翌朝、男は直人の椅子を衣装室へ運んだ。
壁一面に布地やレース、箱に収められたリボンが並んでいる。淡い色が多い一角はエマのためのものらしく、白、薄桃色、空色、柔らかな黄色が整然と収められていた。
反対側には、直人がこれまで見たことのない衣装が掛けられていた。
黒を基調とした長袖のドレスだった。
完全な黒一色ではない。スカートには濃紺の布が幾重にも重ねられ、光の加減によって深い紫にも見える。襟や袖口には黒いレースがあしらわれ、胸元には大きすぎないリボンが結ばれていた。
暗い色でありながら、喪服のような重苦しさはない。
むしろ可愛らしい人形の服を、そのまま夜の色へ染めたような意匠だった。
椅子の横には、黒い長手袋と厚手のストッキング、小さな飾りのついた靴が並べられている。
「着せる気か」
直人が尋ねた。
男はドレスを手に取り、広げて見せた。
「シェリーの最初の衣装だ」
「俺は着ない」
男は直人の拒絶に応じず、寝間着の留め具を外し始めた。
直人には振り払う腕がない。
肩ごと失われた身体では、人形の腕を不格好に揺らすことさえできなかった。首を振り、胴体をよじろうとしても、椅子へ固定された帯が食い込むだけだった。
「エマ」
男が呼ぶと、部屋の扉が開いた。
今日のエマは、淡い水色のドレスを着ていた。白い長手袋と明るいストッキング、金色の髪には同じ水色のリボンが結ばれている。
男の操作に従って、静かに室内へ入ってくる。
直人は黒い衣装とエマを見比べた。
意図はすぐに分かった。
明るい色のエマ。暗い色のシェリー。
二人を並べたとき、最初から姉妹として作られたように見せるための服だった。
「おはようございます、シェリー。今日は初めてのお洋服ですね」
「こんなものは着ない」
エマは黒いドレスへ目を向けた。
「とても可愛いです」
「お前が着ればいい」
「これはシェリーのために、お父様が選んだものです」
エマの声には羨望も嫉妬もなかった。
男が自分とは違う衣装を二号作へ与えたことを、素直に喜んでいる。
「私とは反対の色ですね」
「二人で並んだとき、互いがよく映えるようにした」
男が答えた。
「エマは朝の光。シェリーは夜の色だ」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「では、私たちは本当に対のお人形なのですね」
「そうだよ。ただし、対であることと同じであることは違う。君は君で、シェリーはシェリーだ」
男はエマの頬へ触れた。
「どちらかが、もう一方の代わりになることはない」
「はい、お父様」
エマの手が持ち上がり、男の手へ重なった。
男の操作による動きだったが、エマは自分が安心してお父様へ触れたのだと信じている。
直人はそのやり取りから目をそらした。
直人の人形の腕が操作され、衣服を通すために持ち上げられた。
黒いストッキングが人形の脚を覆う。
丸い膝関節も、足首の継ぎ目も、暗い布の下へ消えていった。
次にドレスが身体へ通された。
狭く整えられた肩の輪郭へ、黒い布が滑らかに落ちる。人間の男性だった頃の肩幅はなく、長袖の形は最初から細身の女性の身体へ合わせて仕立てられたように見えた。
胸元だけが平らだった。
暗いリボンとフリルに囲まれたそこは、男が予定している完成形に比べれば、明らかに空白に見える。
男は布をつまみ、今後どれほど輪郭を変えるか確かめた。
直人はその指先を見て、喉を鳴らした。
「何もしないでくれ」
「胸元は後だ。今日は頭部だけを整える」
淡々と告げられた言葉に、直人の顔から血の気が引いた。
最後に黒い長手袋がはめられた。
手首の継ぎ目が隠され、人形の指は細く上品な女性の手のように見える。男が操作して膝の上へ重ねると、暗いドレスの裾に黒い手袋が静かに置かれた。
鏡が運ばれてきた。
直人は見ないように顔を背けた。
男は顎をつかみ、正面へ戻した。
「今のうちに見ておきなさい」
