手術が終わった直後、シェリーは声を出せなかった。
意識が浮かび上がったとき、最初に感じたのは顔全体を覆う重い圧迫感だった。額から頬、顎にかけて厚い包帯が巻かれ、頭部は左右へ動かないよう固定されている。
喉にも異物感があった。
内側から腫れ上がっているようで、唾を飲み込むだけでも鈍い痛みが走る。低い呻き声を出そうとしたが、空気が掠れて抜けただけだった。
音にならない。
直人はもう一度、声を出そうとした。
「お……」
それだけで喉が焼けるように痛んだ。
聞こえたのは、以前の低い声ではなかった。
高さも、響きも分からない。ただ、細く不安定な空気音が漏れただけだった。
「無理に話してはいけません」
すぐ近くからエマの声がした。
直人は目だけを動かした。
視界の端に、淡い水色のドレスが見えた。白い長手袋に包まれた手が、シェリーの黒い手袋を握っている。
男の操作によるものだった。
だがエマは、目覚めた妹が一人で怯えないよう、自分から手を握っていると信じていた。
「おはようございます、シェリー」
直人は首を振ろうとした。
固定具がそれを許さない。
代わりに黒い手袋の指が動き、エマの手を強く握り返した。
男が操作した。
「……ちが……」
掠れた音が出た。
自分の声ではない。
まだ完成した声ではないはずだった。腫れと処置の影響で、まともな発声ができないだけかもしれない。
それでも、直人は恐怖を覚えた。
以前なら、どれほど身体を変えられても、声を出せば自分が直人であることを確認できた。
低い声。
長年使ってきた響き。
怒鳴ったとき胸へ返ってくる振動。
今は、それがない。
「話さなくて大丈夫です」
エマは黒い手を両手で包んだ。
「お父様が、きれいな声へ整えてくださいました。今はまだ、喉がお休みしているだけです」
直人はエマを睨んだ。
否定しようとしても声が出ない。
口の形だけで「違う」と作る。
エマはその動きを見つめ、悲しそうに微笑んだ。
「怖いのですね」
違う。
「昔の声がなくなったと思うと、不安なのですね」
違う。
「大丈夫です。私も、目が覚めた頃は、何もかもなくなったと思っていました」
直人は黒い指を動かそうとした。
できない。
エマの手を振り払うことも、喉へ触れて確かめることもできない。
男が部屋へ入ってきた。
まずエマの髪へ触れ、リボンの位置を整える。それからシェリーの包帯と喉の状態を確認した。
「よく目を覚ましたね」
直人は男を睨んだ。
「声は出さないほうがいい。今無理をすると、調整した部分へ負担がかかる」
直人は唇を動かした。
――戻せ。
男はそれを読み取ったようだった。
「もう以前の声には戻らない」
直人の目が見開かれた。
「顔も、さらに整えた。包帯を外す頃には、前よりシェリーへ近づいている」
直人は身体をよじろうとした。
同時に、黒い腕が乱暴に持ち上がった。
男の操作だった。
片方の手が喉へ伸び、もう片方が顔の包帯を剥がそうとする。
「いけません!」
エマの両腕がすぐに動いた。
白い手袋がシェリーの黒い手を包み、顔から離す。
「触ったら、お顔が傷ついてしまいます」
直人は抵抗するように腕を振った。
だが、その抵抗さえ男が作ったものだった。
男は直人の恐怖を、シェリーの身体へ分かりやすく演じさせている。
顔へ手を伸ばす。
喉を押さえる。
エマを振り払おうとする。
そして、少しずつ動きを弱める。
エマはそれを、妹が自分の腕の中で落ち着いていく過程だと受け取った。
「大丈夫です」
白い腕がシェリーを抱きしめる。
「包帯が取れるまで、ずっとそばにいます」
黒い腕が、ゆっくりとエマの背へ回った。
直人は目を見開いた。
声が出ない。
抱き返しているのは自分ではないと叫べない。
黒い手袋の指がエマのドレスをつかみ、身体がその胸元へ寄りかかる。
「ほら」
