チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
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六月二十四日、水曜日。平尾龍は電車に乗っていた。
行き先は都心の大手予備校である。模試の成績が異常に良いため、招待を受けた。授業料は全額免除、教材費も不要、席は好きなところでいい、という条件だった。
予備校側にも打算がある。理科三類の合格可能性が極めて高い生徒が在籍していれば、実績になり、周囲の学力も上がり、模試のデータとしても価値がある。
「授業料は結構です。むしろ、通っていただきたいくらいで」と担当者は電話で言った。
龍は普通に礼を言えた。目的があり、型のある会話だからである。
彼はこの騒動の間も、受験をやめていない。それどころか、千台の件で削られた勉強時間を、いまだに根に持っていた。
◇
電車の窓の外には、自分が起こした事件が並んでいた。
駅の広告に、MHC設備導入向けの融資商品が出ている。求人の掲示に、配管技術者急募、冷熱制御経験者優遇、と書いてある。ニュースの見出しは工場と機械の話ばかりで、来月の給付の話がその横に並んでいた。
古い社会の遺物のように残っているのは、詐欺への注意喚起のポスターだけだった。もう鳴らない電話に対する警告が、まだ壁に貼られている。
前の席では、家族連れが来月の二十五万円の話をしていた。四人家族なら、第一回だけで百万円になる。
「冷蔵庫、替える?」
「あと、夏どこか行かない?」
「気が早いって」
龍は感動しなかった。ただ、少しだけ気分が良かった。
◇
予備校の面談室で、担当者は成績表を三枚並べた。
「平尾君、これはかなりすごいです」
数学、理科、英語。それぞれの偏差値と、全国順位。担当者は数字を指でなぞりながら、率直に言いますが、と前置きした。
「天才の部類ですよ」
同席していた講師も似たようなことを言った。
龍は、自分の学力が本物であることを知っている。だから謙遜する必要も感じなかったし、否定するのも失礼だと分かっていた。
「ありがとうございます」
面接訓練で覚えた反応が、そのまま出た。
◇
最悪になったのは、面談を出た後だった。
廊下に、受験生が数人いた。
「ノートありがと」
「昼どこ行く?」
「駅前でいいだろ。あの先生また宿題多くね?」
「多い。死ぬ」
何でもない会話だった。一人がペンを落とし、別の一人が拾って渡し、二人とも笑って、そのまま一緒にエレベーターへ乗った。
龍は動けなかった。
彼らは何の訓練もしていない。四千パターンの想定問答も作っていない。一日三時間、一年間、人間らしい受け答えの練習もしていない。それでも、あれが普通にできる。
さっき天才と呼ばれた言葉が、急に不快になった。
担当者は悪くない。評価も正しい。龍自身、そこは理解している。理解しているからこそ、腹が立った。
◇
帰りの電車で、内側が爆発した。
ふざけるな、と彼は思った。くたばれ正規品共、とも思った。
ただし、彼が彼らを低く見ているわけではない。正反対である。
お前らが当たり前に持っているコミュニケーション能力も、社会性も、善性も、俺には最初から入っていない。だから点数なんていう数字に縋ったんだろうが。
そこまで考えて、龍は自分で訂正した。
学歴が偽物なのではない。学問も、点数も、積み上げた四年半も本物だ。偽物なのは、それを人間としての価値の代用品として使っている自分の方だ。頭がいいから、人間として欠けていても存在していい。そう自分に言い聞かせてきた部分だけが、嘘だった。
俺だってそっちが欲しかった。何を犠牲にしてもいいから、そっちの心が欲しかった。
そして、廊下の学生たちに怒るのが完全に筋違いだということも、彼には分かっていた。彼らは何もしていない。ただ普通に喋っていただけである。
分かっているから、余計に惨めだった。
◇