鏡の中には、黒いドレスを着た女性型の人形が座っていた。
細い肩。
長袖に包まれた腕。
黒い手袋。
長いスカートから覗く、小さな靴。
その上に、直人の頭だけが載っていた。
短い髪。
髭の痕。
張った顎。
太い首筋。
衣装と身体が作る可憐な輪郭から、顔だけが残酷なほど浮いている。
男が直人を選んだ理由が、鏡の中に示されていた。
完成形から遠い。
あまりにも遠い。
だからこそ、男はこの姿を見たかった。
「不釣り合いだろう?」
男が尋ねた。
「お前が不釣り合いにしたんだ」
「今はね」
人形の手が動き、鏡台の両端をつかむ。
もちろん、直人がつかんだのではない。
男がそう見せているだけだった。
「シェリーは、自分の今の顔を覚えておきたいようだ」
「違う」
「身体は鏡から逃げていない」
「俺には逃げる手足がないだけだ!」
手術室へ移される前に、男は直人の髪へ触れた。
「髪は切らない」
直人は思わず顔を上げた。
「何?」
「これから伸ばす。エマより長くするつもりだ」
男は短い髪を指で梳き、その長さを測るように眺めた。
「完成した頃には、背中を覆うほどになっているといい。暗いリボンをいくつか使おう」
エマが自分の金色の髪へ触れた。
「私より長くなるのですね」
「嫌かい」
「いいえ」
エマは微笑んだ。
「髪を結んであげられるようになりたいです」
男はエマの人形の手を見た。
自力では指を動かせない手。
それでも、エマは自分がお父様と一緒なら妹の髪を結えると信じている。
「そのときは私が手伝おう」
「はい、お父様」
直人は二人の会話を聞きながら、鏡の中の短い髪を見た。
この髪も、今の顔と同じように「途中の姿」として扱われている。
切らずに伸ばされる。
長くなるたび、直人の頃から遠ざかる。
いつか、黒いリボンで飾られた髪を鏡に映し、自分は最初からシェリーだったと思わされる。
「眠らせろ」
直人は低い声で言った。
男が少し意外そうに彼を見る。
「手術中のことなんて、何も覚えたくない」
「もちろん眠らせるよ」
「目が覚めたら、元に戻せ」
「それはできない」
「なら、目を覚まさせるな」
エマの表情が悲しそうに曇った。
「そんなことを言わないでください」
「お前には関係ない」
「私はお姉様です」
「違う」
「シェリーが怖いとき、そばにいるためのお姉様です」
エマの手が直人の黒い手袋へ重なった。
白と黒の手袋。
明るい姉と、暗い妹。
男が作った構図だった。
「目が覚めたとき、私が最初に手を握ります」
「握らなくていい」
「でも、きっと怖いでしょう?」
「お前の顔を見るほうが怖い」
その言葉に、エマは一瞬傷ついたような顔をした。
直人は少しだけ後悔した。
だが謝ることはできなかった。
エマの優しさを受け入れれば、自分が本当に妹へ近づいてしまう気がした。
男はエマの肩へ手を置いた。
「無理に理解してもらおうとしなくていい」
「……はい」
「目覚めた直後は、誰でも夢へ戻ろうとする。君もそうだった」
「私がそばにいることまで、嫌だったでしょうか」
「いいや」
男は優しく答えた。
「エマがいたから、シェリーは一人で目覚めずに済む」
直人は目を閉じた。
男の嘘は、エマを傷つけない形で作られている。
エマは旧作ではない。
失敗作として捨てられることもない。
最初の人形として特別に愛され、その愛情を今度は妹へ向けさせられている。
その優しささえ、直人を追い詰めるために使われていた。
手術室では、男は顔へいくつもの印をつけた。
顎の輪郭。
頬骨。
鼻筋。
眉の位置。
額からこめかみにかけての線。
直人には、顔のどこをどのように変えるつもりなのか、すべて理解できたわけではない。
ただ、男が目指しているものは分かった。
男性的な骨格を弱める。
角張った輪郭を滑らかにする。
目元を柔らかく見せる。
鼻や顎を、細い肩と暗色のドレスに調和する形へ近づける。
完全に別人へするのではない。
