……私はクラピカに謝った方が良いのかなぁ?
壁際まで追いつめられて、逃げ場を塞がれている体勢。
口づけの直前のように寄せられた顔と、ジッパーを下ろす指。
そして、心の底から楽しそうな声。
「あんまり大声出すと、人が来ちゃうよ? ボクは全く、構わないけどね♦ 人に見られるのも、キミが泣くのも♥」
もうそれだけで頭に血が限界まで昇り、視界が一瞬で緋色に染まる。
しかしソラがその直後に、いつものエアブレイクをやらかしたおかげで怒りの矛先が若干逸れ、思わず彼女に木刀を投げつけたのが逆に幸いした。
あのままでは確実に、怒りにまかせてまた相手と自分の力量差など忘れて殴りかかって、それこそ3年前の別れの日の二の舞になっていただろう。
わずかだが取り戻した冷静さで、忌々しい奇術師への殺意を押さえつけ、クラピカは手を伸ばす。
自分の木刀を受け止めつつもどこか呆然としている、藍色の瞳に涙を今にも零れ落ちそうなほどに溜めこんだソラに手を伸ばし、腕を掴んで自分の元に引きよせる。
自分より高かった背丈の、いつも抱きしめられ、包み込まれて守られてばかりだった躰を両腕の中に収めて、初めて気付く。
自身とさほど変わらないと思っていたその体が、驚くほど細くて柔らかい、自分とは違う女性のものだということに一瞬戸惑ったが、それでもクラピカは強く抱きしめた。
守るように、縋るように、離れて行かないように、離さないように、二度と失わないように腕の中に閉じ込めて、彼は激情を燈した目で相手を睨み付けて宣言した。
「寄るな触れるな見るな関わるな!
ソラは、オレのだ!!」
* * *
「情熱的だねぇ♥」
ソラを抱き寄せて緋色の瞳で睨みつけながら、ソラが受け止めた木刀を取り戻して構えるクラピカを、ヒソカは相変わらず余裕たっぷりにニヤニヤ笑いながら眺める。
ヒソカとしては青い果実の恨みを買うという目的はこの時点で十分達成されたので、ここで無理にソラを襲ってクラピカを壊してしまっては、それはそれで楽しそうだがプラマイはゼロになって意味がない。
「そんなに、ソラの事が好きかい?」
ニヤニヤ嗤いながらヒソカは尋ねる。
普段なら羞恥で顔を赤くさせ、肯定も出来ないが否定も出来ずに狼狽えるという、ある意味では素直すぎる反応しか出来ないクラピカだが、血が昇った頭は自分の腕の中にソラがいることすら忘れて、誤魔化しも意地もない心の内を口から曝け出す。
「当たり前だ! 貴様がその名を口にするな!」
その答えに、クラピカに抱きしめられて拘束されてるソラの方が若干狼狽え、ヒソカはくつくつと笑いだす。
ソラの意外な反応だけでも十分面白かったので今日はもうここで退いても良いのだが、まだ服もほとんど乱していない、壁際に追い詰めていただけでここまでキレるクラピカを見ていたら、こちらももう少しからかいたくなってしまった。
「それなら、キミも一緒にシようか? 3「ぎゃーーーっ!!」そうだね♥」
「!?」
しかしヒソカの挑発なのか本気の提案なのか、どちらにしても最悪極まりない言葉の途中で無理やりソラが、色気の欠片もない悲鳴をねじ込んで話の内容を掻き消した。
抱き寄せていたせいで、至近距離からの絶叫にクラピカが一番ダメージを喰らったが、そのことを怒る前に大人しく抱き寄せられるままだったソラが暴れてクラピカの腕の拘束を解いて、そして彼の頭を抱え込んでヒソカの発言をシャットアウトしようとする。
「は?」
……自分の胸に、クラピカの顔を押し付ける形で。
「おや、羨ましい♥」
「お前は何言ってんだーっ! って言うか、クラピカまでそんな目で見るな! クラピカはそんなことしないもん! 絶対にしない!!」
クラピカまでそういう対象として見て、そして巻き込もうとしたのがそんなに嫌だったのか、自分が何をやらかしているかを指摘しているようなヒソカの発言は耳に入らず、涙目でクラピカがヒソカの発言を聞かないようにしながら文句をつけるソラ。
そしてクラピカの方は、ヒソカによってジッパーが下げられていたので、試験会場に向かう飛行船でのキルアのように、しかしキルア以上にがっつりと素肌と見せブラ越しの胸に顔が埋まり、ソラの自称よりしっかりあって柔らかいわ、風呂上がりなので良い匂いがするわという状況で、完全にフリーズしてしまっていた。
とにかく、性的な話題からクラピカを守ろうとするが、本人が一番ある意味セクハラをしている状況が面白すぎて、ヒソカは腹を抱えて笑い出す。
「くくっ♥ そんなに否定してやる方が可哀相じゃないかい? 男は物理的に溜まるんだから、どんな子でもシたい時はシたい、勃つ時は勃つ♦︎ なんなら今前屈みだし、ちょうど勃っ「今すぐ黙れ貴様!!」
笑いながら、フォローの皮を被った最低発言を重ねるヒソカ。
そしてソラの頑張り虚しく、流石に奴の発言を完全にシャットアウトは出来ておらず、最悪の風評被害が耳に入り、最悪が一蹴回ってフリーズ解除となり、自分の頭を押さえ込むソラの手を引き離してクラピカはブチ切れた。
「前屈みだったのはこの奇跡の大馬鹿者に押さえ込まれていただけだ!! 貴様と一緒にするな!!
