昨晩の奈佐ちゃんからのメッセージが、まだ頭から離れない。
《天国って、どこにあると思う?》
あれは、一体……。
「おはよう」
「あ、奈佐ちゃん、おはよう」
昨日のこと、やっぱり聞いてみたほうがいいのかな。それとも、そっとしておいたほうが……。
「ねえ、笹鐘アリアさん?」
「は、はい」
「まずは図書室に寄ろうか」
蒸し暑い季節が少しずつ始まって、学校の昇降口にたどり着くころには肌がちょっとべとついた。始業少し前の図書室には誰もいなくて、除湿のエアコンがかかっていて涼しかった。
「本って――」
奈佐ちゃんが口を久々に開いたような気がした。
「本って、時間を越えて、書いた人と話せるって言うでしょう」
「うん、昔の人が書いた本でも、今のわたしたちは読めるんだよね」
「そう、読書は、ある意味で対話の側面を持っている」
奈佐ちゃんが寂しそうな顔をしているのが不思議だった。
いつもの図書室の奈佐ちゃんと同じ表情だった。
「でも、その対話はいつでも一方通行。本の側からわたしたちに語り掛けることはできても、その逆……わたしたちから本に語り掛けた声は、本には届かない」
奈佐ちゃんは背表紙を撫でるようになぞりながら、目の前のわたしに語り掛ける。わたしに語り掛けているはずなのに、言葉が宙に浮かんでいるようだった。
「本は墓標なのよ」
薄黄色のカーテンは少しずつ明るさを増していった。
その前に奈佐ちゃんが立っているのが、なんだか天使みたいだった。
「ものを言う墓標――死者や、作者のすでに過去のものになった姿をその中に封じ込めて、読んだ者になにかを語り掛ける。でも、語り掛けているような気がするのは錯覚で、実際にはただ保存されているだけ。本は何も語り掛けてくれない」
すぐにでも奈佐ちゃんがどこかへ行ってしまいそうなのに、一歩も前へ踏み出せない。
「墓標は、決してこちらに何かを語り掛けてくれることはない。ただ……ありし日の姿を固定できる形にしてその中に保っているだけ」
奈佐ちゃんがカーテンに手をかけて、一気に開いた。
街を背景にして、窓の前に立っていた。
身体がうまく動かない。昨日の夜みたいにはいかない。
ずらっと並んだたくさんの家が全部四角いのが、とても不気味に思えた。
「わたしも、本を書いておきたい。そう思う」
この子は、きっとなにか重要なことをわたしに話してくれているんだ。
もっと、知りたい。奈佐ちゃんのこと。
始業5分前のチャイムが鳴った。わたしたちは一気に現実に引き戻されそうになる。
「ねえ、笹……」
「ねぇ、奈佐ちゃん」
目の前のまぶたがちょっとだけ驚いたふうに開く。
「奈佐ちゃん――海に行こう」
◆
図書室で身にまとった涼しい空気をできるだけ剥がさないようにして、なるべく先生に見つからないように靴を履き替えて門を抜けた。
なるべく見つからないように静かに歩いていると、いきなり音楽が聞こえたので焦った。
音声通話の着信音だ。
奈佐ちゃんのメガネからだった。慣れた手つきで奈佐ちゃんは電源を切る。
それにしても、さっきの音楽はどこかで聞いたことのあるような、懐かしい……クラシックの気がする。
「……ねぇ、奈佐ちゃん。さっきの曲は──」
「
「エア……空気?」
「そうだね、正解。もとは空気・雰囲気という意味の単語に由来する音楽ジャンル。だから英語で言うなら──」
わたしの少し前を歩く文学少女は一呼吸置いた。わたしによく聞かせるためのもののはずなのに、なぜかため息のようにも聞こえた。
「──Air on the G-string」
……Gストリング。G線上のアリア、か。
わたしの名前が空気の意味だってことも、奈佐ちゃんの着信音がG線上のアリアになっていることも、いまは気にならなかった。
奈佐ちゃんは、すこし目を離してしまえばすぐ空気と混じりあって透明になってしまいそうだった。
学校から真西の方角に出て、なるべく直線コースで海に向かう。この島に砂浜はないけど、代わりにゴムで作られた海岸がある。
網が張ってあるからあんまり泳げないけど、と奈佐ちゃんに聞くと、泳ぐつもりはないから大丈夫、と返った。
