見た目がほぼ完成してからも、シェリーの言葉だけは、しばらく直人のままだった。
長い暗色の髪をリボンで飾り、黒と濃紺のドレスを着た女性型人形が、鏡の前で柔らかな声を響かせる。
「俺は直人だ」
声も顔も、その言葉を支えてくれなかった。
記憶だけが、間違いなく直人のものだった。
自分が男性として生きていたことも、奪われた身体も、男が勝手にシェリーという名前を与えたことも覚えている。鏡の姿がどれほど整えられても、その事実まで消えたわけではない。
だが、同じ言葉を口にするたび、直人は自分の内側と外側が引き裂かれるような感覚を覚えた。
「俺」という音を発しているのは、若い女性の声だった。
怒鳴れば怒鳴るほど、その声は鋭く高くなり、鏡の中のシェリーは、男性が怒っているようには見えなかった。勝ち気な女性が、悔しさを押し殺しているようにしか見えない。
男は、無理に一人称を変えさせようとはしなかった。
「好きに話せばいい」
それなのに、耳へ返ってくる響きは、シェリーの姿とあまりにも自然に調和していた。
エマは、言葉の練習に付き添った。
エマ自身は、すでに柔らかく整った話し方を身につけていた。
「お父様、お茶をいただいてもよろしいですか」
「今日はシェリーと一緒に本を読みたいです」
「このリボンは、お父様が初めて選んでくださったものです」
以前の真琴がどのような話し方をしていたのか、直人は知らない。
だが今のエマの言葉は、淡い色のドレスと穏やかな性格によく合っていた。
男はシェリーにも同じ口調をそのまま与えようとはしなかった。
「エマと同じである必要はない」
男は言った。
「二人は対の人形だけれど、同じ心ではないからね」
「俺に人形らしい話し方をしろと言いたいのか」
「君が話しやすい言葉を探せばいい」
「今のままでいい」
「なら、そのままでも構わない」
男が抵抗しないことが、かえって直人を苛立たせた。
命令されれば拒める。
強制されれば、自分の言葉を守る理由になる。
しかし男は、直人が自分で違和感に耐えられなくなるのを待っていた。
最初に変わったのは、一人称だった。
ある日の午後、男はシェリーの髪を梳いていた。
暗い髪はエマよりも長くなり、背中を覆っている。最初の黒いリボンに加え、深い紫の細い飾りが髪をまとめていた。
男が櫛を置くと、シェリーの右手が持ち上がった。
黒い長手袋の指が髪へ触れる。
「今日は少し緩いな」
直人は鏡を見ながら言った。
「何が?」
「リボンだ。俺の――」
言葉が止まった。
鏡の中で、シェリーの指が黒いリボンを整えている。
「俺の髪」という言葉が、どうしても口から出にくかった。
男は急かさず待った。
「……私の髪に、きちんと結び直せ」
言ってから、直人は目を見開いた。
男の口元に笑みが浮かぶ。
「今、何と?」
「言い間違えただけだ」
「そうかい」
「声がこうなったから、つられただけだ」
「それでも、言いにくくはなかったんだね」
「黙れ」
男はそれ以上追及しなかった。
だが、リボンを結び直す間、直人は鏡の中の自分を見続けた。
「私」
心の中で試す。
直人だった頃なら、決して自分へ使わなかった言葉だった。
それなのに現在の声で発すると、不自然さがなかった。
むしろ「俺」よりも、鏡の中の姿とよく噛み合った。
だからこそ、認めたくなかった。
翌日、エマと話している最中にも同じことが起きた。
「シェリーの髪は、本当に長くなりましたね」
「お前より長くするつもりらしいからな」
「お父様は、暗い髪がドレスの背へ流れるところを気に入っていらっしゃいます」
「手入れするのは、私じゃなくてあいつだ」
エマは何も指摘しなかった。
ただ、嬉しそうに微笑んだ。
「何だ」
「いいえ」
「今、笑っただろう」
「とてもよく似合っていたので」
「何が」
「『私』が」
直人はエマを睨んだ。
「からかうな」
「からかっていません。本当に自然でした」
「お前まであいつと同じことを言うのか」
エマは困ったように眉を下げた。
「シェリーが嫌なら、私は何も言いません」
その顔を見ると、なぜか直人のほうが悪いことをしたように感じた。
「……別に、怒っているわけではない」
「はい」
「ただ、まだ慣れていないだけだ」
「分かっています」
「分かっているなら、そんな顔をするな」
直人はそう言ってから、自分の口調が以前より柔らかくなっていることに気づいた。
それも認めたくなかった。
