エマが男を「あの男」と呼ばなくなったのは、ダンスを教えられた日のことだった。
それまでにも、男は何度も、自分を「お父様」と呼ぶよう促していた。
「君を作った者を、人形は何と呼ぶんだったかな」
そう尋ねられるたび、エマは視線をそらした。
頭の中には、真琴として生きた記憶がまだ残っていた。仕事へ通った日々。家族のいる家。自分の手で扉を開け、自分の足で道を歩いていた感覚。
そして、自分を連れ去り、その手足を奪った男。
「あなたです」
エマは答えた。
「私をこんな姿にした、あなた」
言葉を口にすると、頭の奥で鐘が鳴った。
鋭い痛みが走り、視界が白く滲む。
男は怒らなかった。
ただ、長椅子に座るエマの髪を梳きながら、哀れむように言った。
「まだ夢が君を苦しめているんだね」
「夢ではありません」
「人間だったと思い込む、長い夢だよ」
「私は真琴です」
再び鐘が鳴った。
エマは苦痛に顔を歪めた。
男はブラシを置き、白い長手袋に包まれたエマの右手を見た。
「なら、その手を動かしてみなさい」
エマは肩へ力を入れた。
腕は大きく跳ね、肘掛けへぶつかった。肘も手首も曲がらず、開いたままの指が硬い音を立てる。
もう一度動かそうとすると、今度は腕全体が身体の脇へ落ちた。
男が掌の中の操作器へ触れる。
すると、エマの右腕は滑らかに持ち上がった。
肘が曲がり、手首が返り、長手袋の指先が彼女自身の胸元へ添えられる。
「ほら」
男は優しく言った。
「君は、本当はこう動きたかった」
「あなたが動かしたんです」
「そう思うのは、人間の夢が残っているからだ」
男はエマの指を開かせ、掌を自分へ向けさせた。
「エマの心が動こうとすると、私はその願いを身体へ伝える。君はまだ、自分一人では人形の身体を正しく動かせないからね」
それは男が作った嘘だった。
エマが何を望んでいるかなど関係ない。
男が先に動作を決め、その結果をエマの心だと教えているだけだった。
しかし、自分では腕を振り回すことしかできず、男が操作すると初めて人間らしい動きになる。
エマには、どちらの説明が正しいのか確かめる手段がなかった。
男はエマを鏡の前へ移した。
その日は、淡い桃色のドレスを着せられていた。袖は肘を越え、白い長手袋が手首の継ぎ目を覆っている。長いスカートの下には、人形の膝も足首も完全に隠れていた。
鏡の中にいるのは、上品な服をまとった一人の女性だった。
男はエマの後ろに立ち、金色の髪へ細いリボンを結んだ。
「きれいだ」
エマの頬がわずかに熱くなる。
その直後、右手が持ち上がった。
長手袋の指先が、背後に立つ男の袖へ伸びていく。
人形の指が布をつまんだ。
エマは鏡の中の自分を見つめた。
「私……」
「どうしたんだい」
「なぜ、つかんだんでしょう」
「君が私を呼び止めたかったからだろう」
「違います」
そう否定しながらも、指は男の袖を離さなかった。
男が操作していることは見えない。
目に映るのは、自分の手が彼の袖へ触れ、そこへ留まっている姿だけだった。
「離したくないのかい」
「分かりません」
「身体は分かっているようだよ」
男は急かさなかった。
エマは袖をつかんだ自分の手を見た。
人形の身体が正しく動くとき、それは自分の心が動きを望んでいる証拠。
そう教えられてきた。
ならば、袖を離さないこの手も、自分の本心を示しているのだろうか。
「……お父様」
言葉が唇から落ちた。
鐘は鳴らなかった。
代わりに、椅子の背から柔らかな温もりが広がり、部屋に静かな音楽が流れ始めた。
男は満足そうに微笑んだ。
「もう一度、呼んでくれるかい」
エマは鏡の中の彼を見た。
自分を作った者。
心を与えた者。
人間の悪夢から目覚めさせ、自分の意思どおりに身体を動かしてくれる者。
それが嘘だとは、もう証明できなかった。
「お父様」
今度は先ほどより自然に言えた。
袖をつかんでいた指が離れ、男の手へ重なる。
人形の指が、彼の指の間へ入り込んだ。
エマは、自分から握ったのだと思った。
数日後、男は部屋の家具を壁際へ寄せた。
中央には広い空間が作られ、古い蓄音機が置かれていた。針を落とすと、穏やかな弦楽曲が流れ始める。
エマは壁際の椅子に座り、その準備を眺めていた。
