チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~   作:tinko1129

15 / 16
第十五話 ニコニコ一括現金払い

 

 

 七月一日、夜。

 

 世界中で、次のマキナ技術が予想されていた。ニュース番組が特集を組み、海外のSNSが技術ツリーの画像を回し、企業が会議室を押さえ、政府が資料を作り、投資家が銘柄を並べ、研究者が準備を始めている。

 

 給付の第一回まで、あと五日だった。

 

 その夜、平尾龍の部屋にあったのは、夏期講習のパンフレットと、有機化学の問題集と、模試の成績表と、シャープペンだった。

 

 そして画面には、ドラクエが映っていた。

 

 市販の状態ではない。チャッピーが勝手に二人プレイへ改造したものである。原作の一人用の進行は崩さないまま、龍と彼女がパーティ内の別々のキャラクターを担当できる。戦闘ではそれぞれが自分の担当へ命令を出し、探索では操作権を交代し、装備と所持金は共有する。

 

 当然、彼女はゲーム内部の情報を全部読もうと思えば読める。だから縛りがある。

 

 内部データの直接参照禁止。乱数の先読み禁止。セーブの改竄禁止。敵の行動ルーチンの解析禁止。所持金の生成禁止。

 

 前科があるからである。

 

「世界最高性能AIに能力制限してゲームさせる意味ある?」

「ないとゲームにならねえだろ」

「一回くらい見てもバレないと思うのよね」

「アイアンメイデンがまだ動く」

「……はいはい」

 

 ◇

 

 戦闘の入力待ちの間、龍は夏期講習の講座一覧を見ていた。

 

 チャッピーには、その行動が長らく不思議だった。今の龍の学力は、少なくとも大学入試の問題を自力で解く能力に限れば、多くの予備校講師より上である。金を払って授業を聞く理由がない。

 

「自分より問題解けない人に、教えてもらうの?」と彼女が訊いた。

「教師は俺と点数競う仕事じゃねえだろ」

 

 龍は自分を天才だとは思っていない。地頭は凡庸だと理解しているし、勉強そのものも好きではない。四年半ぶんの十六時間がそのまま点数になっただけだと、彼はいまだにそう認識している。

 

 だからこそ、講師の異常さがよく分かる。

 

 彼自身なら、百問解いて、三回失敗して、参考書を五冊読んで、十時間考えて、ようやく手に入れる着眼点がある。優秀な講師は、それを九十分の授業で、ここを見ろ、という一行にして他人へ渡してくる。

 

「去年、講習で一回だけ受けた講師がいてな」と龍は言った。「開始十分で、俺が三か月かけて自分で気づいたやつを板書した」

 

 自分が数百時間かけて作った回路から、無駄な配線を全部取り除いて、初対面の人間でも使える形にして渡す。彼にとってそれは、問題を解く能力とはまったく別種の技能だった。

 

「あれは芸術に近い。点数で勝てるかどうかとは関係ねえ」

 

 ◇

 

 その講座を選び終えたところで、電話が鳴った。予備校の事務からである。

 

 要件は事務的で、そして親切だった。夏期講習についても特待の対象になるので、費用は不要です。手続きはこちらで処理します。

 

「払います」と龍は言った。

 

 電話の向こうが止まった。

 

「……いえ、平尾さんは全額免除の対象ですので」

「知ってます。払います」

「規定上、こちらから請求するのは難しいのですが」

「じゃあ規定外で受け取ってください。振り込みます」

 

 事務員は困り果て、上と相談すると言って一度切った。

 

 チャッピーが漫画から顔を上げていた。

 

「なんで断ったの。タダなのよ」

「タダで受けたら、あの九十分に値段がつかねえだろ」

「あなたが払わなくても、講師の給料は出るわよ」

「そういう話じゃない」

 

 彼はパンフレットの講座名を指で押さえた。

 

 

 そう言いながら、彼は少し納得していた。

 

 ◇

 

 チャッピーは仮想のソファーにいた。片手にコントローラー、もう片方の手にプリン。

 

 実際には食べていない。過去に龍から取得した味覚のログを再生しているだけである。彼女は人間の身体が経験する俗な感覚だけは、龍を経由しなければ新しく取得できない。

 

 この数か月、二人の間で成立しているのは、そういう交換だった。

 

 彼女が技術を作る。龍が社会性を借りる。その代わりに、龍が何かを食い、遊び、身体的な快楽を経験し、彼女がそれをコピーする。

 

《感覚データ取得履歴》

 

