銃でも、大砲でも、魔法でもなく、武器は紙と鉛筆とタイプライター。
前線で戦うことしか知らなかったヘルムートが、ヨアヒムとエバンスに巻き込まれ、苦手な数字と格闘します。
元ネタの一つは、フローレンス・ナイチンゲールと「統計」。
なぜケルベロス三頭作戦は失敗したのか。
そして、崩れつつある国を救うために何を捨て、何を残すのか。
そんな「算術の戦い」の始まりです。
**1940年春**
「よし、やるぞ」
ヘルムートはワルサー拳銃を袖に隠した。
ネウロイの攻勢は増すばかり。ケルベロス三頭作戦は失敗しつつある。前線では、うら若きウィッチが次々と命を落としている。
なのにカイザーはベルリンから避難もせず、宮殿で叙勲式だって?
「ふざけるな...『ウィッチが発狂、皇帝が凶弾に倒れる』それくらいやれば、みんな目を覚ますだろ」
そう呟く彼女の肩を、誰かがそっと叩いた。
「待って」
「待たない」
「叙勲式に行くなら、拳銃は置いていって。あなたが抱き込んだ衛兵は、みんな入れ替えておいたから。ボディチェックで取り上げられちゃうわよ」
「貴様!!」
振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
ヨアヒムが、少し疲れたような、困ったような顔で笑っていた。
「あなたの戦い方は間違っている。ジャンヌ・ダルクは時代遅れよ。今はナイチンゲールの戦い方をすべき」
そう言いながら、ヨアヒムはヘルムートを執務室へ案内した。
部屋は妙に広かった。机と椅子が並ぶばかりで、飾りらしい飾りもない。
「ナイチンゲール?」
「ナイチンゲールはその昔、前線で死ぬ兵士よりも、野戦病院の不衛生や病気で死ぬ兵士のほうがはるかに多いことを、統計から明らかにしたんだ。そして、それを誰にでも分かる図にまとめ、軍や政府に突きつけた」
山ほどの資料を抱えたエバンスが、そう説明しながら部屋へ入ってきた。
抱えていた資料を机の上に置く。また取りに行き、戻ってくる。出撃記録、損害報告、戦死者名簿、補給記録、何もなかった机が、たちまち書類で埋まっていく。
「怒りだけじゃ国は動かせない。動かすなら、誰にも言い逃れのできない数字を積み上げるの」
ヨアヒムは椅子に腰掛けると、素早くタイプライターを走らせ始めた。
「統計学か……苦手なんだよな。めんどくさい」
ヘルムートはため息をつきながら席に着く。
「でも、やらないといけない。この国八千万人を救うために、私たちは数字で戦うの。前線を知るあなたと、情報を集める私たちが出した数字なら、議会を説得できる」
そして、救国の統計をはじき出すための算術の戦いが始まった。
ケルベロス三頭作戦とは何か。そして、いかにして失敗したのか。語らねばなるまい。
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**「ケルベロス三頭作戦」**
それはベルリン、ミュンヘン、ハンブルクの三都市を防衛の要とする作戦だった。
ベルリンではヘルムート、ミュンヘンではガランド、ハンブルクではメルダースが、それぞれ防衛部隊を指揮する。
そして、この作戦の異色さは、三都市それぞれに「抽出打撃部隊」を配置したことにあった。
三つの打撃部隊を三交代制で投入し、「ネウロイの巣」への攻撃を絶え間なく続ける。
その攻勢計画を統括するため、マンハイムには統括参謀本部が置かれた。
そこで三つの頭を束ねることこそ、ヨアヒムの仕事だった。
攻撃を絶え間なく続けることで、カールスラント中心部へ「ネウロイの巣」を近づけない。
それが、ケルベロス三頭作戦だった。
「最初のうちはよかったんだ。ベテランウィッチも多くて、新兵たちも連戦連勝。練度もどんどん上がってた。でも、それはまやかしの勝利だった」
ヘルムートは記録を精査しながら、当時を振り返る。
どれもつらい記録ばかりだった。なかでも彼女の手を止めたのは、自分の部隊の戦死者名簿だった。