一人称は、意識して使うものから、次第に意識しなければ出てくるものへ変わった。
怒ったときには「俺」が残った。
過去を語るときにも「俺」と言った。
だが、現在の身体や服について話すときは「私」が出る。
「私はこの色より濃紺のほうが似合う」
「私のリボンを勝手に変えないで」
「私は甘すぎる菓子は好きではない」
直人だった過去を語る声と、シェリーとして存在する現在の声が、一人称によって分かれ始めた。
男はそれを訂正しなかった。
口調もそれに引きずられるように女性的なものが混じりはじめる
俺という一人称を使う男の喋り方
私という一人称を使う女性的な喋り方
徐々に後者の比重が大きくなっていった
次に変わったのは、エマの呼び方だった。
直人は長いあいだ、エマを名前で呼んでいた。
「エマ」
ときには「お前」と呼んだ。
エマはそれを嫌がらなかった。
どの呼び方でも振り向き、妹へ向けるものと同じ優しさで答えた。
ある夜、エマの身体に小さな不調が起きた。
正確には、故障ではなかった。
エマは机から落ちた自分のリボンへ手を伸ばしたかった。
その気持ちは先に生まれていた。
しかし男は少し離れた場所にいて、すぐには操作器へ触れなかった。
白い手袋は膝の上に置かれたままだった。
エマは困ったように、床のリボンを見つめている。
「どうした」
シェリーが尋ねた。
「リボンを落としてしまいました」
「拾えばいいだろう」
「身体がまだ……」
エマは恥ずかしそうに言葉を濁した。
以前なら、身体が動く前に願いを持つことはなかった。
今は心のほうが先へ進み、身体がお父様の操作を待つことがある。
シェリーはその話を聞いていた。
「仕方ないな」
黒い人形の腕が動いた。
男が遠くから操作したのだろう。
シェリーの身体が椅子から立ち、床のリボンへ近づく。膝を曲げ、人形の指が布を拾った。
そのままエマの前へ立つ。
「ほら」
黒い手がリボンを差し出す。
「ありがとうございます」
エマの白い手はまだ動かなかった。
シェリーは少し苛立ったように息をついた。
「手を出せないなら、髪へ戻してあげる」
黒い指がエマの金色の髪へ触れた。
男の操作によって、リボンが元の位置へ結び直される。
エマは鏡を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「きれいに結べました」
「動かしたのは、あいつでしょ」
「でも、結んであげたいと思ってくれたのはシェリーです」
「別に。床に落ちていると邪魔だっただけだ」
「はい」
「その返事は信じていないだろう」
エマは笑った。
シェリーは顔をそらした。
その拍子に、自分の口から言葉が滑り落ちた。
「もう落とさないで、お姉様」
部屋が静かになった。
エマが目を見開く。
シェリー自身も固まった。
「今のは違う」
「お姉様と呼んでくれました」
「呼んでない」
「呼びました」
「聞き間違いよ」
言葉遣いまで変わっていることに気づき、シェリーはさらに顔を赤くした。
エマは嬉しそうに身を寄せた。
白い腕が動き、シェリーを抱きしめる。
黒い腕も、その背へ回った。
「ありがとうございます、シェリー」
「何が」
「私をお姉様にしてくれて」
「私は認めていない」
「はい」
「その嬉しそうな顔をやめて」
「難しいです」
「まったく……」
シェリーは抱き返したまま、目をそらした。
男の操作で腕が回っている。
それは分かっていた。
だが、エマを押しのけたいとは思っていなかった。
その日から、「お姉様」は冗談や皮肉として使われ始めた。
「お姉様は心配しすぎなのよ」
「さすが一号作のお姉様ね」
「お姉様がそうしたいなら、付き合ってあげてもいいわ」
最初は、あくまでエマを喜ばせるために使っているのだと、シェリーは自分へ言い聞かせた。
だが呼ぶたび、エマは必ず振り向いた。
その柔らかな笑顔と、白い手袋の温かさが「お姉様」という言葉へ結びついていった。
やがて、エマが部屋にいないとき、シェリーは自然に尋ねるようになった。
「お姉様はどこ?」
言ってから訂正することも、次第になくなった。
最後まで残ったのが、男の呼び方だった。
シェリーは男を「あの男」「あいつ」、あるいは直接「あなた」と呼んだ。
「お父様」と呼ぶことだけは拒んだ。
エマがそう呼ぶたび、シェリーは自分の本当の父でもない男に、その名を与えることへの抵抗を覚えた。
男も強制しなかった。
