最後の顔の手術と胸元の調整が告げられたのは、声の手術から数か月が過ぎた頃だった。
その間にも、シェリーの髪は切られなかった。
最初の黒いリボンを結んだ頃には耳へ触れる程度だった髪が、今では肩を越え、背中の半ば近くまで伸びている。男は毎朝それを梳き、絡まりをほどき、伸びた長さを記録した。
髪の左側には、今も最初のリボンが使われていた。
小さな黒い布と、中央の青い石。
髪が長くなったため、以前のように端へ留めるのではなく、細い束をまとめる飾りとして結び直されている。
エマの金色の髪より、既にわずかに長かった。
並んで座れば、エマの髪が柔らかな光のように肩から流れ、シェリーの暗い髪は濃紺のドレスの背へ溶けるように落ちた。
男はその対比を気に入っていた。
直人は嫌っていた。
髪は顔の手術や声の調整と違い、ある朝突然変わったものではない。
昨日より少し長い。
一週間前より襟へ触れる。
気づけば肩を越え、背中を覆う。
毎日少しずつ進んだため、拒絶する明確な瞬間がなかった。
鏡へ映るたび、直人は切れと訴えた。
だが、その願いを口にする声は既にシェリーのものだった。
低く重い響きを失った、柔らかな女性の声。
「髪を切って」
鏡の中の暗い髪の女性が、そう懇願する。
その光景自体が、直人の主張を弱めていた。
最後の手術を告げられた日、シェリーは濃い紫の室内着を着せられ、鏡の前へ座っていた。
人形の肩幅に合わせて細く作られた衣装だったが、胸元にはまだ大きな変化がなかった。
フリルとリボンで飾られているため、平らな輪郭は多少隠されている。
それでも直人にとっては、そこが最後に残された証拠の一つだった。
顔は既に女性へ近づいている。
声も変わった。
肩も腕も脚も、直人の身体ではない。
髪まで長くなった。
だが胸元だけは、まだ成人男性だった頃の輪郭を残している。
「次で顔はほぼ完成する」
男はシェリーの髪を梳きながら言った。
「目元と口元の釣り合いを整え、残っている強い輪郭を柔らかくする」
直人は鏡を見なかった。
「胸元も同時に整える」
櫛の動きが止まった。
直人はゆっくりと顔を上げた。
鏡の中で、長い暗色の髪に囲まれた女性的な顔が、不安を浮かべて男を見ている。
その顔はもう、怒った直人の表情をそのまま映してはくれない。
眉を寄せれば、以前よりも頼りなく見える。
唇を固く結んでも、頬や顎の柔らかな線によって、怒りより恐怖が先に見える。
「顔だけでいいと言ったはずだ」
シェリーの声が震えた。
「どちらかを選んでいいと聞いたとき、君は声を選んだ」
「お前が動かした!」
男は穏やかに頷いた。
「だから、声は先に整えた。今度は胸元だ」
直人の黒い手袋が持ち上がった。
男の操作によって、片方の手が平らな胸へ置かれる。
幻の掌へ、自分の身体の輪郭が伝わった。
今はまだ、以前と大きく変わらない。
この感覚も、次に目覚めたときには失われる。
「触らせるな」
「最後に覚えておきたいんだろう?」
人形の指が、衣服の上から胸元を確かめる。
直人が頼りにしているものを、男はすべて理解している。
それらを一つずつ「最後」と名づけ、記録し、過去へ送っていく。
「お父様」
隣からエマが呼んだ。
その日は淡い薄桃色のドレスを着ていた。白い長手袋を膝の上へ重ね、金色の髪には明るいリボンが結ばれている。
「手術が終わったら、シェリーのお洋服も変わりますか」
「胸元が落ち着いたら、新しい寸法で作り直す」
「今のドレスは、もう着られなくなるのでしょうか」
「少し直せば残せるよ」
男はエマのほうへ向き直った。
「エマの最初の服と同じように、捨てたりはしない」
エマは安心したように微笑んだ。
「よかったです。シェリーが初めて着た大切なお洋服ですから」
直人には、それが理解できなかった。
今の服を残すことに何の意味があるのか。
だがエマにとっては、どの衣装も、どのリボンも、お父様と過ごした時間の一部だった。
エマは自分が壊された過程さえ、大切な成長の記録として愛している。
男はその考えをシェリーにも与えようとしている。
「シェリー」
エマが優しく呼んだ。
「手術のあとも、私がそばにいます」
「いらない」
「でも、包帯が外れるまでは不安でしょう?」
「お前がいると、あいつが俺を落ち着いたことにする」