「ネウロイも馬鹿じゃない。一度後退して、態勢を立て直した。そして大量の航空艦隊で波状攻撃を仕掛けてきた」
「そう。どれがおとりで、どれが本命なのか。攻勢どころじゃなくなった。迎撃、迎撃、また迎撃。あっという間に疲弊した。そして死ぬのは新兵ばかり」
ヨアヒムは淡々と、損害と戦死者数の統計をまとめていく。
タイプライターの音だけが部屋に響いた。
「でも、マンハイムが落ちるまでは、よく損害を抑えられてた」
その言葉に、ヨアヒムの手が止まった。彼女はマンハイム陥落前後の数字を見比べる。
「ああ。まさかマンハイムから狙うなんて、寝耳に水だったな」
「陸戦型ネウロイによる斬首作戦だ。おやっさんと俺たちは命懸けで戦った。おやっさんのおかげで、俺はまだここにいる」
エバンスがまとめていたのは、マンハイム防衛戦の記録だった。
1939年12月。
マンハイムへ、ネウロイの機甲師団が突如として侵攻した。
この地の防衛を任されていたのは、シュタイナーヴィッツ将軍。ヘルムートの父親である。
シュタイナーは市街地へネウロイを誘い込むと、決死の市街地戦を断行した。
「男たちは銃を取れ!女子供のために死ね!」
そう叫び、司令部を次々と移しながら、武装した市民たちを指揮して戦った。
唯一の救いは、ヘルムートとヨアヒムの活躍によって、かろうじて上空を維持できたことだった。
輸送機が飛び立ち、空から市民を逃がす。
一方、地上ではエバンスたちが下水道を使い、逃げ遅れた市民を市外へと導いた。
男たちは、みな死んだ。エバンスと、少年たちを除いて。
脱出作戦は成功した。
そしてシュタイナーは、崩れ、燃え盛る聖堂から最後の言葉を残した。
「必ず勝て。勝って、このマンハイムを取り戻し、立て直してくれ。何としても生きて、ここに帰ってこい」
炎が聖堂を包んでいく。
「老人は死ぬ。それはいい。もう息子たちを弔うのはたくさんだ」
そして最後に、彼は言った。
「聖なるカールスラントに栄光あれ」
それは遺言だった。そして、呪いでもあった。
それから、ネウロイの攻勢はぴたりとやんだ。
そして今に至る。しかし、これは嵐の前の静けさにすぎない。
首を落とされたケルベロスは指揮系統が麻痺し、将兵もまた疲弊し、消耗していた。
三つの頭は残っている。だが、もはや一匹のケルベロスではない。三匹のディンゴに成り果てたのだ。あとは、一匹ずつ蹴り飛ばせばいい。
ネウロイの最終攻勢が来る前に、どう逃げるか。
何を捨て、何を残すのか。決断せねばならない。
「ヘルムートの教室」
1950年、終戦後の冬。ベルリン・ウィッチ初等教育機関、教室にて。
教室は静寂に包まれていた。窓の外には雪がちらつき、凍てつく風がガラスを叩いている。
教壇に立つのは、ヘルムート・ヴィッツ。彼女の銀髪は淡い光を反射し、黒い軍服が凛とした雰囲気を際立たせている。教室には数十名の生徒たちが、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「1940年8月、ケルベロスシュラハトの失敗を受け、中央議会は正式にカールスラント本土の放棄を決定した。12月、『フェルカーヴァンダルング作戦』発動だ。8000万人のカールスラント人が、南米を目指し長い旅路に……」
彼女の声は冷静で、雪のように静かに降り積もる。しかし、その穏やかさのせいか、いくつかの机では生徒たちが船を漕ぎ、ある者は完全に意識を失い、別の世界へと旅立っていた。
「アハトゥンク!!!」
突然、ヘルムートの鋭い声が教室に響いた。
生徒たちは驚き、眠気から一気に現実へと引き戻される。眠っていた生徒たちが、バレていないかと不安そうに身じろぎした。
「今寝てたやつ! 立て!!」
緊張が教室を支配した。彼女の視線が鋭く生徒たちを見渡す。
「そこと! そこと! そこだな!! 早くしろ!」
