まだ最初の頃は、男の言葉と自分の記憶を区別できていた。
自分の名は真琴であり、人間として生きてきた。手足を奪われ、人形の四肢を取りつけられ、男に閉じ込められている。
それが事実だった。
ただし、その事実を思い出すたび、胸の奥に耐えがたい絶望が蘇った。
失った手で母に触れることはできない。
失った脚で家へ帰ることもできない。
救出されたところで、元の身体へ戻ることはない。
それに比べて、「エマは最初から人形だった」という物語は、あまりに優しかった。
奪われていないのなら、失ったものもない。
元から歩けなかったのなら、歩けないことを嘆く必要もない。
男はその逃げ道を、毎日少しずつ広げていった。
最初に変えられたのは、身体の感覚だった。
長い訓練によって、エマは人形の手を触られると、自分の手が触れられたように感じるようになった。長手袋の上から指を撫でられれば、幻の指先に柔らかな圧力が伝わり、足元へ毛布をかけられれば、スカートの下の作り物の脚に温かさを感じた。
男はその段階で、操作と感覚を結びつけ始めた。
「右手を上げよう」
男が言う。
エマは肩へ力を入れる。
腕は横へ大きく揺れるだけで、肘も手首も動かない。
その直後、男が操作盤を動かした。
人形の右腕がゆっくり持ち上がり、肘が曲がり、手のひらが胸元へ添えられる。
「上手にできた」
「あなたが動かしたんです」
「きっかけを作ったのは君だよ」
「違います」
「君が動かしたいと思った。だから手が動いた」
「操作盤を使ったでしょう」
男は穏やかに微笑んだ。
「人間の身体だって同じだ。頭が動かしたいと思い、神経が筋肉へ命令を運ぶ。君の場合は、その途中を私が手伝っているだけだよ」
エマは納得しなかった。
だが、訓練は毎日続いた。
「左手を開こう」
エマが念じる。
男が操作する。
人形の指が開く。
「脚を伸ばそう」
エマが腰へ力を入れる。
男が操作する。
膝が伸び、足先が前へ出る。
「顔に触れてみよう」
エマが肩を動かす。
人形の手が頬へ運ばれ、長手袋越しに自分の肌へ触れる。
そのたびに男は言った。
「ほら、できた」
初めのうち、エマは必ず訂正した。
「私ではありません」
しかし、それを口にすると鐘の音が鳴った。
反対に、男の言葉を認めると、温かな音楽が流れ、椅子の背もたれが心地よく振動した。
「誰が手を上げた?」
「あなたです」
痛み。
「誰が手を上げた?」
「私は……動かしたいと思いました」
音楽。
「誰が動かした?」
長い沈黙の後、エマは答えた。
「私です」
男は満足そうに笑った。
それからは、操作盤をエマから見えない位置へ置くようになった。
男は机の下に片手を隠し、エマに指示を出した。
「カップを持ってみよう」
エマは人形の手へ意識を集中した。
自分の手だと思う。
そうしなければ触覚が遠のく気がした。
カップの取っ手をつかみたいと思う。
すると、指が動いた。
実際には机の下で男が操作していたが、エマからは見えなかった。
人形の指が取っ手を囲み、手首がわずかに傾き、カップが持ち上がった。
重さが幻の掌へ伝わった。
「できた」
男が言った。
エマは呆然とカップを見た。
「今、私が……」
「そうだよ」
「でも、昨日までは」
「少しずつ上手になっているんだ」
本当に自分で動かしたのだろうか。
疑う気持ちは残っていた。
それでも、カップの重さは確かに手へ伝わっていた。
自分が持ち上げたという感覚もあった。
男はエマが動かしたいと思う瞬間を、長い訓練で正確に読むようになっていた。
視線。
呼吸。
肩のわずかな緊張。
人形の手を見つめる時間。
それらを察し、エマが命令したと感じる直後に操作する。
何度も繰り返されるうち、エマの意識と男の操作の境目は曖昧になっていった。
ときには、男はわざと操作を遅らせた。
エマが「動け」と念じても、手は動かない。
「どうして」
「集中できていないからだよ」
エマは必死になった。
