お父様が二人の髪を整える時間は、いつの間にか毎日の習慣になっていた。
朝食のあと、エマとシェリーは鏡台の前へ並んで座らされる。
エマの金色の髪は、背中へ柔らかく流れる長さになっていた。光を受けると淡い蜂蜜のように輝き、白や空色のリボンがよく似合う。
シェリーの暗い髪は、それよりさらに長い。
腰へ届きそうなほど伸びた髪は、黒一色ではなく、光の角度によって濃紺や深い紫を帯びた。左側には最初の黒いリボンが結ばれ、その下には細い紫の飾りが添えられている。
「少し頭を動かさないでね」
お父様が言う。
「私たちだけでは動かせないでしょう」
シェリーが不満そうに返した。
「そうだったね」
「分かっていることを言わないでちょうだい」
口では文句を言いながら、シェリーは鏡越しに自分の髪を見つめていた。
お父様の手が櫛を持ち、毛先の絡まりを一つずつ解いていく。
髪が引かれる感覚は、頭皮を通してシェリーへ伝わった。
この感覚だけは、手足の幻の触覚とは違う。
直接、自分の頭から伸びている。
直人だった頃にも髪はあった。
長さも色も今とは違うが、切れば短くなり、放っておけば伸びた。眠っているあいだにも、身体が生きている証として少しずつ成長していた。
今の長い髪をシェリーは嫌っていたはずだった。
最初は、鏡を見るたびに切れと訴えた。
リボンを結ばれるたびに外せと言った。
それなのに、今ではお父様がリボンを外そうとすれば、必ず元の場所へ戻すよう確認する。
毛先を整えるために鋏が近づくだけでも、必要以上に警戒した。
「今日は切らないでしょうね」
「切らないよ」
「前にも少しだけと言って、毛先を揃えたわ」
「傷んだ部分だけだ」
「私には分からないと思っているの?」
「シェリーは自分の髪をよく見ているからね」
お父様は嬉しそうに答えた。
「当然よ。お姉様のように、何をされてもきれいになったと喜んでいるわけにはいかないもの」
隣に座るエマが鏡越しに微笑む。
「シェリーも、今の髪を気に入っていますよね」
「気に入ってはいないわ」
「では、どうして切られるのを嫌がるのですか」
「お父様に勝手に変えられるのが嫌なだけよ」
「最初のリボンも、毎朝同じ場所へ戻してほしいと頼んでいます」
「これは……位置が変わると落ち着かないの」
「気に入っているのではありませんか」
「お姉様は少し黙っていて」
エマは楽しそうに笑った。
その笑い声を聞きながら、お父様は二人の髪を最後まで梳き終えた。
それから櫛を置き、いつものように二人の頭を順番に撫でる。
エマは目を細めた。
シェリーも拒まなかった。
「二人とも、十分に伸びたね」
お父様が言った。
「もう少しでシェリーの髪が椅子に挟まりそうです」
エマが答える。
「お姉様より長くすると決めたのは、お父様でしょう」
「うん。想像していたとおり、シェリーには長い髪がよく似合う」
「褒めても何も出ないわよ」
そう言いながら、シェリーの頬は少しだけ緩んでいた。
お父様は二人の髪を左右の手で持ち上げた。
金色と暗色。
質感も色も異なるが、どちらも長い時間をかけて伸ばしてきた髪だった。
「だから、そろそろ完成させようと思う」
シェリーの表情が固まった。
「完成?」
「これ以上伸ばす必要はない」
お父様の指が、シェリーの毛先を撫でる。
「今の長さが、二人に一番よく似合っている」
「切るつもり?」
「短くはしないよ」
「では、何をするの」
お父様は二人の髪をそっと背中へ戻した。
「頭から一度切り離す」
エマは不思議そうに瞬きをした。
シェリーは鏡の中のお父様を睨んだ。
「どういう意味?」
「今の髪を、そのまま人形の髪として加工する」
お父様はシェリーの暗い髪を一房取り、指の間を滑らせた。
「加工が終わったら、人工皮膚へ一本ずつ植え直す。その人工皮膚を、二人の頭部へ取りつける」
「頭の皮膚まで取り替えるの?」
「ああ」