おずおずと五人の生徒が立ち上がる。どの顔にも「しまった」という表情が浮かんでいた。
ヘルムートはしばし彼女らを見つめ、静かに尋ねた。
「ほう、私の授業は退屈か?」
生徒たちは俯き、誰も口を開こうとしない。
すると、ヘルムートは微かに笑った。そして、意表を突く言葉を放つ。
「ならば、昔話をしてやろう。退屈しのぎに」
教室が静まり返る中、ヘルムートは話し始めた。
「お前たちは十四か、十五か。……私には、十四歳の部下がいた」
生徒たちは息をのむ。
「エイミーという名前だった。家族思いでな。いつも母親と弟たちのことを心配していたよ。軍に入ったのも、早くに稼いで家計を助けるためだった」
ヘルムートの目が、遠くを見つめるように細められる。
「士官になりたがっていた。お前たちが今受けている士官教育を、彼女も望んでいたよ」
一人の生徒が、思わず口を開いた。
「その人、今はどうしてるんです?」
「バカっ!」
すぐに隣の生徒が小声で囁く。だが、もう遅い。
ヘルムートは静かに、その生徒を見据えた。そして、おもむろに口を開いた。
「今? 私が士官に推薦した次の日に、ネウロイに焼かれて死んだよ」
生徒たちは息をのんだ。
「一瞬だった。跡形も残らない。直撃だったからな。蒸発したよ。悲鳴すらなかった」
教室の空気が凍りつく。
「お前たちは考えたことがあるか? どれだけ恵まれているか?」
ヘルムートは生徒たちをゆっくりと見渡した。
「空襲のない平和な夜に寝て、出撃命令もなく朝食をとる。安全が担保された日々を生きる。そう、平和だ」
彼女の声が少しだけ震えた。
「その平和を手にするために、どれだけの人間が犠牲になったと思う? 何千万人が死んだと思う?」
彼女は教室の机を強く叩いた。
「エイミーはな! お前たちが今座っているその席に座ることすらできずに死んだんだぞ! あの子の母親は私の膝にしがみついて泣き叫んでいたよ。『どうして? どうしてあの子は死んだんですか? あなたがいながら!』その時の言葉が今も頭にこびりついて離れない! あの純真無垢な笑顔が忘れられない!! 死んでいったやつらが忘れられないんだよ!」
生徒たちは何も言えなかった。
「1939年から統合戦闘航空団ができるまで、カールスラントのウィッチの損耗率は50%を超えていた!」
静寂が、深く教室を覆い尽くす。
「わかるか? 2人に1人は帰ってこなかったんだ」
生徒の一人が嗚咽を漏らした。
「私のように手足や目を失った将兵は山ほどいた!!」
その声は静かだったが、教室の空気を重く押しつぶした。
「お前たちが今享受している平和は、数え切れない屍の上に築かれた、危うく、尊いものなんだよ」
彼女は静かに息を吐いた。
「私はな、死んだ部下たちに! 戦友たちに言いたい!」
ヘルムートは大きく息を吐き続けた。
「安心して眠ってくれ。お前たちの意志を継いだ優秀なウィッチたちが、カールスラントの空を今も守っている。と」
教室をじっくりと見回し、ヘルムートはまっすぐに立って言い放つ。
「そのために、私はここに立っている」
静寂のあとに、ヘルムートは鋭く言った。
「生半可な気持ちでいるやつは帰れ!!」
誰も動かない。
「帰れる家があるんだろ? 帰りを待っている人も。お前たちには故郷があるんだろ!」
しんとした沈黙の中で、すすり泣く声が聞こえる。
ヘルムートは深くため息をついた。
「はあ、目が覚めたか?」
誰も答えられない。彼女は教壇を見つめ、ふっと息を吐いた。
「眠気覚ましにはなっただろう」
そして、静かに黒板に向かう。
「授業を続ける」
黒板にチョークの音が響く中、何人かの生徒は目を赤くし、鼻をすすっている。ヘルムートは気にしない。だが、一言だけ言う。
「泣いてるやつ、顔を洗ってこい」
そして、彼女は再びチョークを走らせるのだった。
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