俺には次がある。そうじゃなきゃ、許されない。絶対に大丈夫だ。
自分が自分じゃなくなるのが嫌だ。このままだと、本当に女は変わってしまう。
そしたら…………どうしてもダメだ。
ただ、命を手放せないだけだった。こんなことになるなら最初から……
「今日は、何をするの」
「そろそろ絵本を読んでみたいです。もう今日の夜に花火を見ませんか?」
女は笑顔で俺に言う。気持ち悪い。本当にこいつは……俺に何もしなくなってしまった。
俺をずっとただのペットにしようってか? あんなことをしておいて、そんなの認めない。
本当は、分かってしまっていた。俺の手じゃ女を殺せない。生物としての格みたいなものが、きっと最初から違うんだ。
それで脅し続けた女が、二人で時間を過ごしたいなんて……吐き気がして仕方ないんだよ。そんなの絶対に幸せじゃない。
「そうだね」
「今日に…………しよっか」
女が震えながら手を繋いでくる。
「言いたいこと、ありますよね?」
「分かりますよ。良ければ言ってください」
お前さえいなければ。殺してやりたい。汚い言葉が溢れ出すけど、ここで言うのは間違っている。
「では私から、聞いてみてもいいですか? ワタちゃん、あなたはどうすれば……心まで隣にいてくれますか?」
もう無理だよ。
「私たちは……許し合えますか?」
……俺がお前に何かしたことがあるか? そういうところが、どうしても。
「花火の時、言ってあげるよ」
確信はない。けど、きっと上手くいくはずだ。これでダメだったらもう、それが人を殺めた罰ってことなんだろう。
「そうですか。では、どうしましょう」
気まずい空気にしないでくれ。何かあるって思わせてくれ……
「外にもう出ましょうか」
意外な言葉だった。お前のことだから、俺と寝たいんだと思ったよ。
「嬉しい」
◆
いい場所を見つけた。そう言った女が、俺を抱えてどこかへ連れて行く。
目を開くと、たしかに綺麗な場所だった。
「どこに設置したら一番よく見えそうか……一緒に探してみませんか?」
歩いた。同じ場所を何度も通って、気づくと日も沈んでいる。
「ここにしよ」
俺は小さく言った。
「そこ最初に立ってた所じゃないですか」
……女が笑う。
目の前に大きな川が見える。きっと知らない魚がたくさんいるんだろうな……そんなことを考えると、それを潰すように手に力が入った。
クソ、本当に少し……少しだけ失敗しないかなって思ってしまう。
「暗いと、絵本が上手く見えないかも」
「大丈夫ですよ。私は魔法で明るくできますからね」
「まぁ、いっか。最後のページで打ち上げたいから……それまでは」
俺はゆっくり空を見上げる。なんか、変な感じだな。
何も考えずに座ると、女もゆっくり横に座った。
「アリスは、ワタが死んじゃったらどうするの? また新しい子を探す?」
「……きっともう生きていけません。そんなこと、言わないでくださいよ」
「じゃあ、大丈夫。少し聞いておきたかっただけ」
俺は女に、ゆっくりと本を渡した。代わりに花火の玉を貰う……かすかに中の十字架が揺れている。
「しっかり声に出してね」
「今どこを読んでるのか、ワタがちゃんと分かるように」
女に背を向けて距離を取る。目が届く範囲という条件なら、俺は初めてここまでの距離を取った気がする。
全然、声が聞こえる程度で……走れば数歩で手が届く位置。暗い夜でもお互いの顔は認識できる。
俺は地面に静かに座った。
「もう良いよ」
女も座って、ゆっくりとタイトルを読み上げた。
「綿毛とアリス……?」
女は口に手を当て笑っている。凄く嬉しそうだ。
「きっと、どんな内容でも……私に大切なお話ですね」
……そうだな。
「その、すみません。少し待ってもらってもいいですかね」
「私も、渡したいものがあって」
そう言った女は何かを取り出そうとしている。なんだ? 短剣とか人形か?
