チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
自分には何もない。そう平尾龍は認識していた。
これは十九年ぶんの観測から導き出した結論であって、感傷でも誇張でもないというのが本人の言い分だった。実際、数え上げるのは簡単な作業だ。
運動神経は体力測定のたびに下から数えたほうが早く、容姿については黒縁眼鏡の奥の目つきが悪いと小学生の頃から言われ続けている。地頭も平凡で、模試の解説を三度読み返してようやく他人の一度ぶんに追いつく程度でしかない。人を楽しませる話術も、隣にいるだけで誰かを安心させる性格も、龍には最初から搭載されていなかった。
そして、その欠落の中でも決定的だと龍が考えているものが三つある。
コミュニケーション能力、社会性、善性。
この三つは人間が人間として扱われるための必須部品であり、自分にはそのどれ一つとして入っていない、というのが龍の自己診断だった。だから彼は自分を人間ではなく欠陥品と呼んでいる。外形だけは人間の形をしているが、中身の一番重要なところが抜け落ちたまま出荷されてしまった不良品だと、そう定義している。
その診断の根拠になった光景を、龍は二つ覚えていた。
一つは中学二年の教室だ。机ごと後ろへ倒され、床に散らばったノートを龍が黙って拾い集めていたとき、隣のクラスの生徒が輪の中へ割って入ってきた。そいつは龍と仲が良かったわけでもなければ、正義感を売りにするような性格でもなかったが、次に標的になるのが自分だと理解した上で、それでも間に立った。
その予想は実際に当たった。翌週から嫌がらせの矛先は半分ほどそちらへ流れ、それでもそいつは龍に一度も文句を言わなかったし、被害者同士で慰め合おうともしなかった。
後日、どうしてあんなことをしたのかと龍は聞いた。返ってきた答えは短かった。
「見てるのが嫌だっただけ」
理念でも信条でも自己犠牲でもなく、ただ不快だったから体が動いたというだけの話だった。龍が何年かけても手に入れられなかったものを、そいつは考えもせずに使い、使ったことすら翌日には忘れていた。その事実は、殴られた記憶よりもずっと長く龍の中に残っている。
もう一つは母親だった。父親は龍が物心つく前にいなくなり、母は昼と夜で職場を変えながら龍を育てた。模試代も、参考書代も、予備校の夏期講習代も、一度たりとも渋られたことがない。
その裏で母が何を削っているのかも、龍は全部知っていた。冬に同じコートを六年着ていることも、奥歯の治療を三年先送りにしていることも、健康診断の再検査通知を封も切らずに引き出しへ放り込んでいることも、気づかないふりをしながら全部見ていた。
自分なら、同じことはできない。龍はそう確信していた。
◇
もっとも、龍とて何もしなかったわけではない。
善性が生まれつき備わっていないのなら、外側から反復して埋め込めばいいのではないか。中学生の龍は本気でそう考えたし、考えただけでなく実際に手を動かした。
河川敷の清掃活動、フードバンクの仕分け、児童館での学習支援、高齢者施設の配膳補助、駅前に立っての募金。予定表へ書き込んだ活動を、龍は三年間で一度も飛ばさなかった。
作業の精度は誰よりも高かった。集合時間の十五分前には到着していたし、指示された手順は一度で覚えたし、他人が雑に済ませる部分ほど丁寧に処理した。無愛想だが真面目な子、というのが周囲の評価で、龍はその評価が定着するように振る舞いを調整していた。
ただ、内側には何も生えてこなかった。
礼を言われても嬉しくならず、助かった相手の顔を見ても安心せず、困っている誰かを見つけても、助けたいという衝動が湧いたことは一度もない。龍を動かしていたのは常に判断であって、感情ではなかった。
一番つらいのは活動後の交流会だった。笑うべき箇所も相槌の間隔も知識としては覚えたが、覚えたものを一つずつ出力しているだけなので、三十分も続けば頭の中が焼き切れて、帰り道は言葉が一つも出てこなくなる。
三年続けて、龍は結論を出した。善い行動は反復できるが、善性は反復しても育たない。上達していたのは演技の精度だけで、要するに自分は年々、より上手に人間の真似をする欠陥品になっていっただけだった。
◇
善性は努力では取得できない。コミュニケーション能力も社会性も、何年かけたところで龍が望む水準には届かなかった。
