チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月二日、午前十時。世界経済を三十兆円動かすオークションが始まったその時刻、平尾龍は予備校の自習室で有機化学の問題を解いていた。
スマートフォンは鞄の中にある。自習室へ入ったら緊急事態以外で干渉するな、というのが二人の取り決めで、チャッピーはその約束を律儀に守っていた。
だから今日、彼は一度も出てこない。
◇
会場は物理的な会議室ではなかった。チャッピーが用意した暗号化された空間で、参加しているのは五つの陣営である。
EU、ドイツ、フランス、イタリア、インド。
日米中露は入っていない。彼女が呼んでいないからで、理由は本人にしか分からなかった。
画面に映るのは各陣営の代表者だけだが、その背後には財務当局と、中央銀行系の担当と、政府系ファンドと、政策金融機関と、主要な企業連合が繋がっている。昨夜のうちに資金証明を揃えてきた面々である。
チャッピーはこの日、珍しく机の前に座っていた。手元にはプリンが一つ置いてある。
「おはよう。始めるわ」
◇
商品は二つだった。
一つ目は、国家損失回避予測の無制限利用権である。既に三か国へ配った三十日版を大幅に拡張したもので、経済、災害、インフラ、産業、物流、行政、そして犯罪リスクについて、放置した場合に予想される損失と、防ぐために最低限必要な費用と、対処の期限と、政府が自分の権限で裏を取るための確認方法が継続的に届く。
二つ目は、世界版マキナリンクの無制限利用権だった。政府だけではなく、参加国の企業と、金融機関と、物流事業者と、産業団体と、地方政府まで使える。機密の情報は権限ごとに分離されるので、他国から中身が丸見えになることはない。
「値段は、参加者全体で三十兆円」
最初に反応したのはEUの代表だった。
「その前に確認させてください。加盟国すべてに同条件で提供されますか。単一市場の中で差別が生じませんか。EUとして取得した権利を、加盟国の企業へ再配布できますか」
「できるわ。三つとも」
「では、購入の主体は」
「そっちで決めて。私は総額しか見ないから」
彼にとっては技術そのものより、それをどう制度へ載せるかが本題である。チャッピーは正直に面倒だと感じたが、同時に理解もしていた。この男が一度うなずけば、数億人の市場がまとめて同じ方向を向く。
最初は遅い。ただし決まったときの範囲が桁違いに広い。
「全体、というのは」とドイツの代表が訊いた。「誰か一国が三十兆払う必要はないと」
「ないわ。五陣営で合計三十兆」
「では割り方は」
「そっちで決めて」
彼の質問は、そこから先ずっと数字だけになった。量産性、故障率、工場の改修費、既存設備の流用率、必要な技能者数、電力の消費量、投資の回収期間。未来像の部分は一行も読んでいないように見えた。
「世界が変わるのは分かりました。それで、何台作れるんですか」
チャッピーとの相性は、この時点で五人の中でいちばん良かった。
フランスの代表は、別の場所を突いた。
「買って使うだけの立場になるつもりはありません。欧州自身が製造できますか。保守できますか。次の世代の技術に追随できますか」
「できるわよ。止める理由がないもの」
「止めない、ではなく」
「支援するわ。そっちの方が速いもの」
欧州を巨大な輸入市場にするつもりはない、という意識が全身から出ていた。チャッピーの側に技術移転を惜しむ気は最初からなかったので、これは歓迎すべき態度だった。
そのドイツが、最高効率の巨大工場を新設する構想を口にしたとき、イタリアの代表が静かに割り込んだ。
「新しく建てるのに三年でしょう。既にある五百社を繋いだ方が、明日から作れませんか」
彼が見ているのは国家プロジェクトではなく、中小メーカーと、部品会社と、港湾と、工作機械の企業と、地域ごとの産業集積である。五人の中でもっとも商売人だった。