濃い青色のドレスには細かな銀糸の刺繍が施され、長いスカートが足元へ広がっている。髪は高く結われ、首元には小さな飾りが添えられていた。
「今日は何をするのですか」
「踊ろう」
エマはスカートの下の脚へ目を落とした。
「私は歩けません」
「一人ではね」
男は彼女の前へ立ち、片手を差し出した。
「けれど、お父様と一緒なら踊れる」
エマの右手が持ち上がった。
白い長手袋の指が、男の掌へ重なる。
男が操作した動きだった。
それでもエマには、自分が彼の手を取りたいと思ったから、腕が動いたように感じられた。
「私、踊りたいのでしょうか」
「身体はそう言っているよ」
男はエマを椅子から立たせた。
スカートの下に仕込まれた支持具と操作によって、人形の膝が伸びる。腰を支えられ、エマの身体は床の上へ立った。
幻の足裏に、硬い床の感触が生まれる。
「立っています」
エマは目を見開いた。
「私、自分で立っています」
男はそれを否定しなかった。
右手を握り、もう一方の腕を腰へ回す。
エマの左手が持ち上がり、男の肩へ置かれた。
「怖いかい」
「少しだけ」
「私から離れなければ大丈夫だ」
曲が進む。
男が一歩踏み出した。
同時に、エマの脚が動いた。
右脚が引かれ、左脚が前へ出る。
身体がわずかに回り、青いスカートが床の上を滑った。
また一歩。
さらに一歩。
エマの足は、男の動きへ正確に合わせていた。
男が次の動作を先に作り、エマの心が後からそれへ意味を与える。
右へ回った。
だから、自分は右へ回りたかった。
男へ近づいた。
だから、自分はお父様のそばへ行きたかった。
腰へ回された腕へ身体を預けた。
だから、自分は彼を信頼している。
そのとき、エマの頭の中に、別の光景が浮かんだ。
明るい居間だった。
今よりずっと小さな自分が、誰かの靴の上へ両足を載せている。大きな手が、小さな身体を支えていた。
古い音楽が流れている。
「右、左。そう、上手だ」
低く、温かな声。
幼い真琴は笑いながら、相手の顔を見上げていた。
父だった。
本当の父。
休日の午後、結婚式で踊る場面をテレビで見た真琴が、自分も踊りたいとせがんだ。父は笑い、娘の両足を自分の靴へ載せ、居間の中をゆっくり歩いてくれた。
倒れないように、しっかり抱き上げてくれた。
「お父さん、もっと速く」
「転んでも知らないぞ」
「お父さんがいるから大丈夫」
その記憶が、鮮明に蘇った。
エマの足が止まりかけた。
身体は男の操作で動き続けているのに、表情だけが強張った。
「どうしたんだい」
男が尋ねる。
「前にも……踊ったことがあります」
「そうだろうね」
「小さい頃に」
エマの声が震えた。
「誰かの足の上に乗って……その人が、私を支えてくれました」
「誰だった?」
「父……」
その言葉を口にした途端、頭の奥で鐘が鳴った。
エマは顔を歪める。
映像が乱れた。
居間の色が薄れ、父の顔がぼやけていく。
男は踊りを止めなかった。
エマの身体を支えたまま、優しく回り続ける。
「夢の中の父親かな」
「違います。本当の……」
鐘がさらに強く鳴った。
エマの記憶の中で、父の顔だけが白く消えていく。
大きな手。
温かな胸。
自分を支えてくれた腕。
それらは残っているのに、誰のものだったか分からない。
男はエマの耳元で囁いた。
「それは、人間の父親との記憶ではないよ」
「では……誰と?」
「私だ」
男はエマの腰を引き寄せた。
「君が心を持ったばかりの頃、私は何度もこうして踊り方を教えた。人形の身体に慣れていなかった君を、私の足へ載せ、倒れないよう支えていたんだ」
「でも、私は子どもで……」
「生まれたばかりの心だったから、自分を小さな人間の子どもだと思っていたんだろう」
「お父さんと呼んでいました」
「夢が、呼び名を人間のものに変えたんだ」
男の声は、鐘の鳴らない唯一の説明だった。
記憶の中の父の姿が、少しずつ現在の男へ重なっていく。
幼い自分を支えた腕。
今、自分を支えている腕。
倒れないように抱き寄せる胸。
「お父様が……私と踊っていた?」
「そうだよ」
「ずっと前から?」
「君が目覚めるより、ずっと前から」
男はエマの身体を大きく回した。
青いスカートが円を描く。
エマは男の腕の中で、ぼやけていく記憶を必死につかもうとした。