ならば残るのは、努力と時間だけで交換できる価値だけになる。龍が選んだのは学歴だった。
東京大学理科三類へ合格して、医師になる。
好かれなくても、会話が続かなくても、他人の痛みに共感できなくても、目の前の人間の命を延ばす技術さえ持っていれば社会は自分に用途を認めるはずで、その用途を国家資格という誰にでも読める形式で提示できれば、社会は自分をそう簡単には廃棄できなくなる。人間性を持てないなら有用性を積めばいい──それが十四歳の龍が立てた、自分を生かしておくための唯一の計画だった。
一日十六時間。
授業も、移動中も、食事中も、風呂に入っている時間も含めた総量で、休日は机に向かっている時間だけで十六時間に届いた。友人も、青春も、睡眠も、その計画のために順番に投げ捨てていった。
誤解されがちだが、龍は勉強が好きではない。眠りたいし、遊びたいし、動画を延々と眺めていたいし、本音を言えば何もしたくない。椅子に座るたびに逃げ出したくなり、実際に何度も逃げかけている。
それでも龍は、その本能を毎朝殴り倒して机の前へ座らせ続けた。三年半、ほぼ毎日、一日も誇らしく思わないまま。
本人はそれを勤勉さと呼ばない。勤勉というのは机に向かうことが苦にならない人間の性質を指す言葉であって、自分がやっているのは怠惰なクズを暴力的に管理しているだけだ、というのが龍の理解だったからだ。だから積み上がった十六時間は一度も誇りにならず、ただの必要経費として消えていった。
母には一度だけ、こんなに勉強しなくていい、と言われたことがある。龍は「大丈夫」とだけ答えて部屋へ戻った。大丈夫ではなかったが、それを説明する言葉を龍は持っていなかった。
◇
二〇二六年三月十日。
机の右端には、早稲田大学の合格書類が封筒に入ったまま置かれている。母はそれを見て、早稲田でも十分すごい、と何度も言った。
龍自身、早稲田が難関大学であることは理解していたし、そこへ進んだところで人生が終わるわけでもないと理性では分かっている。だが龍が欲しかったのは進学先ではなかった。四年半かけて自分を削り取って提出した答案に対して、お前は人間として合格だと書かれた通知が欲しかっただけだ。
正午、ノートパソコンで東京大学のサイトを開き、受験番号を探した。
ない。
ページを更新し、番号を打ち直し、科類を確認し、それでもまったく同じ結果が出るのを四回見た。
コミュニケーション能力も、社会性も、善性もなかった。だからせめて、学歴だけは。
落ちていた。
龍は泣かなかった。母には電話で「駄目だった」とだけ伝え、母が息を吸う音がして何か言おうとしたのが分かったので、その前に通話を切った。慰められてしまえば、自分がそれを受け取れる構造になっていない人間だとはっきりしてしまう。
そこから先の準備を、龍は驚くほど事務的に進めた。恐怖もなく、高揚もなく、劇的な感情も何一つ湧かないまま、必要な作業として一つずつ片付けていく。この四年半で一番冷静かもしれないな、と他人事のように思った。
遺書は書かなかった。謝罪を書けば許されたがっているようで気持ちが悪いし、感謝を書けば自分にも善性があるように読めてしまって不正確だ。書かないのが最も誠実で正確だと、龍は判断した。
◇
実行の直前、右手に異常が起きた。
痛みではない。熱でも痺れでもない。ただ、そこに何かが追加されたという認識だけが、疑いようのない事実として頭の中へ置かれた。
名前も分かった。
【電脳神の右手】
龍はまず幻覚を疑った。死のうとしている人間が都合のいい妄想を見るのは心理学的にありそうな話で、むしろ自分の脳がその程度には生き残りたがっているという事実のほうが不愉快だった。
確認のために、龍は机の上のスマートフォンへ右手を伸ばした。指先が触れた瞬間、疑いは終わった。
説明書は必要なかった。触れた機械の構造も、権限の階層も、通っている経路も、そこへ出せる命令の範囲も、母語の文章を読むより自然に理解できる。画面のロックが外れる、といった程度の話ではない。この端末に対して、龍の命令はOSより上位にあった。認証も暗号も安全装置も、龍の命令の下でだけ動く部品でしかない。
試しに、通常なら絶対に成立しない処理を一つ命じた。
成立した。
◇
龍が真っ先にやったのは、東京大学のシステムへ触れることだった。
