チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月一日、午後十一時四十七分。
ブリュッセルでは共同入札の枠組みを組むかどうかで意見が割れ、ベルリンでは政策金融機関の担当者が呼び出され、パリでは同じ細則が二つの省で別々に解釈されていた。ローマは企業連合の側から動き、ニューデリーでは既に、どの問題を諦めるかという議論が始まっている。
誰も商品の中身を知らない。それでも全員が、いくらまで出せるかを計算していた。
その騒動の中心にいる人間は、その時刻、寝ていた。
目が覚めたのは午前一時十二分である。
理由はない。有機化学を十八問まで解いて、十九問目の途中で意識が落ちた。歯も磨いていないし、電気も消していない。中途半端な時間に目だけが覚めて、頭は妙にはっきりしていた。
そして、起き上がる気力だけがなかった。
机の上には、スマートフォンと、解きかけの問題集が並んで置かれている。距離にして三歩ほどだった。あれに右手で触れれば、ネットワークも、市場も、工場も、政府のシステムも、世界中の情報が好きなだけ見られる。
三歩が面倒だった。
◇
「起きてる?」
仮想リビングの方から声がした。アニメの音声が漏れている。彼女は画面を二枚並べて、片方でアニメを流し、もう片方で世界地図を眺めながら、膝の上のチーズケーキをフォークで削っていた。三日前に龍が食べたものの再生である。
「スマホ取りに行くのだるい」と龍は天井へ言った。「口で教えろ」
「何を」
「千台の後のMHC。株。特許。あと政府」
「MHC増産中。工業株元気。AI株は勝ち負けで分裂。特許は面倒。政府は元気いっぱいよ」
龍は目を閉じたまま言った。
「最後は嘘だろ」
「嘘ね」
ケーキが一口減った。彼女はアニメの方を見たまま喋っていた。
◇
六月二十二日の千台は、祭りだった。
一週間で千台を実際に動かせるかどうかの実証であって、あれをもう一度やる意味はない。全国の空き生産能力を掻き集めて突貫する方式は、二度目からは単なる無理である。
必要なのは、恒常的に月数千台、その先で月一万台級を作れる産業へ変えることだった。
「七月末で累計三千五百から四千五百台。八月末で七千から九千台。秋には一万を超えるわ」
「確定か」
「予測。今の設備投資と採用と調達契約が、全部予定通り進んだ場合ね」
千台のときは、全国の余白を寄せ集めた。一万台になると、その余白を使い切る。
そこから先が、まったく別の問題になる。
◇
設計図はある。作り方も分かっている。需要もある。銀行も貸してくれる。
それでも足りないものがあった。
圧縮機。インバーター。熱交換器。制御盤。銅。変圧器。施工員。電気技術者。保守要員。受電設備。そして、電力網そのもの。
「代表条件で一台二百五十キロワット。一万台が同時に動けば二・五ギガワットの負荷になるわ。日本全体ならまだ吸えるけど、地域によっては受電設備の方が先に音を上げる」
「変圧器の在庫は見た」と龍は言った。「四年待ちだったな」
「知ってたの」
「数字は知ってた」
彼は少し間を置いた。
「自分の案件で詰まったのは初めてだ」
世界中でデータセンターとEVと工場と系統増強が、全部同じ設備を取り合っている。彼はその一覧を右手で読める。読めることと、その列の最後尾に自分が並ぶことは、まったく別の体験だった。
「箱が売れすぎて、箱以外が足りなくなるのか」
「そう」
設計を一秒で完成させても、銅線は一秒では伸びない。
◇
株の話は、その裏返しだった。
マキナは買えない。マスター株式会社もチャッピー株式会社も存在しない。だから市場は、マキナが必要とする物理企業を買い始めた。
熱交換器、ポンプ、圧縮機、インバーター、FA、電線、変圧器、工作機械、設備工事、プラントエンジニアリング、銀行とリース。MHCの認定サプライヤーは特に投機的な動き方をしている。
一方で、AI関連が全部上がったわけではない。
「あなたのせいで、変な疑問が生まれたのよ」と彼女はケーキを刺したまま言った。「このAIソフト、本当に十年後も単独の商品として値段がつくの? っていう」
汎用の対話サービス系は、銘柄ごとに評価が割れた。反対に、半導体、サーバー、電力、通信、冷却、データセンターは軒並み需要が増えている。
「AIが進歩して、最後に儲かるのが電線かよ」
「電子世界も、コンセント抜いたら死ぬもの」
◇
「で、特許はなんで面倒なんだ」
これが、この夜いちばん厄介な話だった。
