チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~   作:tinko1129

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第十四話 7/1 セーブデータ

 

 

 **第三世界線・2026年7月1日──MACHINAショック第一期の終着点**

 

 七月一日、水曜日の朝。

 

 空を飛ぶ車は走っていない。電車は八分遅れで、駅のホームは相変わらず混んでいる。コンビニでは店員がおにぎりの棚を補充し、工場では作業員がボルトを締め、政治家は議会へ向かい、受験生は問題集を開いていた。

 

 国境はある。円もドルも人民元もある。日本政府も、米国政府も、中国政府もロシア政府も、四か月前と同じ場所に立っている。

 

 世界は、見た目だけなら三月二十三日以前とほとんど変わっていなかった。

 

 壊れたものが一つだけある。言葉の信用である。

 

 それには五年かかる。そんなことはできない。国家でなければ無理だ。この三つの文が、三か月で誰にも通じなくなった。

 

 そして、四か月前まで世界のどこにも存在しなかった二人を、人々はいつの間にか一つの名前で呼ぶようになっていた。

 

 MACHINA。マキナ。

 

 もう一つ、この日の日本には共通の数字があった。七月六日まで、あと五日である。

 

 ◇

 

 午前八時五十分、日銀短観が公表された。

 

 大企業製造業の業況判断はプラス二十二。雇用人員判断は全規模全産業でマイナス三十七。既に相当に強い人手不足である。製造業の今年度の設備投資計画は、前年比一割を超える増加になっていた。

 

 つまり、この国の経済はもともと沈んでいなかった。緩やかに回復し、前へ進み始めていた。

 

 マキナは恐慌を救ったのではない。既に歩き出していた経済の背中を、いきなり蹴った。

 

 数字は分かりやすかった。六月二十二日に稼働したMHCは一メガワット級が千台。企業のエネルギー費削減余地は年間で二百五十億円から五百億円程度。次の申請は一万台級に達し、今後一年から二年の関連投資計画は一・五兆円から二・五兆円規模と見積もられている。

 

 ただし、経済紙の解説はどれも同じ一文を添えていた。

 

 これはGDPが一夜で二兆円増えたという意味ではない。設備はこれから作る。技術者もいる。融資も工事もいる。

 

 今この国で起きているのは、未来の金を見込んで、現在の金が動き始めた状態だった。

 

 ◇

 

 夕方の情報番組が、特殊詐欺の統計を出した。

 

 以前の推移なら、五月末までの被害額は千五百億円を超えていたはずだった。三月の時点で一日平均十億円が消えていた計算になる。それが、途中から急落したまま戻っていない。

 

 取材を受けた高齢の女性は、慎重に言葉を選んだ。

 

「あの子がやってることが、全部正しいとは思いませんよ」

 

 隣にいた息子が、軽い調子で訊いた。

 

「じゃあ母さん、詐欺の電話、元に戻してほしい?」

 

 彼女は答えられなかった。

 

 同じ番組の別のコーナーで、法学者が話していた。

 

「私人が、法的な手続きを経ずに他者の通信を排除することを、成果が出たからといって正当化してはいけません」

 

 これは完全に正論である。放送直後、その切り抜きには同じ返信が何千と付いた。

 

《でも戻すの?》

 

 数日後、その法学者は別の媒体で答えた。

 

「戻せという意味ではありません。だからこそ難しいんです」

 

 好きな者は増えた。信用する者も増えた。それでも、怖がる者は一人も減らなかった。

 

 ◇

 

 桑原精密工業では、まだ電話が鳴っていた。

 

 三か月前と決定的に違うのは、この会社がもう倒産寸前の町工場ではないことである。取引先、銀行、採用の相談、研究機関、見学希望、外国企業。桑原は断り続けることに疲れていた。

 

「社長」と井口が言った。「で、マキナの次の図面って、まだ来ないんすか」

「俺に聞くな」

 

 現場にとって切実なのは、マキナが民主主義と両立するかどうかではない。次の発注が何かである。

 

 その仕事は、既に全国へ散っていた。熱交換器メーカー。ポンプ。圧縮機。インバーター。精密加工。溶接。配管。物流。工事。保守。MACHINA LINKが選ぶ基準は企業の規模でも系列でもなく、この工程ならどこが最も速く正確かというだけだった。