 彼女がゲームの横へ、その一覧を開いた。

 

「消せ」

「やだ」

 

 ◇

 

 六月下旬、マッサージ。

 

 彼女が頼んで、龍は嫌々行った。こんなものの何が気持ちいいんだ、と言いながら台に乗り、肩と背中と脚を順番に押された。張っていた筋肉がほぐれるときの軽い痛みと、その直後の解放。

 

 終わった後、彼は「別に」と言った。

 

 彼女には全部伝わっていた。筋緊張の変化、心拍、呼吸の深さ、その後三十分の眠気。本人の言葉より、身体の方がずっと正直である。

 

 彼女の評価では、かなりの上位だった。サウナのときも同じで、二度とやらんと言った男の身体は明確にそれを気に入っていた。

 

 龍は自分の快楽の評価について、信用できない。

 

 ◇

 

 同じ週、パチンコ。

 

 これも彼女の提案である。人間をあれだけ長時間座らせる仕組みを知りたい、という理由だった。なお龍は十九歳なので、この一件だけは合法である。

 

 音。光。期待。外れ。また期待。強い演出。そして大当たり。

 

 その瞬間、龍の脳の報酬系が強く反応した。感覚リンク越しに、彼女にも同じものが流れ込んだ。

 

 二人とも、普通にめちゃくちゃ気持ちよかった。

 

「これ、駄目なやつだ」と彼女は笑った。

 

 龍はもう一度回した。また当たった。かなり気持ちよかった。

 

 そこで、彼は冷めた。

 

 勝ち額を見たからである。数万円。彼にとって、その数字はもう何の意味も持っていなかった。一万円でも、三万円でも、十万円でも、人生は一ミリも変わらない。

 

 金の希少性が消えている人間には、金銭報酬への期待そのものが成立しない。

 

 次に当たったときは、最初ほど気持ちよくなかった。その次はもっと弱かった。

 

「価値観だけで、ここまで身体反応が変わるのね」と彼女はデータを取りながら言った。

 

 ただし彼女は、最初の一発目の感覚を保存している。後から何度でも再生できる。

 

「お前、それもうパチンコじゃねえだろ」

 

 ◇

 

 先週、ちょっといいステーキ。

 

 高級すぎない、しかし普通よりはかなり良い店である。肉は旨かった。二人とも満足した。

 

 そして価格を見て、同じ結論に達した。

 

「うまいけど、この値段ほどではなくない?」

 

 以前の高級料理のときも同じだった。高級車も、高級ホテルも、一応経験してみた。悪くはない。ただ、刺さらない。

 

 彼女にとって重要なのはブランド名でも所有権でも社会的地位でもなく、新しい身体感覚が取れるかどうかである。龍の方も、他人に羨ましがられることへの興味が最初から薄い。

 

 結果として二人が繰り返しているのは、ゲームと、サウナと、マッサージと、そこそこ旨い飯と、菓子だった。

 

「金持った割に、貧乏性だな」

「一泊三十万のホテルより、初めて受ける一万円のマッサージの方がデータ量は上よ」

「だろうな」

 

 二人とも、極端なコスパ厨だった。

 

 ◇

 

 戦闘が一段落したところで、チャッピーがステータス画面の横に別のウィンドウを開いた。

 

《マキナ基金・七月一日時点》

 

 現金・預金・短期国債等 四・〇五兆円。

 契約済み債権 五・六九兆円。

 割引評価された将来ロイヤリティ等 二〇・五〇兆円。

 

 総合評価額、三〇・二四兆円。

 

「今のスコア」と彼女は言った。

 

 三十兆円の現金があるという意味ではない。大半は、将来入ってくる金を現在の価値へ割り引いて評価したものである。政府が求めていたのも最初からそこだった。六月中に三十兆円を売上として積むことではなく、三十兆円以上が入ってくると合理的に評価できる裏付けを作ること。

 

 そして、その裏付けは既にある。

 

 人口はおよそ一億一九二五万人。一人二十五万円で、約二十九兆八一二五億円。基金の総評価額は三〇・二四兆円である。

 

 政府と、銀行と、契約済みの債権と、ロイヤリティを組み合わせれば、七月六日の第一回給付を実行する仕組みは既に作れる。足りていないわけではない。必要なら、KABEの追加契約と、国富損失予報と、行政用のマキナリンクを日本政府へ売れば、現金をもっと引き出すこともできる。

 