エマは少し困った顔をした。
直人の言葉の意味を、完全には理解できない。
男が身体を動かす。
エマが抱きしめる。
シェリーが抱き返す。
エマにとって、それは妹が自分を求めている証拠だった。
直人にとっては、拒絶する権利まで身体から奪われる儀式だった。
「それでも、そばにいたいです」
エマは言った。
「私がいたいんです」
その言葉に、直人は一瞬だけ黙った。
以前のエマなら、男が身体を動かしたあとで、自分は妹のそばにいたかったのだと理解していた。
だが最近のエマは、身体が動く前から願いを言葉にする。
今も、白い手袋は膝の上に置かれたままだった。
それでもエマは、自分からそばにいたいと望んでいる。
男が作った世界の中で生まれた感情だとしても、その願いだけはエマ自身のものだった。
「勝手にしろ」
直人は目をそらした。
エマはそれを許されたのだと受け取った。
白い手袋の手が動き、黒い手を握る。
男の操作だった。
けれどエマの心は、既に同じ動きを望んでいた。
手術室へ運ばれる直前、男はシェリーの髪から最初のリボンを外した。
「返せ」
直人は反射的に言った。
男の手が止まる。
直人自身も、自分が何を口にしたのか理解するまで少し時間がかかった。
外せと何度も訴えていた飾りだった。
それを今、返せと言った。
男は感嘆とも愉悦ともつかない笑みを浮かべた。
「手術の間だけだよ」
「いらない」
「今、返してほしいと言った」
「髪を勝手に触るなという意味だ」
「そういうことにしておこう」
男はリボンを小さな箱へ収めた。
「目覚めたら、エマに結んでもらおう」
直人は否定しなかった。
否定する言葉を探しているうちに、麻酔の準備が始まった。
顔へ印がつけられる。
胸元にも、衣装を着たときの輪郭を想定した確認が行われる。
直人は目を閉じた。
手術そのものより、その後が怖かった。
痛みはいつか弱まる。
包帯も外れる。
恐ろしいのは、鏡を見たあと、その顔を毎日見続けなければならないことだった。
一日目は異物に見える。
一週間後には、少し見慣れる。
一か月後には、驚かなくなる。
そしてある日、昔の写真を見たとき、そちらのほうが他人に見えてしまうかもしれない。
声で既に起き始めていることが、顔と身体でも起こる。
「直人だ」
直人は眠りへ落ちる前に言った。
柔らかな声だった。
男はその声を録音していた。
「俺は、直人だ」
「おやすみ、シェリー」
視界が暗くなった。
意識が戻ったとき、直人は自分の身体が二重に重くなったように感じた。
頭部には厚い包帯。
胸元にも幅広い固定帯が巻かれている。
呼吸をするたび、胸の周囲に圧迫感があった。痛みよりも、そこに以前とは違う重さが存在することが恐ろしかった。
まだ直接見ることはできない。
触れることもできない。
だが、横になった身体の上に、これまでなかった輪郭があることだけは分かった。
「……エマ」
声が出た。
直人は驚いた。
目覚めて最初に呼んだのが、男ではなくエマの名だったからではない。
その声が、あまりにも自然にシェリーのものとして響いたからだった。
声の手術から時間が経ち、掠れも不安定さもほとんど消えている。
以前より柔らかく、明瞭な女性の声。
もはや、声を出すたびに驚くことさえ少なくなっていた。
「ここにいます」
すぐ隣から返事があった。
白い長手袋が、シェリーの黒い手を包んでいる。
直人はその手を見た。
「今、俺は……」
「私を呼んでくれました」
エマは嬉しそうだった。
「違う。確認しただけだ」
「はい」
エマは否定しなかった。
それでも、その表情は喜びを隠せていない。
男が入ってくる。
エマの髪を撫で、それからシェリーの包帯と胸元の固定を確認した。
「気分はどうだい」
「重い」
「胸元?」
直人は答えたくなかった。
だが、意識を向ければ向けるほど、そこにある新しい重みがはっきりした。
身体を起こされると、さらに分かる。
重心が以前と違う。
衣服も固定帯もあるため形は見えないが、胸の前へ新しい輪郭が加わっている。
「今はまだ腫れがある。完成した形ではないよ」
「・・・」
「傷が落ち着いてから、身体に合うよう整える」
「これで最後じゃなかったのか」
「大きな手術はね」
男は穏やかに答えた。
「細かな調整や衣装合わせは残る」