シェリーの声が強張った。
「今の頭皮は、生きた素材でできている。髪を伸ばすには便利だったけれど、完全な人形の部品としては不安定だ」
「私は最初から人形だったのでしょう」
「もちろん」
お父様は少しも迷わなかった。
「君たちを作ったとき、髪の長さを決めるために、頭部の表面だけは成長する素材を使ったんだ。心が宿ったあと、二人に似合う長さを見ながら完成させたかったからね」
「また、都合のいい話」
「そう聞こえるかもしれないね」
「お父様」
エマが呼んだ。
「髪はなくなってしまうのですか」
「なくならないよ」
お父様はエマの金色の髪を優しく梳いた。
「今の髪を使う。色も長さも変えない。エマが目覚めてから伸ばしてきた、大切な髪だからね」
「では、ずっとこのままなのですね」
「そうだよ」
エマは安心したように微笑んだ。
「それなら嬉しいです」
シェリーは信じられないという顔で姉を見た。
「怖くないの?」
「少しは不安です」
エマは正直に答えた。
「でも、お父様は私たちをもっときれいに、丈夫にしてくださるのでしょう?」
「ああ」
「今の髪も失わないのなら、大丈夫です」
エマは完全に信じている。
自分の頭部にある皮膚も、髪も、最初からお父様が人形のために用意した素材なのだと疑っていない。
シェリーは、そこまで簡単には受け入れられなかった。
直人だった頃の記憶には、散髪をした日も、寝癖を直した朝も、頭を洗った感触もある。
髪は人形の材料ではない。
生きた人間の身体から伸びるものだった。
それを切り離し、加工し、人工物へ植え直す。
見た目が変わらなくても、同じものではなくなる。
「加工したら」
シェリーが尋ねた。
「もう伸びないの?」
「ああ」
「一生?」
「ずっと今の長さを保つ」
「切ったら?」
「切った分は戻らない。だから、必要がない限り長さは変えないよ」
シェリーは自分の髪を見た。
腰へ届きかけた暗い髪。
最初は嫌いだった。
長くなるたび、直人から遠ざかるようで恐ろしかった。
けれど、今ではこの髪が自分の一部だと感じている。
お姉様より長いことを、少しだけ誇らしく思っている。
黒いリボンが結ばれていないと落ち着かない。
この髪は、自分がシェリーとして過ごした時間の記録だった。
それがもう二度と伸びなくなる。
傷まず、乱れず、老いず、同じ艶を保ち続ける。
人間の髪ではなくなる。
「嫌よ」
シェリーは言った。
「変えないで」
「見た目は何も変わらないよ」
「そういう問題ではないわ」
「伸び続けることが大切なのかい」
「少なくとも、生きている証拠でしょう」
お父様は少し悲しそうにシェリーを見た。
「それは、直人の夢で覚えた考えだね」
「夢ではない」
「シェリー」
「髪が伸びる。汗をかく。肌が変わる。そういうものが、生きている身体なのよ」
「君は生き物ではなく、人形だよ」
お父様の声はどこまでも穏やかだった。
「でも、心がある」
シェリーは言い返そうとした。
だが隣で、エマが自分を見ている。
エマは、お父様の言葉を疑っていない。
髪が伸びなくなっても、自分は心を持つ人形として生き続けるのだと信じている。
シェリーが強く否定すれば、エマの安心まで壊すことになる。
それを考えるだけで疲れた。
直人の人生を守るために、何度同じ争いを繰り返してきただろう。
顔を変えられたとき。
声を失ったとき。
胸を作られたとき。
男性の身体を取り除かれたとき。
そのたびに叫び、否定し、疲れ果て、それでも元へ戻ることはなかった。
「お姉様は、本当に平気なの」
「はい」
エマが答える。
「今の髪がなくならないなら、私はお父様にお任せします」
「頭の皮膚も変わるのよ」
「お父様が作ってくださった、もっと人形らしい皮膚になるのですよね」
「そうだよ」
お父様が説明する。
「触れられたことは分かる?」
シェリーが尋ねた。
「分かるよ」
「本当に?」