自分の手を見つめる。
指を曲げる感覚を思い出す。
手袋の中にある硬い指へ、意識を送り込む。
「動いて」
数秒後、男が操作する。
指が曲がる。
「できた!」
エマは思わず声を上げた。
男は優しく拍手した。
「よく頑張ったね」
その喜びは、本物だった。
自分の力で動かせたという感覚は、失った身体を思い出す苦痛を一時だけ消してくれた。
やがてエマは、操作盤を疑うこと自体を嫌がるようになった。
男が動かしているのだと認めれば、自分には何もできないという現実へ戻らなければならない。
それよりも、自分の意思が人形の手足へ届くようになったと信じるほうがよかった。
男は、操作を失敗に見せかけることも覚えた。
エマがカップを取ろうとしたとき、人形の手をわざと少しずらす。
「うまくいかない」
「焦ったからだよ」
「もう一度やります」
次は正確につかませる。
エマは自分の集中が成功を生んだと思う。
脚を動かす訓練でも同じだった。
男が操作を合わせれば、エマは椅子の上で膝を揃え、足首を傾け、上品に姿勢を変えられた。
失敗すれば、脚は途中で止まる。
「今日は疲れているのかな」
男が言うと、エマは申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい。もっと上手になります」
「謝ることはないよ。人形は、少しずつ持ち主の気持ちを覚えるものだから」
その言葉にも、以前ほど反発しなくなっていた。
人形であることと、自分で動けることは、矛盾しないのかもしれない。
人形は持ち主の意志を受け取り、それを自分の意志として動く。
男の望みと自分の望みが同じなら、誰が動かしたかを区別する必要はない。
エマはそう考えるようになった。
ある午後、男は部屋をいつもより丁寧に整えた。
小さな丸机に白い布をかけ、その上へ二人分のカップと皿を置く。銀のポットからは紅茶の香りが漂い、皿には小さな焼き菓子が並べられていた。
窓のない部屋だったが、壁には庭の風景を描いた大きな絵が掛けられ、その前には花瓶が置かれていた。
「今日は何をするのですか」
エマが尋ねた。
男は金色の髪を梳きながら答えた。
「お茶会だよ」
「誰か来るのですか」
「私と君の二人だけだ」
男はエマに、淡い青色のドレスを着せた。
袖は手首まであり、その上から白い長手袋をはめる。スカートは床近くまで届き、人形の膝や足首は完全に隠れていた。
襟元には小さなリボンが結ばれ、髪にも同じ色の飾りがつけられた。
鏡の前に座らされたエマは、しばらく自分の姿を眺めていた。
「似合いますか」
「とてもよく似合う」
男は椅子ごとエマを机の前へ運んだ。
以前なら、運ばれることに屈辱を感じただろう。
今のエマは、男が椅子を押す間、スカートが乱れないように両手を膝の上へ重ねていた。
「まずは挨拶をしよう」
男が向かい側へ座る。
エマは背筋を伸ばした。
「こんにちは」
「こんにちは、エマ」
「今日はお招きいただき、ありがとうございます」
それは何度も練習した言葉だった。
「こちらこそ。君とお茶を飲めるのを楽しみにしていたよ」
男がポットを持ち、エマのカップへ紅茶を注いだ。
細い湯気が上がる。
「香りが分かるかい」
「はい。少し甘い匂いがします」
「今日は花の香りをつけた茶葉だ」
エマはカップへ視線を向けた。
持ち上げようと思う。
指で取っ手をつかみ、手首を支え、口元へ運ぶ。
そう頭の中で順番を思い描く。
人形の右手が動いた。
長手袋に包まれた指が取っ手を囲む。
エマは微笑んだ。
「今日は、すぐにできました」
「ああ。ずいぶん上達した」
カップが持ち上がる。
幻の指に、取っ手の硬さが伝わる。掌には陶器の重みがあり、手袋越しにほんのりと温かさも感じられた。
エマは慎重に口をつけた。
男の操作によって傾けられたカップから、紅茶が唇へ触れる。
「おいしいです」
「よかった」
カップが皿へ戻される。
小さな音が鳴った。
