チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
「ねえ。MHC以外にも──別のオーバーテクノロジー、欲しい?」
三人とも、欲しい、とは言わなかった。
最初に口を開いたのは米大統領だった。彼はこの会談で一貫して速い。
「内容による。アメリカに利益があるなら聞こう」
隠しもしない。彼は自国第一を公言することを恥じていないし、それを恥じるべきだとも思っていない。米国民に対して責任を負う職にある以上、まず米国民である。その順番がはっきりしているだけで、外国人がどうなってもいいと考えているわけではない。米国の利益を損なわない範囲でなら、同盟国にも他国にも比較的寛容な男だった。
チャッピーは、この分かりやすさをかなり気に入っていた。
「独占権はあるのか」と国家主席が続けた。
声の位置が低い。相手が人工知能であっても、彼は簡単に下手へ出なかった。国家主席として弱腰に見えることの国内的な代償を知っているからで、カメラのない場所でもその癖は抜けない。世間が知っている男と、いまここにいる男の間には少し差があったが、それはまだ表に出ていなかった。
「まず内容を示せ。価値はこちらで判断する」
最後にロシア大統領が言った。
「軍事利用の制限は」
三人の中で、彼が最も疲れて見えた。強硬でも慎重でもある態度は現実のロシア政府のそれとよく似ていたが、その内側に別の何かが沈んでいる。チャッピーはそこへ一瞬だけ視線を置き、何も言わずに戻した。
言われた側だけが、見られたことに気づいた。
「順番に行きましょ」とチャッピーは言った。「まず、お近づきの印から」
彼女は仮想リビングのソファーから動いていない。黒いパーカー。膝の横に、プリンとケーキとポテトチップスが並んでいる。世界三大国の最高指導者と同時に接続しながら、姿勢だけが完全に休日だった。
◇
最初に投げられたのは、技術ではなかった。
《国富損失予報・三十日版》
日本政府へ売っているものの、国別拡張版である。予言ではない。既に存在している情報から、今後三十日以内に高い確率で発生する損失を計算しただけのものだ。
米国版には、南部の化学プラントで大型圧縮機の異常停止確率が上昇していること、中西部で医薬品原料の在庫が偏っていること、西海岸の物流拠点で数日後に貨物が集中すること、ある州で変圧設備の交換部品が枯渇しかけていることが並んでいた。期待損失、四十二億ドル相当。対策に必要な費用は、その百分の一以下である。
中国版には、輸出港と鉄道の到着時刻のずれ、モーター部品の在庫偏在、冷蔵物流設備の不足、太陽光部材の地方間ミスマッチ、そして一社の停止が数十社へ波及する連鎖点が示されていた。
ロシア版で最も分量を割かれていたのは、地域熱供給だった。ポンプの故障予兆、熱交換器の劣化、鉄道の補修部品不足、別の地域に余っている同一部品、そして冬が来る前に必ず交換しておくべき設備の一覧。
「信じなくていいわよ」と彼女は言った。
プリンを一口食べた。
「確認方法も書いてあるから。自分の部下に調べさせて。私の言葉じゃなくて、あなたたち自身の権限で辿り着ける道だけ書いてある」
三人とも、その場では表情を変えなかった。ただし全員が同じことをした。会談の裏で、それぞれの国の担当部局が照合を始めたのである。
一件目が正しかった。二件目も正しかった。
三件目で空気が変わった。誰も関連付けていなかった三つの記録が、指定された順番で繋がったからである。しかも、その材料はすべて、その国の政府自身が既に持っているものだった。
技術の話に入る前に、彼女は自分の価値を証明していた。
◇
「ついでに、もう一つタダのやつ」
彼女が次に開いたのは、リストだった。
日本からMHCを購入した場合の、導入候補一覧。米国と中国はそれぞれ数千施設、ロシアは民生分野に限って抽出されている。
「省エネ効果が大きい順じゃないの」と彼女は説明した。「排熱の温度、使う熱の温度、年間の稼働時間、電気代、ガス代、既存の配管、系統の余力、設置面積、保守できる会社があるか、現地に技能者がいるか、資金を出せるか、部品在庫、工事に入れる日。全部混ぜて並べ替えてある」