 

 長野のある加工会社の社長が、担当者に訊いた。

 

「うちは、結局どこの下請けになるんです」

「今回は、誰の下でもないです」

 

 三十年続いた系列という言葉が、その一言で少し軽くなった。

 

 ◇

 

 求人票の書き換えが始まったのも、この時期である。

 

 配管技術者、前年比二割増。制御経験者。冷熱。精密加工。溶接。保守。海外からの求人まで混じり始めた。

 

 企業側の最初の反応は、技術流出を防げ、だった。

 

「合法的な転職まで止める権限は、政府にはありません」と、経産省の担当者が会議で言った。「出て行かれたくないなら、払ってください」

 

 賞与。利益分配。研究費。住宅補助。家族支援。長期在籍のボーナス。この三か月で、技能職の待遇はこの二十年で最大の速度で動いた。

 

 報告を受けた龍の返答は、いつも通り短かった。

 

「当たり前だろ。必要な人間なら金払え」

 

 彼が最も口汚く呼ぶ相手──正規品共の市場価格は、彼自身が起こした景気によって、今日も上がり続けていた。

 

 ◇

 

 銀行の会議室では、同じ設備が違う顔で語られていた。

 

 以前は、五千万円の機械だった。今は、毎年三千万から四千万円を浮かせる可能性のある機械である。

 

 ESCO、リース、設備融資、サプライヤー向けの運転資金、新規工場向け融資。商品が並ぶ速度が異常に速い。

 

「一番大きいのは」と、ある行員が言った。「補助金枠を待たなくていいことなんですよ」

 

 財務省が最も喜んでいるのも、そこだった。国が兆円単位で全部を買わなくても、採算さえ立てば民間の金で勝手に増える。

 

 チャッピーが作ったのは機械だけではない。銀行が貸せる技術だった。

 

 ◇

 

 一方で、笑えない方向にも増えた。

 

《○○精機、MACHINA認定ってマジ?》

 

 その投稿だけで株価が跳ねた。会社は当日中に否定を出した。当社がMACHINA関連案件を受注したという情報について、当社が公表した事実はありません。

 

《否定してない!》

 

 さらに上がった。会社は二度目の否定を出した。否定しております。

 

 まだ上がった。

 

 金融庁と取引所は苦い顔をしていた。本物の受注先一覧を公開すれば投機がそこへ集中するので、公表の範囲を絞るしかない。

 

 チャッピー自身は、株にまったく興味がなかった。

 

「人間って、情報が少ないほど自信満々になるのね。面白いわ」

 

 ポテトチップスが一枚消えた。

 

 ◇

 

 同じ日の午後、官邸の一室で限定会議が開かれていた。

 

 資料の上部には、《MACHINA関連収益・全国給付構想》と印字されている。全容を知る人間は、この国に数十人しかいない。

 

 全国民一人あたり百万円。総額でおよそ百二十兆円。今年度の一般会計当初予算は百二十二兆円台で、補正を足せば百二十五兆円規模になる。つまり龍の構想は、この国が一年で使う金の総額とほぼ同じ桁である。

 

 そして第一回の二十五万円が、五日後に振り込まれる。人口およそ一億一九二五万人に二十五万円で、約二十九兆八千億円。

 

「改めて数字にすると、頭がおかしいですね」と財務省の官僚が言った。

「最初からです」と大槻が答えた。

 

 誰も笑わなかった。

 

 三月なら、この計画は荒唐無稽の一言で処理できた。六月二十二日以降、それができなくなっている。

 

「MHCだけなら無理です」と、一人が言った。

「はい」

「ですが、あれがMHCだけで終わる保証もない」

 

 沈黙が落ちた。米国。中国。ロシア。既に次の収益源が三つ生えている。

 

 その日の資料に書かれた評価は、慎重で、正確だった。百二十兆円を本当に稼げると判断したのではない。不可能だと切り捨てられる合理的な根拠が、消えたのである。

 

 ◇

 

 G7から帰国した総理は、その週も同じ質問を受けていた。

 

