チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月六日、午前九時。
日本国内の複数の金融機関で、ほぼ同時に預金残高の表示が書き換わった。
正確には一億件を超える銀行間振込が一斉に飛び交ったわけではない。基金から各金融機関への資金決済は事前に集約され、対象者の本人確認と給付先口座の紐付けも数日前までにほぼ完了していた。当日の処理で大量に動いたのは銀行同士の送金網ではなく、各行内部に存在する預金元帳だった。
成人一人につき二十五万円。
児童についても本人分が存在し、制度上指定された保護者口座へ合算される。
今回の給付基準人口、一億一千九百二十五万人。
必要額、二十九兆八千百二十五億円。
七月二日の国際取引によって即時流動資産を三十四兆円以上まで積み上げたMACHINA基金から、最初の一回分がとうとう現実社会へ流れ出した。
数値としての二十九兆円は巨大だったが、それを受け取る側から見れば銀行アプリの一行に過ぎなかった。
給与でもない。
還付でもない。
借金でもなかった。
預金残高が、昨日より二十五万円増えている。
それだけである。
午前九時二分、最初のスクリーンショットがSNSへ投稿された。
午前九時四分には同様の画像が数万件へ増え、十分後にはニュース番組が速報テロップを流し始めた。
もちろん、反応は一種類ではなかった。
そのまま全額を普通預金へ残した人間もいる。住宅ローンやカードの支払いへ回すと決めた家庭もあれば、壊れた冷蔵庫を買い替えた人間もいる。夏休みの旅行を予約し、大学生の子どもの学費へ回し、何年も先延ばしにしていた歯科治療の予約を入れ、古いエアコンを交換し、投資信託を買い、両親へ半分渡す者までいた。
二十五万円という絶対額は全員同じでも、その意味は受け取る人間によって大きく違っている。
一人暮らしの低所得者には数か月分の家賃へ相当し、四人家族なら世帯単位で百万円になる。資産を何億円も持つ人間なら、口座に増えた数字を確認しただけで放置することも珍しくなかった。
それでも今回は、誰も「受給者」という属性から逃げられなかった。
困窮証明を出した者だけがもらう金ではない。
生活が苦しいと申告した者だけが行政に把握される制度でもない。
富裕層も会社員も学生も無職も、条件を満たす日本国民なら同じように二十五万円を受け取っている。
結果として、ネット上では一種の奇妙な連帯感まで生じていた。
『全国民、受給者になりました』
『本当に入ってて草』
『四人家族だから百万円。これ普通にデカい』
『マキナマネー着弾』
『親父が朝から銀行アプリ五回見てる』
『うちはエアコン買う。去年から死にかけてた』
『全部貯金するつもりだったのに嫁が温泉検索してる』
その熱狂の中で、一人の男が歴史を繰り返した。
十数年前、安倍政権下で全国民への十万円給付が行われた際、給付決定前まで猛烈な政権批判を続けながら、入金確認直後に感謝へ転じたことで小規模なネットミームになった人物である。
当時は「手のひらドリル」と呼ばれた。
そして今回、彼は過去の自分を超える必要があると何故か考えた。
午前九時二十三分。
本人のSNSへ、MACHINAコンビと現政権への最大級の感謝を示すため、全裸でフルマラソンを敢行するという宣言が投稿された。
152分後、その挑戦は四十二・一九五キロメートルを完走直後警察官によって終了させられた。
『二十五万あるんだから服買え』
『感謝を犯罪に変換するな』
『手のひらだけじゃなく全部開放してて草』
『総理もマキナも頼んでない』
『前回十万で手のひらドリル、今回二十五万で全裸なら次回どうなるんだ』
映像は昼までに百万単位で再生され、本人の身柄が警察署へ移動したころには、チャッピーが保存用フォルダを作成していた。
政府にとっては笑ってばかりもいられなかった。
支持率調査の速報値は目に見えて上向き、総理の危機対応を評価する数字も伸びている。