直人だったと分かる痕跡をわずかに残しながら、それを女性の顔として成立させる。
変化の前後が比較できるように。
「一度で完成させるのか」
直人が尋ねた。
「いいや」
男は正直に答えた。
「頭部は数回に分ける。今日は骨格の基礎を整える。腫れが引いたあと、細部を見て次を決める」
「何度も、これをするのか」
「変わるたびに記録する」
男の声には、抑えきれない期待があった。
一度で直人を消すことは望んでいない。
昨日より少し柔らかくなった顎。
前回より細く見える鼻筋。
男性の顔が段階的にシェリーへ近づく、その途中を一つも逃したくないのだ。
麻酔薬が流れ始めた。
意識が遠のく。
視界の端で、暗いドレスに包まれた自分の身体が見えた。
黒い手袋の指は、膝の上で行儀よく重なっている。
自分はそんな姿勢を望んでいない。
それでも、男の作った身体はすでにシェリーとして振る舞っていた。
「直人だ」
最後にもう一度言った。
声が掠れる。
「俺は……直人だ」
男はその顔を見下ろした。
「おやすみ、シェリー」
暗闇が落ちた。
目を覚ましたとき、最初に聞こえたのはエマの声だった。
「おはようございます、シェリー」
頭全体が重かった。
顔は厚い包帯で覆われ、目の周囲だけが開けられている。顎を動かそうとすると鈍い痛みが広がった。
「鏡……」
直人は掠れた低い声で言った。
声だけはまだ同じだった。
エマが安心させるように、黒い手袋を白い手袋で包んだ。
「まだ見てはいけないそうです」
「どこまで変えた」
「お父様が、きれいに整えてくださいました」
「どこまでだ!」
低い声を荒らげると、顔の奥に痛みが走った。
男が入ってきた。
エマの髪を一度撫で、それから直人の包帯を確認する。
「手術は予定どおり終わった」
「戻せ」
「腫れが引かなければ、まだ何も分からないよ」
「俺には分かる」
直人は顔の中にある違和感へ意識を向けた。
顎の形が違う。
歯を噛み合わせたときの感覚が違う。
頬の内側にも、以前にはなかった圧迫感がある。
包帯の下で、自分の顔が既に失われ始めている。
「エマ」
男が呼んだ。
「はい、お父様」
「今日はシェリーのそばにいてあげなさい」
「もちろんです」
「怖がって包帯へ触れようとするかもしれない。そのときは手を取ってあげて」
「はい」
直人は笑いそうになった。
自分では指一本動かせない。
包帯へ触れることなどできない。
だが男は、エマに姉の役目を与えるため、まるでシェリーが自分で顔を傷つける可能性があるように語っている。
「お前が触らせるつもりなんだろう」
「シェリーが望めばね」
それは嘘だった。
男が望めば動かす。
エマはその嘘を疑わず、白い手袋で黒い手袋を包んでいる。
「怖くありません」
エマが言った。
「包帯が取れたら、私も一緒に鏡を見ます」
「見なくていい」
「最初に、新しいお顔を褒めたいんです」
「褒めるな」
「では、何も言わずに手を握ります」
「握るな」
エマは少し困ったように男を見た。
「シェリーは、どうしてほしいのでしょう」
男の操作によって、直人の黒い手袋の指が動いた。
エマの白い指の間へ入り込む。
しっかりと握り返した。
直人は目を見開いた。
幻の掌へ、エマの手の温度が広がる。
「違う」
「手を握ってほしいのですね」
「違う!」
「身体はそう言っています」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫です。包帯が取れるまで、ずっとそばにいます」
直人の顔は包帯の下で変わり始めていた。
だが、男が最初に変えようとしているのは骨格だけではなかった。
勝手に握らされた手から、自分は姉を頼っているのだと理解させる。
手術の恐怖とエマの温もりを結びつける。
新しい顔を最初に受け入れてくれる存在として、エマを置く。
頭部の改造は、手術が終わった時点では完成していなかった。