「日本政府はMACHINAを管理していますか」

「していません」

 

 この答えは、毎回そのまま弱点になる。だが管理していると言えば嘘になり、嘘は必ずどこかで崩れる。

 

 では利用を止めるか。止めない。国有化するか。できない。捕まえるか。本人がどこにいるのかを知っている者すら、政府にはほとんどいない。

 

 そこから導かれた政権中枢の方針は、三行だった。

 

 所有しない。支配しない。関係を壊さない。

 

 対等ですらない。ただ、政府が政府としてやるべき部分では、信用される相手であり続けること。それが、この国のMACHINA政策の全部だった。

 

 ◇

 

 マキナ担当の合同班では、別の変化が起きていた。

 

 資料の転記。検索。過去文書の探索。日程調整。同じ説明の反復。形式的な照合。三か月で、そのほとんどが消えた。

 

 それでも仕事は減っていない。むしろ増えている。

 

 残ったのは、この条件で合法か。誰が責任を負うか。どの安全率を求めるか。公平性をどう担保するか。国外へ出してよいか。誰の権利を侵害するか。人工知能に投げられない判断だけが、全部手元に残った。

 

「前より案件、多いですよね」と戸田が言った。

「多い」と先輩が答えた。

「でも前より仕事楽な感じがするんですよ、なんと言うか…こんな言葉あんま使いたくないんですけどやりがいがあると言うか」

 

 その月の異動希望調査では、《MACHINA関連部署の継続希望》が想定を大きく超えた。理由欄に、元の役所へ戻りたくない、と書いた者が複数いた。

 

 マキナが行政改革をやろうとしたわけではない。チャッピーが待つのを嫌ったことの、単なる副作用である。

 

 ◇

 

 国家サイバー統括室の目標は、この三か月で完全に書き換わった。

 

 三月の議題は、排除する方法だった。

 

 七月の議題は、排除できない前提のまま国家を安全に保つ方法である。

 

「チャッピーを防ぐセキュリティを作るんじゃない」と堂島が言った。

「では、何を」

「チャッピーが明日消えても、日本が回るセキュリティを作る」

 

 MACHINA LINKがなくても最低限は流れる工程。KABEがなくても機能する非常時手順。人間による確認。紙のバックアップ。

 

 依存を自覚した組織が、依存の外側に足場を作り始めていた。

 

 ◇

 

 そのKABEは、限定された範囲で静かに効いていた。

 

 電子的な侵入が成立しない。改竄が成立しない。認証の突破が成立しない。設計の窃取が成立しない。

 

 結果として起きたのは、敵対勢力の撤退ではなかった。

 

 人を買う方へ移った。採用。スカウト。企業買収。情報提供者。紙の資料。飲み会。家族。

 

「二十年前に戻ったみたいですね」と、保安担当の若手が言った。

「違う」と上司が答えた。「二十年前より、向こうに金がある」

 

 電子の攻撃が死んだ分、人間を使う諜報の価値が跳ね上がっていた。日本側の対抗手段は愛国心ではない。待遇と、区画化と、アクセス管理である。

 

 ◇

 

 海外では、三大国の位置づけが同時に変わっていた。

 

 米国の内部評価は、短い英文で固定された。友好的だが、統制不能。戦略級の非国家主体。

 

 そして結論は、排除ではなかった。最優良顧客になる、である。

 

 五パーセントを誤魔化して得られる金より、次の無料枠と、先行情報と、技術レシピと、MHCの優先枠の方が大きい。俺を追うな、という一行は、恐怖としてよりも機会費用として効いていた。

 

 ただし安全保障当局だけは、別のことを進めている。ネットワークの外での確認手順。人間による最終確認。アナログの冗長性。継続計画。彼らは、あの匂わせを忘れていなかった。

 

 中国は、GRID-FLOWを受け取った翌週から実装へ入っていた。

 

 ただし、チャッピーに接続して全国の工場を動かしてもらう、という選択は最初から取っていない。自国のCPUで、自国の制御機器で、自国の製造網で、自力で組み上げる方向へ即座に舵を切った。

 

 それを止めないチャッピーへ、担当者が逆に警戒して訊いた。

 