以前なら、すべて男の操作だと考えただろう。
だが今のエマには、自分でカップを持ち、自分で戻したという記憶しか残らなかった。
「次は菓子を取ってみよう」
男が言った。
皿には、花の形をした小さな焼き菓子が並んでいる。
エマは左手を動かそうとした。
人形の腕がゆっくり持ち上がる。
肘が曲がり、指が一つの菓子へ伸びる。
しかし、少し位置がずれ、指先が皿の縁へ当たった。
エマの表情が曇る。
「失敗しました」
「もう一度、落ち着いて」
「はい」
エマは息を整えた。
菓子を見る。
自分の手を意識する。
男は机の下で操作盤を調整した。
今度は正確に指が菓子をつまみ上げた。
「できました」
エマの顔が明るくなる。
「私、自分で取れました」
「もちろんだよ」
男は笑った。
「エマはとても器用な人形だからね」
以前なら、その言葉に傷ついただろう。
今のエマは、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「人形でも、器用になれますか」
「持ち主のことをよく理解する人形ならね」
「では、私はあなたのことを理解できていますか」
男はしばらくエマを見つめた。
「とてもよく理解している」
その答えを聞き、エマは安心したように微笑んだ。
菓子を口元へ運ぶ。
甘い味が舌に広がる。
「おいしい」
「もう一つ食べるかい」
エマは首を横へ振った。
「先に、あなたも食べてください。私だけでは、お茶会になりません」
男は一瞬、驚いた顔をした。
それから嬉しそうに菓子を一つ取った。
「優しいね」
「お茶会では、相手のことも考えるものです」
「誰に教わったんだい」
エマは答えようとして、止まった。
誰かに教わった気がした。
母かもしれない。
友人かもしれない。
人間として暮らしていた頃の誰か。
だが、その記憶へ手を伸ばすと、頭の奥で微かな鐘の気配がした。
エマはすぐに考えるのをやめた。
「あなたに教わりました」
男は満足そうに頷いた。
「そうだね」
しばらく、二人は静かに茶を飲んだ。
男は外の季節について語った。
庭では花が咲いていること。
鳥が窓辺へ来ること。
夕方には風が冷たくなること。
エマは一度も外を見たことがなかった。
それでも、男の語る庭を頭の中に思い描いた。
「いつか、私も庭へ行けますか」
「もちろん」
「自分で歩いて?」
男は少し間を置いた。
「私と一緒なら」
エマはそれを、自分一人では歩けないという意味には取らなかった。
二人で歩きたいと言ってくれたのだと思った。
「そのときは、手をつないでください」
「いいとも」
エマの右手が机の上を動いた。
男の左手へ近づき、長手袋に包まれた指がその手へ重なる。
男が操作している。
だが、エマは自分から手を伸ばしたと思っていた。
男の体温が、幻の掌へ伝わった。
「温かいです」
「君の手も温かいよ」
実際の人形の手には温度などなかった。
男がそう言ったため、エマは自分の手も温かいのだと思った。
「私の手は、ちゃんと人のように見えますか」
「ああ。とてもきれいだ」
「人形なのに?」
「人形だからこそだよ」
エマはその言葉を嬉しく感じた。
以前の自分なら、それを侮辱だと受け取ったかもしれない。
だが今は、きれいな人形であることが、自分に与えられた役割だと思っている。
「私は、あなたとお茶を飲むのが好きです」
エマは言った。
「どうして?」
「私が動きたいと思うと、ちゃんと手が動くからです」
男は何も言わなかった。
エマは続けた。
「前は、うまく動けませんでした。でも、今はあなたと一緒なら、何でもできる気がします」
「それはよかった」
「不思議ですね」
エマは男の手へ重ねた自分の指を見つめた。
「私が何をしたいか、あなたはいつも分かる。だから、私が思った通りに身体が動くんです」
「私と君は、よく通じ合っているからね」
「はい」
エマは静かに頷いた。