この島は人工島だから周りになだらかな砂浜の斜面がなくて、いきなり海の深さが何千メートルにもなるのよ、なるべくなら海に入らないことって、お母さんは言ってたっけ。
ちょうど干潮の時間だったから、ところどころ海岸の塗装が剥がれて黒が見えているのまでわかった。
海は本物ね、と奈佐ちゃんが言った。
わたしにとってはこの浜も本物だけれど、奈佐ちゃんの知っているものとは違う。でも、海はどこでも同じだ。そう思うと、少し安心できた。
浜に下りるコンクリートの階段の途中に座って、ふたりで海を眺める。
「笹鐘さんは……」
「アリアでいいよ」
「……アリアさん?」
「うん」
「アリアさんは、ニライカナイって知ってる?」
「うーん……なんとなく聞いたことがあるような」
「ニライカナイはね、沖縄とか奄美あたりの信仰に見られる概念で、いわば海の向こうにある理想郷……死者の魂が向かう場所」
奈佐ちゃんは、きざはしの方に顔を向ける。
ゴンドラが見えない直線に沿って登って行く。あの窓から、わたしたちも見えているんだろうか。
登って行ったゴンドラは軌道ステーションに向かうことは分かっているはずなのに、いまは、あれはどこへ向かうんだろうと思った。
「わたし、小さいころ、雲の上に天国があるんだと思ってた……わたしも、アリアさんとおなじ。『おそらに行った』人たちはふかふかの雲の上で過ごしてるんだって思ってた」
奈佐ちゃんが空を見上げる横顔を、初めて見た。
「わたしのお父さんがここに転勤したって、最初に会った時に言ったね。お父さんは、宇宙工学を専門にしてて、静止軌道にいくつも浮かんで互いに繋がっているステーションのバランスが崩れて落っこちてこないように調整するお仕事を、いまやってる」
「そっか、奈佐ちゃんのお名前……」
「そう、お父さんもお母さんも、宇宙が好きだったから。それで、きざはしができた時、せっかくだから宇宙に旅行してみようってことになって、」
――そこでわたしは初めて、どこの雲の上にも誰も住んでいないことを知った。
「わたしはゴンドラの窓から大気圏を見下ろす景色を眺めた。よく覚えてる――とても怖かった。空気が地球の薄皮みたいにのっぺり貼りついていて、そのくせそれ以外の空間にも何もなくて、青い地球はどこかへ投げられてしまいそうなくらいに頼りなかった。全部、からっぽだったんだ」
奈佐ちゃんは空を見るのをやめて、少しずつうつむいていた。
「空の上に世界なんてどこにもなくて、見上げればすぐ届いてしまう。宇宙は寂しいところだって思った。――『海が好きな倉崎奈佐』の答え合わせは、こんなところ。海は深くて、底が見えなくて、遠くも見渡せない。だから……」
「奈佐ちゃん!」
今にも泣きそうに眼がきらきら輝く少女は、驚いて顔を上げた。
「入ろうよ、海!ほらほら、靴脱いじゃって!」
奈佐ちゃんの瞳の中にも、海が見える。波が押し寄せている。
「え、でも、服が」
「暑いからすぐ乾く!せーの!」
「わ、わわっ、と、と」
ざぶざぶ、ざぶ、ざぶん。
水の抵抗を足に心地よく感じる。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「う、うん」
「えへへっ、自慢の海なんだ」
もっと。そんなに、寂しい理由だけじゃなくて。
ざぶり、ざぶ。
「そぉーりゃっ」
定番だけど。楽しい思い出を。
「ふふ、それっ」
「わぷ!あはははっ」
「えいっ」
「わっ、わ、あ、あれっ」
「奈佐ちゃんっ!」
躊躇なく水に飛び込む。
沖の方を見る。大丈夫。網が破れたりはしてない。奈佐ちゃんが外洋に吸い込まれたりはしない。ただ、思ったよりもすぐそこにある深い海にパニックになっちゃってるだけだ。溺れて居るのを助ければいい。
浜を何メートルか滑り落ちた場所に奈佐ちゃんがもがいているのを見つけた。たぶんここから十メートルくらいの距離だけど、あの泡の出かたではそろそろ息を吐ききってしまう。
一度海面に上がって、息を思いきり吸い込んで、まっすぐに潜る。
よし。順調に奈佐ちゃんに近づいていける。
(奈佐ちゃん!)