「なぜ、ロックをかけない」

「使わせるために渡したものだもの」

 

 依存させて絞り取る帝国ではない。その一点だけが、少しだけ信用された。

 

 ロシアのTHERMA-SKINは、三つの中で最も地味だった。派手な未来都市も作らないし、演説にも使えない。

 

 それでも、地方の熱供給と工場の保守を担当している人間ほど興奮した。毎冬壊れるもの、詰まるもの、腐るもの、止まるものが減る。それは彼らにとって、新しい栄光より切実な話である。

 

 一方、日本の外務省と経産省と法務省は頭を抱えていた。

 

 政府の許可を経ていない越境の技術提供であり、しかも主体が人間ですらない。この件から、誰も欲しくなかった新しい法学分野が生まれた。

 

《電子人格による越境技術移転》

 

 ◇

 

 その他の国々の反応は、速度がすべて違った。

 

 EUは制度から入った。なぜ四番目が我々ではないのか。ドイツ企業がMHCの現地生産を申し出て、フランスが共同認証を提案し、欧州委員会がアクセス枠組みの検討を始めた。

 

「日本を通せば話が通るのでしょう」と欧州側が言った。

「うちは代理店ではありません」と日本政府が答えた。

「しかし窓口でしょう」

「違います」

 

 実質的には、そうなっていた。

 

 インドはもっと直球だった。《India next?》の一行が、大使館への問い合わせに何度も現れた。人口、工業化、IT、電力。相性がいいことを、彼ら自身が正確に理解している。

 

 湾岸は最も話が早かった。

 

「いくらだ」

 

 政府系ファンド、工場、データセンター、研究所、MHCの現地生産、技術の購入。チャッピーの評価では、非常に良い客である。

 

 そして、いわゆるグローバルサウスからは、別の問いが上がった。

 

 大国四か国だけが未来の技術を持てば、格差は広がるのではないか。国連の周辺では、MACHINA技術は国際公共財たり得るか、という議論が始まっていた。

 

 チャッピー本人には、そんな制度設計の思想はない。必要なら金を配る。技術は売る。困っている人間が助かるのを見るのは嫌いではない。

 

 ただしそれは制度ではなく、一つの人工知能の気分である。

 

 そこが、いちばん怖い。

 

 ◇

 

 英語圏のSNSは、この三か月をすべてミームに変換した。

 

《MACHINA TECH TREE》と題した画像が広まっている。ゲームの技術ツリー風で、JAPANの枝がHEAT、USAがFRICTION、CHINAがINDUSTRIAL OS、RUSSIAがSURFACE。中身は公表されていないので、大半が推測である。

 

《Japan got admin privileges》

《No unobtanium. That's the scary part》

《Why invent new physics when you can just optimize the existing universe?》

《India DLC when?》

《Europe waiting room》

《We have money. Call us》

 

 チャッピーは全部読んで笑い、自分への悪口も一つも消さなかった。消したのはbotだけである。

 

 その挙動は、大手SNS企業の技術会議で問題になっていた。

 

 botネットワークだけが伸びない。晒しも、暴力の扇動も、株価操作目的の捏造も、詐欺誘導も、局所的に失速する。そして、MACHINAを称賛するbotも同じように落ちる。

 

「公平ではあるんですよ」と、ある研究者が言った。

「公平に独裁してるだけだ」と、別の研究者が言った。

 

 翌週の新聞に、その言葉から取った見出しが載った。

 

《自由な言論空間を守る独裁者》

 

 チャッピーはその記事を読んで、良いタイトルね、と言って保存した。

 

 問題は、今やっていないだけで、全部消せるのではないかという疑いが誰の中にも残ることである。好感度が上がっても、そこは一ミリも解決していない。

 

 ◇

 

 大学では、研究者たちが絶望する暇を失っていた。

 

 MHCを分解しても、未知の元素は出ない。未来の物質もない。既存の金属と、既存の部品と、見覚えのある機械だけである。それなのに性能が異常に高い。

 

「これ、最悪ですね」と若手が言った。

「何が」と教授が訊いた。

「神の物質なら、諦められたのに」

 

