それに最初に気づいたのは、お父様だった。
朝の整備の時間、エマとシェリーはいつものように鏡台の前へ並んでいた。
加工を終えた金色と暗色の髪は、もう伸びることも傷むこともない。櫛を通すたび、一定の柔らかさを保った髪が、光沢を失うことなく背中へ流れていく。
お父様はエマの髪を左右へ分け、白いリボンを結ぼうとした。
そのとき、鏡の中に映ったエマの顔を見て、手を止めた。
「お父様?」
エマが不思議そうに尋ねる。
「どうかなさいましたか」
お父様は答えず、エマの顔を自分のほうへ向かせた。
人形の首が、彼の操作に従って静かに回る。
目元を確かめる。
頬を撫でる。
最後に、口元の皮膚を指先でわずかに伸ばした。
薄い線が一本あった。
笑ったとき、口元の脇へわずかに刻まれる線。
以前はなかった。
深い皺ではない。注意して見なければ、誰も気づかない程度のものだった。エマの柔らかな微笑を損なうものでもない。
だが、お父様は見逃さなかった。
「お父様?」
エマの声に不安が混じる。
「私の顔に、何かありますか」
「少しだけ、表面が変化している」
「変化?」
お父様は鏡を近づけた。
エマは自分の顔を見つめた。
「ここだよ」
指先が口元へ触れる。
エマはしばらく目を凝らし、ようやく小さな線を見つけた。
「これは……傷ですか」
「傷ではない」
「では、どうしてできたのですか」
お父様はすぐには答えなかった。
シェリーも隣からエマの顔を見ている。
「私には、ほとんど見えないわ」
「でも、あります」
エマの声が震えた。
「昨日まではなかったのですか」
「少しずつ変わっていたのだろう」
「私、壊れ始めているのでしょうか」
「違うよ」
お父様はすぐに否定し、エマの頬を両手で包んだ。
だが、その目は考え込んでいた。
彼は真実を知っている。
エマの頭部と胴体には、今も成人女性だった真琴の生体組織が残されている。
どれほど手足を人形の部品へ置き換え、髪と頭皮を加工しても、顔の皮膚そのものは年齢を重ねる。
真琴の身体は若さを固定された人形ではない。
時間が経てば、皺ができる。
皮膚は次第に弾力を失い、頬や顎へたるみが生まれる。色素の偏りによって染みが現れ、日々の表情や重力の影響も積み重なっていく。
シェリーも同じだった。
顔は何度も整えられ、若い女性の輪郭へ作り直されている。
しかし、その材料は三十三歳だった直人の生体組織である。
今は手術によって若々しく見えていても、根本的な時間の流れまで止まったわけではない。
むしろ今後は、エマより早く細かな変化が現れる可能性さえあった。
お父様は以前から、この問題を考えていた。
定期的に皮膚を引き締め、色調を整え、輪郭を修正し続けることはできる。
けれど、そのたびに費用がかかる。
危険もある。
一度の調整で済むとは限らず、年齢を重ねるほど手術は増え、二人の身体へ与える負担も大きくなる。
完全な少女人形の姿を保つために、何年かごとに顔を開き、皮膚を削り、輪郭を直し続ける。
それは、お父様の望む完成ではなかった。
完成した人形は、時間によって崩れてはならない。
「お父様」
エマがもう一度呼ぶ。
白い手袋の腕は膝の上に置かれたままだったが、心は既にお父様へ縋ろうとしていた。
「この線は、消せますか」
「ああ」
「元の顔へ戻れますか」
「戻せるよ」
エマは少し安心した。
しかし、お父様がまだ考え込んでいることに気づき、再び不安そうな顔をする。
「ほかにも何かあるのですか」
「この表面は、君を作ったときに使った柔らかな生体素材なんだ」
それは、彼が守り続けてきた物語に沿った説明だった。
「髪を伸ばし、表情を豊かにするためには、とても優れた素材だった。けれど、長い夢の影響を受けたままだから、時間とともに少しずつ変化してしまう」
「夢の影響……」
「人間として生きていた夢を、身体まで覚えているんだよ」
エマは鏡の中の細い線を見た。
「では、このままにしていたら?」
お父様は答えなかった。
エマの瞳に怯えが浮かんだ。
自分が美しくなくなることだけを恐れているのではない。