それとソラ! お前は本当いい加減、自分の性別を自覚しろ!!!!」
「え、えっとごめんクラピカ! クッションない板に押さえつけて! 息、大丈夫だった!?」
ひとまずクラピカは、前屈みという体勢に下半身事情は関係ないと強弁し、ソラも勢いついでに叱りつける。
そしてソラはまだテンパっているのか、クラピカの怒り所とは無関係の部分を謝って心配して、更にヒソカを笑かしにかかる。
その爆笑がまたクラピカをイラッとさせて、こいつ殴りたいという衝動が沸き立つが、その衝動を押し殺してクラピカは優先した。
ソラの、ヒソカから引き離した時から、自分の頭を抱え込んだ時も、そして今も震える手を掴んでこの場から、ヒソカから逃げて離れることを。
「行くぞ!」
まだ赤みの強い顔と涙目でポカンとしてから、それでもソラはクラピカに手を引かれ、走る。
手の震えは、止まっていた。
ヒソカは逃げ出した二人を追うつもりはなく、飛行船の廊下でまだ笑ったままそれを見送った。
「残念♠ もし、気が向いたらボクも交ぜてね♥」
「「死ねぇーーーっ!!」」
挑発なのか本気なのか、やっぱりどっちにしろ最悪なことを言い出すヒソカに、ソラとクラピカのシンプルかつ切実な絶叫が夜の飛行船に響いた。
* * *
ヒソカから二人して逃げ出して飛行船のデッキにまでやってきてようやく、ヒソカのクソ最低発言によってクラピカの頭に上がっていた血は、完全に下がって怒りはひとまず収まる。
そうなると次に湧き上がってくるのは、当然ながら自分の言動に関する、羞恥と後悔だった。
(ああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!
わ、わ、私は何を言った!? よりにもよってヒソカと本人の前で私は何故、あんなことを言い放った!?)
数年前から意識して変えていた一人称が素の「オレ」になるほどブチキレて言い放った自分の発言が、クラピカの脳内でグルグル駆け巡って、数分前の自分が現在の自分を羞恥で殺しにかかる。
前半の「寄るな触れるな見るな関わるな!」だけなら、別に後悔も何もない。普通に親しい人間があんな変態に襲われかけていたら、誰だってあれくらい言うのは当然だろう。
問題は、後半。
「ソラは、オレのだ!!」と、自覚はしていたが見ないふりをして押し殺していた本音が、勢いよく飛び出てしまったことに、クラピカは頭を抱えて悶える。
しかもこの発言、ヒソカに対しての牽制というよりは、割とただの八つ当たりだったりするのがまた恥ずかしい。
ヒソカに対しても言いたかったのは事実だが、このセリフはどちらかというと、クラピカは自分とソラの間に何かと入り込んでくる、3年前の自分のポジションに収まっているキルアに対してずっと言いたかったことであり、同時にソラ自身にも言ってやりたかった発言であることも、実はちゃんと自覚している。
ただ単にあれはヒソカに対してキレたのではなく、やっと再会したのにあまり自分に構ってくれず、キルアやゴンばかりに構っていたソラに対しての苛立ちが爆発したに過ぎない。
下手したら3年前より子供っぽい嫉妬をしていた自分を殺してやりたい中、クラピカは何とか声を絞り出して振り返る。
「そ……ソラ! さっきの、あの発言は……」
もうどう誤魔化したらいいかもわからず、だが弁解しないと自分が悶え死ぬ、いっそのことその眼で殺してくれと迷走したことを考えながら振り返った先で、クラピカが見たものは……
「…………死にた……くはないけど、……今すぐ穴掘って千年くらい埋まりたい……」
「何をしてるんだお前は!?」