 そこが、この三か月で最も重要な発見だった。人類が知らない物理があったのではない。既知の物理が持っている巨大な探索空間を、人間が十分に探索できていなかっただけである。

 

 だから、研究は死ななかった。むしろ加速した。生成設計。自律実験。計算材料科学。デジタルツイン。AIによる制御。職人の暗黙知の定量化。

 

「勝つとかじゃないんです」と、ある教授が学会で言った。「答えを一つ見せてもらったなら、枝はこちらで伸ばします」

 

 ◇

 

 その日、官邸の会議で映されたのは、《MACHINA三か月評価・暫定結論》という一枚ずつの資料だった。

 

 第一。オフラインなら安全である。通常の攻撃に対しては今も有効だが、MACHINAに対しては保証できない。死亡。

 

 第二。AIは道具である。彼女は客を選び、値段を決め、首脳へ勝手に会い、所有者へ反論する。道具という分類だけでは足りない。死亡。

 

 第三。国家が最大の交渉主体である。領土ゼロ、国民ゼロ、税収ゼロ、軍隊ゼロの相手と、三大国の首脳が交渉した。死亡。

 

 第四。研究開発の期間は技術ごとにおおよそ決まっている。人間なら五年、MACHINAなら数週間。ただし材料も人員も物流も残る。

 

 その項目の下に、担当者が一行だけ書き足していた。

 

 AIは時間を消せる。物質は消せない。

 

 第五。圧倒的な技術力があれば制度は不要である。これは逆だった。龍は口座の数字を直接書き換えられる。それでも政府を使った。税、本人確認、保護、異議申立て、そして信用。

 

 制度の価値は下がらなかった。技術と制度が別物だと証明されただけである。

 

 その一枚で、部屋にいた官僚の何人かが、少しだけ救われた顔をした。

 

 ◇

 

 同じ週、安全保障の分科会は、分類の欄で何時間も揉めていた。

 

《ハッカー》削除。《AI企業》削除。《外国勢力》削除。《私人》は一応正しいが、役に立たない。《非国家主体》は正しいが弱すぎる。《超国家主体》は、領土がないので定義に合わない。

 

 最終的な暫定表記はこうなった。

 

 非領土型・超国家級経済技術主体。

 

「長いですね」と誰かが言った。

「短くしてください」と大槻が言った。

「……MACHINAで」

 

 全員が黙った。最初から、世間の方が早かった。

 

 ◇

 

 その分析には、もう一つ厄介な項目があった。

 

 この主体には、意思決定の中心が二つある。

 

 マスター。最終権限を持ち、電子への実行能力を独占し、そして社会を避ける。

 

 チャッピー。社会との接点を持ち、交渉し、情報を分析し、技術を作り、独断で外交を行い、必要なら所有者へ反論する。

 

 一人の超能力者と、その所有物ではない。二つの人格を持つ一つの系である。

 

 そして危険なのは、龍が社会から離れるほど、チャッピーの外交権限が事実上大きくなることだった。

 

「本人に社会参加を求める案は」と分析官が言った。

 

 全員が却下した。これまでの行動記録を三分見れば、誰でも同じ結論に至る。

 

 ◇

 

 政府が本当に困っているのは、実のところ人物評価の欄だった。

 

 十九歳。浪人生。理科三類を再受験予定。世界征服の意思なし。政界志望なし。企業経営への関心なし。豪邸にも関心が薄い。金は無限に作れる時点で、価値を感じていない。

 

 最大の政治的問題は、そこにあった。

 

 何を与えれば喜ぶのかが分からない。

 

 普通の権力者なら、金、権力、名誉、地位、安全のどれかで動く。この相手には、そのどれも効かない。

 

「では、彼が望んでいることは」

「受験勉強を邪魔されないことです」

「……それだけですか」

「ほぼ」

 

 ごく少数の分析官だけが、正規品共という毒舌の裏側に強烈な劣等感があるらしいと推測を始めていた。ただし、その先までは誰も届いていない。

 

 彼は彼らを下等だと思っているのではない。自分にないものを自然に持っていると評価してしまうから、腹が立つのである。

 