直人は目を閉じた。
「シェリー」
エマが呼ぶ。
「触らないで」
直人は先に言った。
その直後、黒い手が動いた。
男の操作によって、自分の胸元へ向かう。
「やめろ!」
腕は止まらない。
黒い長手袋の掌が、固定帯の上へ触れた。
幻の手に、新しい輪郭の感触が伝わった。
直人は息を止めた。
以前より前へ張り出している。
硬い固定帯越しでも分かる。
手はゆっくりと左右へ動き、形を確かめようとする。
「触らせるな」
「シェリーは、自分の身体がどうなったのか不安なんだよ」
「俺は知りたくない!」
「でも、身体は確かめようとしている」
黒い手が止まった。
直人は震えていた。
顔は包帯で見えない。
胸元も隠されている。
それでも、自分の手だと感じる人形の掌から、変化だけが伝わってくる。
直人が直人であるために頼っていた平らな輪郭は、もうそこにはなかった。
「エマ」
男が言った。
「シェリーが怖がっている」
エマの身体が近づいた。
白い腕が、包帯に覆われた頭部と背中へ回る。
胸元を圧迫しないよう、男は以前より慎重に位置を調整していた。
「大丈夫です」
エマが囁く。
直人は抵抗しようとした。
だが黒い腕は、すぐにエマの背へ回った。
男が動かしている。
分かっている。
それでも、包帯の下で顔を失い、胸元の輪郭まで変わった直後、エマの身体の温かさが近くにあることへ安堵してしまった。
その安堵だけは、操作ではなかった。
直人はそれを認めたくなかった。
「離せ」
声は弱かった。
「もう少しだけ」
「俺は抱き返していない」
「はい」
「こいつが動かしているだけだ」
「はい」
エマは反論しなかった。
「それでも、私は抱きしめています」
直人は黙った。
男の作った理屈ではなく、エマ自身の願いとして言われると、拒絶する言葉が見つからなかった。
「包帯が外れるまで、そばにいます」
「見たくない」
「では、見なくてもいいです」
「お前は見るだろう」
「はい」
エマは正直に答えた。
「最初に見たいです」
「どうして」
「シェリーが一人で見るより先に、私がきれいだと思ってあげたいからです」
直人は、そんなものは優しさではないと言おうとした。
だが声にならなかった。
包帯が外れるまでの十日間、シェリーは鏡を遠ざけられた。
顔の感覚は少しずつ戻った。
胸元の痛みが弱まるにつれて、新しい重みは日常の感覚へ近づいていった。
最初は呼吸するたび異物を意識した。
数日後には、姿勢を変えたときにだけ気づくようになった。
その変化が、直人には何より怖かった。
慣れたくない。
だが身体は勝手に慣れていく。
脳は新しい重心を学び、呼吸の仕方を調整し、そこにある輪郭を自分の一部として処理し始める。
幻の手で固定帯へ触れさせられる回数も増えた。
初日は恐怖しかなかった。
三日目には、触れれば位置が分かるようになった。
七日目には、触れたときの違和感が少し弱くなっていた。
エマは毎日髪を整える時間に来た。
シェリーの髪は手術中も切られず、背中の半ばを越えるまで伸びていた。横になっている時間が長かったため、男は丁寧に梳き、絡まりを防いだ。
「もう、私より長いですね」
エマは嬉しそうに言った。
直人は返事をしなかった。
「包帯が取れたら、最初のリボンをまた結びましょう」
「いらない」
「でも、手術の前に返してほしいと言いました」
「言ってない」
「お父様も聞いていました」
「意味が違う」
「そうなのですね」
エマは争わなかった。
それでも毎日、小さな箱を持ってきた。
中には最初の黒いリボンが入っている。
直人は見ないようにしていた。
だが、箱が来ない日は一度もなかった。
包帯が外される朝、男はシェリーへ新しいドレスを着せた。
黒を基調に、深い紫と濃紺の布を重ねたものだった。胸元は以前より立体的に仕立てられ、黒いレースとリボンが新しい輪郭へ沿って整えられている。
長いスカート。
黒いストッキング。
黒い長手袋。
細い肩。
伸びた暗い髪。
鏡を見る前から、直人は服が以前とは違う形で身体へ触れていることを感じた。
男は包帯を外す前に、エマへ小さな箱を渡した。
「結んであげなさい」
「はい、お父様」
エマの白い手が、男の操作によってシェリーの髪へ伸びる。
長くなった髪の一部を左側へまとめ、最初の黒いリボンを結ぶ。