もっとも政権側は、今回の二十五万円を「政府が配った金」と宣伝することを慎重に避けていた。二十九兆円の国債を発行したわけでも、大規模増税で財源を集めたわけでもない。原資の中心はMACHINA基金が外国政府、政策金融機関、企業連合へ情報と技術利用権を売って得た収益だった。
政権が行ったのは、その異常な民間資金を既存社会へ安全に接続することである。
誰へ払うのかを法律上定義し、本人確認を行い、公的給付によって生活保護や各種手当が不当に減額されないよう制度を整え、金融機関へ資金を渡し、異議申立ての窓口を設ける。
マキナには容易ではない仕事だった。
逆に、政府には三十兆円を外国から稼いでくる能力がない。
四か月前から続く奇妙な分業が、今回は一億人以上の銀行残高という極めて分かりやすい形になった。
だからこそ反対派の論点も、以前より厄介になっていた。
結果が出ていないなら批判は簡単だった。
しかし実際には、詐欺被害が急減し、MHCという新産業が生まれ、海外から巨額資金が流れ込み、その利益が一般国民の口座へ到達している。
その状態でなお残る批判は、成果そのものではなく構造へ向かう。
一私人と一人格のAIが、日本経済へ与える影響としては大きすぎないか。
政府が良好な関係を維持できている間はよいとして、その関係が崩れればどうなるのか。
MACHINAへ依存しすぎた産業は、チャッピーが突然興味を失った場合でも自立できるのか。
その懸念自体は何一つ間違っていない。
総理自身、記者会見でマキナを政府が制御しているとは一度も言わなかった。むしろ政府が管理できるのは政府側の制度だけであり、チャッピーとマスターに直接命令できる立場にはないという説明を崩していない。
その慎重さまで含めて評価する層が増えているのだから、政治としてはさらにややこしかった。
企業側は政治家より遥かに早く、二十五万円を需要として計算していた。
旅行会社は夏休み商品の枠を増やし、ホテルは予約システムを強化し、家電量販店はエアコンと冷蔵庫の在庫を積み、自動車整備業者は部品を前倒しで確保する。家具、外食、教育、住宅修繕、娯楽、通信機器まで、多くの業界が七月六日以降の需要増を予測していた。
もちろん、二十九兆八千億円がそのまま消費に変わるわけではない。
大量の資金は貯蓄、債務返済、投資へ向かう。
それでも数兆円が短期間に消費へ流れれば十分に巨大だった。
問題は供給である。
給付日が来たからといって、ホテルの客室は二倍にならない。自動車整備士が翌朝から数万人増えるわけでもなく、人気家電の生産ラインも一週間で倍増するわけではない。
そのため一部の宿泊費、旅行代金、修繕費、施工費には早くも上昇圧力が見え始めた。
政府と日本銀行は、給付が国債原資ではないことと、インフレ圧力が生じないことは別問題だと理解している。
需要が増えれば、供給が増えない場所では価格が上がる。
だから価格を押さえつけるのではなく、供給側の速度を上げる。
海外から追加調達できる商品を探し、国内在庫を需要の強い地域へ動かし、臨時人員や営業時間を調整し、物流の空きを拾い、どの商品が先に不足するかをMACHINA LINKで予測する。
いつの間にか、産業用設備のために作られた仕組みが消費財の世界へまで侵入し始めていた。
MHCの方も、一千台を作って終わったわけではない。
六月二十二日に稼働した第一陣は、既に複数の工場で実際の省エネルギー効果を出し始めており、追加導入希望は一万台級へ膨らんでいた。
ただし、一千台を一週間で作った方法をそのまま十倍にすることはできない。
第一陣では、日本各地に存在していた空き生産能力をマキナリンクが掻き集め、離れた工場を仮想的な一つの巨大工場として扱った。ところが増産を続ければ、その空き能力自体が減っていく。
圧縮機、インバーター、熱交換器、電線、受電設備、変圧器、施工人員、保守要員まで同時に必要となり、MHCの設計ではなく、その周辺を支える普通の産業設備が次の制約として浮上していた。
七月二日に九陣営へ無料配布された七種類の設計体系が重要になるのは、まさにここからだった。