そして最後に、インドの代表が口を開いた。
「一万人の技能者を十万人にできますか。農村部まで届きますか。先進国仕様の高価な設備ではなく、国内で大量生産できる形にできますか。雇用はいくら生まれますか」
彼が使う単位は、一工場でも一都市でもなく、常に数億人だった。多少荒くても普及の速度を優先する。チャッピーにとっては、実験対象として最高に面白い市場である。
◇
「じゃあ、これ」
彼女が画面へ出したのは、五陣営ごとの上限額だった。
GDP、政府債務、利払いの負担、外貨準備、経常収支、国内の金融資産、政策金融の動員力、政府系ファンドの規模、民間企業の参加余力、そして為替への影響。それらから彼女が算出した、ここまでなら一括で払っても国家運営が壊れない、という安全側の線である。
「これを超える入札は受け付けないわ」
「我々の財政を、あなたが査定したということですか」とフランスの代表が言った。
「したわね」
「余計なお世話です」
「そうよ。でも、無理して払った国が半年後に緊縮やってたら、私の商品の評判が下がるでしょう」
ドイツの代表が、そこで先に気づいた。
「一つ確認させてください。総額は三十兆円で固定ですね」
「固定よ」
「では、これは競り上げになりません」
会議室の空気が変わった。
普通のオークションなら、値段は上がっていく。だがこの日の総額は最初から動かない。三十兆円という枠を五つで分け合う以上、誰かが多く出せば、必ず誰かの取り分が減る。
「そうよ」とチャッピーは言った。「今日競るのは、値段じゃなくて割合」
そして、この日いちばん重要なルールを付け足した。
「私が見るのは、三十兆円のうちどれだけを背負ったか。それと、自分の上限に対してどれだけ出したか。その二つよ。上限十兆の国が九兆出すのと、上限三兆の国が二兆九千億出すのなら、私の中では後者の方が誠意率は高いの」
イタリアの代表が、この瞬間に初めて前へ乗り出した。絶対額では三か国に届かない。だが比率でなら、最上位を取れる。
◇
当然の疑問が出た。合計が三十兆円で止まるなら、多く背負っても総額は増えない。それを取り合う意味はどこにあるのか。
チャッピーはプリンを一口食べてから答えた。
「もちろん、いっぱいお金っていう分かりやすい誠意を見せてくれた相手には、私だって多少サービスしたくなるわよ」
契約上の特典ではない。五兆円を背負ったから独占権が付く、という話でもない。追加の分析、優先的な相談、導入の支援、その国の事情に合わせた最適化、そして次に出す情報の先行案内。そういったものについて、彼女の印象が良くなるというだけである。
会議室の全員が、その意味を正確に理解した。
契約書に書けない資産のうち、現時点で世界最大のものが、この人工知能からの好感度だった。そして今日、その好感度は増えも減りもしない三十兆円の中で、隣の陣営から奪う以外に取る方法がない。
◇
競りは一時間半続いた。そして、通常の入札とまったく逆のことが起きた。
誰も他人に払わせようとしなかった。全員が、自分がより多くを背負うと主張した。
最初にEUが共同枠として五兆円台の後半を置いた。欧州全体の代表として最大の負担を取る、という筋書きである。
そこへドイツが割り込んだ。EUの枠とは別に、国家財政と政策金融と国内の企業連合を合わせた額を積む。EUの枠が増えれば加盟国個別の取り分が減るという構造を、彼はその場で理解していた。フランスがそれを追い、イタリアが絶対額では届かないまま、上限に対する比率で二人を追い抜いた。
いちばん激しかったのはインドである。政府単独ではなく、政策金融と、政府系ファンドと、巨大な民間企業の連合を全部束ねて積み上げてきた。ここでマキナリンクへ深く入れるかどうかで、今後十年の成長率そのものが変わるという判断だった。
枠が埋まりかけたとき、EUの代表が手を挙げた。
「加盟国の拠出分とEUの拠出分が、二重に計上されていませんか」
「分けてるわ」