顔が変わるということは、お父様が作ってくれたエマの姿を失うことだった。
お父様から与えられた顔が、夢の名残によって少しずつ崩れていく。
エマには、それが自分の心まで再び夢へ引き戻されるように思えた。
「嫌です」
エマが小さく言った。
「お父様が作ってくださった顔が、変わってしまうのは嫌です」
白い腕が動いた。
お父様の操作によって、エマの両腕が彼の身体へ回る。
しかしその動きより先に、エマは既に抱きつきたいと願っていた。
「お父様」
エマは胸元へ顔を寄せた。
「私を、このままにしてください」
その言葉を聞いたとき、お父様は決断した。
皺ができるたびに修正するのではない。
皺そのものが二度と生まれない身体へ変える。
頭皮に用いた人工皮膚を、顔だけでなく、二人の残った全身へ広げる。
額から顎まで。
首。
胸。
背中。
腹部。
腰。
手足の人形部品へつながる肩と骨盤の周辺。
生体の皮膚をすべて人工皮膚へ置き換えれば、代謝による老化は止まる。
皺も、たるみも、染みも生まれない。
汗をかくことも、皮膚が乾燥することもない。
表面だけは、永遠に完成した日の姿を保ち続ける。
「分かった」
お父様はエマを抱きしめながら言った。
「このままの姿を、ずっと保てるようにしよう」
エマが顔を上げる。
「この線を消してくださるのですか」
「ああ。二度と新しい線ができないようにする」
シェリーが険しい表情でお父様を見た。
「顔だけではないのでしょう」
お父様はシェリーへ視線を向けた。
「二人の表面を、すべて完成させる」
「すべて?」
「顔も、首も、胴体も。今も生体素材が残っている場所を、髪の下と同じ人工皮膚へ置き換える」
エマの腕へ力が入ったように見えた。
実際に力を加えたのは、お父様の操作だった。
「全部、ですか」
「ああ」
「この身体も?」
「夢の影響を受け、時間とともに変化する表面はね」
エマは不安そうに口元の線へ触れようとした。
白い手袋が、お父様の操作を受けて頬へ届く。
口元の一本の線。
それがこれ以上増えない。
お父様が作ってくれたエマの顔を、永遠に保つことができる。
恐怖は消えなかった。
しかし、それ以上に、変わらずお父様の人形でいられるという安心が強かった。
「お父様に、お任せします」
エマは震える声で言った。
「怖いけれど……今の私を、ずっと残してください」
お父様はエマの額へ口づけた。
「必ず」
シェリーは二人を見つめていた。
「私も決定済みなのね」
「二人とも同じ問題を抱えている」
「私はまだ、皺なんてできていないわ」
「今はね」
「それでも?」
「シェリーにも、いずれ変化が現れる」
お父様は、シェリーの本当の年齢には触れなかった。
三十三歳だった直人の身体だから、という真実を口にすることはない。
「君の身体にも、長い夢の影響が強く残っている。エマより早く変化する可能性もある」
「また夢のせいにするのね」
「君たちは最初から人形だよ」
お父様は一度も設定を崩さない。
「ただ、心が宿ったあとに見た長い夢が、柔らかな生体素材へ時間の感覚を残した。それを取り除いて、本来の人形の姿へ完成させるんだ」
シェリーは反論しようとした。
だが、エマが怯えながら自分を見ている。
「シェリーも、一緒ですよね」
エマの声には、懇願があった。
一人で全身を変えられることが怖いのだ。
妹にも同じ姿になってほしい。
二人なら、目覚めたあとに互いを確かめられる。
シェリーは目を伏せた。
「お姉様はずるいわ」
「ごめんなさい」
「そんな顔で頼まれたら、私が断れないと分かっているでしょう」
「少しだけ」
「そこは否定しなさい」
エマは困ったように微笑んだ。
シェリーは長く息を吐いた。
「全部を一度に変えるの?」
「それは危険すぎる」
お父様が答えた。
「安全のため、何度かに分ける。顔と首。胸と背中。腹部と腰。それから、手足の接合部を含む残りの部分」
「何度も眠らされるのね」
「一つの範囲が完全に安定してから、次へ進む」
「途中はどうなるの?」
「衣装で隠すよ」
「裸になったら、違う皮膚が継ぎ合わされている?」