両手で顔を隠してその場で土下座のような体勢で突っ伏して、自分以上に羞恥で悶えているソラだった。
一瞬「どうりで静かだと思った」と、冷静なのか混乱してるのかよくわからない納得をしてから、クラピカは亀のようにその場に縮こまっているソラを揺さぶって声を掛ける。
「ソラ!? どうした!? 何を恥ずかしがっている!? あの程度で恥ずかしがるくらいなら、いつもそれくらいの恥じらいを頼むから持っていろ!!」
「……いつもエアブレイカーですみません」
クラピカの発言に、反省なのかボケなのか不明なことを言いつつも、ソラは両手で顔を隠したまま突っ伏し続ける。
自分も恥ずかしさで悶えていたのだが、ソラが珍しいどころか、クラピカの記憶上初めて自分の言動を恥ずかしがって、それもクラピカ以上に悶えているのを見れば、またしても逆にクラピカは冷静さを取り戻す。
一番自分の発言を気にしてほしくない、忘れていて欲しい本人が、こっちもこっちで何故か悶えてそれどころじゃない為、ホッとしたのも多大にあるが。
「……クラピカ」
悶えるソラには悪い安堵をしていた所で、ようやく床に突っ伏すのをやめたソラが起き上がり、クラピカの服の裾をつまんで言った。
「ううぅぅ~っっ……、何ていうか……本当、情けなくてごめん。情けないとこばっか見せてごめん。……それから、来てくれて、助けてくれてありがとう」
未だ頬の紅潮は残ったままで、目も泣きこそはしていなかったが、終始半泣きだったので充血している。
それでもはにかんで笑って告げたソラに、クラピカの心臓が跳ね上がる。
『つーかさぁ、クラピカお前、あいつの事は姉として好きなのか? 女として好きなのか?』
『そんなに、ソラの事が好きかい?』
二人の別人の口から尋ねられた問いが蘇るが、同時にパニクったソラのやらかしも思い出してしまい、せっかく引いた熱が顔に集まってゆくのを感じながら、その記憶ごと二人の問いを考えない、見えない、頭の隅に追いやる。
この愛情に名前などない。なくていい。そう、自分に言い聞かせて。
名前を付けてしまえば、何かを得る代わりに何かを失いそうだから。
だから今はまだこのまま、曖昧なままであることを望み、選んだ。
それは愚かな、悪あがきであることくらいわかっていた。
それでも、選んだ。
「べ、別に大したことなどしていない! あんな変質者の見本のような男に追い詰められていたら、誰だって助けて当然だろう!
それと、ソラ! お前は本当に自分が女であることを自覚しろ! 自己防衛しろ! 女性蔑視をするつもりはないが、女性は女性というだけで、いくら気を付けて警戒してもし足りないことぐらい知っているだろう!!」
そんな自分の迷いと甘えを誤魔化すように、クラピカはとにかく思いついたことを言いまくっていたら、自然と説教になってしまった。
シャワー室に行く前、ツナギをおもむろに脱ごうとした時と同じような内容を、またしてもくどくど語りだすが、今度の説教ではソラは不満そうに口を挟むことなく、むしろ神妙そうにクラピカの前で正座して聞いていた。
そんなこれまた初めてな反応をしていることに気付いたクラピカが、思わず説教を中断して素で、「ソラ? どうした? 具合が悪いのか!? あいつに、ヒソカに実は何かされたのか!?」と今度は心配をし始める。
「……ふざけてないと、私は具合が悪いと思われるのか」と、ソラはさすがに少しショックを受けたように呟くが、「事実だろうが」とこれまた素でクラピカに返されて、反論を失う。
代わりに少し頭を抱えて悩んだ様子を見せてから、彼女はまたクラピカの服の裾をつまんで俯いたまま訊いた。
