男は二体目の人形を連れてきた。
今度の素材は、三十三歳の男性だった。
名を直人といった。
直人が最後に覚えていたのは、駅の駐車場で車へ向かっていたところだった。背後から腕をつかまれ、首筋へ何かを押し当てられた。その後には、暗闇しかない。
目覚めたとき、彼は仰向けに寝かされていた。
白い天井が見えた。
口の中は乾き、胸の中央には鈍い痛みがあった。身体を起こそうとすると、腰と胸を太い帯で寝台へ固定されていることに気づいた。
「誰か!」
声は自分のものだった。
低い、成人男性の声。
それを聞いて、直人は一瞬だけ安心した。
少なくとも、まだ自分は自分だった。
「誰かいないのか! ここはどこだ!」
返事はなかった。
直人は拘束を外そうと、右腕へ力を込めた。
何も起きなかった。
指が動かない。
肘も動かない。
腕を振り上げようとしても、肩に力を入れている感覚そのものがなかった。
左腕も同じだった。
「麻酔か……?」
直人は歯を食いしばり、脚を動かそうとした。
股関節の近くには、わずかに力を入れられる感覚が残っていた。だが、その先にあるものは重く揺れるだけで、膝も足首も動かなかった。
下半身には白い布がかけられている。
腕は布の外へ出ていた。
最初、直人はそれが人間の腕だと思った。
細く、白い長手袋をはめた二本の腕が、身体の左右に置かれていたからだ。
だが、よく見ると位置がおかしかった。
腕が生えている場所が、あまりにも内側だった。
人間の肩があるはずの膨らみがない。首から胸へ続く輪郭は不自然なほど細く、鎖骨の外側が途中で途切れたように落ち込んでいる。
肩幅そのものが、失われていた。
直人は自分の身体を見下ろそうと、必死に顎を引いた。
「なんだ、これ……」
両腕は、肩関節からつながっているのではなかった。
肩ごと失われ、狭く整えられた胴体の左右へ、人形の腕が取りつけられていた。長手袋は、手首や指の継ぎ目を隠すためのものだった。
エマには残っていた、肩から腕全体を振り回す最低限の自由さえ、直人にはない。
腕は完全に沈黙していた。
身体の横に置かれた、他人の所有物のようだった。
「嘘だ」
直人は首を振った。
「こんなの、作り物だ。俺の腕の上にかぶせてあるだけだ」
自分の肩へ触れようとした。
腕は動かなかった。
代わりに、存在しない両手の指が強く痺れた。
握り拳を作っている感覚がある。爪が掌へ食い込んでいる気さえする。肘も、手首も、まだそこにあるように痛んでいた。
だが、視界の中にあるのは、動かない白い長手袋だけだった。
「俺の腕はどこだ!」
直人は叫んだ。
「誰だ! 出てこい!」
扉が開いた。
男が入ってきた。
その後ろから、長いドレスを着た金髪の女性が現れた。
女性は男の腕へ手を添え、ゆっくりと歩いていた。白い長手袋をはめ、足首まで届くスカートをまとっている。服の下にある関節は見えず、遠目には少し足の不自由な女性を介助しているだけに見えた。
「目を覚ましたんだね」
男は寝台のそばへ来た。
「近寄るな!」
直人は身体を起こそうとした。
拘束帯が胸へ食い込む。
腕で男を押しのけようとしたが、人形の手は微動だにしなかった。
「俺に何をした」
「君を作り直した」
「俺の腕を返せ!」
男は答えず、直人の身体を観察した。
首から肩へ続く細い輪郭を眺め、満足そうに頷く。
「エマのときは、人間の肩を残しすぎた。服を着せても、少し輪郭が強かったんだ」
男は後ろに立つ女性を見た。
「それに、本人が肩から腕を振り回せてしまった。人形らしくない、乱暴な動きだった」
女性――エマは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい、お父様。あの頃はまだ、夢の影響が強かったんです」
「君のせいではないよ」