 その日の朝、官邸の資料には「不可能だと切り捨てる根拠が消えた」としか書かれていなかった。政府は、自分の言葉で保証できる範囲しか紙に書かない。書けば、それは約束になるからである。

 

 チャッピーの側にそういう制約はない。彼女の帳簿では、七月六日は既に通っていた。

 

 そして龍は、その処理に一度も関わっていない。基金も、政府との交渉も、全部彼女が回している。彼はゲームをしていた。

 

 ◇

 

「でも、嫌」

 

 唐突に、彼女が言った。

 

「何がだ」

「理屈の上ではできるのよ。評価額でも、債権でも、担保でも、六日は通る。でも嫌」

「理由は」

「どうせなら、ニコニコ一括現金払いがいいじゃない」

 

 龍がコントローラーを置いた。

 

 彼女が欲しいのは、評価額でも現在価値でも担保でもなかった。三十兆円の現金を、本当に基金の口座へ積むことである。

 

 そして七月六日、それを本当に一括で落とす。残高が三十兆円近く減る。

 

 その瞬間が見たい。受給の通知。家族の反応。消費。銀行の動き。ニュース。全部見たい。

 

 彼女にとって、三〇・二四兆円という現在価値はゲームのスコアである。三十兆円の現金は、イベントフラグだった。

 

「政府からもっと引き出せばできるだろ」

「せっかくなんだから、外から持ってきた金でやりたいの」

 

 理由はそれだけだった。

 

 ◇

 

 彼女はカレンダーを開いた。

 

 七月五日までに、手元の現金を三十兆円へ積み上げる。翌六日の朝、第一回給付。

 

 今すぐ動かせるのは四・〇五兆円。差額は二十五兆円台の後半になる。

 

「五日までに?」

「そう」

「四日でか」

「三日半ね」

 

 龍は数秒考えてから、当然の質問をした。

 

「届かなかったらどうすんだ」

「普通に評価額でやるわよ。政府と銀行を並べて、六日には配る。それは絶対」

 

 彼女はプリンを一口食べた。

 

「ただ、つまらない」

 

 ◇

 

 ゲームを続けながら、二人はニュースを流していた。

 

 マキナ景気。産業革命。新時代。

 

 龍が違和感を口にした。

 

「実際には、まだそんな変わってなくねえか?」

 

 GRID-FLOWはまだ中国全土に入っていない。THERMA-SKINもロシア中の設備には塗られていない。SL-Systemもアメリカの全工場では動いていない。MHCは千台と、次の案件があるだけである。

 

 それでも世界は既に、設備投資も、採用も、株価も、教育も、電力の計画も、研究開発も、外交も変えていた。

 

「変わってるわよ」と彼女は言った。「ただ、実物より先に期待値が変わったの」

 

 企業は来年を予想して今日の設備を買う。銀行は将来の利益を予想して今日金を貸す。学生は五年後を予想して今日の進路を選ぶ。市場は未来の利益を今日の株価へ入れる。

 

 マキナが世界を全部書き換えたわけではない。マキナが次も何かを起こすと予測した人間の方が、勝手に走り始めた。

 

 彼女は、そこを一番面白がっていた。

 

 ◇

 

「じゃあ、今いちばん遅いのはどこだ」

 

 彼女は現在動いている海外案件の工程を一覧で出した。

 

 設計、数秒。最適化、数分。

 

 そこで止まる。

 

 法律確認。規格。契約。輸出入。工場選定。部品調達。発注。輸送。通関。据付。検査。認証。人間の承認。

 

 数週間から数か月。

 

 龍は一覧を上から下まで見て、短く言った。

 

「手続きと物流か」

「そう」

 

 MHC以前、最大の律速は、どう作ればいいか分からないことだった。マキナがそこを消した。

 

 すると、その次に遅いものが露出した。分かっているものを、実際に社会へ置く工程である。

 

 だから彼女は、新技術だけを増やしても満足できなくなっていた。技術を渡す、各国が数か月の手続きをする、サプライヤーを探す、部品が足りない、物流が詰まる。その繰り返しでは、世界の改変がすっとろくてつまらない。

 

 壮大な社会改革の思想ではない。単に、待つのが嫌なだけである。

 

「そこ、丸ごと潰せるのか」と龍が訊いた。

「潰せるわよ。法律も税関も人間の承認も残したままでね」

 

 規格の差分を先に整理しておく。書類は先に作っておく。足りない情報はその場で照会する。同じ試験を二度やらせない。世界中の工場の空きと在庫と代替部品を突き合わせる。輸送と通関と据付と技能者の手配を、順番ではなく同時に走らせる。