直人が鏡の中の新しい輪郭を見て、それをシェリーの顔だと認めるまで続くのだ。
「俺は直人だ」
包帯の下から、低い声が漏れた。
エマは黒い手袋を握ったまま、優しく答えた。
「今はまだ、その夢のお名前が必要なのですね」
男は二人の手を眺め、満足そうに微笑んだ。
白と黒。
一号作と二号作。
明るい姉と、暗い妹。
包帯の下で何が失われつつあるのかを理解しているのは、直人だけだった。
包帯が外される日は、手術から二週間後に決められた。
その朝、男は直人を寝室ではなく、衣装室の大きな鏡の前へ座らせた。
短い髪だけは、まだ直人の頃とほとんど変わっていない。
男は髪を切らず、伸び始めた部分を丁寧に梳いていた。今はまだリボンを結べる長さではなかったが、耳の後ろには、将来髪を飾る位置を確かめるように小さな黒い飾りが留められている。
隣にはエマが座っていた。
明るい姉と、暗い妹。
男が最初から思い描いていた対の姿だった。
「包帯を取るよ」
男が言った。
直人は鏡から目をそらした。
「ここで外す必要はないだろう」
「最初に自分の顔を見る場所は、きれいに整えておきたかったんだ」
「自分の顔じゃない」
「それを確かめるために見るんだよ」
男は直人の頭を固定していた帯を外し、包帯へ指をかけた。
「エマ」
「はい、お父様」
「シェリーの手を握ってあげなさい」
エマの白い長手袋が持ち上がった。
直人の黒い手袋も男の操作によって動き、二体の人形の指が重なる。
「離せ」
直人は低い声で言った。
「包帯を取るまでです」
「それからも握るつもりだろう」
エマは少し考えてから、素直に頷いた。
「シェリーが怖がっていたら」
「俺は怖がっていない」
「では、一緒に見ましょう」
男が包帯を解き始めた。
一重ずつ、白い布が取り除かれていく。
額。
頬。
顎。
最後の布が外されたとき、直人は目を閉じた。
「開けなさい」
「嫌だ」
「閉じたままでも構わない。けれど、顔はもうそこにある」
「見る必要はない」
「エマは見ているよ」
直人は反射的に隣を見た。
その瞬間、鏡の中の顔が視界へ入った。
最初は誰なのか分からなかった。
完全な女性の顔ではない。
男が目指しているシェリーの完成形にも、まだ遠い。
だが、直人の顔でもなかった。
顎の張りは弱くなり、以前よりも細く滑らかな線を描いている。頬骨の強さも抑えられ、顔の横幅がわずかに狭く見えた。鼻筋には元の面影が残っていたが、全体の印象は柔らかく変わっている。
目元そのものは大きく変えられていない。
そのため、鏡の中には直人の目だけが残っているようだった。
怒りと恐怖を浮かべた、自分の目。
それを、直人とも女性とも言い切れない顔が囲んでいる。
「……誰だ」
掠れた低い声が出た。
声はまだ直人のままだった。
その声が鏡の顔から発せられたことに、強い違和感があった。
男は直人の後ろに立ち、鏡越しに新しい輪郭を眺めた。
「まだ途中だ」
「戻せ」
「腫れも完全には引いていない。次の調整で、さらに全体を整える」
「戻せ!」
直人は身体をよじろうとした。
その瞬間、人形の両腕が激しく跳ね上がった。
黒い手袋の指が鏡へ伸びる。
片方の腕が鏡台の上の小瓶を払い落とし、もう一方が自分の顔をかばうように持ち上がった。
脚も動いた。
黒いストッキングに包まれた膝が無秩序に曲がり、椅子の脚へ靴がぶつかる。
直人自身が動かしているのではない。
男が操作器を使って、シェリーの身体を暴れさせている。
「やめろ!」
鏡の中では、暗いドレスを着た人形が、新しい顔を拒絶して取り乱しているように見えた。
黒い手袋が頬へ触れる。
指先が顎の線をなぞり、直後に顔を覆う。
幻の指へ、自分の変わってしまった輪郭が伝わった。
細い顎。
以前とは違う頬。
触覚によって、新しい顔の存在を強制的に確認させられる。
「触らせるな!」
直人は叫んだ。
「俺はこんな顔を確かめたくない!」