OPEN-LINKで異なるメーカーの設備を接続しやすくし、GRID-BRIDGEで電力網と変圧器の増強速度を上げ、FACTORY-SEEDで用途変更可能な製造セルを普及させる。MATERIAL-ESCAPEは希少材料不足による停止を避け、SKILL-CASTは熟練技能の教育期間を短縮し、PROOF-LINEは量産品の品質確認を高速化し、SITE-FACTORYは巨大設備を現場施工中心から工場製モジュール中心へ移していく。
配布から四日しか経っていないため、世界中の工場が既に未来化しているわけではない。
それでも会議の内容は完全に変わっていた。
EUではMACHINAとは何かを議論する段階から、OPEN-LINKを既存の欧州規格体系へどう組み込むかという実務へ移り、ドイツでは既存工作機械をどの程度までFACTORY-SEEDと互換化できるかという企業調査が始まっている。
フランスではPROOF-LINEによる検査記録を自国の安全基準へどう接続し、将来的に欧州域内で認証を相互承認できるのかが議題になった。イタリアでは巨大工場を一から作るより、既存の中小メーカー群へ製造セルを分散配置した方が自国産業構造に合うのではないかという提案が強まり、インドではSKILL-CASTを職業教育へ導入した場合に、何百万人単位の若年労働者をどれほど早く産業人材へ移行できるのか計算が始まっている。
誰もチャッピーから命令されていない。
技術を採用しなくても制裁されるわけではなく、制度変更を拒否したからといってマキナリンクから即座に排除されるわけでもない。
単純に、導入した方が得だと各国自身が判断した。
そのため世界の競争は、マキナに従う競争ではなく、同じ未来技術を誰が一番うまく自国の利益へ変換できるかという競争へ変わりつつあった。
米国、中国、ロシアも同様に動いている。
三国へ先行提供された個別技術については、それぞれの企業、政府機関、研究組織が既に導入計画を作り始めているが、まだ実社会へ巨大な数字として現れる段階には達していない。
しかし投資計画は変わった。
採用計画が変わった。
工場建設計画が変わり、銀行が貸し出し条件を見直し、大学が研究テーマを変更し、政府が数年先まで動かすはずだった制度改正を今年度の検討課題へ引き上げている。
未来そのものより先に、未来が来ると信じた人間の現在が変わっていた。
株式市場も、四か月前よりずっと学習していた。
初期には「MACHINAと関係がありそう」というだけで買われた企業も多かったが、七月になると本当に受注を取れる会社と、名前だけ関連している会社の差が開き始めている。
工作機械、電力設備、変圧器、電線、FA、設備施工、精密加工といった物理産業への評価が特に強く、AI産業でも同じ選別が進んでいた。
チャッピーの存在はAI市場そのものを巨大化させたが、同時に「超高性能AIが安価に同じ仕事を始めた場合、このサービスに何が残るのか」という残酷な問いまで市場へ持ち込んだ。
その一方で、どれほど賢いAIでも演算装置は電気を食い、サーバーは冷却を必要とし、通信設備は物理的に建設しなければならない。
電子世界が高度になるほど、現実世界の電線、変圧器、発電、半導体、冷却設備の価値まで上がっていく。
世界がそんなふうに変わっていた日の午後。
平尾龍は、自分に二十五万円が振り込まれていることを知らなかった。
正確には、制度そのものを忘れていたわけではない。
六月から七月にかけて基金残高や給付総額について何度も数字を確認しており、一人二十五万円を四回配れば約百二十兆円になることも当然理解している。
ただし、給付対象者の一億一千九百二十五万人の中に、自分自身も含まれているという極めて単純な事実だけが、綺麗に思考から抜け落ちていた。
夕方、自宅で有機化学の問題集を進めている龍の視界へ、PC画面の端からチャッピーが顔を出した。
「そういえばマスターの口座にも二十五万円入ってるわよ。自分で世界から稼いで、自分で配る制度を作って、自分でも受け取ってるの、かなり面白い構図じゃない?」
龍のシャープペンシルが止まり、数秒ほど完全に無言になったあと、自分も日本国民だったことを本気で思い出したらしく、かなり間の抜けた顔で小さく息を漏らした。