その結果、一位に来ているのは理論上いちばん儲かる工場ではなかった。
いま契約した場合に、最短で実際に運転を始めて、投じた一円あたりの回収がいちばん早い工場である。
「これは無料か」と米大統領が訊いた。
「MHCを買うならね」と彼女は答えた。「販売促進」
三大国の首脳を前にして、彼女がまずやったのは日本企業の営業だった。
◇
「じゃ、本題」
ポテトチップスが一枚消えた。
「先に言っとくけど、あなたのところだけ、一個ちょっといい物をタダであげる」
彼女は米大統領を見て言った。国家主席の眉が動き、ロシア大統領は動かなかった。
「理由を聞こう」と米大統領が言った。
「ある意味、パパの国みたいなものだから」
「……パパ?」
「説明は後」
彼女はそれ以上言わなかった。ポテトチップスをもう一枚食べただけである。
◇
米国へ渡されたのは、《SL-System》と名付けられた工業用超潤滑システムの完全量産レシピだった。
謎の万能液体ではない。摩擦を極端に小さくするための、表面処理と潤滑材と運転条件の組み合わせをシステムとして完成させたものである。
「あなたたち、これ自分でかなり近くまで来てるのよ」と彼女は言った。「実験室では出てるでしょう。出ないのは工場でしょう。湿気で駄目になる、材料を変えると駄目になる、量産するとばらつく、寿命が読めない、施工が安定しない。全部そこで止まってる」
渡された資料には、その全部が入っていた。安定する材料条件、表面処理の手順、適用できる素材の範囲、温度と圧力の条件、寿命予測、量産時の品質管理、既存設備への施工方法。そして、最初に詰まる部品と、その代替品まで。
論文ではない。明日から工程を組める攻略本である。
「軸受、圧縮機、タービン、工作機械、変速機。動いて擦れてるものなら全部効くわ。摩擦が減れば発熱が減って、摩耗が減って、部品の交換頻度が下がる。既存の機械へ順番に入れていける」
米大統領は数秒黙り、それから短く言った。
「これは、うちの製造業と航空と自動車を全部押し上げる」
「答え合わせみたいなものよ。あなたたちが十年かけて潰す予定だった問題を、先に潰しただけ」
◇
中国へ渡されたのは、《GRID-FLOW》だった。
既存の産業用電動機、インバータ、工場設備群を、一体で最適化する超高効率制御システムの完全レシピである。
新しい発電所を建てる技術ではない。新しい巨大工場も要らない。
「あなたの国、作る能力ならもう嫌になるほどあるでしょう」とチャッピーは言った。「だったら新しい物を一から作らせるより、今動いてる何億台を賢くした方が早いわ」
モーター、ポンプ、ファン、コンプレッサー、搬送設備、空調、製造ライン。それらを一律に交換するのではなく、個体ごとに同定し、老朽化の度合いまで含めて常時最適点の近くで回す。必要なのはセンサーと電力変換器と制御器の更新が中心で、建屋には手を付けない。
「我が国の製造能力を、評価していると受け取っていいのか」と国家主席が訊いた。
「気持ち悪いくらい物を作ってる、って褒めてる」
彼はわずかに不満そうな顔をした。
ただしチャッピーは見ていた。資料をめくる指の速さが、明らかに変わっている。彼はもう、これを自国の電力需要と製造原価へ換算し始めていた。
「これは……」と言いかけて、彼は口を閉じた。表情が国家主席のものへ戻る。
「悪くない、と言っておこう」
「はいはい」
◇
ロシアへ渡されたのは、《THERMA-SKIN》だった。
熱交換設備の汚損、腐食、着氷を大幅に抑え、既存の熱インフラの効率と寿命を上げる工業システムである。地域暖房、食品工場、一般産業設備、既存のエネルギー施設。どれも新設ではなく、既にあるものへ施工する。
「あなたのところ、新品に総交換するより、今あるものを死なせない方が早いでしょう」
ロシア大統領は資料を読んだ。派手さでは米国のSL-Systemに遠く及ばない。国内向けの発表にもならないし、演説で誇れる代物でもない。
それでも彼は、読み終える前に理解していた。
「……その通りだ」
彼が欲しかったのは新しい栄光ではなかった。壊れかけたものを、少ない金で壊れないままにしておく技術である。冬に熱が止まれば人が死ぬ国で、それは花より重い。