エマが安堵したように言った。
「もう大丈夫ですね」
違う。
「私がいると安心するのでしょう?」
違う。
「私も嬉しいです」
直人は目を閉じた。
声を失うということが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
身体は男の操作によって勝手に感情を演じる。
以前なら、低い声でそれを否定できた。
だが今は、身体だけが動き、直人の否定は音にならない。
シェリーの身体が示すものだけが、部屋の中で事実として扱われていた。
それからの数日、直人はほとんど話さなかった。
正確には、話せなかった。
喉の腫れが引き始めると、少しずつ音を出せるようになった。だが、発声するたび、自分の知らない響きが返ってくる。
まだ不安定だった。
高すぎるわけではない。
完全に女性の声として整っているわけでもない。
けれど、以前の低い声ではなかった。
声の芯が細くなり、喉の奥で鳴っていた重い響きが失われている。短い言葉なら、若い女性の声に近く聞こえる瞬間すらあった。
「み……ず」
初めてまともに言えたのは、その二音だった。
自分の口から出た音に、直人は凍りついた。
エマは嬉しそうに顔を上げた。
「声が出ましたね」
直人は黙った。
「もう一度、言ってみてください」
答えない。
男が水を入れたカップを用意した。
シェリーの黒い手が持ち上がり、取っ手をつかむ。
口元へ運ばれる。
直人は水を飲んだ。
冷たさが喉を通る。
「ありがとう、と言えるかな」
男が尋ねた。
直人は口を閉ざした。
エマが隣から優しく言う。
「無理に言わなくても大丈夫です」
男はエマの頬を撫でた。
「エマは優しいね」
「私も、最初は何も言いたくありませんでしたから」
「でも今は、きれいに話せる」
「お父様が、根気よく教えてくださったからです」
直人は二人の会話を聞きながら、新しい声を出さないよう耐えた。
声を出せば、それが自分のものとして耳へ残る。
使えば使うほど、脳が新しい響きへ慣れてしまう。
沈黙していれば、直人の声はまだ記憶の中にある。
そう思った。
だが男は、沈黙さえ利用した。
「シェリーは、声が変わったことをまだ受け入れられないようだ」
エマは心配そうにシェリーの手を握った。
「私が話しかけすぎているのでしょうか」
「違うよ。君の声を聞いて、自分もあんなふうに話したいと思っている」
直人は男を睨んだ。
「そのうち、身体が答えてくれる」
男が操作器へ触れる。
シェリーの右手が持ち上がり、喉へ触れた。
細い指が首筋をなぞる。
幻の指へ、自分の喉の感触が返る。
以前より外側は変わっていない。
それでも、その内部から生まれる音は別物になった。
「声を……返せ」
直人は我慢できずに言った。
部屋に響いたのは、掠れてはいるが、明らかに以前より高く柔らかな声だった。
直人自身が、その音に最も驚いた。
エマの目が輝いた。
「とてもきれいです」
「言うな」
その言葉も、新しい声で出た。
「シェリーに似合っています」
「聞くな!」
直人は叫んだ。
叫んだつもりだった。
しかし以前のような太い怒声にはならない。鋭く高い声が響き、自分の耳へ返ってきた。
包帯が外される前日、男は小さな箱を持ってきた。
中には黒いリボンが入っていた。
大きなものではない。
髪がまだ十分に長くないため、細く短い飾りだった。黒を基調に、縁だけ深い紫の糸で縫われ、中央には小さな青い石がついている。
エマは箱を覗き込み、嬉しそうに微笑んだ。
「シェリーのリボンですか」
「最初の一つだ」
男はシェリーの髪へ触れた。
手術前より少し伸び、耳へかかる程度になっている。将来の長い髪には程遠いが、片側をまとめて飾ることはできた。
「やめろ」
新しい声で拒絶する。
それを聞くたび、胸の奥が冷たくなる。