それだけではなかった。
伸びた髪を背中へ流すため、深い紫の細いリボンがもう一つ加えられた。
最初の飾りを残しながら、長い髪全体を引き立てる形だった。
「きれいです」
エマが言う。
「まだ顔を見ていないだろ」
「髪だけでも分かります」
直人は目を閉じたまま、髪へ結ばれた二つの飾りの重みを感じていた。
男が包帯をほどいていく。
「終わったよ」
直人は目を開けなかった。
「シェリー」
エマが呼ぶ。
「見ませんか」
「見ない」
「では、私が先に見ます」
沈黙があった。
直人は、エマの表情を見ることも拒みたかった。
だが、自分の顔を見たエマが何も言わない時間に耐えられず、結局目を開けた。
エマは泣きそうな笑顔を浮かべていた。
「とても、きれいです」
直人は鏡を見た。
そこに、以前の中間的な顔はなかった。
直人の顔を材料にして作られた、ほぼ完成したシェリーの顔だった。
顎は細く滑らかに整えられ、頬の線は長い髪と調和している。目元の強さも和らぎ、怒りを浮かべているはずなのに、鏡の中では傷ついた若い女性の表情に見えた。
背中へ流れる暗いロングヘア。
左側の黒いリボン。
その下に、深い紫の飾り。
細い首と肩。
暗色のドレスが、新しく作られた胸元の輪郭へ沿っている。
黒い手袋を膝の上へ重ねれば、身体のどこにも直人だった頃の明確な特徴は見つからなかった。
声を出す。
「……違う」
鏡の女性が、柔らかな声で言った。
完成した見た目と声が一致していた。
以前のような不調和はない。
男性の頭部を女性型人形の身体へ載せた途中の姿でもない。
顔と声だけが中間に残った未完成の姿でもない。
胸元まで整えられ、髪も長くなり、衣装も新しい輪郭へ合わせられている。
外見だけなら、シェリーはほぼ完成していた。
「違う」
もう一度言う。
だが、何が違うのかを鏡は示してくれない。
自分は直人だ。
記憶の中では分かっている。
しかし鏡にいるのは、長い黒髪をリボンで飾り、暗い人形服を着た女性だった。
「俺は……」
言葉が止まる。
「俺」という一人称が、鏡の姿と声から浮いて聞こえた。
男はそれを聞き逃さなかった。
「どうしたんだい」
「何でもない」
「言いにくくなった?」
「違う」
「なら、続ければいい」
直人は鏡の自分を睨んだ。
「俺は直人だ」
言えた。
だが、以前のような確信はなかった。
名前が間違っているのではない。
一人称も、記憶も、自分のものだ。
ただ、それを外へ出す姿と声が、あまりにも別の物語を語っていた。
男が手術前の写真を鏡の横へ置く。
中間的な顔。
短かった髪。
平らな胸元。
同じ暗色の衣装を着た、途中のシェリー。
その隣に、現在の姿が映っている。
「やめろ」
「これが最後の大きな比較だ」
さらに前の写真が並べられる。
成人男性の直人の顔。
短い髪。
女性型人形の身体と不釣り合いだった頃。
次に、中間の顔。
声が変わった頃。
最初のリボン。
そして現在。
変化が一列に並ぶ。
直人は目をそらした。
「消していないと言っただろう」
男が静かに言う。
「直人だった姿は、全部ここにある」
「だから何だ」
「シェリーは、何も失っていない」
「全部奪った」
「形を変えただけだよ」
直人の黒い手が持ち上がった。
髪へ触れる。
長くなった髪が幻の指の間を滑る。
最初のリボンへ触れ、次に新しい紫の飾りを確かめる。
もう片方の手は、ドレスの胸元へ置かれた。
新しい輪郭が掌へ伝わる。
直人は息を止めた。
「身体は、新しい姿を覚えようとしている」
「覚えたくない」
「でも、もう触れ方が以前より自然だ」
男の言葉どおりだった。
手術直後のように恐る恐る探るのではない。
人形の掌は、自分の身体の位置を知っているように、髪と胸元へ正確に触れている。
男の操作だからだ。
そう分かっている。
だが、触覚を受け取る脳も、以前より迷わなくなっていた。
エマが隣へ座る。
明るいドレスの姉人形。
暗いドレスの妹人形。
金色の髪と、より長い暗色の髪。
白と黒の手袋。
鏡の中で二人は、最初から対として作られた姉妹のように見えた。
「おそろいではないけれど」
エマがシェリーの髪へ触れる。
「並ぶと、ちゃんと姉妹に見えます」
「見えるだけだ」
「はい」
エマはその否定を受け入れた。