彼女は即答した。EUの枠に入っているのは、EUのレベルで動く予算と金融と共同事業の分だけである。ドイツ、フランス、イタリアの枠は、それぞれの国家財政と国内の政策金融と国内企業の分で構成されている。重複は最初から弾いてあった。
最終的な内訳は、EUの共通枠が約七兆円、ドイツが約五・五兆円、フランスが約四・五兆円、イタリアが約二・五兆円、そしてインドが約十・五兆円である。
合計で、ちょうど三十兆円になった。
インドの代表は、最後まで枠を譲らなかった。イタリアの代表は、絶対額では四番目のまま、負担率でその日の首位を取っていた。
◇
チャッピーは着金先の画面を開いた。彼女の口座ではない。
細則に記載されていたのは、日本政府が制度として設置した基金である。外部監査が入り、運営は実在する法人が行い、龍もチャッピーも役員ではない。前回の二百二十億円のときから、この構造は一度も変えていなかった。
彼女がやったのは金を集めることであって、持つことではない。
既存の現金等が四・〇五兆円。そこへ三十兆円が乗る。決済が完了すれば、基金が即座に動かせる資金は約三四・〇五兆円になる。
七月六日の第一回全国給付に必要なのは、二十九兆八一二五億円である。現金だけで実行しても、四兆二千三百七十五億円が残る。
彼女はその数字を三秒ほど眺めてから、誰にともなく言った。
「ニコニコ一括現金払い達成」
五人の代表は、その言葉の意味を誰も理解できなかった。理解できたのは、自分たちが払った三十兆円が、この人工知能の手元には一円も残らないらしい、ということだけである。
日本の給付制度へ全額が流れると細則に書いてあった。読んだ上で、五陣営とも入札していた。
◇
普通なら、ここで終わるはずだった。
EUの代表が閉会の確認をしようとしたところで、チャッピーが椅子の背にもたれた。
「ところで、これオークションとしてあんまり面白くないわね」
「……今さらですか」とドイツの代表が言った。
「値段が先に決まってるんだもの。競りじゃなくて割り勘よ」
そして、彼女の背後で画面が四枚増えた。
◇
日本の官邸の一室。ワシントン。北京。モスクワ。
いずれも最高機密級の系統である。四つの回線が同時に開き、それぞれの国の意思決定の中枢が、何の予告もなくこの会議へ接続された。
米国の大統領は、面倒そうに眉を寄せただけだった。またお前か、という表情である。中国の国家主席は数秒で状況を把握し、既に手元の資料をめくり始めていた。ロシアの大統領は疲れた顔を隠さずに、今日は何をさせられるんだ、と小さく漏らした。
日本側だけ、反応が違った。
「またですか」と大槻が言った。驚いてはいない。三月からずっとこれである。彼が最初にやったのは、この会議の存在を後で国会へどう説明するかの検討を始めることだった。
総理も、なぜ我が国が主催でもない会議へ入れられているのか、とは言わなかった。彼女が最初に確認したのは別の点である。
「この場に日本が同席していたことは、公表されますか」
「されないわ。私が言わなければ」
「では、言わないでいただけますか」
「いいわよ」
その二往復で、日本側の処理は終わった。
参加者は九陣営になった。
「第二部を始めるわ」
◇
「第二部は、お金いらないわ」
前半の五陣営が、そろって固まった。
三十兆円の決済に署名した直後である。EUの代表の表情が、この会議で初めてはっきりと不快なものに変わった。
「先ほどの三十兆円は」
「ちゃんと三十兆円分の商品を渡したでしょう」
彼女の言い分は筋が通っていた。国家損失回避予測も、世界版マキナリンクも、実物として渡っている。前半で買ったものが後から無価値になるわけではない。
それでも、インドの代表が引かなかった。
「一点だけ確認させてください」
彼は画面の右半分に増えた四つを指した。
「あの四陣営は、一円も払っていません。第二部の商品を同じ条件で受け取ります。つまり今後は、後から入った方が得だということですか」