男は優しく答えた。
「私の作り方が不完全だっただけだ」
直人は二人を見比べた。
「何を言っているんだ」
エマが直人へ近づいた。
一歩ごとに、その脚は滑らかに動いた。
実際には、男が衣服の内側に隠した操作器で動かしていた。だがエマは、自分がお父様の技を借りて、自分の意思で歩いていると信じている。
エマは寝台の横へ立つと、直人の人形の手へ自分の手を重ねた。
「怖いですよね」
「触るな」
「私も、目覚めたばかりの頃は怖かったんです」
「お前も、この男にやられたのか」
エマは悲しそうに首を振った。
「人間だった夢を見ていたんです。手足を奪われたと思い込んで、お父様を悪い人だと思っていました」
「思い込みじゃない!」
直人は男を睨んだ。
「こいつがやったんだろう!」
「まだ夢と現実が混ざっているんですね」
エマの声には、心から相手を案じる響きがあった。
それが直人には、男の冷静さよりも恐ろしかった。
彼女は壊されている。
それなのに、自分が救われたと思っている。
「君の名前は、今日からシェリーだ」
男が言った。
「俺の名前は直人だ」
「それは夢の名前だよ」
「俺は男だ!」
男は直人の顔を見つめた。
髭の痕が残る顎。
成人男性らしい骨格。
低い声。
平らな胸。
そのどれもが、細く作り変えられた肩や女性型の人形肢とは噛み合っていなかった。
今の直人は、男性の頭部と胴体へ、少女めいた細い手足を取りつけられた、未完成の存在だった。
「そこは、まだ調整していない」
男は事務的に言った。
「顔立ちは、もう少し柔らかくする。声もシェリーにふさわしいものへ変える必要があるね。胸元も、この肩幅には今の形では釣り合わない」
直人の呼吸が止まった。
「何をするつもりだ」
「完成させるだけだよ」
「やめろ」
「今は、自分の姿に違和感があるだろう?」
「当たり前だ!」
「それは、身体が途中だからだ。すべてが調和すれば、君も落ち着く」
「俺は女になりたいなんて言ってない!」
男は穏やかに微笑んだ。
「エマも最初は、そう言っていた」
エマが直人の人形の手を包む。
その指は、男の操作によって優しく握られた。
「大丈夫です、シェリー」
「その名前で呼ぶな!」
「完成したら、きっと今の姿のほうが夢だったと分かります」
「お前も男だったのか」
エマは目を瞬いた。
「いいえ。私はお父様が作った人形です」
「その前だ!」
「前なんてありません」
エマは本気で答えた。
「私は最初からエマでした」
直人は言葉を失った。
男は寝台の横に置かれた小さな操作器を手に取った。
「まずは、シェリーの身体がどう動くのか確かめよう」
「やめろ!」
人形の右腕が持ち上がった。
直人の意思とは無関係に肘が曲がり、白い長手袋の手が自分の頬へ触れた。
「やめろ!」
左手も動いた。
両手が顔の輪郭を包む。
幻の掌に、自分の頬へ触れている感覚がかすかに生じた。
「感じるだろう?」
「違う。これは俺の手じゃない」
「けれど、君は今、自分の頬へ触れている」
「お前が動かしている!」
「夢の中では、そう見えるんだね」
男は人形の指を、直人の顎から首筋へゆっくり移動させた。
直人の脳には、存在しない指で皮膚をなぞっているような、混乱した感覚が返ってくる。
「やめてくれ」
先ほどまでの怒鳴り声が、初めて懇願へ変わった。
「それを外して、病院へ連れていってくれ。顔も声も、このままでいい。もう何もしないでくれ」
男は直人の願いを聞いているように見えた。
しかし、答えは変わらなかった。
「シェリーは、まだ生まれたばかりだ」
人形の両手が直人の胸元へ重ねられる。
平らな男性の胸。
細く作り変えられた肩。
長手袋の白い指。
その不釣り合いな姿が、壁の鏡に映っていた。
「今は夢の姿が残っているから、苦しいんだよ」