「……あのさ、クラピカ。……変、じゃない?」
「? 何がだ?」
「………………もう10代でもない私が、……変態とか痴漢とかに対して、その……警戒したり、すぐにパニくったりするの……じ、自意識過剰でうざくない!?」
「…………はぁ?」
ソラの言っていることの意味がわからず、これ以上なく「訳わからん」という思いを代弁した声が出た。
真っ赤な顔と蚊の鳴くような声、そして今にも泣きだしそうな顔で何を言うかと思ったら、クラピカからしたら「何故そうなる?」としか言いようのない心配をソラはしていた。
「……もう10代じゃないとはいえ、お前はまだ今年で21だろう? 十分そういう輩に狙われる年頃だろうが。
何もしていない異性を変質者呼ばわりして、騒ぎ立てるのならともかく、露出を控える、夜遅くまで独りで出歩かないぐらいの警戒と防衛は、
「……で、でもさ! でもさぁ!!」
困惑と呆れ半々で、ソラの問いに自分の考えを答えてやれば、ソラはまだ不安そうに泣きそうな顔でとんでもないことを言い放った。
「20代にもなって経験なくてセクハラ程度でパニクって狼狽える女なんて、カマトトぶりっ子でうざくない!?」
「何を言ってるんだお前は!?」
盛大に自分が処女であることを何故か暴露した挙句に、それをさらに何故か「恥」だと思っているソラの口をクラピカは手で塞いで、これ以上バカなことを言い出さないように止める。
同時に、ヒソカの発言で半泣きで騒いでいた時、実は気になっていた疑問を思い出す。
クラピカの知るソラは、ヒソカのような本気でドン引くようなことは言い出したりはしなかったが、自分から下ネタや逆セクハラを唐突にやらかしてくる、うざい冗談程度でそういうのを好む人間だった。
そしてヒソカのような最低極まりない、もはやセクハラではなく性暴力と言っていい発言を投げつけられても、暴力で撃退はしていたが、今回のように混乱などしていなかった。
思い出したくもない自分と離れるきっかけこそ、まさしく先ほどのヒソカと変わらない状況だったが、あの時のソラはむしろクラピカの為に穏便に済ませようと、適当な言葉であしらっていたぐらいに、余裕そうに思えた。
どうしても過去やハンター試験中の言動と、ヒソカのセクハラに関しての過剰反応が、クラピカの中で繋がらない事に加え、今度はまさかのまだ二十歳で未経験なのを恥だと思っている発言は、もうクラピカでなくとも訳が分からない。
「お前はいったい何なんだ!? お前の貞操観念はいったいどうなってるんだ!?」
「そんなん私が一番訊きたいわ!!」
「誰にだ!?」
クラピカが至極当然な突っ込みを入れると、ソラが自分の口を塞いでいた彼の手をはがして、盛大に逆ギレた。
が、もうパニクるところまでパニくったら少しは落ち着いたのか、未だに顔は赤いままだがソラは、「ごめん。訳わかんないこと言い過ぎた」と素直に謝る。
今度はあまりの素直さに、クラピカが戸惑う。その戸惑いを見てソラが、自分の頭を掻きまわして、「あー」だの「うー」だの何度か呻いてから語りだす。
「クラピカ。昔さ、魔術について少し教えたでしょ?
『魔術回路』については、覚えてる?」
唐突に変わる話に首を傾げながらも、先ほどからの話は正直続けたい話題ではなかったので、クラピカは記憶を掘り出して答えた。
「魔術に必要な魔力を精製する炉心であり、魔術を起動させる回路でもある、魔術師だけが持つ疑似神経だろう?」
「うん、そう。で、疑似とはいえ魔術師にとってこれはもう、完全に内臓とか血管とか神経の一部であることも話したよね?