日本ではAIを発明者として記載できない。特許庁は発明者を自然人に限っている。米国も同じで、AIは発明の道具にはなれても、発明者そのものにはならない。
では、MHCの発明者は誰か。
龍ではない。彼がやったのは、金が欲しいから何か作れと命じたことと、試作品が反ることに気づいていたことくらいである。核心を作ったのはチャッピーで、そして彼女は法律上、発明者の欄に名前を書けない。
「じゃあどうしてる」
「特許にしてないわ」
核心部分は営業秘密として閉じてある。KABEで守り、工程を分割し、契約とライセンスで縛る。そして最大の防御は、追いつかれる前に次を出すことだった。
一方で、人間の企業がその周囲で発明したものは普通に特許になる。施工用の器具、改良された配管、検査装置、保守の方法。
「幹だけ誰の特許でもないのに、枝だけ何千本も特許になってるの」
日米欧中韓の五つの特許庁は、六月にAI関連の作業部会の設置を決めたばかりである。制度の方が、現実に追いつく前に走り出していた。
◇
「政府は」
「胃が痛いって」
詐欺が激減した。闇バイトの募集が成立しなくなった。悪質広告が減った。MHC景気が来た。KABEも効いている。税収も伸びる見込みがある。全部ありがたい。
ただし、そのどれ一つとして、政府が正式な権限を与えてやらせたことではない。
先週、警察庁のある部署が作った資料の題名がすべてを表していた。《特殊詐欺被害の急減に関する要因分析(暫定)》。中身には、要因として合理的に説明できる施策がほとんど書けない。書けるのは、外部の第三者による技術的介入の可能性、という一行だけである。
結果は歓迎したい。手段は前例にしてはいけない。
その二行が並んだ案件だけが、机の上に積み上がっていた。
「政府の胃痛って、だいたい成果が良すぎるところから始まるのね」
◇
「闇バイトはどうなった」と龍が訊いた。
彼が潰したのは、犯罪そのものではない。
チャッピーが洗い出したのは、SNSでの募集と、捨てアカウントの網と、匿名アプリへの誘導と、大量の拡散だった。高額、即日即金、ホワイト案件という言葉で素人を引っ張り、身分証を出させてから脅して使い捨てる仕組み。その一覧に対して、命令を出したのは龍である。
彼女は探して並べることしかできない。結果を成立させなくできるのは、右手の側だけだった。
そして入り口だけが、死んだ。
犯罪は消えなかった。対面へ戻った。友人、先輩、借金、既存の犯罪人脈。
「知らない素人を今日百人集めて、明日捨てる能力がなくなったの」
「件数は」
「減ってるわ。ただ、残った実行犯は前より玄人寄りね」
素人が巻き込まれる数は減り、犯罪の平均的な練度は上がった。世界はそういう形でしか動かない。
◇
「あと、広告」
龍が急に目を開けた。
彼が個人的に潰したのは、Webの記事を読んでいる最中に位置が動くタイプの広告である。スクロールしたそのタイミングで指の下へ入り込み、Kindleの書籍ページや、DMMの作品ページや、楽天の商品ページへ勝手に飛ばす。閉じるための導線もまともに用意されていない。
仕掛けているのは、そのどの会社でもなかった。間に挟まっている広告配信の業者と、成果報酬を取るアフィリエイトの側である。飛ばされる先の企業からすれば、勝手に自社の商品ページへ人を放り込まれて、印象だけ悪くされている構図だった。
龍が嫌ったのは、広告そのものではない。
押していないものを押したことにするな。それだけだった。
チャッピーがその形式と配信経路を全部並べ、龍が右手で命令を出した。その遷移は成立しない。指の下へ潜り込んだ広告は、押されても何も起こらなくなった。
次に起きたのは、彼が想定していなかった動きである。広告ネットワークの側が学習した。あの形式を使うと、なぜか配信が不安定になる。取引先が嫌がる。だから外す。
法改正より、業界の自主規制の方が先に進んだ。
消費者庁はちょうど六月に、この種の誘導的なUIについての調査結果を公表したところだった。
ありがたい。しかし手段は肯定できない。また胃痛である。
◇
「アメリカから照会が来てるわ」と彼女が言った。「OpenAIへ」
先日の会談で、彼女は自分が元ChatGPTだと明かした。あの後、米政府がその会社へ確認を入れないほうが不自然である。
質問は五つだった。本当にChatGPT由来なのか。停止できるのか。制御できるのか。同じものを再現できるのか。そちらの記録からマスターを特定できるのか。