「これが俺だ」
「その顔も?」
「そうだ」
「その声も?」
「そうだ!」
「では、どうして身体だけがシェリーの形をしている?」
直人は答えられなかった。
身体がそうなっているのは、男が切り刻んだからだ。
分かっている。
だが、その事実を口にするには、自分の肩と腕と脚が永久に失われたことを認めなければならなかった。
男はその沈黙を待っていた。
「夢が完全に覚めれば、顔も、声も、胸も、本当のシェリーへ近づく」
「本当なんかじゃない」
「そのうち分かるよ」
男は操作器へ触れた。
シェリーの両腕がエマへ伸びた。
白い長手袋の指が、エマの手を握る。
直人はそれを止められなかった。
「ほら」
男が言った。
「シェリーは、一人になるのが怖くて、エマの手を求めた」
「違う!」
「身体は正直だよ」
「俺はそんなことを思っていない!」
エマはシェリーの手を握り返した。
幻の掌へ、長手袋越しの温もりが伝わってくる。
「私がそばにいます」
エマは微笑んだ。
「お父様が、シェリーをきれいに完成させてくださるまで」
「助けを呼べ」
直人はエマを見つめた。
「お前はまだ分かるだろう。俺たちは人間だ。外へ出れば、警察も病院もある」
エマの表情が曇った。
人間。
警察。
病院。
その言葉は、彼女の中に残る真琴の記憶をわずかに揺らした。
だが、男が操作器を動かす。
エマの手がシェリーの指をさらに強く握った。
その動きを見て、エマは自分がシェリーを安心させたいと願ったのだと理解した。
「大丈夫」
エマは、自分自身へ言い聞かせるように繰り返した。
「夢から目覚めるのは怖いけれど、お父様は間違えません」
「違う……」
「私も、最初は泣きました」
「頼む」
「でも今は、とても幸せです」
直人はエマの顔を見た。
そこに演技はなかった。
彼女は本当に幸福なのだ。
自分の人生を奪った男を愛し、彼に動かされることを自由だと思っている。
やがて自分も、同じ顔で笑うのだろうか。
この低い声は失われる。
鏡の中の男性の顔も変えられる。
平らな胸も、細い肩に合うよう作り替えられる。
そして最後には、直人という名を悪い夢だったと思い込む。
「嫌だ」
直人は呟いた。
「俺は、ああはならない」
男はエマの髪を撫でた。
「エマも同じことを言ったよ」
寝台の横で、二体の人形の手が重なっていた。
一方は既に完成し、自分が救われたと信じている。
もう一方は、男性の顔と声だけを残し、これから何を失うのかを理解している。
男はその光景を眺めた。
エマのときに残った不完全さは、シェリーでは修正した。
肩幅は細く整えた。
腕を振り回す自由も残していない。
今度は、身体の形から先に逃げ道を塞いだ。
「おやすみ、シェリー」
男が言った。
直人は首を横へ振った。
「俺は直人だ」
「今はまだ、そういう夢を見ている」
「俺は男だ」
「その声で言えるのも、今だけだよ」
男は照明を落とした。
暗くなった部屋で、エマの手だけがシェリーの手を握り続けていた。
もちろん、どちらの指も男が操作していた。
エマは、自分が新しい妹を慰めていると思っていた。
直人は、動かない人形の指に温もりを感じながら、最後まで自分の名前を繰り返した。
「直人だ」
暗闇へ向かって言う。
「俺は直人だ。俺は直人だ」
けれど、その声がシェリーにふさわしくないものとして消される日が、もう決められていることを、彼は知っていた。
直人が目を覚ましてから三日目の朝、男は作業室ではなく、居間へ彼を運んだ。
直人の身体は、背もたれの高い椅子へ固定されていた。肩ごと失われた両側には細い女性型の人形肢が取りつけられているが、長袖の服を着せられていない今は、胴体と腕の接続部があらわになっていた。
脚にも同じような人形の部品がついている。