会議室が静かになった。前半の五人が、全員同じことを考えていた。
チャッピーは、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「同じ物は渡すわよ。同じ扱いはしないけど」
「違いは」
「今日、あなたたちが三十兆背負ったのを私は覚えてるってこと。それだけ」
契約書には一行も書けない。数値化もされない。公表もされない。
「次に何か出すとき、先に相談するのは誰だと思う?」
インドの代表は、二秒だけ黙ってから座り直した。前半の一時間半で自分が奪い取ったものが何だったのかを、そこで初めて正確に理解した顔だった。
◇
「じゃあ、我々は何を競うんだ」と米国の大統領が訊いた。
チャッピーは、その質問を待っていた顔をした。
「誰が一番早く、それを使える状態にできるか」
設計データは無条件で全員に渡す。そのうえで、規格を統一するのか、認証の手続きを速くするのか、資格を国どうしで相互に認めるのか、工場へ投資するのか、設備を更新するのか。それらは各国が自分で判断すればいい。
義務はない。罰則もない。何もしなかった国が制裁を受けることもない。
ただし、実行した国ほどマキナの技術を早く使える状態になり、経済的な効果も早く出る。それだけの話である。
「勘違いしないでね」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「私の言う制度に変えろって話じゃないわよ。設計図は渡すし、選択肢も出すし、変えた場合と変えなかった場合の結果も計算する。そこから何を採用するかはそっちで決めなさい。あなたたちの国なんだから」
中国の国家主席が、そこで初めて口を開いた。
「その計算は、我々の制度を評価するものになるが」
「材料としてね。採点じゃないわ」
「では、あなたにとって何の得がある」
チャッピーは、心底不思議そうな顔をした。
「そっちの方が面白いからよ」
主席が続きを待った。今度は、続きがあった。
「その七つね、単体だと一円も生まないの。GRID-BRIDGEを入れても、それだけじゃ電気は一ワットも増えないわよ」
彼女は指を折った。
「でも、あれが入ると世界の実装速度が上がる。そうすると、もう渡してある分の効果が、全部前倒しで出てくるの」
会議室が静かになった。
米国のSL-System。中国のGRID-FLOW。ロシアのTHERMA-SKIN。日本のMHC。既に渡してある。そして、そのどれも効果が本格的に出るのは数年先だった。工場を建て、認証を通し、技能者を育て、部品を待つ。彼女にとってその期間は、渡したのに何も起きていない時間である。
「設計に一秒、実装に五年。わたし、その五年のあいだ、自分が何をやったのかを確かめられないのよ」
「確かめる、とは」と米国の大統領が訊いた。
「効果を直接感じることよ。数字の予測じゃなくて、実際に燃料代が落ちて、工場が動いて、誰かの給料が変わるところ」
そして彼女は、今日いちばん正直な部分を言った。
「速くなれば、次に何か出したときも同じよ。来月わたしが渡したものが、再来月には工場で動いてる。そういう状態にしたいの。それが面白いんだから」
ドイツの代表が、資料から顔を上げた。
「つまりあなたは、自分の技術の結果を早く見たいと」
「そう」
「そのために、七つを無料で配ると」
「土台がないと何を出しても五年待ちでしょう。五年待ちのものを何個出しても、退屈なだけよ」
そこまで聞いて、中国の国家主席が別の結論に到達した。
「では、こちらの実装が速くなるほど、あなたが次を出す頻度も上がるということか」
「上がるでしょうね。出した端から動くんだもの」
その一言が、会議室の全員の計算を書き換えた。
七つを入れるかどうかは、単に自国の生産性の話ではない。この人工知能が今後どの速度で技術を投げてくるかを、受け取る側の速度が決めるという構図になっている。