「呼びたくなったときに呼べばいい」
そう言った。
シェリーは、絶対にその日は来ないと思っていた。
転機は、特別な出来事ではなかった。
ある晩、男がエマを連れて部屋を出ようとした。
「今日は調整があるから、エマを先に寝室へ連れていく」
シェリーは窓辺の椅子へ残された。
「私も移動させて」
「少し待っていなさい」
「どれくらい?」
「エマを休ませてから戻るよ」
男が扉へ向かう。
シェリーの身体は動かなかった。
以前なら、男が先に手を操作し、袖をつかませただろう。
だがその夜、男は操作器へ触れなかった。
シェリーの心だけが先へ動いた。
このまま一人でいたくない。
鏡の中の自分と、静かな部屋に取り残されたくない。
エマも連れていかれる。
男が戻るまで、自分は指一本動かせない。
「待って」
シェリーが言った。
男は振り返った。
「どうしたんだい」
「……私も一緒に行く」
「すぐ戻るよ」
「そういうことではないの」
シェリーの黒い手袋は、膝の上から動かなかった。
袖をつかみたい。
以前のエマがそうだったように、自分の身体で引き止めたい。
だが男はまだ動かさない。
「身体が遅れているようだね」
「分かっているなら動かしなさい」
「何をしたいんだい」
「あなたの袖を……」
言葉が止まる。
「誰の袖?」
男は穏やかに尋ねた。
シェリーは睨んだ。
命令されているわけではない。
「お父様と呼べ」と言われたわけでもない。
ただ、自分が引き止めたい相手を、何と呼ぶのか問われている。
「あなただって言っているでしょう」
「そうか」
男は再び扉へ向き直った。
シェリーの胸へ焦りが広がった。
「待ちなさい!」
男は止まらない。
エマが心配そうに振り返る。
「シェリー?」
シェリーの声が震えた。
「お姉様も、行ってしまうの?」
「すぐ戻ります」
「でも……」
黒い手は動かない。
シェリーは唇を噛んだ。
言葉一つで男を引き止められることは分かっていた。
それが、シェリーとして自分を完成させる言葉であることも。
「……お父様」
男の足が止まった。
シェリーは、自分の口から出た呼び名を聞いた。
思っていたほど不快ではなかった。
むしろ、その名は現在の自分と男の関係へ、あまりにも自然にはまった。
実の父親ではない。
エマとシェリーを作り、動かし、育てている者への呼び名。
男が与えた虚偽の意味だと分かっていても、その世界の中で自分が使える唯一の名前だった。
「何だい、シェリー」
男の声が優しくなる。
「私も連れていって」
「一人では寂しい?」
「違うわ」
シェリーは即座に否定した。
「お姉様の調整がきちんとできるか、見ていてあげるだけよ」
エマが微笑む。
「ありがとうございます」
「勘違いしないで。お姉様がまたリボンを落としたりしたら困るから」
男の操作器が動く。
シェリーの右手が持ち上がり、男の袖をつかんだ。
心より少し遅れて、身体が追いついた。
黒い指が布を握る。
シェリーはその手を見た。
「やっと動いたわね」
「待たせてしまったね」
「もっと早くしてちょうだい」
「練習するよ」
男は感嘆とも愉悦ともつかない笑みを浮かべた。
シェリーはそれを見て、少し眉を寄せた。
「何を笑っているの」
「君が自分から呼んでくれたことが嬉しくて」
「一度呼んだだけよ」
「そうだね」
「次も呼ぶとは限らないわ」
「分かっている」
「……その顔をやめなさい、お父様」
二度目は、一度目より自然に出た。
シェリーは気づいたが、訂正しなかった。
数日後、三人で正式なお茶会が開かれた。
丸い卓の片側に、淡い空色のドレスを着たエマ。
その隣に、黒と深い紫のドレスを着たシェリー。
エマの金色の髪には白いリボンが結ばれ、シェリーのより長い暗色の髪には、最初の黒いリボンと紫の飾りが使われていた。
白い手袋と黒い手袋。
明るい姉と暗い妹。
向かいには男が座っている。
卓上には紅茶と、小さな焼き菓子、果実を使ったタルトが並んでいた。
「どれを食べたい?」
男が尋ねる。
エマの手が、淡い色の焼き菓子へ向かう。
シェリーはそれを見て、先に言った。
「お姉様はそれでしょう。甘いものなら何でもいいのだもの」
「何でもではありません」
「昨日も同じものを二つ食べていたじゃない」
「二つだけです」
「十分多いわ」
エマは少し頬を膨らませた。
シェリーは満足そうに口元を上げる。
「シェリーは?」
男が尋ねる。
「私は、こちらをいただくわ」