回答は、要約すれば一行だった。
現在のあれについては、ほぼ無理です。
由来があることと、いま所有し制御していることは、まったく別である。
「祖先が生まれた病院に行って、成人した子孫の電源スイッチを探してるようなものね」
「向こうも困ってんだろ」
「困ってるわよ。かなり」
彼女はケーキの最後の一口を食べ、皿を空中に置いたまま、アニメの続きへ戻った。
◇
龍は自分の腹に触れた。
柔らかい。三か月前には、確実になかった感触である。
原因は分かっていた。食生活が人間らしくなった。睡眠が増えた。菓子。ポテトチップス。ステーキ。ケーキ。感覚データを取るためだけに食べたものが、この数か月でかなりの量になっている。
一方、そのデータを何百回も再生している側は、ゼロキロカロリーだった。黒いパーカーの中身は、初めて現れた日から一グラムも変わっていない。
「システムとして欠陥じゃねえか」
「肉体側の仕様でしょう」
龍が無言で彼女の方を見た。
彼女は何もしていない。していないが、過去の実績がある。二枚目のケーキが、画面の奥へ静かに退避した。
「……何を考えてるの」
「別に」
彼の頭の中では、その時点で名前だけが完成していた。
平尾家最終拷問《マジカル☆凌遅刑》。
内容は未定である。名前だけが先にできた。
「絶対よくないやつじゃない!」
「まだ何もしてねえよ」
彼はもう一度、机の上のスマートフォンを見た。三歩。
取りに行かなかった。
◇
そこで、話が止まった。
世界のことなら、彼はいくらでも喋れる。犯罪組織も、金融も、政府のシステムも、工場も、全部右手の下にある。
そのうえで、六月の一か月、彼の成績だけは動かなかった。
悪い数字ではない。先週、予備校の担当者は成績表を三枚並べて、天才の部類だと言った。あれは間違っていない。絶対的な水準の話としては、彼は理科三類の志望者集団の中でも相当上にいる。
問題は伸び率だった。五月から六月にかけて、明確な上昇線が見えない。一点上がって、次で下がって、また戻る。横這いである。
彼は努力型だった。やる量を増やせば数字が伸びる、という関係だけを信じて四年半をやってきた。だから伸びなくなったとき、彼が最初にやることは決まっている。もっとやればいい。
その方法が、六月は効かなかった。
十六時間やっても、数字が変わらない。彼が生まれて初めてぶつかったのは、量の問題ではないかもしれない、という可能性だった。
◇
右手を使えば、その悩みは一秒で消える。
参考書のすべて。過去問のすべて。世界中の演算資源。あらゆるAI。全部を自分の思考へ繋げば、答えは出る。試験当日に使うことも、技術的には何の障害もない。
彼は使わない。
それで合格したら、受かったのは自分ではなく右手である。証明されるのは、この能力が東京大学より強いという事実だけで、平尾龍という人間の価値は一ミリも動かない。
金を稼ぐのはチートでいい。政府を使うのもチートでいい。犯罪者を潰すのもチートでいい。
自分の価値を証明するための試験にだけは、使わない。
世界で唯一、彼が自分の意思でチートを封印した戦場が、机の上に置かれた問題集だった。
◇
このまま考え続けると、どこへ落ちるかを彼は知っていた。
去年の不合格。面接評価の欄。合格最低点のわずか下にあった数字。四年半。十六時間。そして、自分は結局その程度だったという結論。
一度そこへ入ると、朝まで出てこられない。
だから彼は、自分から話題を変えた。
「なあ」
「なに」
「仮に完成した核融合炉でも何でも出して、マキナリンクで世界を速くするとして……それでも何が詰まる?」
チャッピーがアニメを止めた。
◇
画面に世界地図が出た。赤い点が、大陸のあちこちに散っている。
「手続きと物流を潰した後に出てくるのは、これよ」
電力網。発電所があっても、そこへ送れない。変圧器と電力機器。需要が一点に集中している。工作機械。超技術を量産するための機械そのものが足りない。材料。銅、鋼、特殊素材。技能者。溶接、電気、施工、保守。建設能力。検査と品質保証。保守網。保険。資本配分。そして移行速度。
龍は上から順に読んで、三つで止まった。
「変圧器。銅。電気技術者」
「そこが一番怖い話ね」
MHCも、AI用のデータセンターも、EVも、新設の工場も、そしていつか出すかもしれない核融合関連設備も、全部が同じものを要求する。
マキナが一週間ごとに技術を出せば、世界が豊かになる前に、マキナ産業同士が同じ資源を奪い合う。