「一時的にはね」
最初の手術は、顔と首だった。
二人の表情を保ったまま、生体の表面だけが人工皮膚へ置き換えられた。
目覚めたエマは、自分の口元へあった線が消えていることを確かめた。
毛穴も、乾燥による細かな凹凸もない。
きめが細かく、柔らかく、光を受けても不自然な光沢は生まれない。
お父様が頬へ触れると、エマは目を閉じた。
「分かります」
「前と違う?」
「少しだけ、指の感覚が滑らかです」
「嫌かい」
「いいえ」
エマは安心したように微笑んだ。
「お父様の手だと分かります」
首には、最初の細い継ぎ目が残った。
顎の下から首を一周する、髪の毛よりわずかに太い線。
衣服を着れば、襟やリボンに隠れる。
だが裸の状態なら、それは確かに見えた。
「人形らしくなりました」
エマはその線を見て言った。
シェリーは鏡越しに姉を見る。
「普通は怖がるところではないの?」
「お父様が作ってくださった身体だと、よく分かります」
「お姉様は本当に、都合よく考えるのが得意ね」
そう言いながらも、シェリーは自分の首へ入った同じ線を何度も見ていた。
以前なら、それを傷跡だと思っただろう。
今は、お父様が作った人形の継ぎ目だと考えたほうが、少しだけ心が楽だった。
次に、胸と背中。
その次に、腹部と腰。
最後に整えられたのは、手足の接合部だった。
エマの肩と腰には、生体の胴体へ人形の四肢を取りつけたときの不均一な境目が残っていた。
衣装の下では見えないが、表面の高さや色がわずかに合っていない。
シェリーは肩そのものを大きく変えられているため、さらに複雑だった。
細い肩へ人形の腕がつながる箇所には、作品の途中で何度も作り直された痕跡がある。
お父様はそれらをすべて覆い、人工皮膚の表面を人形の部品へ滑らかにつないだ。
境目を消し去るのではない。
最初から分けて作られた胴体と手足が、正確にはめ込まれているような、細く均一な接合線へ整える。
首の線。
肩を囲む線。
腰から脚へ続く線。
さらに、安全のため胴体の皮膚を分割して取り替えた境目として、胸の下と腰の上にも細い継ぎ目が残された。
すべてが均一だった。
傷跡には見えない。
人形の部品を組み合わせた、意図的な境界に見えた。
最後の人工皮膚が安定した日、お父様は二人を大きな鏡の前へ運んだ。
衣装はまだ着せられていなかった。
鏡の前に並ぶ姿は、お父様が作り上げた少女人形そのものだった。
お父様の操作によって、二人はまっすぐ立つ。
エマの金色の髪と、シェリーのより長い暗色の髪が、何も覆われていない背中へ流れた。
人工皮膚は、顔から首、胴体へ途切れることなく広がっている。
皺も、染みも、毛穴もない。
胸元も腹部も、若々しく滑らかな輪郭を永久に保つ。
時間が経ってもたるまず、乾燥せず、色を失わない。
かつて不均一だった手足との境目も、今では左右対称の細い線へ整えられていた。
肩から腕へ。
腰から脚へ。
人間の身体へ無理やり人形の部品をつないだ痕跡ではない。
最初から、胴体と手足を別々の部品として作り、精密に組み上げた人形の接合部にしか見えなかった。
首にも線がある。
胴体にも、手術の区切りに沿った細い継ぎ目がある。
それらが加わったことで、二人の身体はむしろ完成して見えた。
継ぎ目のない人間へ似せた偽物ではない。
心を持つために作られた、精巧な人形。
お父様が二人へ教え続けてきた物語が、そのまま形になって鏡へ映っていた。
エマは自分の身体を見つめた。
口元の皺はない。
胸にも腹にも、時間の痕跡はない。
お父様から与えられた顔も、身体も、これ以上変わらない。
「これが……私ですか」
「そうだよ」
お父様が答える。
「完成したエマだ」
エマの目から涙がこぼれそうになる。
だが、人工皮膚の表面には汗も皮脂も浮かばない。涙だけが生身の目から頬へ流れ、滑らかな表面を伝った。
「もう、お父様が作ってくださった姿のまま?」
「永遠にね」
エマは鏡の中のお父様を見た。
「ありがとうございます」
白い腕が動き、お父様へ伸びる。