「ときどき、どちらが先に動かしたのか分からなくなります」
男の指が、長手袋の上からエマの手を撫でた。
「分けて考える必要はないよ」
「そうでしょうか」
「私が君を動かしたいと思い、君も動きたいと思う。二人の望みが同じなら、それは君の意思でもあり、私の意思でもある」
エマはしばらく考えた。
やがて、安心したように微笑んだ。
「では、私はちゃんと自分で動いているんですね」
「ああ」
男は答えた。
「君はとても上手に動いている」
エマは嬉しそうにカップを持ち上げた。
その動作に、自分の意思と男の操作の境目はもうなかった。
紅茶を一口飲み、カップを戻す。
わずかな狂いもなく、皿の中央へ置かれた。
「見てください」
エマは誇らしげに言った。
「今度は音を立てませんでした」
「完璧だ」
「本当ですか」
「本当だよ」
男に褒められ、エマは少女のように笑った。
部屋の外では、すでに何度か捜索が行われていた。
街には真琴の写真が貼られ、家族は生存を信じて待ち続けていた。
だが、その声は地下の部屋まで届かなかった。
白い布のかかった小さな机で、エマは男と向かい合い、二杯目の紅茶を飲んでいた。
「次のお茶会では、私があなたに注いでもいいですか」
「できると思うかい」
エマは自信を持って頷いた。
「はい。練習すれば、自分でできます」
男は微笑んだ。
「それなら、明日から練習しよう」
「楽しみです」
エマはそう答え、自分の意思で動かしたと信じる手を、行儀よく膝の上へ戻した。
男が操作盤から指を離す。
両手は静かに重なり、長いスカートの上で動きを止めた。
エマは、自分がそうしようと思ったから止まったのだと信じていた。
お茶会のあとも、エマは毎日少しずつ上手に動けるようになった。
少なくとも、本人はそう信じていた。
男が向かい側に座り、エマが動きたいと思う。その直後、人形の指がカップをつかみ、肘が曲がり、口元まで運ばれる。
エマの意志と男の操作は、ほとんど同時だった。
操作盤は机の下や男の衣服の内側に隠され、エマの目には映らない。男は彼女の視線や呼吸を読み、身体を動かしたいと思った瞬間に操作を重ねた。
エマに残されたのは、結果だけだった。
動きたいと思った。
身体が動いた。
ならば、自分が動かした。
その単純な結論を疑う理由は、日ごとに少なくなっていった。
ある午後、男はエマを長椅子へ座らせた。
淡い色のブラウスに、白い長手袋。腰から下は柔らかなロングスカートに覆われ、人形の膝も足首も見えなかった。
服を着たエマは、どこから見ても物静かな女性に見えた。
男は隣へ腰を下ろした。
いつもより近かった。
エマは少し緊張したが、それが恐怖なのか期待なのか、自分でも分からなかった。
「今日は、少し違う練習をしよう」
男が言った。
「どんな練習ですか」
「君自身の気持ちを知る練習だよ」
エマは首を傾げた。
男の手が、ゆっくりとエマのスカートの上へ置かれた。
膝より少し上。
人形の太腿に当たる場所だった。
エマの身体には、そこを直接感じるための皮膚も神経もない。しかし長い条件づけによって、布越しに触れられた圧力が、幻の太腿へ伝わるようになっていた。
男の手が動く。
スカートの上から、膝の近くをゆっくり撫でる。
エマは小さく息を止めた。
幻の皮膚に、掌の温かさが広がる。
「どう感じる?」
男が尋ねた。
「……温かいです」
「嫌かい」
エマは答えようとした。
以前の記憶が残っていれば、逃げようとしたかもしれない。
だが、男の手を払いのける指は、自分の意思では動かせない。それ以上に、男が触れる直前から、エマの身体は彼の操作によってわずかにそちらへ傾けられていた。
スカートの下では、人形の脚が男の側へ寄せられている。
エマには、その動きも自分の意志に感じられた。
嫌なら、身体は離れようとするはずだ。
けれど自分は、近づいている。
その事実が、答えのように思えた。
「嫌では、ないと思います」