落ち着いて、とジェスチャーするけど、どうやら落ち着き方を知らないみたいだ。
目をつむって、小さく頷く。
わかった。
奈佐ちゃんの顔をぐいっと引き寄せて、海面から吸ってきた空気を分けてあげる。
何が起こったのかと驚いてまた息をこぼしかける奈佐ちゃんの鼻をつまむ。
しっかり吸って。わたしの空気を無駄にしないで。
ゆっくり吹き込んで、しばらくすると奈佐ちゃんから息が返ってくる。
まつげも髪も、ゆらゆら揺れている。
藍色に染め直された太陽の光のあたたかい旋律が、懐かしいクラシックを奏でながらお昼をやわらかく教えてくれる。そうだった。小さいころ、お母さんが聞かせてくれた、このきれいな曲。美しくて、儚くて、静かな曲。
わたしも奈佐ちゃんから息をもらう。
しばらくの間そうしていた。
溺れかけた海の中で、まるで世界中のここにしか酸素がないみたいに、お互いがお互いの命を吹き込んで、わたしたちはお互いを生かしあっていた。
……さすがにこのままだとどちらも溺れてしまうから、目で合図して海面へ上がる。
「ぷは」
「ふはぁっ」
真上から降り注ぐ太陽の光がまぶしい。
「……」
「……」
それに、水面も。
「上がろっか」
「そう、だね」
強い日差しが、水から上がったそばからわたしたちの体を乾かしていく。涼しい風がわたしたちの背中を押す。
また同じ段に並んで、座った。
「あったかいね」
「そうだね」
「日向ぼっこだね」
「……いいね、この島も」
隣を見れば、奈佐ちゃんの清々しい笑顔だった。
いま聞こえてくるのは波の音だけで、1秒1秒がゆったりと動いているみたいだった。
「……ねえ、アリア、……ちゃん」
「なあに?」
「きざはしが見える高台みたいなところ、知ってる?」
「うん、でも」
「だいじょうぶ。もう……吹っ切れた」
とっくに服は乾いていて、手を引かれて立ち上がった。
奈佐ちゃんのほうが何センチか背が高かった。
歩き始めても、手は繋がったままだった。
「アリアちゃん?」
「どうしたの?」
「ふふ、高台に行ってから話すね」
わたしたちは海沿いを歩いて行った。すぐに浜は終わって、その後には底まで数千メートルの深い海が続いていた。
奈佐ちゃんが言うように、たしかに海が綺麗だった。さっきの水中から見上げたのとはまた違って、すべてを包み込みそうな揺れる青が、ところどころダイヤモンドをちりばめたみたいにきらきら光っていた。海の魅力がどんなところかなんて、初めて考えた。
この島はそんなに広くない。周りをなぞるだけなら、すぐにこうして南西の縁まで歩いて来られてしまう。マンホールには、りんごが刻まれていた。
「アリアちゃん、さっきはありがとう」
「うん、どういたし、まし……て…………」
ありがとうと言われるとものすごく恥ずかしくなってきた。
「――アリアちゃんのおかげで息ができた」
奈佐ちゃんはきざはしタワーの斜塔を目で追って、ワイヤーの向こう側を見つめた。
「きっと、この先も、すこし息が苦しくなっても大丈夫なんだって思えた」
繋がれた手がしっかりとわたしの手を握った。
「私は、ここを鳥かごだと思ってた。空には限りがあるんだって。……今もワイヤーに囲まれた地球が鳥かごみたいに見えるのは変わらないけど、でも、ちょっと違って見える」