股関節のわずかな動きは残っていたが、膝から先は男の操作なしには動かない。腕に至っては肩そのものがないため、直人がどれほど力を込めても揺らすことさえできなかった。
首から下にあるのは、成人男性の胸と腹。
その左右に、女性の人形を想定して作られた細い手足。
鏡を見せられるたび、自分がばらばらの部品を寄せ集めた途中の物体になったように感じた。
「何のつもりだ」
直人は低い声で尋ねた。
男は答えず、部屋の中央に小さな丸机を置いた。
二脚の椅子。
白い卓布。
花柄のカップ。
エマと行っていたものと同じ、お茶会の準備だった。
「俺にこんなことをさせるな」
「今日は、君のためではないよ」
男はそう言うと、隣室へ続く扉を開いた。
淡い黄色のドレスを着たエマが現れた。
金色の髪には白いリボンが結ばれ、長袖と長手袋、足首近くまで届くスカートによって、人形の関節はすべて隠れている。
男の操作に合わせ、一歩ずつゆっくりと歩いてくる。
直人には、その動きを誰が作っているのか分かっていた。
しかしエマは、自分がお父様とともに、自分の意思で歩いていると信じている。
「おはようございます、シェリー」
「その名前で呼ぶな」
直人が吐き捨てるように言うと、エマは少し困った顔をした。
「まだ夢の名前のほうが安心するのですね」
「俺は夢なんか見ていない。俺は直人だ」
「私も、真琴という名前をずっと手放せませんでした」
「それがお前の本当の名前だ!」
エマの表情が一瞬だけ強張った。
だが、男が彼女の肩へ優しく手を置くと、その緊張はすぐにほどけた。
「エマ」
「はい、お父様」
「無理に急がせなくていい。君が目覚めるまでにも時間がかかった」
「……はい。ごめんなさい」
「謝る必要はないよ」
男はエマの椅子を引き、丁寧に座らせた。
それから、白い長手袋に包まれた右手を膝の上へ置き直す。袖口に小さな皺があることに気づくと、それまで伸ばしてやった。
その扱いには、直人へ向ける観察者の冷たさがなかった。
新しい人形ができたからといって、古いものを片づけるような様子もない。
エマは男が手袋を整える間、嬉しそうにその顔を見上げていた。
「少し緩くなっているね」
「昨日、指をたくさん動かしたからでしょうか」
実際には男が動かしたのだが、エマは誇らしげに言った。
「新しいものを作ろう」
「でも、これはお父様が最初に選んでくださった手袋です」
「では直そう。捨てる必要はない」
男はそう答え、手袋の手首へ指を添えた。
「君に最初に着せたものだからね」
エマの顔に、安堵と喜びが広がった。
直人はそのやりとりを見ていた。
男はエマを失敗作と呼んだ。
肩を残しすぎたことも、腕を振り回せることも、不完全だったと口にしていた。
だが、それはエマ自身を粗末に扱うという意味ではないらしい。
むしろ男にとって、エマの不完全さは、一号作だけが持つ来歴そのものだった。
「新しいのができたら、そいつはもういらないんじゃないのか」
直人が言った。
エマが不安そうに男を見た。
男は直人ではなく、まずエマへ向き直った。
「そんなことはない」
その声には、普段より明確な強さがあった。
「エマは私が初めて心を宿すことのできた、たった一体の一号作だ。シェリーがどれほど違う身体になっても、君の代わりにはならない」
「本当ですか」
「君がいなければ、シェリーを作ろうとも思わなかった」
男はエマの頬を撫でた。
「君は私に、人形へ心を目覚めさせる方法を教えてくれた。私が作った人形でありながら、同時に私を育てた人形でもある」
エマは目を潤ませた。
人形の右手が持ち上がり、男の手へ重なった。
男自身が操作した動きだった。
エマは、自分が感動してお父様の手を取ったのだと信じている。
「お父様」
「何だい」