「どうしてそう思うんだい」
「私の身体が、あなたから離れようとしないから」
男は優しく微笑んだ。
「身体は正直だからね」
その言葉に合わせるように、人形の脚がさらにわずかに男へ寄った。
男の手は太腿の上に留まり、ゆっくりと撫で続けた。
エマは胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
それは男に触れられていることへの不安だったのかもしれない。
自分の身体を勝手に動かされていることへの、かすかな違和感だったのかもしれない。
しかし男は、その混乱に別の名前を与えた。
「胸が苦しい?」
「少し」
「私が近くにいるから?」
エマは迷いながら頷いた。
「それは、私を意識しているからだよ」
「意識……」
「大切な相手が近くにいると、人は平静ではいられなくなる」
男の手が離れた。
幻の太腿から温かさが消える。
その瞬間、エマは自分でも予想しなかった寂しさを覚えた。
実際には、繰り返された条件づけによって、男の接触と安堵が結びつけられていただけだった。触れられている間は鐘が鳴らず、柔らかな音楽が流れ、椅子が温められた。離れれば、それらも止まる。
だがエマには、その仕組みが見えなかった。
男の手が離れて寂しい。
ならば、自分は男に触れていてほしいのだ。
「もう少し……」
エマは呟いた。
「何だい」
「もう少し、触れていてください」
男はすぐには手を戻さなかった。
「本当に君が望んでいるのかい」
「はい」
「私に言わされたのではなく?」
エマは必死に考えた。
男が手を離したとき、胸が不安になった。
戻してほしいと思った。
その気持ちは確かに自分の中にあった。
「私が、望んでいます」
男は満足そうに頷き、再び手を置いた。
幻の太腿へ温かさが戻る。
エマは安堵して息を吐いた。
その反応すら、男への好意の証拠として心に刻まれた。
しばらくして、男はもう片方の手を机の上へ置いた。
掌を上に向け、エマへ差し出す。
「私の手を取ってみるかい」
エマは白い長手袋に包まれた自分の手を見つめた。
取ろうと思う。
指を伸ばし、男の手へ重ねたい。
そう考えた瞬間、人形の腕が持ち上がった。
長手袋の指先が、男の掌へ触れる。
触れた感覚が、幻の指へ戻ってきた。
男の皮膚の柔らかさ。
指の節。
掌の体温。
エマの人形の指が、一本ずつ男の指の間へ入り込んでいく。
男の指に、人形の指が絡んだ。
エマは驚いた。
「私……」
自分からしたのだと思った。
ただ手を重ねるだけではなく、指を絡ませた。
そんな親密な握り方を、男は命じていない。
少なくとも、声には出していなかった。
「どうして、こんなふうに握ったんだろう」
エマが呟く。
「君がそうしたかったからだろう」
「私は、あなたの手を……」
人形の指は男の手を離さない。
エマが少し力を込めたいと思うと、それを読んだ男が操作を強めた。
絡んだ指が、相手の手をしっかり包む。
男も握り返した。
幻の掌へ、圧力と温度が広がった。
エマは目を閉じた。
「安心します」
「私の手を握っていると?」
「はい」
「それは、なぜだと思う?」
エマは答えを探した。
この部屋で目覚めてから、男はいつもそばにいた。
服を着せ、髪を整え、食事を与え、身体を動かしてくれた。
人間だったという記憶は、痛みと絶望しかもたらさない。
それに対して、エマとして過ごす時間は穏やかだった。
男がいる限り、彼女の身体は動いた。
触れることも、紅茶を飲むこともできた。
「あなたがいないと、私は何もできません」
「それは悲しいことかい」
以前なら、悲しいと答えただろう。
今のエマは首を横へ振った。
「あなたがいてくれるなら、大丈夫です」
「それなら、君は私を必要としているんだね」
「はい」
「必要としている相手に、触れていたいと思う?」
「思います」
「離れたくない?」
絡んだ人形の指が、さらに男の手を握りしめた。