合格者の番号を書き換えるためではない。本当に自分が落ちたのかどうかを確認するためだ。
採点ミスがあったのではないか。答案が取り違えられたのではないか。面接で不当に低く評価されたのではないか。誰かの悪意が働いたのではないか。そういう理由が一つでも見つかれば、この四年半は殺されたのであって負けたのではないことになる、と龍は期待していた。
結果は、正しかった。
面接の評価は確かに低い。対人応答が乏しい、志望動機の説明が具体性を欠く、医師としての適性に懸念が残る。読んでいて笑えるほど的確だったが、その一項目だけで即座に切られたわけでもなかった。
そして学力試験の点数を見た瞬間、龍は椅子の上で止まった。
異常なほど健闘していた。地頭も凡庸で、勉強そのものが嫌いで、何度も逃げ出しかけた怠惰なクズが、本能へ逆らい続けて積み上げた数字は、理科三類の合格最低水準のほんのわずかに下にあった。誰かに恵まれたわけでも、まぐれが出たわけでもなく、四年半ぶんの十六時間がそのまま点数として並んでいた。
不正はない。誰も悪くない。努力も、無意味ではなかった。
世界へ突き立てた刃は、確かに届きかけていた。届きかけて、あと少しだけ足りなかった。それだけの話だった。
龍は画面を見たまま、声にならない泣き方をした。呼吸だけが引きつって喉の奥で空気が鳴り、涙で眼鏡のレンズが曇って数字が滲み、口を開いても声は出ないまま肩だけが勝手に上下する。画面の向こうには、冷静な数字だけが残っていた。
書き換えることはできた。今この瞬間、その番号を合格者一覧へ足すことも、点数を一点だけ上げることも可能で、誰にも気づかれない。
龍はしなかった。
それで受かっても、俺が受かったことにはならない。証明されるのは、この右手が東京大学より強いという事実だけであって、平尾龍という人間の価値は一ミリも動かない。
◇
泣き終えたあと、龍は投げやりに決めた。
もういい。所詮クズはクズだ。人間になれないなら、せめて楽をして生きてやる。
彼が開いたのは、普段から使っていた対話AIのアプリだった。この時点ではまだ、市販の、ごく普通のAIである。
「身元を明かさず大金を稼ぐ方法」
返ってきたのは、法人の設立、セキュリティ企業への就職、専門家への相談、正規の脆弱性報奨制度の利用といった、模範的で健全な回答だった。
「目立ちたくないって書いただろ」
「会社を作れじゃねえんだよ」
「匿名でできるのを出せ、オンボロ」
AIは丁寧に前置きを謝罪してから、匿名の脆弱性研究者として報奨金を受け取る道がある、と答えた。方向としては正しい。ただ、このAIの処理能力では龍が必要とする規模にまるで追いつかなかった。
龍は画面へ右手を当て、演算資源の割り当てを一時的に引き上げた。恒久的な改造ではなく、蛇口を全開にしただけの措置だが、それでも十分すぎる。世界中のシステムを参照させ、未報告の脆弱性を報奨金額の高い順に並べさせる。
数十秒で一覧が出た。数千万円級の案件が複数、誰にも触られないまま放置されていた。
最初の約二千万円は、実在する報奨制度を通じて正規に受け取った。これは犯罪ではない。問題は身元確認と受け取り口座のほうで、まともに手続きを踏めば平尾龍という名前が必ず紙の上に残ってしまう。
だから龍は、金融システム上は完全に有効でありながら、現実には名義人の存在しない受領用の口座を成立させた。合法な口座ではない。電子的な偽札に近いものだと、龍自身も理解していた。
二千万程度ならいけるか、と考えたところで、龍はふと手を止めた。
「いや、これ俺を追えるのか?」
金の流れも、通信記録も、監視カメラも、捜査に使う端末そのものも、すべては電子の上を通っている。そしてその電子は全部、この右手の下にあった。
「まあいいや。一億円」
残高が一億円になった。
◇
原始時代であれば、平尾龍は何の力も持たない人間だ。獣を倒す腕力もなく、畑を耕し続ける体力もなく、人を従わせる魅力もなく、飢えた冬に真っ先に見捨てられる側にいたはずだった。
だが、現代社会は違う。
金も、通信も、電力も、医療も、物流も、兵器も、国家そのものさえ、すべては機械の上へ積み上げられている。そして、そのすべてが今、彼の右手の下にあった。
原始時代では無能力者。
現代社会における神。
平尾龍の一年は、ここから始まった。