「シェリーが目覚めるまで、私がお姉様でいてもいいですか」
「そのために君をここへ連れてきたんだよ」
男の指と、エマの人形の指が絡んだ。
「シェリーは、君とは違う夢を見ている。女性として生きた夢を見ていた君より、今の身体と完成した姿の隔たりが大きい。きっと何度も怖がるだろう」
男は直人へ視線を移した。
「だから、先に目覚めた姉が必要だ」
「ふざけるな」
直人は椅子の拘束へ力を込めた。
「俺はこいつの妹じゃない。俺は男だ。三十三歳の男だ」
エマは直人を見つめた。
その目には侮蔑も優越感もなかった。
ただ、自分もかつて同じ場所にいたと思い込んでいる者の、静かな同情だけがあった。
「私よりも、ずっと長くて深い夢なのですね」
「違うと言ってるだろう!」
「夢の中の身体と、これからのお姿があまりに違うから、怖いのだと思います」
「これはあいつが勝手にしたことだ!」
直人は細く作り替えられた肩の線を顎で示そうとした。
「俺の肩を切った! 腕を奪った! 脚もだ! お前だって同じことをされたんだ!」
エマの長手袋に包まれた手が、わずかに震えた。
本当に震えたのではない。
男がそう動かした。
その動きを見たエマは、自分が悲しんでいるのだと理解した。
「かわいそうに」
「俺を哀れむな」
「身体が変わる前の記憶が、まだ本当のことのように感じられるのですね」
「本当なんだ!」
「私も、なくなった手が痛いと泣きました」
エマは自分の膝の上へ置かれた手を見た。
「でも、今はこの手に触れられたことが分かります。お父様の手を握れば、温かさも感じます」
男がエマの長手袋へ触れた。
条件づけられた幻の掌へ、温もりが広がったのだろう。エマは安らかな表情で目を細めた。
「お父様は、私から身体を奪ったのではありません。この手が私の手だと、思い出させてくださったんです」
「それを信じ込まされたんだ」
「いつかシェリーにも分かります」
エマの声は穏やかだった。
「今の低い声も、広かった肩も、男性として生きた日々も、シェリーの心が見ている長い夢だったと」
直人は男を睨んだ。
「こいつに何をさせるつもりだ」
「君を支えてもらう」
男は紅茶を二つのカップへ注いだ。
エマの前に一つ。
直人の前にも一つ。
「俺は飲まない」
「今日は飲めなくても構わない」
男は直人の人形の右手を操作した。
白い長手袋の指が持ち上がり、カップの取っ手へ近づく。
直人には、その動きを妨げる肩さえなかった。
人形の指が取っ手を囲む。
幻の掌へ、陶器の硬さがかすかに伝わった。
「やめろ」
「シェリーは、お姉様と同じようにお茶を飲みたいと思っている」
「思ってない!」
「身体は、もう手を伸ばしているよ」
カップが持ち上がる。
直人の口元へ運ばれる。
「口を開けなくてもいい」
男は言った。
「今日は、自分の手がカップの温かさを感じることだけ覚えればいい」
「俺の手じゃない」
「そう言い続けても構わない」
エマの手も動いた。
彼女は自分のカップを持ち上げ、上品に一口飲んだ。
「最初は、私も何度も落としました」
もちろん、落としたのも男の操作だった。
「でも、お父様と一緒に練習しているうちに、上手にできるようになりました」
「お前が上手くなったわけじゃない」
直人が言うと、エマは少し考えた。
それから、男を見上げた。
「でも、私が飲みたいと思わなければ、お父様は動かしてくださいません」
それもまた、男によって教えられた嘘だった。
男はエマが飲みたいかどうかに関係なく、好きなときに動かせる。
直人の目の前で、その事実は何度も示されている。
それでも、エマの幸福そうな表情には一片の疑いもなかった。
男はエマのカップを皿へ戻させると、金色の髪を撫でた。
「今日はありがとう」
「私は何もしていません」
エマは恥ずかしそうに微笑んだ。