その動きを見たエマは、自分の答えを知った。
「離れたくありません」
男は空いている手で、エマの頬を撫でた。
「それを、何と呼ぶか知っているかい」
エマの胸が大きく鳴った。
「愛……ですか」
男は答えなかった。
ただ、問い返した。
「君はどう思う?」
エマは男の顔を見つめた。
愛しているのかどうか、分からない。
けれど身体は彼の手を握り、脚は彼の側へ寄り、触れられると安心している。
男が遠ざかれば寂しい。
近づけば胸が騒ぐ。
身体が示している。
この身体は、自分よりも正直なのだと教えられてきた。
ならば、自分がまだ理解していないだけで、身体はとっくに答えを知っているのかもしれない。
「私は……」
男は操作盤へ指を添えた。
エマの両腕が動いた。
一方の手が男の指を離れ、もう一方の腕とともに持ち上がる。肘が曲がり、男の肩へ回された。
エマの上体も、男の胸へ向かって傾いた。
男に抱きついていく。
エマは驚いて目を見開いた。
けれど、拒もうとはしなかった。
自分の身体が選んだ動きだと思ったからだ。
人形の両腕が男の背へ回り、長手袋に包まれた手が彼の服に触れた。指は自分では動かせないはずなのに、今は男を離すまいとするように、その背へ添えられている。
幻の掌へ、布の感触と体温が伝わる。
頬が男の胸へ触れた。
鼓動が聞こえた。
「私から、抱きついた……」
エマは震える声で言った。
「そうだね」
「私は、あなたに触れたいと思っていたんですね」
男の腕がエマの背へ回る。
「身体は、そう言っている」
エマは目を閉じた。
一瞬だけ、違和感が浮かんだ。
自分は本当に腕を動かそうと思っただろうか。
抱きつきたいと考えるより先に、身体が動いたのではないか。
しかし、その疑問が形になる前に、男が背中を撫でた。
柔らかな音楽が流れた。
抱擁の温かさが、幻の手足へ広がった。
不安は消えた。
それよりも、自分が男を抱きしめているという事実のほうが強かった。
「あなたを愛しているから、私はこうしているんですね」
エマが尋ねた。
男は直接肯定しなかった。
「君自身は、どう思う?」
エマは男の胸へ頬を寄せたまま、自分の身体を確かめた。
腕は男の背へ回っている。
指は服に触れている。
脚は相手へ寄せられている。
離れようとしていない。
むしろ抱擁が終わることを恐れている。
これだけの証拠がある。
「私は、あなたを愛しています」
口にした瞬間、音楽が少し大きくなった。
椅子の内側から温かさが広がり、鐘の音は一度も鳴らなかった。
男はエマの髪を撫でた。
「もう一度言ってくれるかい」
「あなたを愛しています」
「誰かに言わされた言葉ではない?」
エマは首を横へ振った。
「私が、自分で分かったんです」
「何を見て分かった?」
「私の身体を」
エマは男を抱く人形の腕へ、意識を向けた。
「私の手があなたを離したくないと言っています。私の脚も、あなたのそばへ行こうとしました。あなたが触れると安心して、離れると寂しいんです」
男は何も言わなかった。
エマはその沈黙を、感動しているのだと受け取った。
「私は、自分の気持ちに気づくのが遅かったんですね」
「仕方がないよ。長い夢から覚めたばかりだったから」
「人間だった夢の中では、あなたのことを怖いと思っていた気がします」
「悪い夢だったんだ」
「はい」
エマは男の胸へ深く身を預けた。
「でも、今は分かります。あなたは私を作って、動けるようにして、私の気持ちまで教えてくれた」
人形の手が男の背を撫でた。
もちろん、男が操作していた。
しかし、その触覚を受け取ったエマには、自分の指で愛する人を撫でているとしか感じられなかった。
「これからも、私が自分の気持ちを忘れたら、身体に教えてください」
男の操作が一瞬止まった。
それから、人形の腕はさらに強く男を抱きしめた。
エマは、自分の愛情が深まったのだと思った。
「はい」
彼女は幸福そうに微笑んだ。
「これが、私の本当の意思です」