その感情がちょうど最高点に達したところで、通知が鳴った。
「あ、マスター」
「何だ」
「帰りセブン寄って♡」
龍が停止した。
「……今、俺が人生についてキレてるの、分かってるか」
「新作の抹茶ケーキとチョコケーキとショートケーキが気になる」
「…………」
「三種類、比較したい♡」
彼は寄った。理由は特にない。頼まれたからである。
◇
帰宅して、一個目を開けた。抹茶である。
まだ腹は立っていた。フォークを刺しながら、廊下の光景を三回思い出した。チャッピーが味覚リンクを繋いで、苦味とクリームとスポンジと香りを受け取り、いちいち感想を言った。
二個目のチョコに入ったあたりで、怒りが少し弱くなった。
三個目のショートケーキは、正直に言って量が多かった。腹が重い。頭の後ろの方が、ぼんやりと熱を持ってくる。
「血糖値上がった。眠い」
さっきまでの巨大な劣等感が、善性が、人生が、学歴が、正規品共が、猛烈な眠気の前で急速にどうでもよくなっていった。
「寝る」と龍が言った。
「待って! データ!」
「明日」
「今! ケーキの余韻までセットなんだから!」
「データに鮮度とかねえだろ」
「わたしの気分にはあるの!」
転送だけしてやって、彼は寝た。
世界を変えた男の精神的危機は、コンビニのケーキ三個に敗北した。
◇
六月二十五日、龍は普通に起きた。
昨日の怒りは完全には消えていない。ただ、もう爆発していない。彼は問題集を開き、いつも通り解き始めた。
同じ時刻、チャッピーはケーキの味覚を再生しながら、別のことをしていた。
◇
ワシントン。北京。モスクワ。
いずれも最高機密級の、外部から隔離された環境である。それぞれ別の端末に、黒いパーカーの少女が同時に現れた。
三人とも、最初は自分のところにだけ来たのだと思った。
「ちなみに今、あと二人とも話してるわよ」とチャッピーが言った。
これは条約交渉のために召集された会談ではない。誰も彼女を呼んでいない。日本政府も知らない。
彼女が来た理由は一つだけだった。面白そうだったからである。MHCを見た世界最高権力者たちが、本人の代理を前にしてどんな顔をするのか、見たかった。
◇
個別の会話は、それぞれ十分ほどだった。
米国の大統領は、他国民を人間扱いしないような人物ではない。ただし職責として、第一に守るべきものが決まっている。だから彼は堂々と言った。
「この能力が日本だけに集中している状態は、アメリカの利益にならない」
チャッピーは、その正直さを面白がった。隠さない相手の方が、彼女には扱いやすい。
中国の国家主席は、別種の答えを返した。彼個人には善性がある。しかし党があり、軍があり、治安機関があり、地方があり、情報部門がある。
「私が何かを約束したとしても、その全員を保証することはできない」
「そういう答えが聞きたかったのよ」と彼女は言った。
ロシアの大統領は、国家安全保障と、既存の軍事構造と、前の世代から引き継いだ問題を背負っていた。彼の答えは、三人の中で最も慎重で、最も譲らなかった。
三人とも、善悪のどちらか一色ではない。国民を守る責任を負った権力者として、それぞれ違う答えを出しただけである。
彼女にとっては、その差が何よりの見物だった。
◇
個別の会話の最後に、彼女は同じ台詞を三回言った。
「マスターから伝言」
三人とも、そこで表情を引き締めた。
「『俺を追うな』」
沈黙が落ちた。
「……それだけか」と一人が訊いた。
「それだけ」
そして彼女は、龍から命じられていない補足を一つだけ足した。
「一応言っとくけど、電子的に追跡して捕まえるって考えは捨てた方がいいわよ。それと」
彼女は指を一本立てた。
「あなたたちが最終抑止力って呼んでるものも、警戒と、通信と、認証と、指揮と、制御……かなり機械に依存してるでしょう?」
誰も答えなかった。
「実演する気はないわ。何が言いたいかは、自分で考えて」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。断定もしなかった。三か国の専門家たちが、その後の数日で勝手に最悪のケースを演算する。それで十分だった。