……それでさ、魔術回路が体の内臓とかの一部の所為か、魔力って魔術師の体液に主に宿るというか溶けてるというか……、うん、とにかく魔術師の体液=魔力そのものって思っても、別に間違いじゃないんだよね」
「? 体液ということは、血液のことか?」
クラピカの答えを正解だと言いつつ、さらに補足をするソラの言葉にクラピカが質問すると、ソラはまた項垂れて両手で顔を覆った。
「……うん、そうだけど……それだけじゃなくて本当に体液全般なんだよ。涙とか汗とか……唾液とかその他もろもろ……。
……だからね、その……うちはそういうのなかったんだけど、使わなかったんだけどね、魔術にはその……多いんだよね。………………魔術儀式の中に、性行為が含まれるのが……」
「…………………………………………………………………………………………は?」
長い沈黙の後、クラピカから発することが出来たのは、それだけだった。
「……マジでその、魔力は体液全般に含まれるからさぁ、魔力が不足してる相手に自分の魔力を供給する時とかは、それが本当に効率がいいんだよ。黒魔術とかはもう、そういう系統がオンパレードだしさぁ……。
あのさ、本当にうちはそういう魔術儀式全然ないんだよ? ないのに、『まぁ一応、魔術師にとしての、常識と嗜みとして』くらいのノリで教えられるくらい、魔術師としてはそういうのは、儀式として割り切るのが普通の価値観なんだよ……」
顔を隠してボソボソと、ソラはさらに続きを語るが、赤くなった耳が隠しきれていない。
そしてクラピカの方は、ソラのように両手で顔を隠すことも出来ず、真っ赤な顔のまま再度フリーズしている。
互いに顔を真っ赤にさせたまましばし沈黙が続いて、ソラが絞り出すような声で、指の隙間から涙目でクラピカを見て訊いた。
「そんな価値観の社会で生まれ育った私に、まともな貞操観念や価値観があると思う?」
あんな話をされて、そんな目で言われたら、もうクラピカに言えることは一つしかない。
「すまない。私が悪かった。ソラは何も悪くない。
ついでに言うと、ソラの不安は全て杞憂だ。うざくないし、カマトトなんかじゃない。…………け、経験がないことも恥じゃない。むしろ、婚前交渉を恥じろ」
ソラの肩を掴んで、とにかく今まで痴女呼ばわりしたことを本気で謝り、同時にソラに正しい価値観を教え込んだ。
正直、クラピカ自身でも自分の価値観や貞操観念は、世間一般より堅苦しいとは思っているが、ソラの……というより「魔術師」としての価値観よりは、はるかに一般的でまともだろうからそれをゴリ押した。
「……本当?」とうるうるした藍色の眼で念押しされ、若干自分の価値観を押しつけていることに胸が痛んだが、ここで言い切っておかないと、「性行為は大したことがない」という魔術師の価値観の所為で、あの変態に押されて流されそうな危うさがあったので、クラピカは真顔で「本当だ」と言い切る。
クラピカの言葉に安堵したのか、ようやくソラは自分の瞳に浮かべていた涙をぬぐって「良かった」と言い出した。
クラピカの方も納得してもらえたのは良いのだが、ここで素直に納得したということは、彼女は本心から、「魔術師としての価値観」を好んでいなかったということになる。
むしろ喜んで納得していることといい、ヒソカのセクハラに対してのパニック具合といい、彼女の貞操観念はどちらかと言うとクラピカに近い、潔癖で固い方ではないかと思える。
「ソラ。お前の貞操観念は、本当にどうなってるんだ? ゆるいのか固いのかが、私にはめちゃくちゃに見えるんだが?」
根掘り葉掘り訊くのはどうかと思ったが、それでもこのちぐはぐな価値観は解明しておかないと、またあの変態の餌食になりかねないのでクラピカが尋ねると、ソラは言いたくなさそうに顔を歪めた。
それでもまっすぐにクラピカがソラを睨み続けていると、根負けしたようにため息をついてまずは訊く。
「……笑わない?」
不安げというより、どこか拗ねたように尋ねるソラに、クラピカは呆れたような顔をして、逆に訊きかえす。
「さっきまでの話を聞いて、お前が真っ当な貞操観念を持つ理由を喜びこそすれ、何故笑わなくてはならない?」
クラピカからしたら至極当然な疑問であったのだが、ソラには不満らしく「いいから! 笑わないって約束して!」と、珍しくクラピカに強要した。
強引ではあるが相手を尊重するソラの珍しい言葉に、クラピカは面食らいつつ「わ、わかった」と返答。