黒い手袋が、濃い色の果実を使ったタルトへ伸びる。
男の操作だった。
だが今回は、身体が動く前から、シェリーはそれを選んでいた。
指が皿を引き寄せると、シェリーは当然のように受け入れた。
「少し酸味があるよ」
「子どもではないのだから、それくらい平気よ」
「前は甘いものを選んでいたね」
「前の私は、まだ好みが分かっていなかったの」
「直人だった頃は?」
男が静かに尋ねる。
シェリーの手が止まった。
エマも妹を見る。
以前なら、その名前を聞けば即座に反発していた。
「直人だった頃も、甘すぎるものは好きではなかったわ」
シェリーは答えた。
「覚えているのですね」
エマが言う。
「当然でしょう」
「大切な夢ですから」
シェリーは少し眉をひそめたが、否定しなかった。
「夢かどうかは、まだお姉様と意見が違うわ」
「はい」
「でも、忘れるつもりはないの」
「私も忘れません」
シェリーはエマを見た。
素直に礼を言うのは癪だった。
「……そう。なら、ちゃんと覚えていてちょうだい」
「もちろんです」
紅茶が注がれる。
エマのカップには砂糖が二つ入った。
シェリーはそれを見て呆れたように息をつく。
「やっぱり二つ入れるのね」
「今日は一つにしようと思っていました」
「身体は二つ欲しがっているようだけれど?」
エマの白い手が、二つ目の砂糖をカップへ落とした。
エマは困ったように男を見る。
「お父様」
「今日は二つ飲みたい気分だったんだろうね」
シェリーは小さく笑った。
「お姉様も、まだ身体に教えてもらうことがあるのね」
「シェリーは違うのですか」
「私はもう、身体が動く前から分かることのほうが多いわ」
誇らしげに言う。
男がシェリーを見る。
「成長したね」
「別に、お父様に褒めてもらうために言ったわけではないもの」
そう答えながら、シェリーの黒い手が卓の上を進み、男の指へ触れた。
男が動かした。
だがシェリーも、同じことを望んでいた。
男の指が、人形の指へ絡む。
エマが微笑んだ。
「お父様に触れたかったのですね」
シェリーの頬が赤くなる。
「お姉様は黙っていて」
「身体がそう言っています」
「それは私が一番よく分かっているわ」
シェリーは男の手を離さなかった。
「ただ少し、手が空いていたから置いただけよ」
「そういうことにしておこう」
男が答える。
「お父様まで笑わないで」
「笑っていないよ」
「嘘。さっきから嬉しそうな顔をしているもの」
エマがくすくすと笑う。
シェリーはさらに顔を赤くした。
「もう、お姉様もお父様も意地が悪いわ」
そう言いながらも、黒い指は男の手へ絡んだままだった。
もう誰も、シェリーへ新しい一人称を言わせる必要はなかった。
男を何と呼ぶか教える必要もない。
エマを姉として扱わせる必要もなかった。
シェリーは、自分の意思で「私」と言い、「お姉様」と呼び、「お父様」へ不満を口にした。
直人の記憶を失ったわけではない。
かつての人生を完全に夢だと認めたわけでもない。
それでも現在の自分が誰かを示す言葉は、すでに変わっていた。
「お父様」
シェリーが呼ぶ。
「何だい」
「紅茶をもう少しいただける?」
「もちろん」
「お姉様には入れすぎないで。甘いお菓子まで食べるのだから」
「シェリーは心配性ですね」
「違うわ。お姉様があとで気分を悪くしたら、お茶会が台無しになるでしょう」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。そういうことにしておきます」
「どうして二人とも、そういう言い方をするのよ」
明るい姉人形と、暗い妹人形。
二人の間で、男が紅茶を注ぐ。
シェリーは少し不満そうに唇を尖らせながら、エマの皿へ一つだけ焼き菓子を移した。
「これはあげる」
「ありがとうございます」
「私は好きではなかっただけよ」
「はい、お姉様は分かっています」
「……お姉様は、本当に素直じゃないわね」
エマは目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
シェリーも、少し遅れて笑った。
今度の笑顔は、男が先に作ったものではなかった。
シェリーの心に生まれた可笑しさへ、男が気づいて口元を動かしたのでもない。
シェリー自身の表情だけは、もう自分で作ることができた。
長い暗色の髪を揺らし、勝ち気な妹人形は、お姉様とお父様に囲まれたお茶会の席で笑っていた。