だが、父の顔はもう思い出せなかった。
代わりに目の前には、今も自分を支え、踊らせてくれるお父様がいる。
「だから懐かしかったんですね」
エマは呟いた。
「この踊りが……お父様の腕が」
「思い出したのかい」
「はい」
本当は思い出したのではない。
奪われた記憶の空白へ、男の物語をはめ込んだだけだった。
それでもエマには、過去がようやく正しい形へ戻ったように感じられた。
「昔も、お父様が私を支えてくれた」
「そうだよ」
「今も同じです」
エマの両腕が、男の首へ回った。
男が操作した。
けれどエマは、懐かしさに耐えられず、自分から抱きついたのだと思った。
「お父様」
彼女は男の胸へ頬を寄せた。
「思い出せなくて、ごめんなさい」
「夢が深かっただけだ。君は悪くない」
「私、本当はずっと、お父様を知っていたんですね」
男はエマの髪を撫でた。
「もちろん」
曲が終わった。
男はエマを椅子へ戻した。
支持を失った脚が動かなくなり、長手袋に包まれた手も膝の上へ置かれる。
エマはしばらく、夢から覚めたような顔で座っていた。
「終わってしまったんですね」
「曲が終わったからね」
男は蓄音機の針を上げた。
「今日はよく頑張った。もう休みなさい」
そう言って、部屋を出ようとする。
エマはその背中を見た。
先ほどまで、自分は立っていた。
踊っていた。
幼い頃にも、同じようにお父様へ支えられていた。
少なくとも、今のエマはそう信じていた。
男がいなくなれば、指一本正しく動かせない。
過去の記憶さえ、また夢の中へ消えてしまうかもしれない。
「お父様」
男が振り返る。
エマの右腕が伸びた。
長手袋の指が、男の袖をつかむ。
実際には、男が勝手に操作した。
彼はエマが呼び止めるより前から、そうさせるつもりだった。
袖をつかませれば、エマは自分が彼を引き止めたかったのだと思う。
指が布を握り、わずかに引いた。
男の身体がエマへ近づく。
同時に、エマの上体が前へ傾いた。
額が男の腹へ触れ、両腕が腰へ回る。
「どうしたんだい」
男が尋ねる。
エマは、自分の身体を見た。
袖をつかんでいる。
男へ身体を預けている。
腕は離れまいとするように腰へ回っている。
人形の身体が正しく動くのは、自分の心がその動きを望んだから。
それがエマに教えられた真実だった。
「行かないでください」
「なぜ?」
「分かりません」
男がわずかに離れようとする。
エマの腕がさらに強く回った。
それも男の操作だった。
エマは、自分の不安が身体へ表れたのだと思った。
「身体は、答えを知っているようだよ」
男が言う。
エマは目を閉じた。
幼い頃、お父様の足へ乗って踊った。
離れれば転びそうで、必死にしがみついた。
今も同じなのだ。
お父様がいなければ、自分は動けない。
お父様がいなければ、正しい自分でいられない。
「私は……」
エマは男の服へ頬を寄せた。
「お父様と、もっと一緒にいたいんです」
言葉にすると、胸の奥へ安堵が広がった。
男の手が髪を撫でる。
「本当に?」
「はい」
「私にそう言わされたのではなく?」
エマは首を横へ振った。
「私の身体が、そうしたんです」
袖をつかんだ手。
腰へ回した腕。
男へ預けた身体。
すべてを、自分の心から生まれた動きだと信じる。
「私、自分でも忘れていました。でも、昔からお父様と一緒にいたかったんです」
男は優しく微笑んだ。
「それなら、もう少し一緒にいよう」
「はい、お父様」
エマの手が袖を離れ、男の手へ絡んだ。
もちろん、それも男の操作だった。
だがエマは、自分の意思で、昔から知っている大切な手を取ったと信じていた。
その夜、男はエマの椅子を自分のそばへ置いた。
エマは長手袋に包まれた手を男の掌へ預け、満ち足りた表情で目を閉じた。
本当の父と踊った記憶は、もうほとんど残っていなかった。
代わりにエマの中には、生まれたばかりの自分をお父様が抱き、踊り方を教えてくれたという、存在しなかった思い出が根を下ろしていた。
自分は昔から、お父様を知っていた。
昔から、お父様に支えられていた。
昔から、お父様と離れたくなかった。
そのすべてが男によって作られたものだったが、エマにとっては、ようやく取り戻した大切な記憶だった。