言われるまでもなく、ソラがいつものように受け狙いでふざけて言ったことならともかく、真面目に話したことを笑うつもりなど当然なかったし、ソラの方もクラピカがそんなことしないと、きっと誰よりもわかっているだろう。
それでも彼女からしたら、言質が欲しかったくらいに恥ずかしい内容らしく、クラピカから返事をもらっても、ソラは言いたくなさそうに唇をとがらせていたが、しばらくして観念したように話し始めた。
* * *
「……私にはさ、仲のいい友達がいたんだ。魔術師じゃなくて、一般人の」
正確に言えば頭にヤのつく職業の家の子だわ、過去視と読心でも出来るのかと思うくらい、人の過去や本質を見透かす万能感を持っているわと、全然その友人は一般人とは言えなかったが、魔術師からしたら「一般人」のくくりになるし、何よりそこまで説明する必要も意味もないので、そのままソラは話を続ける。
「で、その子の両親はおしどり夫婦の見本かってくらい仲が良くて、別にいちゃいちゃなんかしてないのにラブラブで、互いに信頼し合ってんのが一目でわかるような夫婦だったんだ。
母親は美人なんだけど、ぶっきらぼうで無愛想な人で、自分の旦那に対して一見冷たく見えるんだけど、少しよく見てたらすぐにわかるくらい、旦那が好きで好きでたまらない人だったんだ。自分の実の娘と旦那がベタベタしてたら、頬膨らませて拗ねるくらいに。
父親の方は普段すっごくおっとりしてて、温厚とか善人と言えばこの人って感じの人だったんだけど、その人、結婚前に奥さんが原因で足に後遺症が残るくらいの大けがして、片目も失ってるのに、それを全く気にせず、恨むのはもちろん恩にも着せないで、ただ当然のことのように受け入れて、自然にずっと笑っていられるような人だったんだ」
「……父親の方は聖人か?」
よくわからない話の出だしだが、話の腰を折るのは悪いので黙って聞いていたクラピカだったが、さすがに父親の人間性に驚いて、思わず率直な感想が口から出た。
クラピカの感想に、「それに限りなく近い、普通の人だよ」と、ソラは懐かしむように笑いながら、否定なのか肯定なのかよくわからない答えを返す。
クラピカからしたら、ちょっとそのあたりを詳しく聞きたかったが、ソラは話の本筋にその父親の人間性はあまり関係がないので、話をさっさと元に戻す。
「まぁ、そんな理想の夫婦って感じでさ、私の両親は愛情なんかはじめっから皆無、魔術師としては普通、人としては破綻しきった夫婦関係だったから、ずっと友達の両親がうらやましかったんだよね。
でも、憧れてはいなかった。あんな旦那は私には手に入らないし、あんな可愛い奥さんになんかなれない。あんなおしどり夫婦に、相思相愛の関係なんか築けないって思い込んで、すごいなー、いいなーとは思っても、あんなふうになりたいとは、一度も思わなかったんだ。
……親のことが嫌いで、魔術師も魔術そのものも軽蔑してたくせに、私の価値観は魔術師のものだった。恋愛観なんかない、結婚は家と家の結びつきで、子供は魔術刻印を引き継がせるために作るもの、性行為は魔術の一環。
愛だの恋だの、そういう優しくて綺麗なものは普通の人のもので、魔術師には必要ない、あってはいけない、得られるものじゃないって思い込んで諦めてたんだ。まだ、10歳にもなっていない時からね」
寂しげに笑って語るソラが見ていられなくなり、クラピカは俯いて「……そうか」と絞り出すような相槌を打つ。
つい先ほども、そして3年前にも性に関してのこと以外は聞いていた、最低極まりない魔術師としての価値観。
その価値観に染まりきることも出来なかった、なのに「普通」も知らなかったソラが、どんな思いで友人の両親を見ていたかなんて、クラピカは想像したくなかった。
一番、果てしない夢を本気で信じて望む年頃に、ささやかなのに自分には手に入らないと思い知らされ、諦めるしかない緩やかな絶望など、想像できなかった。
「……そんな感じで思い込んで諦めてたんだけどさー、家族が全滅してジジイの弟子に何故かなって、でもジジイが一人勝手に世界も時代も越えてどっか行くから、姉弟子に預けられたときにさ、出会っちゃったんだよ。
預けられたところとは別の姉弟子と、その恋人に」
クラピカが想像できない、けれどどこまでも苦い感情に胸の内が締め付けられていたところで、ソラは急に声のトーンを若干だが変えて、続きを語る。