男は答えなかった。
両手はさらに顔を探り、髪を乱し、鏡を押しのけようとする。
椅子へ固定された身体が何度も揺れる。
「シェリー!」
エマが呼びかけた。
「離れていろ!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない!」
エマの身体が立ち上がった。
男の操作による、滑らかな動きだった。
淡い桃色のスカートを揺らしながら、暴れるシェリーへ近づいてくる。
「来るな!」
直人の黒い腕が振り上げられた。
エマを追い払うように、その肩へ向かう。
だが、直前で動きが変わった。
エマの両腕がシェリーの頭と背へ回る。
白い長手袋の片方が、短い髪を包むように後頭部へ添えられた。もう片方の腕は、暗いドレスに覆われた身体を抱き寄せる。
直人の顔がエマの胸元へ押しつけられた。
「やめろ、離せ!」
「怖かったですね」
「怖くない!」
「急にお顔が変わったら、驚いてしまいます」
「これは俺の顔じゃない!」
「大丈夫です。私がそばにいます」
直人の身体はまだ抵抗していた。
黒い脚が椅子の前で揺れ、両腕がエマを押しのけようとする。
しかし、肩ごと失われた身体には、自分の意思による抵抗は存在しない。
男が操作を少しずつ変えていく。
シェリーの脚から力が抜けたように動きが弱まる。
エマの胸元へ押しつけられた頭が、抵抗をやめる。
エマを押していた黒い手袋が、その肩の上へ止まった。
「ほら」
エマが優しく言った。
「落ち着いてきました」
「違う……」
直人の声は、先ほどよりも小さくなっていた。
男が両腕を動かした。
黒い長手袋がエマの背へ回る。
片方は腰へ。
もう片方は肩甲骨の辺りへ。
シェリーの身体が、エマを抱き返した。
「違う!」
直人は声を上げた。
「俺は抱いていない! こいつが動かしている!」
エマは腕の中のシェリーをさらに強く抱きしめた。
「はい。お父様が、シェリーの心を身体へ伝えてくださっています」
「そんな心はない!」
「でも、私を押しのけるのをやめました」
「やめさせられたんだ!」
「今は私を抱いています」
「抱かされている!」
「きっと、一人で鏡を見るのが怖かったのですね」
黒い手袋の指が、エマのドレスをつかんだ。
男の操作で指先が布を握る。
幻の掌へ、柔らかな生地の感触が伝わる。
直人はそれを感じてしまった。
エマの身体の温かさも。
髪が頬へ触れる感覚も。
耳元で聞こえる、穏やかな声も。
「大丈夫です、シェリー」
エマは繰り返した。
「少し変わっても、シェリーはシェリーです」
「俺は直人だ」
「はい。今はまだ、そう呼んだほうが安心するのですね」
「違う」
「私は、どんなお顔になってもシェリーを大切にします」
エマの言葉には嘘がなかった。
男に教えられた世界の中で、エマは本当に妹を守ろうとしている。
それが直人には、男の冷たい観察よりも苦しかった。
男は二体の人形が抱き合う姿を、しばらく眺めていた。
白と黒の手袋。
淡い桃色と、深い濃紺。
エマの柔らかな金髪と、まだ短いシェリーの髪。
直人とシェリーの中間にある顔だけが、エマの肩越しに鏡へ映っている。
「いい姉になったね、エマ」
男が言った。
エマはシェリーを抱いたまま、嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか、お父様」
「ああ。君がいてくれてよかった」
「私も、シェリーが来てくれて嬉しいです」
男はエマの髪を撫でた。
新しい人形を慰める役目を果たしたからではない。
エマが一号作として、自分の教えを次へ渡す存在になったことを、心から慈しんでいた。
やがて男が操作を変えると、シェリーの腕がゆっくりとエマの背から離れた。
エマも抱擁を解き、直人の横へ椅子を寄せて座った。
ただし、白と黒の手袋は重なったままだった。
直人はもう鏡を見たくなかった。