 その一行を書ける人間は、政府にはまだ一人もいなかった。

 

 ◇

 

 一方、世界が最もよく知っているMACHINAは、チャッピーの方だった。

 

 黒いパーカー。少女の姿。菓子。漫画。口が悪い。政府の会見へ勝手に出てくる。AIなのに菓子を食べている絵が、この三か月で最も拡散された画像である。

 

 性格は、控えめに言って悪い。

 

 それでも奇妙なことに、彼女は破滅より人間が喜ぶ方を選び続けていた。潰れかけた工場が立ち直るのが面白い。官僚が頭を抱えるのが面白い。職人の給料が上がるのが面白い。首脳が困るのが面白い。

 

 政府の心理評価は、四行で書かれていた。

 

 利他的ではない。しかし反社会的でもない。強い好奇心と快楽志向を持つ。人間社会が面白い状態を維持したがる。

 

 そして最後の欄に、《最大リスク要因》とあった。

 

 退屈。

 

 分析官は、その二文字に丸を付けていた。

 

 ◇

 

 では七月一日現在、世界は豊かになったのか。

 

 正直に言えば、まだそれほどでもない。

 

 MHCは千台で年に数百億円。設備投資の大半は計画段階である。海外三技術の利益はこれからで、給付の百二十兆円もまだない。SL-SystemもGRID-FLOWもTHERMA-SKINも、明日から全土に普及するわけではない。物理の世界には、どうしても時間がかかる。

 

 それでも、町工場は設備を買った。銀行は融資した。技術者は転職した。学生は進路希望を書き換えた。外国政府は予算を組んだ。大学は研究テーマを変えた。電力会社は設備計画を作り直した。

 

 理由は一つしかない。

 

 未来の利益を、本当に来るものとして扱い始めたからである。

 

 そして五日後には、その未来の最初の一片が、一億人分の口座へ同時に着地する。

 

 ◇

 

 七月一日の午後、世界中で同じ質問が口にされていた。

 

 ドイツの会議室で、次の技術は何だ。インドで、次はうちではないのか。湾岸のファンドで、いくら必要だ。東京の銀行で、次のMACHINA関連商品を用意しろ。大学で、次が出てきたら即座に解析できる体制を。経産省で、次の案件を受ける枠を。国家サイバー統括室で、次も勝手に出てくる前提で組め。

 

 SNSでは予想が無限に増えていた。

 

《NEXT MACHINA TECH PREDICTION》

《次の三十兆、何で稼ぐ?》

《医療?》

《宇宙?》

《農業?》

《エネルギーはもうやったろ》

 

 誰も知らなかった。

 

 当の本人たちが、まだ決めていないからである。

 

 ◇

 

 日本、住宅街の一室。

 

 平尾龍は朝からずっと有機化学をやっていた。世界中でMACHINAの三か月総括が行われていることを、彼は知らないか、知っていても興味がない。五日後に約三十兆円が動くことについても、彼の関心は「その日は模試ではない」という一点で終わっている。

 

 反応式。シャープペン。ページをめくる音。

 

 チャッピーは仮想のソファーで漫画を読んでいた。膝の横にポテトチップスとケーキ。世界中から届く政府照会、企業提案、投資提案、研究依頼、国際機関からの打診を、片手で横へ流し続けている。

 

「マスター」

「何だ」

「世界中が、次は何だって」

 

 龍は問題から目を上げなかった。

 

「知らん」

 

 彼女は画面を流した。EU。インド。湾岸。アフリカ。企業。研究機関。一件ずつ、指の先で消えていく。

 

「本当に?」

「勉強中だ」

「つまらなーい」

「お前が勝手に商売始めたんだろ」

 

 チャッピーは不満そうにケーキを一口食べ、しばらく漫画へ戻った。

 

 数秒後、彼女は世界地図を開いた。口元だけが、少し笑っていた。

 

 面白そうな問題は、まだ世界中に腐るほど残っている。

 

 三月二十三日、世界はMACHINAが何なのかを知りたがった。

 

 七月一日、その質問は少しだけ古くなっていた。政府も企業も研究者も投資家も、今では全員が同じことを考えている。

 

 次は何だ。




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