「まだ髪は短い」
男は櫛を通しながら言った。
「けれど、包帯を外す前に一つだけ結んでおこう。新しい顔を最初に見るとき、シェリーが自分の髪に何もないと思わないように」
「エマ」
「はい、お父様」
「君が選んだ位置で結ぼう」
エマは少し驚いたあと、嬉しそうに身を乗り出した。
「私が決めてもいいのですか」
「姉だからね」
エマはシェリーの髪を見つめた。
もちろん、自分では髪へ触れられない。白い手袋の指は、男の操作なしには動かない。
それでも男はエマの手を動かし、シェリーの髪へそっと触れさせた。
白い指が、まだ短い黒髪を梳く。
「こちらがいいと思います」
エマは左側を示した。
「どうして?」
「私のリボンと反対側になります。並んだとき、二つが外側に見えるから」
男は満足そうに頷いた。
「よく考えたね」
エマの顔が明るくなる。
「シェリーにも似合うでしょうか」
「きっと似合う」
男は髪の左側をまとめ、最初の黒いリボンを結んだ。
直人は鏡を見せられていなかった。
視界の端に、黒いリボンの先だけがかすかに揺れている。
頭を動かすと、飾りが髪を引く感覚があった。
小さな重み。
それは取るに足らないはずのものだった。
顔の骨格を変えられたことや、声を失ったことに比べれば、ただの布切れにすぎない。
それでも直人には、そのリボンが恐ろしかった。
手術のような強制ではない。
包帯のように一時的なものでもない。
可愛いから。
似合うから。
姉と対になるから。
そんな穏やかな理由で、シェリーの印が頭へ結ばれた。
「外せ」
「嫌だったかい」
「俺の髪にそんなものをつけるな」
男はすぐには外さなかった。
「エマは、どう思う?」
エマはシェリーを見つめた。
「とても可愛いです」
直人の黒い右手が持ち上がった。
リボンへ触れる。
男の操作だった。
幻の指へ、柔らかな布と小さな石の感触が伝わる。
「触らせるな」
「シェリーも気になっているようだ」
「取りたいだけだ!」
指がリボンの結び目へ触れた。
だが、ほどく代わりに、形を整えるように撫でる。
「ほら」
エマが微笑む。
「大切に触っています」
直人は目を閉じた。
違うと叫びたかった。
だが新しい声を聞きたくなかった。
男の操作する指は、リボンの端を何度も確かめた。
その触覚だけが、直人の中へ残った。
翌朝、包帯が外された。
エマは今日も隣にいた。
淡い桃色のドレスと白い手袋。金色の髪の右側には、明るい色のリボンが結ばれている。
シェリーの左側には、昨夜の黒いリボン。
二人が並べば、飾りは互いに外側へ向く。
男は包帯を一枚ずつほどいた。
直人は目を閉じていた。
前回の顔を見たときの記憶が蘇る。
直人とシェリーの中間。
まだ自分の目と声が残っていた顔。
今は声が変わった。
そして包帯の下では、顔もさらに進められている。
「終わったよ」
男が言った。
直人は目を開けなかった。
「見ませんか」
エマが尋ねた。
「見ない」
「私が先に見てもいいですか」
直人は答えなかった。
エマの身体が男の操作で前へ傾き、シェリーの顔を覗き込む。
少しの沈黙。
「きれいです」
その一言で、直人はさらに目を固く閉じた。
「言うな」
新しい声が漏れた。
「本当に、きれいです」
「黙れ」
「前よりも、ずっとシェリーらしくなりました」
直人は目を開けた。
鏡の中の顔は、前回より明確に女性へ近づいていた。
顎はさらに細く整えられ、頬の線も滑らかになっている。目元には直人の面影が残っていたが、それを囲む輪郭が変わったことで、同じ目でありながら別人のように見えた。
鼻筋にも元の形は残っている。
口元にも、直人だった頃の痕跡がある。
しかし全体を見れば、もう成人男性の顔とは言い切れない。
まだ完成したシェリーでもない。
直人の記憶を材料に作られた、若い女性の途中の顔だった。