「今までとは少し感覚が違うかもしれない。でも、撫でられたことも、髪を梳かれたことも伝わる」
シェリーは黙った。
「お父様に撫でていただく感覚は、なくならないのですね」
エマが確かめる。
「なくさないよ」
「それなら、私は大丈夫です」
エマは微笑んだ。
シェリーは姉の横顔を見つめた。
自分だけ拒み続ければ、またエマを不安にさせる。
お父様は決定を変えない。
髪は失われず、見た目も変わらない。
否定する理由はいくつもあるはずなのに、もうそれを一つずつ口にする力が残っていなかった。
「……短くしないで」
シェリーが言った。
「約束する」
「一本でも勝手に減らしたら、許さないわ」
「加工に必要な分も失わないようにするよ」
「最初のリボンも、同じ位置へ戻して」
「もちろん」
「紫の飾りもよ」
「エマに結んでもらおう」
シェリーは隣を見た。
「お姉様、今度は本当に引っ張らないでね」
「頑張ります」
「頑張るでは不安なのだけれど」
「お父様に手伝っていただきます」
「それなら……まあ、いいわ」
シェリーは鏡へ視線を戻した。
「全部、信じたわけではないから」
「分かっているよ」
「私が最初から人形だったなんて、思っていない」
「急がなくていい」
「でも」
言葉を切る。
「今の髪を、このまま残してくれるなら……お父様に任せてあげる」
お父様は嬉しそうにシェリーの頭を撫でた。
「ありがとう」
「お礼を言うのは私ではなく、お父様のほうなの?」
「信じようとしてくれたからね」
「信じたのではないわ」
「そういうことにしておこう」
「その言い方、嫌い」
「知っているよ」
施術の日、二人の髪からすべてのリボンが外された。
エマの金色の髪も、シェリーの暗い髪も、まっすぐ背中へ流される。
二人は隣り合う寝台へ横たえられた。
白い手袋と黒い手袋が重なる。
「シェリー」
「何、お姉様」
「目が覚めたら、私が最初に髪へ触れてもいいですか」
「お姉様だけで動かせないでしょう」
「お父様に手伝っていただきます」
「……乱さないなら、いいわ」
「ありがとうございます」
「別に、お姉様のためではないわ。私もお姉様の髪がどうなったか確かめたいだけ」
「はい」
「その返事は絶対に信じていないわね」
エマが微笑む。
お父様は二人の手を包んだ。
「眠っているあいだに終わるよ」
「起きたとき、髪がなくなっていたら怒るわよ」
「全部戻しておく」
「約束だからね、お父様」
「ああ」
二人が目覚めたとき、頭部は柔らかな布で覆われていた。
髪の重みは、まだなかった。
シェリーは意識がはっきりすると同時に、自分の頭へ注意を向けた。
皮膚が引きつる感覚はない。
汗も、湿り気もない。
頭部全体が静かだった。
静かすぎた。
「お父様」
「ここにいるよ」
「髪は?」
「加工している」
シェリーの表情が険しくなる。
「今、私は髪がないの?」
「一時的にね」
「見せないで」
「分かった」
「お姉様は?」
「隣にいます」
エマの声がした。
「シェリー、私も同じです」
「平気なの?」
「少し変な感じです」
エマは正直に答えた。
「でも、お父様が髪を戻してくださいます」
それだけで安心できる姉を見て、シェリーは目を閉じた。
人工皮膚が頭部へ定着するまでのあいだ、二人の髪は別室で加工された。
色は変わらない。
太さも、自然な揺れ方も変わらない。
一本一本へ柔らかさと靭やかさを保つ処理が施され、乾燥や摩擦による劣化を防ぐ。
生きて成長する毛髪ではなくなった。
だが、人形の髪としては、以前よりもずっと完全なものになった。
数日後、髪が戻された。
エマの金色の髪は、以前と同じ長さで背中へ流れた。
シェリーの暗い髪も、腰へ届きそうな姿のまま、人工皮膚へ植え直されている。
見た目は何一つ変わらない。
お父様が最初にエマの髪を梳いた。
櫛が髪を通り、人工皮膚へ軽い圧力が伝わる。
「分かるかい」