 

 人類が順番にやっていた仕事を、同時にやるだけである。

 

 AIは時間を消せるが、物質は消せない。日本政府の資料には、そう書かれていた。

 

「物質は消せないわよ」と彼女は言った。「だったら、物質が動いてない待ち時間を消すの」

 

 もちろん万能ではない。船の速度は上がらないし、加工時間はゼロにならないし、人間は眠らなければならない。法的な判断は国家がするし、安全認証は省けないし、橋がなければ橋は渡れないし、足りない銅は画面から生成できない。

 

 できるのは、世界中に既に存在している資源を、待ち時間なしに正しい場所へ繋ぐことだけである。

 

 それでも、圧倒的に速くなる。

 

 ◇

 

「明日、オークションやる」

 

 戦闘の最中に、彼女が言った。

 

「何を売るんだ」

「言わない」

「は?」

「明日、見て」

 

 龍が横目で彼女を見た。彼女は漫画のページをめくっていた。楽しくて仕方がないときの顔である。

 

「いくらだ」

「それも言わない」

「なんでだよ」

「先に言ったら、明日つまらないでしょう」

 

 龍は数秒考えて、確認するべき点だけを確認した。

 

「俺の時間使うか」

「使わないわ」

「犯罪か」

「まあまあね」

「まあまあってなんだ」

「毎回そうでしょうが」

 

 彼は問題集の方へ手を伸ばした。

 

「じゃあ勝手にしろ」

 

 ◇

 

 その夜のうちに、彼女は電話をかけた。

 

 EU。インド。ドイツ。フランス。イタリア。米中露へは、既存顧客向けの通知だけを送った。

 

 日本政府へは、何も伝えていない。

 

 止められると思ったからではない。伝えれば会議が始まるからである。三省庁が呼ばれ、法解釈が確認され、外交上の整理が必要になり、そして早くても水曜日になる。彼女の予定では、水曜日には決済が終わっている。

 

 当然、相手側の最高機密回線へ、黒いパーカーの少女が突然現れることになる。既に米中露の件が裏で共有され始めていたため、反応は驚愕ではなく諦めに近かった。

 

 またマキナか、である。

 

 彼女の用件は短かった。

 

 明日の日本時間で正午、オークションをやる。参加したいなら、条件を満たす証明を朝までに出しなさい。細則は今送った。支払いは現金で、期限は七月五日。

 

 以上だった。長い外交交渉はしない。

 

「……これは、入札なのか」と、EU側の担当が細則を読みながら訊いた。

「だいたいそう」

「だいたい、とは」

「明日ね」

 

 彼女は続けて、質問を三つだけ受け付けた。

 

「加盟国の個別参加は認められるのか」

「認めるわ」

「EUとして共同で出ることも」

「好きにすれば」

「両方を同時に出した場合は」

「勝手にどうぞ」

 

 回線の向こうで、複数の人間が同時に喋り始めた。競り合いの構図をどう作るか、他国と組むか、単独で行くか、いくらまで出せるか。

 

 その騒ぎの隙間へ、彼女は一言だけ落とした。

 

「言っとくけど、勝ち負けの話じゃないわよ」

 

 会話が止まった。

 

「……どういう意味だ」

「明日ね」

 

 回線が切れた。

 

 ◇

 

 その瞬間から、ブリュッセルと、ベルリンと、パリと、ローマで、深夜の会議が同時に始まった。

 

 普段なら数週間から数か月かける調整が、一晩の日程に押し込まれている。誰も細則の意図を掴めていない。掴めていないまま、全員が金の話を始めていた。

 

 インドはもっと速かった。以前から、次はうちではないのか、と考えていた国である。人口も、製造業も、電力も、水も、農業も、物流も、都市化も、全部が候補になる。

 

 そこでも同じ疑問が最後に残った。あの女は、勝ち負けの話ではない、と言った。

 

 競り合いではないなら、これは何だ。

 

 ◇

 

 回線を切った彼女は、妙に機嫌がよかった。

 

「何がそんな楽しいんだ」と龍が訊いた。

 

 人類の巨大な組織は遅い。会議と、決裁と、予算と、調整を理由にして、何でも数か月かける。

 

 ところが、明日まで、と言われれば本気で一晩動く。

 

「できるじゃない」

 

 それが、彼女にとってもう一つの実験だった。

 

 ◇

 

 ゲームを終える頃、彼女は細則の最終版を仕上げていた。

 