心が先に抱きつくことを望み、お父様の操作がそれを身体へ伝えた。
エマは彼に抱きつき、安堵したように目を閉じた。
シェリーは、自分の身体を黙って見ていた。
直人だった身体の表面は、もうどこにも残っていない。
顔も、胸も、腹部も、背中も。
手術で作られた部分と、もともと残されていた部分の区別さえ、人工皮膚によって覆われている。
首や胴体を横切る継ぎ目は、自分が何度も切り分けられた痕跡のはずだった。
それなのに鏡の中では、最初からそのように設計された人形の印に見える。
「……本当に、人間には見えないわね」
シェリーが言った。
「君は人間ではないからね」
お父様の返事は変わらない。
「最初から、僕の作ったシェリーだよ」
「直人だった記憶は残っている」
「長い夢を忘れる必要はない」
「この身体が、直人のものだったとも思っているわ」
「夢と現実が混ざっているんだね」
以前なら、シェリーは声を荒らげていた。
今は、鏡の中の完成された身体を見つめたまま、小さく息を吐いただけだった。
否定することに疲れている。
それだけではない。
エマが、お父様に抱かれて心から安堵している。
自分もまた、皺やたるみに怯えながら何度も手術を受け続けるより、今の姿が変わらないことへ安堵していた。
その感情を認めれば、お父様の物語へさらに一歩近づく。
それでも、もう抵抗だけを自分の支えにすることはできなかった。
「お姉様」
エマが振り返る。
「はい」
「そちらへ並んで」
お父様の操作によって、エマがシェリーの隣へ戻る。
明るい姉人形と、暗い妹人形。
二人の肩が触れる。
金色と暗色の髪が、滑らかな人工皮膚の上で重なった。
シェリーは鏡越しに、二人の身体を見比べる。
造りは同じではない。
エマの胴体は女性型として作られたという設定を持ち、シェリーの身体には疑似的に整えられた部分がある。
それでも人工皮膚に覆われた表面からは、その違いはほとんど分からない。
二人は対になる姉妹人形だった。
「お姉様のほうが、首の線が少し目立つわ」
「そうですか?」
「光の当たり方よ。あとでリボンを選び直したほうがいいわね」
「シェリーが選んでくれますか」
「仕方ないから、選んであげる」
「ありがとうございます」
「それから、私の腰の線を隠せるドレスも考えて」
お父様が尋ねる。
「継ぎ目が嫌なのかい」
シェリーはもう一度鏡を見る。
「……嫌というより」
細い線へ視線を落とす。
「何も着ていなくても、本当に人形みたいで落ち着かないだけ」
「人形だからね」
「すぐそれを言う」
「間違っていないから」
シェリーはお父様を睨んだ。
だが、表情には以前のような激しい拒絶はなかった。
「まあ、いいわ」
「受け入れたのかい」
「違う」
即座に否定する。
「今さら毎回同じことで言い争うのが面倒になっただけよ」
「そういうことにしておこう」
「その言い方は嫌いだと言っているでしょう」
お父様が微笑む。
シェリーも、ほんのわずかに口元を緩めた。
エマが白い手を妹へ重ねる。
黒い手も動き、その指へ重なった。
二人とも、自分だけでは正しく指を絡めることはできない。
しかし手を取り合いたいという願いは、お父様が動かすより先に生まれていた。
「お父様」
エマが呼ぶ。
「何だい」
「お洋服を着たら、三人でお茶にしませんか」
「いいね」
「シェリーも一緒ですよね」
「もちろんよ」
エマが笑う。
お父様も笑った。
シェリーは呆れた顔をしながら、二人の間へ少しだけ身を寄せた。
それも、お父様の操作だった。
けれど、その位置へ行きたいと願ったのは、シェリー自身だった。
人工皮膚に覆われた二人の身体は、もう年齢を表面へ刻まない。
皺も、染みも、たるみも生まれない。
髪は伸びず、肌は代謝せず、汗もかかない。
細い継ぎ目に分けられた身体は、時間の外へ置かれた完成品として、永遠に同じ美しさを保つ。
エマは、それこそが自分たちの本来の姿だと信じていた。
シェリーはまだ、直人の人生を夢とは呼べない。
それでも鏡に映る姉妹を見て、自分だけがそこから取り残されているとは、もう思わなかった。