「これです」
は? どうやったんだ。何かタキシードのようなものが空間から取り出された。
「何それ」
「私の学校に、ついてきてほしいんです」
「ずるい気もしますけど……お願いです。もう、ずっと一緒にいたいんですよ」
……気分が悪い。
「また後で見せてほしい」
「ふふ、それもそうですね」
頷いた後に女は優しく表紙をめくる。俺はもう一度、背を向けた。
『わたげは ふわふわと さいてるだけでした』
拙い字が、下手くそな綿毛の絵と描かれている。
そんなページを見て、優しく読み上げる女の声が……ただ俺を不快にさせた。
『とつぜん ありすが あらわれました』
『どうして? おみずをのんだら おこられちゃった』
『どうして? ここがすきなのに ちぎられちゃった』
何ページも、同じような絵が続くと……女の声が小さくなってきた。
「ワタちゃん……その、私」
「読んで」
ページがめくられる音がする。やけにそれは夜に響いて、身体を縮める感覚がした。
『やさしくもってるつもりでも ねっこがないから かわりません』
『かなしくなって なきました』
『すると ありすは いいました』
『ここでは きれいに とべないよ』
女の手は止まっている。
「楽しいお話だから、ほら。信じて」
俺は笑顔でそう言った。
女は少し躊躇って、立ち上がろうとする素振りを見せていたが……すぐに本に指を戻した。
『さいしょは うそだ とおもいました』
『でも おみずをのむと からだが おもくなっちゃって ほんとにきれいに とべないみたい』
『わたげは おれいを つたえます』
『おしえてくれて ありがとう』
「ワタちゃん、ちょっと……待ってください。私、言わなきゃいけないことが」
女がゆっくり立ち上がった。二歩だけ歩いて、すぐに止まる。
俺が手を伸ばしたからだ。
「言ったよね。信じて」
俺は戻るように優しく言った。頼むから……もうこれ以上、クソみたいな時間を延ばさないでくれよ。
立ったまま、女は読み始める。
『ありすは うれしくなって たいせつに たいせつに もちました』
『あれ? でも これだと わたげは とべません』
『どうしたらいいのかな? わたげが こまった そのときです』
女の指が速くなってきた。ページと俺を見比べている。
『ちかくで はなびが あがりました』
『ふたりは ちかくでみようと あるきだします』
『すぐに わたげは おもいました』
『ここなら きれいに とべるかも』
「ねぇ! ちょっと、まってください。本当に楽しいお話ですか?」
「うん。きっとアリスが大好きなやつ」
「大丈夫だから、ね? 最後は上手に描けたの」
女は、本に視線を戻して……ゆっくり口を動かした。
『すこし のこったら どうしよう』
『そんな ふあんは いりません』
『だって とべないほうが いやだから』
『おもいきって やってみよう』
『はなびと わたげは ちりました』
そこまで読み上げられると……俺は上を向いて、声を出す。
口を押さえて、ゆっくり息を吸った。
「最後のページはまだ、めくらないでね」
「……ここから幸せになるんですか? やっぱり私に怒ってますよね。なんでも、言ってください。だから!」
「もしかして見ちゃったの?」
俺は悲しい気持ちになった。女が約束を破って、最後のページを見たのかと思った。
「……え?」
「違うなら良かった。最後のページは『だから』で始まるから」
女は俺に手を伸ばす。できるだけ距離を縮めようと、肩ごと前に出してから……
「ごめんなさい。少し、怖くなっちゃって……ワタちゃんの気持ちは絶対に受け入れます。なので、もう少し近づきたいです」
何かに焦ったように、本を読むよりも大声で言う。
「本をしっかり持って。ワタが読んであげたいから、止めたんだよ」
「めくっていいよ。でも、まだ見ないでね? こっちのほうが見てほしいから」
俺は口を少し開いて舌を出す。
コロッと軽い音が鳴って、中が光ったのが見えたのだろう。
「……冗談ですよね? ねぇ! スイッチは、どこですか!? 安心できません!」
「本当はしたくないですよ!? これはワタちゃんのためです……私が行くまで動かないでください!!」
女が走り出したのが見える。俺はもう笑うしかなかった。
ここまで耐えて、怖い思いまでしたのに、許されないなら……最初から次なんてないのだろう。
「もしかして手足を取り上げるの? じゃあ、読むね」
『だから ありすは ひとりです!』
俺の手足がなくなって、垂直に落下が始まった。
地面に埋めたスイッチを綺麗に俺は踏み抜いて、カチリと小さな音が聞こえる。
「うれしい。ばいばい」
俺は確かにそう言って、跳ねた女を見下した。大丈夫。俺には次があるから。
笑顔も涙も残らないぐらい……夜に全てが飛び散った。
◇
どれだけ小さくなったって、私の魔法なら必ず。
神様、どうかお願いします。この子に命をもう一度。
治って、治って治って! 治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って治って!!
ああ、嫌だ。もっとすぐに近づけてたら! 散ってくるあの火花のせいで……大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。
ワタちゃん、泣かないで。きっとすぐに良くなるから。
嫌なことがあれば全部聞くから。絶対にすぐに変わるから……
今まで、こうやって何人も。ずっと助けて生きてきたんだ。脳みそがぐちゃぐちゃの人だって、何かと少し混ぜられた人だって……
私は全部を治してきたんだ。その後もみんな元気に暮らしてる! 私の力は、私が一番信じてる。大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。
「あは、ほら。できた!」
良かった。いつもの綺麗なワタちゃんだ。
起きたら……まずは叱らないと、心配だったんだよって。いや、謝るのが先だろうか。
私が追い詰めてしまったってことだろうから。
でも、本当にもう酷いことはしない。本当の愛を知ったから……全部、ワタちゃんのおかげで。
だから、やっぱりまずは抱きしめよう。
何も言わなくて良いから、優しく。
大丈夫……なはずだ。絶対に、いつもの綺麗な身体だ。大好きないい匂いの髪だってある。どこか足りない部位はないよね?