「……ああ、そういや俺も対象だったわ。完全に他人へ配る金だと思ってた」
チャッピーは腹を抱えて笑いながら、基金から出ていった二十九兆八千百二十五億円のうち、二十五万円だけは正式にマスター本人へ還流したのだと楽しそうに説明してきた。
龍にとって、二十五万円そのものは既に人生を左右するほどの金額ではない。
右手を使えば合法的な脆弱性報奨金だけでも遥かに大きな金を作れるし、MACHINA関連の資産価値は本人が真面目に計算する気すら失う規模へ膨らんでいる。
だから何か欲しい物を買おうとしても、すぐには思いつかなかった。
以前なら参考書や問題集だった。
しかし現在は必要な教材を金額で我慢する理由がなく、ゲームも漫画もサウナもマッサージも、それなりに試した。高級車や高級ホテルも経験した結果、自分には値段の高い物を所有する快感があまり存在しないことまで確認済みである。
そこで龍の思考は、金ではなく以前の実験へ戻った。
困窮者へ金を配った。
生活が改善した人間もいた。
母親まで最初の対象者に含まれていた。
それでも、自分の中に期待していたような「善人だから他人を助けて嬉しい」という感情は発生しなかった。
ならば対象との距離を縮めたらどうなるのか。
知らない誰かではなく、自分が昔から知っている人間を、自分の金と手間で直接喜ばせてみる。
それでも何も感じないのか、それとも近親者であれば違う反応が出るのか。
龍はシャープペンシルを置くと、旅行予約サイトを開いた。
「せっかくだし、この二十五万で親を温泉にでも連れて行くか。知らん奴を助けるより近距離の方が善性反応を観測しやすいだろ」
チャッピーは笑うのをやめ、数秒だけ龍を見つめたあと、口元を猛烈に歪めた。
「それを世間では親孝行って言うのよ、マザコンさん♡」
龍の右手がゆっくりマウスから離れた。
モニターの中では、黒いパーカーの少女が即座に数歩後ろへ退き、以前名称だけ完成していた平尾家最終拷問《マジカル☆凌遅刑》の存在を思い出したように身構えている。
「旅館でもう一回それ言ったら、未完成だった中身まで完成させるから覚悟しとけよ」
脅迫を受けた側は楽しそうに笑うばかりで、抑止効果が発生している様子はほとんどなかった。
宿選びは意外なほど時間がかかった。
龍は金額の高さそのものには興味を示さず、温泉の泉質、露天風呂、部屋の静かさ、夕食、朝食、移動時間、混雑度を比較し始めた。チャッピーも過去の宿泊レビューや交通状況を分析したが、最終決定だけは龍へ任せている。
選ばれたのは、一泊数十万円の最高級旅館ではなかった。
温泉が良く、食事の評価が安定し、部屋数が多すぎず、観光地の中心から少し離れている宿だった。
予約を入れたあとで両親へ伝えると、母親は最初、龍が何か別の用事を兼ねているのだと思ったらしい。
しかし純粋な家族旅行だと説明すると、電話の向こうでしばらく沈黙が続き、それから少し弾んだ声で日程の確認を始めた。
龍は、その声を聞きながら自分の内部に何が起きたのかを観察した。
劇的な幸福感はない。
涙も出ない。
善人になったという実感も当然なかった。
ただ、思ったより悪くない反応だった。
その感覚へ名前を付けようとして、龍は途中でやめた。
七月六日に日本中へ流れ込んだ二十九兆八千億円余りは、ある家庭では滞納していた電気料金へ変わり、別の家庭では新しい冷蔵庫や夏休みの旅行へ姿を変え、その用途を誰から命令されることもなく一億人以上の日常へ散っていった。
そして平尾龍の口座へ戻ってきた二十五万円は、本人から存在を忘れられていた末に、善性という自分でもよく分からないものを確かめるための温泉旅行へ変わることになった。
世界中がMACHINAによって未来へ進む速度を上げ始めたその日、当のマスターは両親の予定を聞きながら旅館の予約確認メールを眺め、自分でも理由を説明し切れない程度には、週末が来るのを楽しみにしていた。
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