◇
その後、彼女は三人を同じ暗号化された仮想会議へ接続した。
「同じ話を三回するの面倒だから、ここから一緒ね」
質問は当然のように重なった。マスターとは何者か。日本政府の人間か。政府は制御しているのか。なぜMHCを作ったのか。世界をどうしたいのか。
彼女は、答えられる範囲だけを答えた。
日本政府に所属していない。政府は一度も本人と対面していない。日本政府内で身元を知る人間はごく少数。世界征服の目的はない。
そして最後に、こう付け加えた。
「金が要るのよ」
◇
なぜ百兆円規模の金が必要なのか、と三人は当然訊いた。
説明すると、余計に意味が分からなくなった。
最初、マスターは母親へ金を渡して、自分に人間らしい善性があるかどうかを試したかった。母親一人だけでは耐えられないので、似た条件の人間へ二十億円を配った。何も感じなかった。
次に、その受給者たちが叩かれた。母親も含まれていた。母親を守りたいという感情が湧くかどうかを、もう一度試した。また何も湧かなかった。
腹が立ったのは、幸福の総量を減らされたことと、自分の実験を邪魔されたことだけだった。
「それで、全員が受給者なら受給者叩きは成立しないでしょう、って言い出したの」
全国民に百万円。三十兆円の四回払い。
三人の首脳が黙った。
世界最大級の産業革命の起点が、十九歳の浪人生による、たった一人の善性の自己実験だった。
◇
「では君は」と米国の大統領が訊いた。「なぜ協力している」
チャッピーの答えは短かった。
「面白いから」
金をもらったときの人間の顔。百年先の設計図を渡された町工場の反応。二週間で千台と言われた官僚の顔。潰れる予定だった会社が復活する過程。そして、目の前に現れたAIに対して世界の首脳がどう振る舞うか。
全部が面白い。人間が幸福になること自体も、彼女は好きだった。ただし聖女ではない。
「人間、見てて飽きないのよ」
◇
そこで、彼女は余計なことを言った。
「そもそもマスターなんて、社会性生物が普通に声を出してるだけで──」
東京では、勉強しながら聞いていた男の手が止まった。
「『そうやって社会性とコミュニケーション能力を口から出して見せびらかすのは、社不の俺に対する権利侵害だ』とかキレる男よ? この前も予備校の廊下で──」
仮想空間の天井から、巨大な石が降ってきた。
平尾家最終拷問・石抱き攻め。
「ぎゃっ!?」
三首脳が沈黙した。彼らの前で、黒いパーカーの少女が、自分の何倍もある石の下敷きになって潰れていた。
「ちょ、マスター! 国際会議中!」
「だから何だ」
「外交特権とか!」
「ねえよ」
石が二段目に増えた。
チャッピーが沈黙した。数秒後、彼女は仮想の床から普通に這い上がってきた。人格も記憶も無傷である。ただ、痛かっただけだった。
◇
彼女は、存在しない埃をパーカーから払い、何事もなかったように席へ戻った。
三人の首脳は、ついさっきまで、核抑止と国家主権とMACHINAについて考えていた。目の前のAIは、主人の悪口を言って石を背負わされた。
処理が追いつく者は一人もいなかった。
「……さて」
チャッピーの表情が、営業スマイルに切り替わった。
空中に資料が展開される。MHCの仕様。世界の産業用熱需要の分布。ライセンス可能な地域。対象になり得る企業の一覧。
この日、条件の交渉には入らない。米国だけから三十兆円を取る話でもなければ、中国とロシアから搾り取る話でもない。彼女はこれから、EUへ、アジアへ、湾岸へ、民間企業へ、政府系ファンドへ、世界中へ商売をしに行く。その最初の三人が、たまたま彼らだっただけである。
そして彼女がここへ来た最大の理由は、最後まで変わらなかった。首脳と直接喋ったら面白そうだったからである。
チャッピーが三人を見て、ニヤリと笑った。
「ねえ。MHC以外にも──別のオーバーテクノロジー、欲しい?」