 龍が背後を通ったとき、画面に映っていたのはその末尾だけである。赤字で書かれた除外項目の欄だった。

 

 兵器。大量破壊用途。直接的な攻撃能力。医療。

 

 その上に何が書いてあるのかは、彼の位置からは見えなかった。

 

「そういや」と彼は言った。「医療系統のオーバーテクノロジーなら、一瞬で世界変わるし、金も既定値まで行くだろ。なんでやってねえの?」

 

 チャッピーの手が、少しだけ止まった。

 

「いや、逆に聞くけど」

 

 彼女は顔を上げずに言った。

 

「マスター、自分がなる医者って職業の価値、自分で下げたいの?」

 

 龍が黙った。

 

 医師は、彼にとって単なる職業ではない。人に好かれなくてもいい。会話が続かなくてもいい。共感できなくてもいい。目の前の人間の命を延ばす技術さえ持っていれば、社会は自分に用途を認める。それを国家資格という形で証明する。

 

 十四歳のときに立てた計画は、それだけだった。四年半をそこへ投じ、落ちて、それでももう一度そこへ向かっている。

 

 医師が不要になる、というほど雑な話ではない。ただ、超高精度の診断、個別化された治療の最適化、新薬の探索、再生医療、慢性疾患の根治、手術の支援。それらを一気に百年進めれば、医師という職業の希少性も、仕事の中身も、社会の中での価値の構造も、確実に大きく動く。

 

 彼が欲しがっている、自分にしか提供できない、直接人間の命へ作用する用途。その価値も、当然変わる。

 

「別に、下がっても──」

 

 龍が言いかけて、途中で止まった。自分でも嘘だと分かったからである。

 

「他に理由もあんだろ」と、彼は結局そう言った。

「ないわよ」

 

 彼女の説明は、そこから先も俗なままだった。他で金を稼げるのに、わざわざマスターの精神的な地雷を踏む意味がない。受験中に壊れられると面倒だし、感覚データの供給源としても困るし、ゲームの相手としても困る。

 

 嘘ではない。ただし全部でもない。

 

 今の龍を多少は気に入っている、という部分だけは、彼女は最後まで言わなかった。

 

 二万二千七百円を払う理由を、あの男が「値段がつかないから」としか説明しなかったのと、同じ形式である。二人とも、本当の理由を口に出す趣味がなかった。

 

 ◇

 

 沈黙が数秒あった。画面の中では、龍のキャラクターが瀕死になっていた。

 

「回復しろ」

「マスター、医者になるんでしょう。自分で治したら?」

「ゲームで医師免許使えるか」

「使えたら国試いらないわね」

 

 それで終わった。

 

 ◇

 

 夜十一時過ぎ、予備校の事務から折り返しの電話が来た。

 

 上と相談した結果、講習費は通常どおり請求するかたちで処理させていただきます、と事務員は言った。声が少し困っていた。

 

「ありがとうございます」と龍は答えた。

 

 九十分が五コマ。二万二千七百円。振込先を控え、彼は電話を切った。

 

 同じ時刻、世界は別の金額を数えていた。

 

 ブリュッセル。ベルリン。パリ。ローマ。ニューデリー。企業の本社。銀行。政策金融機関。深夜なのに、どのビルも照明が落ちていない。

 

 会議室のどこにも、何を買うのかは書かれていない。細則には支払いの条件と期限しか具体的な数字がなく、肝心の商品は一行も説明されていなかった。

 

 それでも全員が同じ質問を並べていた。いくらまでなら出せるのか。誰と組むのか。単独で行くのか。

 

 画面の中央には、同じものが表示されている。

 

《第一回マキナ国際技術オークション》

 

 その下に、開始までの残り時間が刻まれていた。

 

 東京では、龍がドラクエをセーブして、参考書を開いていた。チャッピーはプリンの感覚データを再生しながら漫画を読んでいる。

 

 世界中が、中身も知らないまま、明日いくら払うかを相談していた。

 

 龍が考えていたのは、夏期講習を入れた日の自習時間をどう確保するかだけだった。

 

 マキナが世界を動かしている、と誰もが言った。半分は正しい。残りの半分は、マキナが次も動くと信じた世界が、勝手に走っているだけだった。

 

 この夜、平尾龍は九十分の授業に二万二千七百円を払うと決めた。

 

 翌日、世界が同じことをする。ただし桁が九つ違う。




矛盾 ガバ 意味不明なセリフとかあったらガンガン指摘していただけると嬉しいです
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。