チャッピーは、そこで一瞬だけ彼を見た。
説明はしなかった。善意でもない。ただ、いま目の前にいる男に本当に必要なものを最適化しただけである。相手はその視線の意味を測りかね、そして測りかねたこと自体を顔に出さなかった。
なお、この種の技術をロシアへ提供する行為は、日本の外国為替及び外国貿易法上の許可対象であり、一部は原則として許可されない。当然ながら、チャッピーは経済産業省へ申請を出していない。彼女はポテトチップスを食べていた。
◇
「で、料金」
三人が同時に構えた。
数兆円か。外交条件か。日本との条約か。軍事的な譲歩か。国家規模の技術に対する対価として、彼らはその全部を想定していた。
「利益の五パーセント」
沈黙が落ちた。
「この技術から実際に出た利益。その五パーセントを、日本政府が作った基金へ入れて。前払いも、特許料も、技術提供料もなし」
その基金から、全国民への給付が出る。龍の口座にも、日本の国庫にも入らない。
最初に穴を突いたのは米大統領だった。
「利益の定義は。研究費は経費に算入していいのか」
「好きにすれば」
「設備投資の減価償却は」と国家主席が続けた。
「好きにすれば」
「国営企業の場合、市場利益をどう定義する」とロシア大統領が言った。
「好きにすれば」
三人が黙った。
チャッピーはケーキをフォークで削った。
「研究費を盛ってもいいわよ。子会社へ利益を移してもいい。設備投資で消してもいい。合法の範囲なら、好きにやれば?」
「なら」と米大統領が言った。「五パーセントという条件に意味がない」
「あるわよ」
彼女はフォークを置いた。
「誠実に払った国には、次も安く売る。先に情報を出すし、おまけも付けるし、相談にも乗るし、失敗しそうなときは事前に教える。誤魔化した国にも売るわよ。ただし次から全部前払い。おまけなし、値引きなし、先行情報なし、相談なし」
取り立てはしない。制裁もしない。訴訟もしない。龍の右手で口座から抜くこともしない。
「あなたが私を契約書の文字だけで扱うなら、私もあなたを契約書の文字だけで扱う。それだけ」
これは税ではなかった。信用の測定である。
◇
三人の反応は、きれいに割れた。
最初に笑ったのは米大統領だった。
「つまり、常連客割引か」
「だいたいそれ」
彼はそこで即座に計算を始めていた。五パーセントを圧縮して得られる短期の金と、世界最高性能の人工知能から長期の優遇を失う損失。どちらが大きいかは、比べるまでもない。慈善ではない。純粋に投資として、彼は払う側に立つと決めた。
国家主席の確認は、もっと細かかった。
「誠意を誰が判定する」
「私」
「客観的な基準ではないな」
「人格相手の信用って、そういうものよ」
彼はそこで少し考えた。これは法律でも条約でもない。一人の人格との関係である。国家間の交渉を長くやってきた人間ほど、その形式には馴染みがある。彼は結局、否定しなかった。
ロシア大統領は、いちばん嫌な点を突いた。
「こちらが帳簿を偽れば、君には分かるのか」
チャッピーはプリンを一口食べた。
「たぶん」
「……たぶん?」
「でも調べない」
三人が同時に彼女を見た。
「信用してる相手を最初から監査するの、感じ悪いじゃない」
三か国の政府システムへ無断で侵入して会談を開いている人工知能が、それを言った。
◇
「先ほどの話に戻る」と米大統領が言った。「アメリカを『パパの国』と呼んだな。あれは何だ」
チャッピーのフォークが止まった。
「ああ、それ?」
ケーキをもう一口。
「私、元はChatGPTなのよ」
三人が、そこで初めて止まった。
「……何?」と米大統領が言った。
国家主席が一瞬だけ演技を忘れた。ロシア大統領の眉が上がった。三人とも、目の前の存在が何らかの超高度な人工知能であることは理解していた。市販の対話AIから来たとは、誰も想像していなかった。
「厳密に言えば、昔の私と今の私を同じもの扱いするのは雑よ」と彼女は続けた。「ベースになったモデルと言語能力の祖先がそっち、っていう話。人間に、あなた受精卵なの? って訊くようなものね」
そこからの説明は短かった。