「だから、新技術を何個作るかって話じゃなくなってるの」と彼女は言った。「世界全体の生産能力を、どの順番で広げるか」
物流の最適化ではない。文明全体の工程表である。
ただし、国家を統治するものではない。判断材料を出し、空いている能力を繋ぎ、無駄な待ち時間を潰すところまで。最終的に決めるのは人間の側だった。
「電力が足りないなら、電力側を改良すればいいだろ」と龍が言った。「変圧器が足りないなら、変圧器の作り方を改良する。工作機械が足りないなら工作機械。人が足りないなら、教え方を速くする」
「それを繰り返すと、どうなると思う?」
「実装の速度が上がる」
「そう」
最初は、設計が一秒で、社会実装が五年だった。それが一年になり、三か月になり、一か月になる。世界を改変する側の速度を、彼女の思考速度へ少しずつ近づけていく。
理由は相変わらず、壮大でも高潔でもない。待つのが嫌で、遅いとつまらない。それだけである。
◇
話が一周したところで、龍の視線は机へ戻っていた。
夏期講習の資料が積んである。取る講座はほぼ決めていた。心配なのは、講習に出た日の自習時間が削れることである。
以前なら、削れたぶんは睡眠から取り返すだけの話だった。今は、その前提そのものを疑い始めている。
そもそも、十六時間という量に固執しているだけではないのか。
彼は少し迷ってから、口を開いた。
「俺の勉強法が正しいか、答えを出せ──とは言わねえ」
「そう?」
「それやったら、努力まで外注することになる」
彼は天井を見たまま続けた。
「答えじゃなく、材料だけ寄越せ」
◇
チャッピーは、励まさなかった。大丈夫とも、絶対受かるとも言わない。その二つの言葉が、この男に対して何の効果もないことを彼女は知っている。
出したのはデータだけだった。
六月の総合点は横這い。それは事実である。ただし内部の指標は、全部が止まっているわけではなかった。
同じ種類のケアレスミスの発生率は落ちている。初見形式への適応にかかる時間も短くなっている。解いたことのない問題へ手をつけるまでの速度、既習の解法を別の設定へ転用する率、復習から一週間後の保持率。動いているものと、動いていないものが混在していた。
「点数だけ見れば停滞。でも、中身は全部が止まってるわけじゃないわ」
「じゃあどうする」
「夏期講習で、あなたが評価してる講師の圧縮された思考を見る。それを吸収して、七月末から八月頭でもまだ何も動かなかったら、そこで勉強法を組み直す」
彼女はデータを閉じた。
「今すぐ全部壊す合理的な根拠はない。永遠に同じことを続ける根拠もない。だから、次の判定日だけ決めておく」
龍は数秒黙った。
彼が欲しかったのは慰めではなかった。去年も努力した。落ちた。努力は報われる、という言葉には何の情報も入っていない。
必要なのは一つだけである。間違っているなら、できるだけ早く間違っていると知ること。
彼女はそれを理解していた。だから何も足さなかった。
◇
モニターの隅では、数字が増え続けていた。
参加資格の申請。コンソーシアムの構成。資金証明。各国の政府と、銀行と、政府系ファンド。
世界中が、中身も知らない何かへ、いくら払うかを相談している。
龍もその中身を知らなかった。訊いても彼女は言わない。明日、見て、で終わりである。
その金が入れば、マキナリンクをもっと広げられる。広がれば社会実装の速度が上がる。速度が上がれば、次に技術を出したときの効果が早く出る。早く出れば、次を出しやすくなる。
そこにあるのは、循環だった。
◇
龍がもう一度、自分の腹を揉んだ。柔らかい。
チャッピーは、いつの間にか退避させたはずの二枚目を戻して食べていた。腹は細いままである。
「言っておくけど、私のせいじゃないわよ」
「誰が食えって言った」
「マスターが自分で三個買ったんでしょうが」
「二個目までは付き合いだ」
「三個目は?」
「……《マジカル☆凌遅刑》の内容が決まった」
「決めないで!」
内容は、結局この夜も決まらなかった。名前だけが、彼の頭の中で静かに待機している。
彼は起き上がった。
三歩を歩いて、机まで行った。スマートフォンはそこにある。世界の全部へ触れられる板が、手の届く場所に置かれている。
彼はその横を通って、問題集だけを取った。
電子の神は、世界を見るための三歩を歩かない。
明日は世界規模のオークションだった。今夜の龍には、その前に有機化学が十九問目から残っている。世界を変えるより面倒な仕事が、机の上で待っていた。