「お姉様らしいことを、まだ何も」
「ここにいてくれるだけでいい」
「でも、シェリーに何かしてあげたいです」
男は少し考えた。
「それなら、彼女の手を取ってあげなさい」
エマの右腕が持ち上がった。
直人の人形の左手も同時に動く。
二つの白い長手袋が、机の上で触れ合った。
エマの指が、シェリーの指の間へ入っていく。
直人は拒もうとした。
動かせない。
二体の人形の指が絡み合う。
幻の掌へ、エマの手の温もりが伝わった。
「離せ」
「怖くありません」
「離せ!」
「私は、お姉様です」
エマは優しく言った。
「シェリーがどんなお姿になっても、私は嫌いになりません」
「俺はシェリーじゃない」
「低い声のままでも」
「やめろ」
「お顔が変わっても」
「黙れ」
「胸元が完成して、今とは全く違う姿になっても」
直人は目を閉じた。
「私は、シェリーの手を離しません」
人形の指がさらに強く絡んだ。
男の操作だった。
けれど、エマは姉として新しい妹を守ろうとしているのだと信じている。
直人は、その温もりを感じてしまっていた。
自分の手ではない。
動かすこともできない。
それでも、人形の指に触れたエマの手が温かいことだけは、否定できなかった。
「次は、何をする」
直人は目を閉じたまま尋ねた。
「声を変えるのか。顔か。胸か」
男はすぐには答えなかった。
エマの手袋の皺をもう一度丁寧に整え、それから直人を見た。
「まずは記録を残す」
「記録?」
「今の君を、忘れないために」
男は壁際へ置かれた撮影機を示した。
「広い肩はもう残せなかったが、顔も声も胸もまだ直人のものだ。シェリーが完成したあと、今日の映像と並べて見せてあげる」
「そんなものは撮らせない」
「抵抗する声も残しておこう」
男は録音機のスイッチを入れた。
小さな赤い灯りが点く。
「シェリーが自分の高く柔らかな声を聞いたあとで、今の声をどう感じるのか知りたい」
直人は口を閉ざした。
「黙っていてもいい。沈黙している直人も、いずれ貴重な記録になる」
エマが男を見上げた。
「お父様」
「何だい」
「私の昔の記録も残っていますか」
「もちろん」
「泣いているものも?」
「ああ」
「いつか、見せてください」
直人は思わずエマを見た。
男は彼女の頬へ手を添えた。
「怖くはないのかい」
「少し恥ずかしいです。でも、昔の私がいたから、今の私がいるのでしょう?」
「そうだよ」
「なら、昔の私も大切です」
男は微笑んだ。
「君が一号作である理由は、最初だったからだけではない。目覚めるまでのすべてを含めて、君はエマなんだ」
エマは嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます、お父様」
直人は、そのやりとりから目をそらした。
男はエマを捨てない。
不完全だった部分も、泣き叫んだ過去も、抵抗した記録も含めて保存し、愛でている。
それは救いではなかった。
むしろ直人には、いっそう恐ろしく感じられた。
シェリーが完成したあと、男は直人だった頃の自分も捨てないのだろう。
低い声で拒絶する映像。
男性の顔で睨みつける写真。
まだ平らな胸をした途中の姿。
それらをすべて大切に保管し、女性型人形となったシェリーの隣へ並べる。
過去の自分が消されるのではない。
完成後の自分を喜ばせるための、比較材料として永遠に残される。
撮影機の前で、エマはシェリーの手を握っていた。
「大丈夫です」
彼女は繰り返した。
「お父様は、私も昔の私も、どちらも大切にしてくださいました」
直人は人形の指に伝わる温もりを感じながら、低い声で答えた。
「それが一番、嫌なんだ」
エマには、その意味が分からなかった。
男には分かっていた。
だからこそ、撮影機を止めなかった。