どこか寂しげだったのが、ちょっとうんざりしたような、うざそうな声音になったことに、クラピカの方も少し不穏なものを感じながら、彼は顔を上げて聞いた。
「……その二人は私と同じ魔術師なんだけど、もーこれがまた友達の両親とは違って、正統派バカップル。あっちは当時10代の恋人なんだから、当然っちゃ当然なんだけど。
さすがに人前でイチャイチャラブラブとかはしなかったけど、うっかり二人っきりの所に鉢合わせたら、すっげー気まずい思いするぐらい隙あらばイチャついてたし、なんか何気ない会話でも、自然にサラッと惚気が入るし、ただ二人がそこにいるだけで周りの空気がピンク色に見えるし、もう私は何度砂糖吐いたか……」
「……そ、そうか。大変だったな」
やたらと遠い目をして語るソラに、クラピカは先程と同じ相槌に、本心からの感想も付け加える。
その感想にソラは真顔で、「うん。大変だった」と言ってから笑った。
「大変だったけどさ、その二人を見てやっと私は、うちの親に押し付けられてた魔術師としての価値観から抜け出せたんだ。
あの二人はなんか色々特殊で、生粋の魔術師としての価値観を、初めから持っていなかったってのもあったけど、それでも二人のおかげで私は、魔術師でも恋だの愛だのにうつつを抜かしてもいいんだって思えてさ、友達の両親みたいな夫婦に憧れて、なりたいって思ったんだ。
…………思ったんだけどさぁ……」
いつものように楽しげに笑って語っていたのが一転して、ソラは急に両手で顔を隠してその場にしゃがみ込んで、またクラピカを困惑させる。
そして顔を隠したまま、小声でボソボソ呟くように語った。
「何ていうかさ、何ていうかさぁ……、私、さっきも話した通り、性行為が魔術の一環なんてよくあることだからさ、ウチの魔術はそんなんじゃなかったけど、もう魔術師として当然の常識というか嗜みぐらいの感覚で、経験ないくせに魔術の勉強の一環で、ひたすら生々しくてえげつない性知識を教えられてきたし、面倒くさいなーくらいにしか思わないで、普通に勉強しちゃったんだよ。
で、魔術師と一般人は全然違うって思い込んでた時は別に良かったんだけど、魔術師でも普通の恋愛してもいいって思うようになってからさ……、どう言い繕っても恋愛と性行為は結びついちゃうものじゃん? それが生物として当然じゃん?
でも私、一般人と魔術師は違うって思い込んでたから、逆に一般人よりも遥かに、恋愛とか結婚に夢持ってんだよ。幻想を抱いちゃってるんだよ。
現実は綺麗事だけじゃないことはわかってるよ。わかってるけどさ、夢ぐらい見てもいいじゃん。だって友達の両親が理想の実例なんだもん。なのにさ、持ってる知識はアレなわけでしょ?
夢見てんのに、私の知識はもうアレな訳よ……。
普通って何? 何で私の知識は薬や道具、複数人とかがデフォルトなの? 普通の基準を知りたいけどさ、魔術師に訊いても意味ないし、一般人に訊けるわけないじゃん?
だからさ……だからさぁ…………」
「わかった。ソラ、だいたいわかった。わかったから落ち着け」
しゃがみこんだ全身を、さらに小さく身を丸めて縮こまりながら、泣き出しそうな声で弁解じみたことを怒涛の勢いで言い続けるソラの肩をゆすって、クラピカは止める。
止めつつ、ようやく逆セクハラを平然とかます癖にセクハラされることに弱い、そして何故か処女であることを恥じるソラの、ちぐはぐな貞操観念にクラピカは納得する。
端的に言ってしまえば、この女は耳年増なのだ。
しかも好奇心で自分から好んで得た知識ではなく、事務的に知識だけを、それもマニアックかつアブノーマルなものばかり詰め込まれた、特殊すぎる耳年増で、ソラの本質的な性に対する価値観はごく真っ当か、普通よりも潔癖で純なくらいだろう。
潔癖で純で恋愛に夢を持っているのに、「友人の両親」という具体的な理想があるというのに、そこに至る過程に必要な知識はおおよそ一般的ではなく、彼女自身の価値観とは合わない生々しくてえげつないもの……。
なおさら、性に関する話題が苦手になる訳である。
ついでにソラは自分を女性として扱われることを妙に苦手としており、そこもまた話をややこしくさせる一因だろう。
今までの言動からして、どうもソラは恋愛に夢を持っている事や、性に関する話題が苦手という、「女らしい」部分を見られ、知られたことを異様に恥ずかしがっている。
おそらくこれは普通に彼女自身の性格というのもあるが、「性交は魔術儀式の一種であり、恥ずかしいものではない」という魔術師としての価値観の弊害でもあるのだろう。