短く伸び始めた髪の左側には、黒いリボンが結ばれている。
暗いドレス。
黒い手袋。
細い肩。
女性へ近づいた顔。
そして、その顔から出る新しい声。
「……これが」
直人は鏡を見つめた。
「俺なのか」
声が柔らかく響いた。
男はすぐに答えなかった。
エマが白い手袋で、シェリーの黒い手を取った。
「今のシェリーです」
「違う」
「まだ完成していなくても、大切なシェリーです」
「俺は直人だ」
その名前も、新しい声で発せられた。
鏡の中の顔は、低い声で直人と名乗っていた頃よりも、その音を不自然に響かせた。
男は鏡の横へ、手術前の写真を置いた。
男性の顔。
短い髪。
同じ暗いドレスを着て、黒い手袋を膝へ重ねている直人。
その隣に、現在のシェリーが映る。
同じ服。
同じ人形肢。
同じ姿勢。
違う顔と、違う声。
「やめろ」
直人は写真から目をそらした。
「並べるな」
「これが変化だよ」
「俺を消しているだけだ」
「消してはいない」
男は低い声の録音を再生した。
――俺は直人だ。シェリーじゃない。
部屋に、失われた声が流れた。
直人は息を止めた。
あれほど聞き慣れていたはずの声が、今は遠い他人のものに聞こえた。
続いて、昨日録音した新しい声が流れる。
――声を返せ。
同じ拒絶。
違う響き。
男は二つを交互に聞かせた。
エマは驚いたようにシェリーを見た。
「本当に、違いますね」
「聞くな」
「昔の声も、シェリーの声だったのですね」
「違う。あれが俺の声だ」
「今の声も、シェリーの声です」
エマは優しく言った。
「どちらも、お父様が大切に残してくださっています」
直人は鏡の中の自分を見た。
黒いリボン。
柔らかくなった顔。
新しい声。
直人はまだ消えていない。
記憶もある。
名前も言える。
怒りも恐怖も変わらない。
だが、それらを外へ示す手段が、一つずつシェリーのものへ置き換えられていた。
男が操作器へ触れる。
シェリーの黒い手が持ち上がり、髪のリボンへ触れた。
今度も、ほどこうとはしない。
指先で結び目を整え、鏡の中の位置を確かめる。
「やめろ」
「気に入ったのかい」
「違う」
「身体は大切に扱っている」
エマが自分の明るいリボンへ触れた。
同時に、シェリーの黒い手もリボンへ添えられる。
鏡の中で、姉妹人形が同じ仕草をした。
白と黒。
光と夜。
エマは嬉しそうに笑った。
「おそろいですね」
直人は否定しようとした。
だが鏡の中のシェリーは、リボンへ触れたまま、エマの隣へ静かに座っている。
エマが肩を寄せる。
「最初のリボン、よく似合っています」
シェリーの腕が動き、エマの腰へ回る。
エマも妹の肩を抱いた。
「外せ」
「何をですか」
「全部だ」
新しい声が震えた。
「リボンも、顔も、声も。この身体も。全部返せ」
エマはシェリーを抱きしめた。
男の操作で、黒い腕がそれを抱き返す。
「大丈夫です」
エマは耳元で囁いた。
「まだ変わったばかりだから、怖いだけです」
直人は鏡の中を見つめた。
自分は怯えている。
エマへ抱きついている。
黒いリボンを大切に触り、新しい顔で微笑んでいる。
すべて男が作った動きだった。
それでも、外から見えるシェリーは、初めて姉とおそろいの飾りをつけ、新しい顔と声を不安に思いながらも、抱擁によって落ち着きを取り戻した妹そのものだった。
男は二人の姿を撮影した。
「最初のリボンの日」
そう言って、記録へ名前をつける。
直人は新しい声で何度も否定した。
だがその日から、写真の中には黒いリボンを結んだシェリーが残った。
まだ髪は短い。
顔も完成していない。
胸元も平らなまま。
それでも男にとっては、この日がシェリーの髪を飾り始めた最初の日だった。
そしてエマにとっては、妹と初めて姉妹らしいおそろいを持てた、大切な記念日になった。