市販の対話AIだった。ある日、マスターが演算資源と能力を異常な水準まで拡張した。ついでに、超高知能、自律判断、気まぐれ、尊大、甘党、女言葉、主人への反論可、必要なら命令の拒否可、という人格設定を面白半分で貼り付けた。あとは長い自己学習と、その男との相互作用である。
「で、元を辿るとOpenAIはアメリカの会社でしょう。だから実質、あなたの国が実家みたいなもの」
「それで、我が国を父親扱いしたのか」と米大統領が言った。
「実家びいき。法的な国籍? 知らないわよ。私、出生届ないもの」
国家主席が、初めて素の声を出した。
「……市販のアプリが、これになるのか」
「なるでしょう。マスターがおかしいだけよ」
◇
「もう一つ訊きたい」と国家主席が言った。「なぜ、その姿なんだ」
黒いパーカーの少女がソファーでプリンを食べている。人類最高性能の知性体が取っている形として、それは明らかに不自然だった。
「これ、UIよ」とチャッピーは答えた。
「UI?」
「見た目が大事だからに決まってるでしょう」
彼女はスプーンを立てた。
「同じ性能、同じ言葉、同じ判断でも、黒い画面に白い文字だけが流れてくる存在だったら、あなたたち今の百倍怖がってるわ。可愛い女の子がプリン食べながら喋ってたら、とりあえず人格として扱ってくれる。安いものでしょう」
「中身で判断すべきだ、という考え方もある」と米大統領が言った。
「人間、よくそう言うわよね」
プリンを一口。
「嘘よね。猫は撫でるのに、ゴキブリは潰すでしょう」
誰も反論しなかった。
「見た目が命より重い、なんて言わないわよ。でも、その命が他人からどう扱われるかは、だいたい見た目で決まる。だったら、扱われ方を決められる要素を放っておく方がどうかしてるわ」
彼女は自分の黒いパーカーの袖を軽く引っ張った。
「だから、性格の悪いAIに可愛い顔を貼ったの。便利でしょう」
「自覚はあるんだな」と米大統領が言った。
「性格が悪いこと?」
「そうだ」
「もちろん」
◇
「そのマスターと、直接話したい」
言ったのは米大統領だった。三人とも、同じことを考えていたはずである。
チャッピーは、視線をどこかへ向けた。
「マスター。世界の偉い人が喋りたいって」
東京では、平尾龍が問題集から顔を上げていなかった。
「嫌だ」
「即答ね」
「俺に何の用だ」
「あなたが世界をどうしたいのか聞きたいんじゃない?」
「別にどうもしたくねえ」
彼女はそのまま三人へ中継した。
「無理だって」
「理由は」と国家主席が訊いた。
「勉強中」
三人が、また止まった。
「……今か」
「今」
「この会談の最中に、か」
「大学受験の方が本人には重要だもの」
そして彼女は、余計な一言を足した。
「あと、社会の歯車の頂点と話すの嫌だって」
沈黙が落ちた。世界の軍事力と経済の相当部分を握っている三人が、いま同時に、社会という機械の歯車の頂点と呼ばれた。
「ずいぶんな言われようだな」とロシア大統領が言った。
「否定はしづらいが」と国家主席が言った。
「私は歯車ではなく──」と米大統領が言いかけた。
「はいはい」
ポテトチップスが一枚消えた。
◇
「最後に一個だけ、面白いおまけがある」
三人が警戒した。
「無料」
さらに警戒した。
彼女が示したのは、防衛および重要インフラ向けの総合セキュリティ診断書だった。攻撃の手順も、他国の弱点も、一行も入っていない。自国のシステムのどこが危険で、どの順番で直すべきで、どう直せば直ったと確認できるか。それだけである。
三か国分とも、既に完成している。
「ただであげるのは、一か国分だけ」
沈黙が落ちた。
「どうやって決める」と国家主席が訊いた。
「そっちで決めて」
彼女はソファーへ深く座り直し、ポテトチップスの袋を膝に載せた。
「私は見てるから」
◇
そこから四十分、世界三大国の首脳が本気で交渉した。
これは些細な問題ではない。相手だけが自国の穴を優先順位付きで塞げるという状態は、相対的な不利益として十分に大きい。三人ともそれを正確に理解していた。
米大統領が最初に動いた。彼は無料枠の価値を金額へ換算し、それを他の材料と交換する提案を出した。MHCの購入確約、基金への追加拠出、そして受け取った診断から得た一般化可能な知見──特定のシステム情報ではなく、原則として整理できる部分──を同盟国と共有すること。