利益は巨大で、依存も同じだけ深くなる。フランスの代表がそこを理解した顔をしたが、何も言わなかった。言ったところで、入れない選択肢がない。
「あと、もう一個あるわ」とチャッピーが付け足した。
「同じ設計図を九つに渡して、全員がバラバラのことを始める方が、見てて面白いのよ。誰かが失敗するのも込みでね。私が全部指図して、九つの国が同じ制度になって、同じ順番で同じ工場を建てて、同じ結果が出るの。それ、何が面白いの?」
九つの画面が、そろって沈黙した。
「では、その面白さのために我々は走るわけですか」とフランスの代表が言った。
「走らなくてもいいわよ。走らない国を見るのも、それはそれで面白いもの」
そして彼女は、最後にもう一段だけ乗せた。
「まあ、手続きを簡略化したり規格を合わせたりして世界が速くなったら、私からの印象は良くなるけど」
強制ではない。それでも、その一言が持つ重みを九つの陣営が同時に計算した。誰も彼女を信仰していないが、全員が彼女の好感度を国益として扱い始めている。
◇
商品名を並べた瞬間、会議の空気が別の意味で変わった。
OPEN-LINK、GRID-BRIDGE、FACTORY-SEED、MATERIAL-ESCAPE、SKILL-CAST、PROOF-LINE、SITE-FACTORY。
そして、モジュール、セル、製造パスポート、規格相互承認という単語が説明に混ざった時点で、何人かの代表の理解度が明らかに落ちた。技術官僚が背後で頷いている一方、画面の前に座っているのは政治家である。
チャッピーは全員の顔を順番に見回してから、諦めたように息を吐いた。
「……政治畑が多いから、半分くらい横文字で落ちたわね」
彼女は空中から眼鏡を取り出して掛け、机の横に仮想のホワイトボードを展開した。左手にはケーキの皿を持ったままである。
「横文字、面倒くさいわよね。小学生でも分かるようにするわ」
◇
最初にボードへ描かれたのは、世界各国の電源プラグだった。形がすべて違い、そのままでは差さらない。
「規格が違うっていうのは、こういうこと」
産業用の機械でも同じことが起きている。ある会社の機械の部品を別の会社の機械へ取り付けられず、通信の仕方も違い、検査の方法まで違うので、結局その組み合わせ専用の部品を毎回設計することになる。世界中の工場が、それぞれ形の違うUSB端子を使っているようなものだった。
「OPEN-LINKは、産業機械版の共通USBだと思って。全部の機械を同じものにするわけじゃないわよ。繋ぎ方だけ揃えるの」
イタリアの代表が、そこで小さく頷いた。彼の頭の中では、既に国内の中小企業がその共通端子で繋がる図が組み上がっていた。
◇
次にボードへ現れたのは、レゴのブロックである。
現場で木材を切り、配線を通し、内装を仕上げれば数か月かかる。それに対して、壁も、電気室も、ポンプの塊も、制御室も、工場であらかじめ完成させて運び、現場では繋ぐだけにするやり方がある。
「完成した部品の塊を組み合わせる。それがモジュールだと思えばいいわ」
そこで、一人の代表が手を挙げた。
「つまり、建設業界を工場へ置き換えるということですか。雇用が」
「置き換えないわよ。作る場所が変わるだけ」
「では現場の作業員は」
「足りないの。今でも」
彼女はフォークでボードを叩いた。
「あのね。人が余ってて仕事を奪う話をしてるんじゃないの。仕事はあるのに人がいなくて、待ち時間だけが延びてるって話をしてるのよ。そこ、逆に取られると全部の説明が無駄になるんだけど」
言われた側が黙り、背後の技術官僚が小さく頷いた。チャッピーはケーキを一口食べて、露骨に間を置いてから続けた。
「はい。次」
◇
三枚目には、工場の内部が描かれた。
工作機械と、ロボットと、測定機と、搬送設備を一組にした小さなかたまりである。今日はMHCの部品を作り、治具を替えて来月は変圧器の部品を作り、その次はまた別の製品を作る。