右手から、海中を思い出したみたいに奈佐ちゃんがゆらゆらと流れ始めたのが伝わった。
「階段に座って海の話をしたとき、私は海の広さと海の深さをしておきながら、その2つを別々に考えてた……実を言うと、それまで海に入ったことがなかったから。でも、飛び込んでみて、潜ってみて――溺れちゃったけれど――そのとき、私は3次元のどの方向にも自由に動くってことが身体で分かった」
つられてわたしも浮力を思い出す。
目を閉じると、思わず身体の内側が浮き上がる。
わたしたちには、相変わらず重力がかかってはいる。でも、
「きざはしとか、軌道エレベータが出来上がる前の……宇宙では、地球の周回軌道を単独でまわるステーションに人類が乗っていたころ。宇宙に着いた人類のほとんど全員が『宇宙飛行士』だったころ。宇宙に行くってことはほとんど、ふわふわ浮かぶってことだった。たしかに、地球の引力が及ぶ圏内で、ある人は重力の支配下だったって言うかもしれない。でも、彼らは重力から自由だったように見えた」
ちょうど、さっき、わたしたちが浮力を受けて海中で漂っていられたように。
「さっき見た海は、空の色と同じだったから。――だから、もっと遠くまで。海にも空にももっと遠くまで、行こう。できれば、お互いに息を吸えるように、二人で」
目を開けた。わたしたちの足は、ずっと高台の地面に付きっぱなしだったけど。
かろうじて見えるワイヤーの横には、早くも月が浮かんでいた。
「じゃあさ、月とか行こうよ」
「月――」
「いい夢だと思わない?」
「……二人で?」
「ふたりで!」
そのあとは、またしばらく二人で陸の上や海の中を浮かんでいた。
鳥かごの外に飛び立つ夢を見ながら。
◆
「……奈佐ちゃん」
「……どうしたの、アリアちゃん」
わたしたちは、桜のマンホールの上に帰って、ためらっていた。
「……家に帰るの、こわいね」
「……そうだね」
客観的に見れば、わたしたちはこの一日中、学校をサボって遊びほうけていたことになっている。なっている、というか、事実としてそうだった。もちろん、奈佐ちゃんが心の暗い部分を打ち明けてくれて、この島で暮らすのも前向きになれたみたいだし、わたしたちの間にはいろいろあった一日だったけれども。
だったけれども……だからといって、すぐに日常が変わるわけでもない。1秒の長さが1秒に戻っても、世界はゆっくりとしか動かなかった。
忍び足で玄関まで向かい、ドアノブを掴む。
「せーの!」
同時にドアを開けると……いつも通り帰った家と同じ様子だった。
不思議がっていると、早めにお風呂に入るのを勧められた。いつもよりお味噌汁が温かかった。
お風呂から上がって、思い出してメガネの電源を付け直すと、120件以上のメッセージがクラスのグループにやってきていて思わず一瞬でアプリを閉じた。
一呼吸置いてからメッセージ一覧をよく見ると、見知らぬグループに通知が1件入っていた。先に見てみると、
Houston
とだけあった。
思わず笑いがこみ上げてきて、奈佐ちゃんに通話をかけた。
繋がってすぐに、窓を開ける音が隣から聞こえた。
奈佐ちゃんが部屋から乗り出してこちらへ手を振っていた。
奈佐ちゃんも笑っていた。
まるで月みたいに、まんまるの、綺麗な笑顔だと思った。