「今は、そう思っていても大丈夫です」
「今だけじゃない」
「それでも私は、シェリーのお姉様でいたいです」
白い腕がシェリーの肩へ回る。
直人は抵抗しようとした。
だが黒い腕は男の操作によってエマの腰へ回った。
以前と同じだった。
抱かれ、抱き返す。
違うのは、直人の内側に生じた反応だった。
以前は、身体が勝手に抱き返すことへの怒りだけがあった。
今はその怒りの奥に、エマのそばなら鏡を見続けられるという、認めたくない安堵があった。
身体の動きが先ではない。
抱きしめられる前から、エマが隣にいてくれることを望んでいた。
それを男が知って操作したわけではない。
偶然、心と身体の動きが重なった。
「離せ」
直人は言った。
けれど声には、以前ほどの強さがなかった。
エマは優しく抱きしめ続けた。
「きれいになったから抱いているのではありません」
「……何」
「途中のお顔でも、短い髪でも、低い声でも、私はシェリーを大切にしたかったです」
エマは鏡越しに妹を見た。
「今のお姿も大切です。でも、前のお姿が嫌いだったわけではありません」
直人は返事をしなかった。
男はエマの髪を撫でた。
「よく分かっているね」
「お父様が、私にもそうしてくださったからです」
男はエマを一号作として大切にしている。
完成度の違いで比べ、古いものとして捨てることはない。
だからエマも、シェリーの途中の姿を否定しない。
その優しさは、直人を救わなかった。
だが、壊れた自分を見捨てられる恐怖だけは弱めた。
男は撮影機を向けた。
「ほぼ完成した日の記録だ」
エマが尋ねた。
「私は、隣にいてもいいですか」
直人は鏡を見た。
一人で映るシェリー。
その隣へエマがいれば、少なくとも、自分だけが男の作った世界に閉じ込められているようには見えない。
その考えを抱いたこと自体が怖かった。
「……勝手にしろ」
エマは嬉しそうに肩を寄せた。
男の操作で、シェリーの頭もエマの側へわずかに傾く。
長い暗色の髪と金色の髪が触れ合った。
白い手袋と黒い手袋が重なる。
撮影機の音がする。
その瞬間、鏡の中のシェリーは泣いていなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、完成に近づいた顔で、自分の隣にいるエマを見ていた。
直人の心は消えていない。
拒絶も、記憶も、怒りも残っている。
しかし、それらの中に、エマへの信頼に似たものが混ざり始めていた。
男へ向けたものではない。
シェリーという名前を受け入れたわけでもない。
ただ、この姿を見たあとも隣にいてくれる姉人形だけは、自分を途中の姿ごと見捨てない。
その事実が、直人の抵抗をわずかに変えた。
以前は、すべてを元に戻せとだけ願っていた。
今は、元に戻らないことを理解し始めている。
だからこそ、せめて自分が直人だったことを忘れないでほしいと願うようになった。
「エマ」
撮影が終わったあと、直人は小さく呼んだ。
「はい」
「前の俺を、覚えているか」
エマは少し考えた。
「最初に会ったときのお姿ですか」
「男の顔で、低い声だった頃だ」
「覚えています」
「忘れるな」
エマはすぐに頷いた。
「忘れません」
「シェリーになる前の、直人を」
エマはその言葉に迷った。
彼女の世界では、直人はシェリーが見ていた夢の名だった。
それでも、目の前の妹が何を求めているかは分かった。
「シェリーが直人と名乗っていた頃のことも、大切に覚えています」
完全に望んだ答えではなかった。
それでも直人は、否定しなかった。
男は二人の会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。
見た目はほぼ完成した。
だが、男にとって本当の完成は、直人の記憶が消えることではない。
直人だった過去を抱えたまま、シェリーがその過去を自分の長い夢として語るようになることだった。
その日、暗いロングヘアに二つのリボンを結んだシェリーは、初めて完成後の寸法で作られたドレスを着た。
鏡の中には、もう未完成さを探すほうが難しい女性型人形が座っていた。
それでも、その内側で直人はまだ、自分の名を手放していなかった。
ただ以前のように叫ぶのではなく、忘れないでくれと、エマ一人へ託すようになっていた。