「はい」
エマは目を細めた。
「前よりも、滑らかです」
次に、シェリーの髪へ櫛が入る。
暗い髪がさらりと分かれ、また元の位置へ戻る。
引かれた感覚はある。
だが以前のような頭皮の細かな動きや、毛穴が引かれる不快感はなかった。
「どう?」
お父様が尋ねる。
「……変な感じ」
「痛い?」
「痛くはないわ」
シェリーは鏡を見た。
髪は以前と同じだった。
黒いリボンがないことを除けば、数日前の自分と何も変わらない。
お父様が人工皮膚へ触れる。
指が額から髪の生え際へ滑る。
表面は生の皮膚よりも滑らかだった。
毛穴や細かな凹凸がほとんどなく、磁器のように美しい。それでいて硬さはなく、指先へ柔らかく馴染む。
シェリーには、撫でられていることが分かった。
「汗はもうかかないのね」
「ああ」
「髪も伸びない」
「ああ」
「頭の皮膚は、もう生きていない」
「最初から人形の部品だよ。今は、より完成したものになっただけだ」
シェリーは反論しようとした。
だが、鏡の中でエマが幸せそうにお父様へ頭を撫でられている。
人工皮膚になっても、エマはエマだった。
お父様の手へ頬を寄せたいと願い、身体が動くのを待っている。
心は何も失われていない。
シェリーは小さく息をついた。
「最初のリボンを戻して」
「エマに頼もう」
白い手袋が動く。
エマの心より少し遅れて、腕と指がお父様の技によって正しく動いた。
最初の黒いリボンが、暗い髪の左側へ結ばれる。
続いて、深い紫の飾り。
シェリーは鏡を見ながら、位置を確かめた。
「少し上すぎるわ」
「ごめんなさい」
「もう少し下。いつもの場所よ」
お父様がエマの指を動かし、結び目を直す。
「そこ」
シェリーが言った。
「それでいいわ」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「きれいです」
「前と同じでしょう」
「はい。前と同じシェリーです」
その言葉に、シェリーはしばらく黙った。
髪はもう伸びない。
頭部の皮膚は汗をかかず、代謝もせず、老いることもない。
それでも、お姉様は自分を以前と同じシェリーだと言う。
お父様も、髪を別のものへ取り替えず、二人が目覚めてから伸ばした髪を加工して戻した。
「お父様」
「何だい」
「この髪は、本当に私の髪なのよね」
「もちろん」
「作り直した別の髪ではなく?」
「シェリーがこれまで伸ばしてきた髪だよ」
「夢の名残ではない?」
お父様は微笑んだ。
「目覚めたあと、シェリーとして伸ばした髪だ」
シェリーはその答えを聞き、人工皮膚へ植えられた長い髪を見つめた。
直人だった証拠ではない。
お父様の物語では、シェリーとして生きた時間の証だった。
その説明なら、受け入れてもいいと思った。
「なら、大切にして」
「約束する」
お父様が二人の頭を同時に撫でる。
金色と暗色の髪が、以前よりも滑らかに指の間を流れた。
二人の頭部には、もう汗も毛穴も成長もない。
髪は伸びず、傷まず、同じ艶を保ち続ける。
また一つ、人間らしい変化が失われた。
エマはそれを、お父様によってより完全な人形へ育ててもらったのだと信じていた。
シェリーは信じてはいない。
それでも、伸びることをやめた髪へ最初のリボンが戻されたとき、その姿を自分のものではないとは思わなかった。
「お父様」
シェリーが鏡越しに呼ぶ。
「今度のお茶会では、髪を下ろしたままにして」
「どうして?」
「加工したあとの艶を、お姉様と比べてあげるの」
「シェリーのほうが長いです」
エマが言う。
「長さだけではないわ。手触りも見なければ分からないでしょう」
「では、触り合いましょう」
「絡ませないでね」
「気をつけます」
「お父様がきちんと動かしてちょうだい」
「ああ。二人の思ったとおりに動かしてあげるよ」
その言葉に、エマは素直に頷いた。
シェリーも、今度は否定しなかった。