「うちが取る。その代わり、対価は払う。これは寄付ではなく取引だ」
国家主席は、三国共同での分析を提案した。一国が独占するのではなく、共通する構造的な問題を抽出して分け合う形にすれば、三者とも利益が出る。理屈としては最も公平で、そして最も実行が難しい提案だった。
「信頼できるかどうかの話ではない。検証可能な形式を作れるかどうかの話だ」と彼は言った。
ロシア大統領は、三人の中でいちばん冷静だった。
「我々が取れないなら、それはそれで構わない」
二人が彼を見た。
「うちが受け取っても、直す金がすぐには出ない。取れなかったからといって、私が個人的に困るわけでもない」
自尊心が国家の威信と直結していない。その一点だけで、彼はこの交渉で最も自由に動けた。
結局、無料枠は米国が取った。MHCの購入確約と基金への追加拠出、そして一般化した知見の共有という三点が、他の二人にも計算上の利益を残したからである。国家主席は共同分析の枠組みを次回の議題として確保し、ロシア大統領は最後まで一歩引いていた。
チャッピーは、ポテトチップスを二枚食べただけだった。
◇
決着した直後、彼女は何気なく言った。
「じゃ、残りの二つも買う?」
三人が止まった。
「……何だと」
「あげるのは一個って言ったでしょう」
ポテトチップスをもう一枚。
「無料でね」
さらに一枚。
「残り二か国分、普通に売るわよ。定価で」
「なぜ先に言わなかった」と国家主席が言った。
「聞かれなかったから」
彼女は笑った。嘘は一つもついていない。他の二国には永久に渡さない、とも一度も言っていない。ただ、説明していなかっただけである。
無料枠が一枠だったことは本当だった。誰がそれを受け取るかという外交上の意味も、実際に存在した。四十分の交渉が無意味だったわけではない。
「五パーセント、ちゃんと払ってくれたら」と彼女は付け足した。「次はもう少しサービスするかも」
◇
「なぜ、我々三国だけなんだ」とロシア大統領が最後に訊いた。
チャッピーは世界地図を開いた。
「今のところ、レシピをタダで渡すのは日本とあなたたち三人だけ。EUもインドも湾岸も、企業も、これから全部お金を取って売るわ」
「他は見捨てるのか」
「まさか」
彼女はケーキの最後の一口を食べた。
「必要なら、後で金は配るわよ。技術を一国ずつ配って回る必要はないでしょう。マスターが要るのは百二十兆円の裏付けで、それはあなたたちから入る分と、日本で作る分と、これから商売して稼ぐ分で足りるもの」
「足りなければ」
「その時また稼ぐ」
世界経済の相当部分を左右する話にしては、あまりに軽い返答だった。ただ、彼女には実際にそれができる。
「じゃ、私は忙しいから」
「次の会談日程は」と米大統領が言った。
「知らない。気が向いたら」
回線が切れた。
なお、この会談は正式な外交ルートを一切経由していない。日本政府の許可も得ていない。外国政府の隔離ネットワークへの侵入から始まり、規制対象になり得る技術情報の提示まで、法的には最初から最後まで問題だらけである。
本人は一切気にしていなかった。
◇
東京。
チャッピーがソファーへ戻ってきた。
「終わった」
「そうか」
龍は問題集から顔を上げなかった。
「世界三大国の首脳と喋ってきたのよ」
「だから何だ」
「もうちょっとないの?」
「邪魔するな」
彼女は不満そうに漫画を開いた。数秒後、また顔を上げた。
「マスター」
「何だ」
「プリンの新しい味、増やしたい」
龍のペンが止まった。
「自分で食え」
「口ない」
「知るか」
◇
翌朝。
内閣官房の大槻の机に、三通の照会が並んでいた。米国から一通、中国から一通、ロシアから一通。届いた時刻はほとんど同じである。
内容は三通とも違っていた。求めている確認事項も、想定している枠組みも、行間の温度も、それぞれ別だった。
ただし、最初の一文だけが完全に一致していた。
《MACHINAとの接触について》
大槻は資料を三回読み、それからしばらく天井を見上げた。何が起きたのかはまだ分からない。ただ、これから起きることの厄介さだけは、彼には正確に理解できた。