耳だって、尻尾だって、内腿のほくろだって治ってる。
全部を知ってる。だから戻ったはずだ。
「ワタちゃん?」
どうして、起きないんだろう。絶対にもう元気なのに。
少し不安になってきた。呼吸が乱れる、ダメだ。悪い癖……まず、脈と呼吸を確認しよう。大丈夫、安心して。生きてる。
私は一人じゃない。
勝手に一人にしないで。絶対に。
ワタちゃんと、一緒にお歌を歌いたい。学校に行って、みんなに可愛いって言ってもらうんだ。
そうだ、映画だってみたいんだ。素直になれなかっただけで、本当に大好き。
表現の仕方が、あんなことしか思いつかなくて。やっぱり私が悪かったな。ちょっと、なんでも許されると思ってた。
人じゃないと思ってたのに、こんなにしっかり人だった。
世界は守ってくれないけど、私だけは守れるから!
外は危ないから、人間は悪くて怖いから!
だから私が守らないといけなかったのに。
こんなに悲しませてたなんて、確かに……酷いことばかりした。全部、ワタちゃんに同じことをやってもらおう。それで、そうしたら、許し合えるから。
だから、まずは謝るのが絶対だ。分かったから、はやく「ごめんなさい」を言わせてほしい。
「ねぇ、起きて? ワタちゃん」
「痛かったよね? 苦しかったよね? 私なんて気持ち悪かった? 何を言っても大丈夫ですから、少しずつ! 心を愛せるように!! もう一度その声を……」
間違っていない。間違っていない。間違っていない。絶対に、治った。関係も……きっとすぐに大丈夫になるはずだ。
知ってるから。だって、ワタちゃんも一人なんだから。きっと寂しかったはずだ、だから私とまず会話をしてくれたんだ。
いきなり食べるんじゃない、そうだ。私も自己紹介が足りないんだ。もっと教えてあげないと、私が凄くて強いって……
粉々になっても治せるって知ってたら、最初からこんなことしなかった。
私は馬鹿だ、どうして……? スイッチなんて、渡さなければ……
いや、外なんて連れて行かなければ。
好きだから、外を見るだけで楽しかったはずなのに。
ちょっと良い所を見せようとしたのは失敗だ。反省したから、もう大丈夫。
はやく起きてほしい。言いたいことが分からなくなってしまう。
夜が沈む前に、今日が終わる前に仲直りしたい。
少し冷静になれなくて、おかしなことばかり考えてても、きっと分かってくれる。
「ワタちゃんは飛ばないでください……必ずもっと綺麗に咲けます。いや、だからまだ綿毛じゃないってことです!」
「はぁ、少し大変でしたよ。本当は聞こえてるんですよね? 集中しないと治せないぐらい大怪我でした。今日はたくさん寝ましょうね……だから、今は起きても……」
死んでるなんて、そんなわけない。息もしてる。寒くて動けないのかも。
良く考えたら、服までは治せないから可哀想な格好をしている。
温かいお布団に入れてあげて、寝てから言葉を重ねよう。
大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。
「そうだ、もう拘束具なんてないですよ。チョーカーも、手足を隠しちゃうやつだって……吹き飛んじゃいましたから! 安心して起きてください」
「酷いことをされたと思ったら、すぐに私から逃げてください」
「部屋の中だと、狭いかもしれませんけど……合図を決めましょう。アリス人形を投げてください! きっと私も冷静になれます! 心配することはもうないですよ!」
なんで、起きないんだろう。
はやく帰ってあげないとダメだ。
私は急いで部屋に向かった。絵本を地面に忘れてしまっていたから、途中で戻ってしまったけど……まだ寝てるなら関係ない。
悲しい気持ちになってしまった。もう一緒に、ワタちゃんと寝るだけだ。今日は嫌な一日だったから……明日は良い日になりますように。
ベッドに戻って、真ん中にワタちゃんを寝させてあげる。大好きなクマさんに囲まれて……あれ? そういえばクマさんが好きかなんて聞いたことがない気がする。
考えすぎだ。ワタちゃんにたくさん謝ることがありすぎて、混乱してしまっている。
私は目を閉じてワタちゃんの髪を嗅いだ。やっぱり、優しい匂いがする。大丈夫。
すぐに意識は落ちていた。
「アリスが苦しんで死にますように!」
……そんなこと、ワタちゃんは言わない。はぁ、はやく起きてくれないかな。変な夢を見てしまった。
寝汗なんて、久しぶりだった。
「寝ずに撫でてあげたほうが良いんですね? ワタちゃん、夢に出てまで私を起こすなんて」
やっぱり本当に、可愛い。綺麗な青の髪を撫でて……私は静かに夜の終わりを待った。