理屈ではそれがおかしいとは分かっていても、恋愛に夢を抱いて性に関する話題や知識を恥ずかしがる自分は、ソラにとってはカマトトやぶりっ子のように思えて、これもこれでどうしようもなく恥ずかしくて他人に知られたくない一面となり、その一面を見られたくない、気付かれたくないという思いから、ソラは時々先制攻撃と言わんばかりに逆セクハラをやらかしているのだろう。
逆効果もいい所だというのがわかっていないあたり、本気で彼女に耐性がないのがよくわかる。
ついでに、過去ではセクハラをあしらえていた理由は、この魔術師の価値観による虚勢だったこともわかったが、今度は逆に何故ヒソカ相手だと、その魔術師としてのガードが貫通どころか木っ端微塵となったのが疑問となる。
だがそれを問うのは、所謂セカンドレイプであることも理解している為、クラピカはその疑問をぶん投げながら、「あいつ絶対いつか殺す」と決心した。
「……ソラ。もしかしてお前がやらかす逆セクハラは、実は羞恥の限界いっぱいいっぱいでやらかしていたのか?」
「…………イエース……」
宥めて少し落ち着いたソラに、ヒソカに関しては気を遣ったが、こちらはどうしても確認がしたくて、悪いと思いつつクラピカが訊いてみると、おどけてないとやってられないくらい恥ずかしいのに、おどける気力が出ないくらいに恥ずかしいのか、なんとも微妙なテンションで、ソラは蚊が鳴くような声で返事した。
その返答に、思わずクラピカは吹き出した。
「! 笑わないって約束したじゃん!!」
顔どころか首まで赤くしたソラがようやく顔を上げ、涙目で約束を反故にしたクラピカを責めるが、限界に達していたクラピカは腹を押さえて、こみ上げる笑いを何とかしようと努力するが、それは徒労に終わる。
「いや……すまない……。本当に……すまない……ふふっ」
本気で悪いと思っているのだが、クラピカはこみ上げる笑いを押さえきれずにいた。
クラピカも性に関しては堅物で潔癖な部類なので、別にソラのこの一面をバカにする意図は一切ない。
むしろ好ましいし、色々安心したくらいである。
知る前までは頭痛の種だった逆セクハラも、あれが彼女の口にあげられる下ネタの限界ラインだったと思えば、むしろ可愛らしいくらいに思えた。
3年前からずっと遠かった、ずっと自分よりいつも余裕たっぷりな「大人」だと思っていたソラの、自分に近くて純粋で幼くて、あまりに未熟な部分を知れたことが嬉しくて、その自分の未熟さに、ソラも振り回されるという事がどうしようもなくおかしくて、愛おしくて、クラピカは笑い続ける。
が、ソラは「あぁ! もうっ! どうせこんなの私のキャラに合いませんよ! カマトトぶって悪うございました! もういっそ我慢せず爆笑しろ!!」と誤解して、本格的に拗ね始めたので、さすがにその誤解は解こうと何とか笑うのをやめる。
「いや、すまない。本当に悪かった。だが、ソラに合っていないとか、カマトトだとか思った訳ではない。そんなことは一切、思ってない。
むしろ女性らしくて……いや」
拗ねてそっぽ向くソラに、フォローの言葉を掛けようとするが、クラピカは少しだけ考えなおして言い直す。
悪気はなかったとはいえ、バカにしてるつもりは本当にないとはいえ、彼女が見せたくなかった部分を教えて、見せてくれたのに笑ってしまったことは本気で申し訳なく思っているから、誠意のつもりで。
同時に、なんとなく、本当に何気なく言いたくなったから。
ヒソカを前にした時の、勢いだけで言ってしまった八つ当たりではなく、自分の意思で素直に、本音を言葉にしたいと思ったから。
「むしろ、少女らしくて可愛いくらいだ」
もう「少女」と言い表すのは、失礼な歳であることはわかっている。
それでも、クラピカにとって友人の両親を「理想」として、「恋愛」に夢見て焦がれているのに、生々しい「性」に振り回されて狼狽えるソラは、大人と子供の狭間、思春期の少女そのもので、実に微笑ましくて可愛らしいと感じ、それを素直に伝えたいと思った。
追い越せないはずの年の差が縮まったようで、並び立てたような気がして、嬉しかったから。
「ぴゃっ………………」
クラピカの珍しすぎる素直さに、ソラは小鳥のような声を上げて、また真っ赤にした顔を両手で押さえて狼狽える。
その様子は誰がどう見ても、クラピカの言う通り幼くて無垢で微笑ましくて可愛らしい、ただの「少女」でしかなかった。