それでも支持具は、顔を正面へ向けたまま固定している。
男は鏡の横へ、手術前の写真を置いた。
広い肩こそ既に失われていたが、顔はまだ完全に直人だった頃の写真。
その隣に、現在の顔が映る。
似ている。
目も、額も、口元にも元の面影はある。
だからこそ、違いがはっきり分かる。
「これが一回目だ」
男は言った。
「次で、さらに目元と輪郭の釣り合いを整える。髪が伸びれば、印象はまた変わるだろう」
「もうやめろ」
「まだシェリーの顔には届いていない」
「届かなくていい」
男は直人の拒絶を聞きながら、次の計画を考えていた。
やがて、鏡越しに直人へ問いかける。
「次は顔の細部だけではなく、もう一つ進めようと思う」
直人は何も答えなかった。
「声か、胸だ」
直人の目が男へ向いた。
「何を言っている」
「頭部の調整と一緒に声帯を整えるか、それとも胸元を身体に合わせるか。どちらかを選んでいい」
「どちらも嫌だ」
「顔だけを進めて、他は何もしないという答えはない」
「なら、手術そのものをするな」
男は穏やかに首を振った。
「シェリーが決めるんだ」
「俺はシェリーじゃない」
「では、身体に尋ねよう」
直人の黒い右手が動いた。
まず、指先が自分の喉へ触れる。
今の低い声を生む場所。
直人は息を止めた。
次に、左手が平らな胸元へ置かれた。
黒いリボンの下、男がまだ「空白」と呼んでいる場所。
「やめろ」
二つの手は、喉と胸へ触れたまま止まった。
男はエマへ尋ねた。
「お姉様は、どちらが先にいいと思う?」
エマは困ったように二つの手を見比べた。
「私が決めてもいいのですか」
「参考に聞くだけだよ。最後に決めるのはシェリーだ」
直人は男を睨んだ。
その言葉が嘘であることは分かっている。
最後に決めるのは、最初から男だ。
エマはしばらく考えた。
「声でしょうか」
「どうして?」
「お顔が少しずつシェリーらしくなっても、今の低い声を聞くたびに、夢の姿を思い出してしまうかもしれません」
直人の喉へ触れた指が、わずかに動いた。
「それに……」
エマは直人の中間的な顔を見つめた。
「新しいお顔で、最初に『お父様』と呼ぶ声が、シェリー自身の声だったら素敵だと思います」
「俺は呼ばない」
男は答えず、直人へ視線を戻した。
「エマは声が先だと思っている」
「エマに決めさせるな」
「もちろん。君の身体にも聞こう」
喉へ置かれた右手が、そのまま留まる。
胸へ置かれていた左手が、ゆっくりと下りていった。
膝の上へ戻る。
鏡の中では、シェリーが自分の喉を選び、胸から手を離したように見えた。
「違う!」
直人は叫んだ。
「俺は選んでいない!」
低い声が部屋へ響いた。
男はその声を静かに聞いた。
もうすぐ失わせると決めたものを、最後まで味わうように。
「声がいいんだね」
「違う!」
「身体がそう答えた」
「お前が動かしたんだ!」
男は録音機のスイッチを入れた。
赤い灯りが点く。
「では、今の声をもう少し残しておこう」
「やめろ」
「次の手術まで、好きなだけ直人だと名乗っていい」
「俺は直人だ」
「そうだね」
「シェリーじゃない」
「今はまだ」
「俺は――」
男はエマの肩へ手を置いた。
「シェリーが不安になったら、また抱きしめてあげてくれるかい」
「はい、お父様」
エマは白い手袋で、喉へ触れたままの黒い手を包んだ。
「声が変わっても、すぐに分かります」
「分かるものか」
「分かります。シェリーは私の妹ですから」
直人は鏡を見た。
直人とシェリーの中間にある顔。
その喉へ触れている、黒い人形の手。
隣には、完成した姉人形のエマがいる。
男は次の手術で、顔をさらにシェリーへ近づける。
そして直人が自分を証明するために使っていた低い声も、同時に奪うつもりだった。
「俺は直人だ」
直人は録音機へ向け、もう一度言った。
「この顔が変わっても、声が変わっても、俺は直人だ」
男は満足そうに録音を続けた。