に、上腕の別の場所へ刺激を与える。
真琴の幻の親指に、圧迫感が生じた。
「やめて」
「どこを触られた?」
「私の……親指」
「これは誰の親指?」
男は人形の手を示した。
「違う。それは作り物です」
「でも、触られたと感じた」
「違う!」
それは毎日続いた。
人形の小指に触れると、失った小指に感覚が生じる。
掌へ布を滑らせると、存在しない掌がくすぐったくなる。
人形の手を冷たい金属へ載せると、真琴は失った手に冷たさを感じた。
脚にも同じ訓練が行われた。
人形の足裏へ柔らかな毛布を押し当てれば、もう存在しない足の裏に感触が生まれた。つま先を温めれば、幻の指先が温かくなる。人形の膝を軽く叩かれると、失った膝の表面に鈍い衝撃が走った。
初めのうち、真琴は目を閉じて抵抗した。
しかし、男は鏡を見なければ刺激を強くし、見続ければ痛みを弱めた。
やがて真琴の脳は、視界の中の人形の四肢と、失った手足の感覚を結びつけ始めた。
人形の手に誰かが触れる。
真琴がそれを感じる。
人形の脚を毛布で包む。
真琴の足が温まる。
感覚だけなら、そこに手足が戻ってきたようだった。
それは救いに似ていた。
同時に、恐ろしい罠でもあった。
「これは私の手じゃない」
真琴は何度も言った。
「なら、なぜ触られたことが分かるんだい」
「あなたが、そう感じさせているだけです」
「人間の手だって同じだよ。神経が信号を送り、脳がそこに手があると思っているだけだ」
「違う」
「何が違う?」
真琴は答えられなかった。
ある日、男が人形の手へ触れた瞬間、真琴は反射的に肩を引いた。
「急に触らないで!」
男は微笑んだ。
「今、君はそれを自分の手としてかばった」
真琴は人形の手を見つめた。
長い指。
丸い関節。
手首にある細い隙間。
どれも自分のものではない。
それなのに、男の指が掌をなぞると、確かにくすぐったかった。
「違う」
真琴は呟いた。
「私の手は、もっと温かかった」
「エマの手はこれだよ」
男は長手袋をはめた。
継ぎ目が見えなくなる。
白い布で覆われた手は、鏡の中では普通の女性の手に見えた。
男がその手を真琴の頬へ触れさせる。
真琴は、頬に触れている感覚と同時に、人形の掌で誰かの肌を触っているような幻の感覚を覚えた。
触れられるだけではなかった。
自分が触れている。
硬い人形の指が、自分の指として世界に触れている。
真琴は泣いた。
それが嬉しかったからなのか、恐ろしかったからなのか、自分でも分からなかった。
「私の手じゃない」
泣きながら繰り返した。
「でも、何も感じないよりはいいだろう?」
男の問いに、真琴は答えなかった。
答えられなかった。
触覚を拒めば、彼女には肩から先の空白しか残らない。
受け入れれば、この人形の手を自分のものだと認めることになる。
男はその迷いを利用した。
――エマは人形。
――エマの手は、人形の手。
――エマの脚は、人形の脚。
――触れられる場所が、エマの身体。
真琴が自分の名を口にすると、頭の奥で鋭い鐘が鳴った。
「私は真琴」
痛み。
「これは私の手ではない」
痛み。
反対に、エマという名前を受け入れると、柔らかな音楽が流れた。
「君の名前は?」
「……真琴」
鐘の音。
「君の名前は?」
「真琴です」
さらに強い痛み。
「君の名前は?」
「……エマ」
音楽。
「これは誰の手?」
真琴は長手袋に包まれた人形の手を見た。
男がその掌を撫でる。
幻の掌に、温かな感触が広がった。
「……エマの手です」
「君は何者?」
「人間です」
痛み。
「君は何者?」
「私は……」
鏡には、長袖の服とロングスカートをまとった女性が映っていた。
男が操作盤から手を離すと、両腕はだらりと下がった。
真琴は肩を動かした。
人形の腕が大きく揺れ、椅子の肘掛けへ当たった。
その衝撃を、彼女は人形の手に感じた。
次に脚を振ろうとすると、スカートの下で人形の足が床をこすった。
足裏へ、床の硬さが伝わった。
立つことはできない。
歩くこともできない。
それでも、そこには自分の手足があるように感じられた。
「人間なら、自分の指を動かせるはずだろう?」
男が尋ねた。
真琴は人形の指を曲げようとした。
動かなかった。
「でもエマは、持ち主に動かしてもらう」
操作盤が鳴り、人形の手が美しく開いた。
幻の指が伸びたような感覚がした。
「そうだろう?」
「……はい」
日付の感覚が消えた。
住所を忘れた。
友人の名を忘れた。
父の声を忘れた。
最後まで残っていた母の顔も、思い出そうとすると輪郭が崩れた。
代わりに、エマの写真が与えられた。
庭の椅子に座るエマ。
窓辺で本を開くエマ。
花を抱えて微笑むエマ。
写真の中のエマは、いつも長袖と長手袋、長いスカートを身につけていた。関節はすべて隠れ、普通の美しい女性にしか見えない。
十年前の日付が印刷された写真もあった。
「偽物です」
真琴は言った。
「どうしてそう思うんだい」
「私は、その場所を覚えていない」
「人形は、箱にしまわれている間のことを忘れるものだよ」
「私は人間でした」
「その証拠は?」
真琴は答えようとした。
名前。
家。
家族。
自分の手で何かをつかんだ記憶。
自分の足で歩いた記憶。
どれも霧の向こうにある。
確かなのは今の身体だけだった。
男が人形の手へ触れると、自分の手が触れられたように感じる。
人形の足を温められると、自分の足が温まる。
そして、自分の意思ではその指一本動かせない。
「人形であることは、怖くないよ」
男は真琴を抱き上げた。
人間の四肢を失った身体は、以前よりずっと軽かった。
「何も決めなくていい。失敗もしない。誰かに嫌われることもない。君はただ、きれいでいればいい」
棚の中央へ座らされる。
背中を支柱に固定され、両手は膝の上に置かれた。
服を着た姿は、眠っている女性にしか見えなかった。
「おやすみ、エマ」
「……おやすみなさい」
返事をしてから、真琴は自分の口を疑った。
だが、その夜は鐘が鳴らなかった。
幻肢の痛みもなかった。
長手袋に包まれた手へ、男が柔らかな布をかけてくれた。
真琴は、自分の手が温かく包まれているように感じた。