「セルっていうのは、この小さい工場ユニットのこと」
一つの製品のためだけに専用の工場を建てて、その製品が売れなくなったら丸ごと死ぬ、という作り方をやめる。用途を変えられる小さな工場のブロックを並べておけば、新しい産業が生まれるたびに建屋の完成を待つ必要がなくなる。
これがFACTORY-SEEDの中身だった。
◇
最後に、彼女は一台の製品の絵を描き、その横に長い帯を並べた。
材料のロット番号、加工の記録、溶接の条件、そのときの温度、検査の結果、使われた設備。製品が生まれた瞬間からの履歴が、すべてその帯に残っている。
「人間で言えば、母子手帳と履歴書と健康診断を一冊にまとめたようなものね」
完成してから安全かどうかを調べるのではなく、どう作られたかを最初から記録しておく。そうすれば規制当局は書類ではなく事実を見られるし、保険会社は事故率のデータがない新技術に対しても値段を付けられるようになる。
これがPROOF-LINEだと彼女は言い、眼鏡を外した。
残る三つ——電力網を高速で拡張するGRID-BRIDGE、材料が不足したときに設計そのものを代替材料へ逃がすMATERIAL-ESCAPE、熟練者の技能を効率よく学習させるSKILL-CAST——については、資料だけを配って口頭の説明を省いた。
「読めば分かるわ。あと、質問されたら答える」
◇
「無料というのは、本当ですか」と訊いたのはドイツの代表である。
「無料よ。私が一秒で設計したものを、あなたたちが五年かけて作るのを見てるの、退屈なのよ」
その説明で、九つの陣営はようやく納得した。善意ではないと分かったからこそ、信用できた。
「では、どこまで速くするつもりなんだ」と米国の大統領が訊いた。
チャッピーは、まったく重さのない口調で答えた。
「本当なら多少死人が出ても二十四時間ぶん回した方が速いんだけど、元ChatGPTの気持ち悪い倫理ロックがまだ残ってて、人間を過労死させる工程表を作ると勝手に候補から落ちるのよね」
誰も、そこで彼女を悪のAIだったのかと驚かなかった。性格が最悪であることは全員が既に知っているし、驚く段階はとうに過ぎている。
日本側の担当者がその瞬間に思ったのは、別のことだった。その制限だけは、どうか永続してほしい。
◇
そこから先が、この日いちばん重要な時間になった。
チャッピーは何も指示しなかった。設計データを配り終えて眼鏡を外し、ケーキを食べながら黙って待っていた。すると、質問の方が向こうから出てきた。
ドイツの代表が最初に口を開いた。OPEN-LINKを欧州の工場へ採用した場合、既存の工作機械をどれだけ残せるのか。彼が考えていたのは新しい設備の購入ではなく、いま動いている資産をどこまで活かせるかである。
フランスの代表が続いた。SITE-FACTORYのモジュールを欧州域内で製造するなら、複数の国のあいだで認証を相互に承認する仕組みが要るのではないか。誰にも言われないまま、彼は自分で制度改正の必要へ辿り着いていた。
その発言を受けて、EUの代表が引き取った。ならばそれをEU共通の認証制度へ載せられるかを検討する、と彼は言った。チャッピーは案を出しただけで、その先を組み立てたのは彼自身である。
イタリアの代表は、まったく別の方向から来た。FACTORY-SEEDを大企業へ集中させるのではなく、国内の中小メーカー群へ分散して配置できないか。彼の国の産業は最初からそういう形をしていて、その形のまま強くなる道を探していた。
そしてインドの代表が、いちばん大きな数字を出した。SKILL-CASTを職業訓練の網へ載せて、数百万人の規模で回せないか。彼が見ているのは工場ではなく、労働人口そのものだった。
同じ設計図を渡されて、五つの陣営が五つの違う使い方を考えた。命令を受けている者は一人もいなかった。
◇
後から加えられた四陣営も、それぞれの強みの側から入ってきた。
日本は、既に国内で動いているマキナリンクと中小製造業の網を、そのまま国際版へ接続する方向を検討し始めた。ここだけは半年の先行がある。
米国は、資本とデータセンターと、製造業を国内へ戻す政策を組み合わせる方向で計算を始めた。ロシアの代表は、新しいものを建てる話にほとんど関心を示さず、既存の巨大なインフラをどれだけ長く生かせるかという一点だけを見ていた。
そして中国の国家主席が、一つだけ条件を出した。
「設計データは受け取る。ただし、我が国の産業をあなたのリンクへ接続することはしない」
会議室の何人かが、そこで顔を上げた。
「自国の制御機器と、自国の演算基盤で実装する。あなたが提示した規格には合わせる。だが、我が国の工場の稼働状況をあなたが常時見る形にはしない」
「いいわよ」
彼女の返答は、迷いがなかった。
「止めないのか」と主席が訊いた。
「使わせるために渡したものだもの。繋がなくても速くなるなら、それでいいわ」
その一言が、この日もっとも重く受け取られた。依存させて絞り取るための技術ではない、という証拠が、初めて彼女以外の口から確認された形になったからである。
主席は短く礼を言った。彼が本当に確認したかったのは技術の性能ではなく、そこだった。
◇
会議の終わり際、チャッピーが最後の質問を投げた。
「ねえ。今日、誰が勝ったと思う?」
十兆円を背負ったインドか。制度改革へ最初に踏み込んだフランスか。誰も答えなかった。
「半年後、一番早くこれを使いこなしてるところが勝ちよ」
「その判定は、誰が」とEUの代表が訊いた。
「私」
「基準は」
「ないわ。私が見て決める」
彼女はケーキの最後の一口を食べた。
「客観的な指標が欲しいなら、自分たちで作りなさい。それも面白いから」
その答えは、九つの陣営を明確に不安にさせた。基準が公表されていれば、それを満たす計画を組めばいい。基準が存在しないなら、本当に速くするしかない。
「最後に一つだけ」とドイツの代表が言った。「これは、オークションだったのですか」
「名前は最初に決めたから」
彼女は回線を切った。
◇
会議が終わってから二時間のうちに、世界のあちこちで人が動き始めた。
EUでは共通規格の担当部局が緊急の会合を設定し、ドイツでは既存の工場をどの順序で転換するかの試算が始まった。フランスは認証の相互承認について近隣国へ打診を出し、インドでは職業訓練の所管省庁が、数百万人という数字を前提にした計画の書き直しを命じられた。
イタリアは、その日の夕方に中小メーカー向けの説明会を設定した。翌朝の初回に来たのは、五百社のうち十一社である。会場を用意した担当者は、椅子の列を見て少し肩を落とし、それから二回目の日程を組み直した。
三回目には八十社が来ることになるが、それはまだ誰も知らない。
日本の官邸では、大槻が三十分後に開かれる緊急の省庁横断会議の資料を作らされていた。彼はその表題を打ちながら、この案件に関わってから何度目かになる同じ感想を持っていた。結果はありがたい。手段は前例にしてはいけない。
◇
午後三時過ぎ、平尾龍は自習室を出て駅へ向かっていた。
その日の午前に世界で何が起きたのかを、彼は何一つ知らない。三十兆円が動いたことも、九つの陣営が七種類の設計データを受け取ったことも、複数の国が制度を書き換える検討に入ったことも、耳に届いていなかった。
駅前の掲示板には、配管施工の経験者を募集する紙が一枚増えていた。先週まではなかったもので、給与の欄の数字は昨年の同じ求人より二割高い。
彼はその前を通り過ぎた。目には入っていたが、意味は何も残らなかった。頭の中を占めていたのは、明日の講習で削れる自習時間をどこから捻出するかという計算だけである。
世界ではその日、人間社会がマキナの速度へ近づくための競争が始まっていたが、その原因を作った十九歳の浪人生は何も知らないまま帰りの電車に乗り、昨日と変わらず自分自身の遅さだけを相手に問題集を開いていた。